一人で全曲を弾ききった前代未聞のコンサート
番組の冒頭、川邊さんは廣津留さんの職業をヴァイオリニストと確認します。仕事の8割が演奏だといいます。
二人は前年の年末、ある会合で知り合いました。川邊さんは廣津留さんの経歴を見て「ただ者ではない」と感じ、出演をオファーしたと話します。
ちょうどその頃、上野の東京文化会館で廣津留さんのソロオーケストラコンサートが開かれ、川邊さんも足を運びました。
このコンサートは、クラシックに携わる人でも驚くほど異例の企画でした。通常はオーケストラの序曲があり、ソリストが30〜40分の曲を1曲弾いて休憩、あとはオーケストラという構成が一般的です。
ところがこの日は、そのすべてにソリストが入り、30分・40分規模の曲を続けて弾くという内容でした。
クラシックをやってる人でも、何なんだこれはっていう企画だったんです。今回は私も人生初の挑戦っていうくらい、大曲を弾いたんですけど。
プログラムは「三大ヴァイオリン協奏曲」。前半はヴィヴァルディの『四季』で、奏者は立って演奏し、中央にはチェンバロが置かれました。
この前半で指揮者は立たず、廣津留さん自身が演奏しながらジェスチャーで指揮する「弾き振り」でした。
私が演奏しながら、ジェスチャーで楽器を上げたり下げたりしながら指揮をするみたいな、そういうスタイル。
20分の休憩をはさんだ後半は、メンデルスゾーンとチャイコフスキーの協奏曲。こちらは指揮者が付き、奏者は座って演奏する体力勝負の構成でした。
前半で頭を使って、後半でマラソンのようにずっと弾いていてという、そんな構成に。
やった本人にも「どうやったか分からない」挑戦
川邊さんはこの日、音楽を生業とするピアノとヴァイオリンの演奏者2人を誘って会場に向かいました。コンサート前から2人は「これどうやってやるんでしょうね」と首をかしげていたといいます。
公演後の食事でも、2人は圧倒されたまま「見たけど、いまだにどうやってるか分からない」と話したそうです。
驚くことに、演奏した本人も同じ感覚でした。
この企画はもともと持ち込まれたものでした。廣津留さんは、自分からこれをやろうとはなかなか思えない挑戦だったと振り返ります。
こんなことでもないと、自分でこれやるぞってなかなか勇気がないんですよ。
練習量、準備期間、本番で集中力が持つか。リハーサルと本番では環境がまるで違い、頭の中でシミュレーションしきれない不安があったといいます。
それでも、廣津留さんは成長の機会だと考えて引き受けました。企画を持ち込んだ側も、満員の観客も、廣津留さんならやれるという信頼で見守っていたと川邊さんは語ります。
1ヶ月とポケモンで仕上げた110分
どれくらい練習したのか。川邊さんの問いに、廣津留さんはクラシックならではの事情を語ります。
廣津留さんは2歳からヴァイオリンを弾いており、演目は小さい頃から演奏してきた曲でした。ゼロから覚えるのではなく、これまでの積み重ねの上で、どこを磨くかを詰めていく作業だといいます。
一方で、全曲を暗譜する必要がありました。合計でおよそ100分から110分を頭に入れる作業です。
だからそこまでの積み重ねがあった上で、じゃあどこを磨いていこうかとか、あと暗譜しなきゃいけないので、全部。
集中して練習に充てた期間は1ヶ月ほど。ただし譜面を見返すと「ここはこうだった」と気づく箇所もあり、それが本番の怖さにつながるといいます。
本番になって弾きながら、あれ、次の音なんだっけ?ってなるのが超怖いので、ちゃんとビジュアル的に記憶しながら、マッスルメモリーがついていくように詰めていくっていう作業。
特に前半のヴィヴァルディは弾き振りのため、自分のパートだけでなくオーケストラ全体を理解する必要があり、何倍もの準備が必要でした。
では1ヶ月、朝から晩まで根を詰めたのか。答えは意外なものでした。
無理なんですよ。やっぱ集中できないので、ちょうどポケモン30周年で昔の復刻ゲームが出たから。
日中にポケモンをやり、夕方に練習、疲れたらまた休憩し、夜に練習する。そんなリズムで本番を迎えたといいます。
リハーサルは本番の2日前に一度だけ。後半2曲は通しただけで、前半の指揮部分をオーケストラと細かく話し合って作りました。
私がこうやるのよって指示するというよりは、チームとして、室内楽、アンサンブルとして音を作っていけたような感じがするので、それは皆さんに感謝ですね。
本番前のルーティンと、緊張を興奮に変える考え方
同行した2人から預かった質問を、川邊さんが本人にぶつけます。まずは本番前のルーティンについて。
本番前のルーティンがあれば教えてください。
同行した演奏者から さんからの質問
決まったルーティンはほとんどありません。決めてしまうと、それが無いときに嫌になるからだといいます。腕を振る、足を伸ばして関節を鳴らす程度で、袖で道具なしにできることに留めているそうです。
昔は15分の昼寝をしたいと言っていたものの、本番前はメイクや着替えでバタバタし、その時間もないのが実情だといいます。
またコーヒーは飲まないようにしているとのこと。カフェインで手のコントロールが変わってしまうため、白湯を飲むといいます。
続いて、3曲もの協奏曲を弾ききる体力と集中力はどこから来るのか、という問いです。
体力面では、週1回の筋トレを4〜5年続けています。体幹を鍛えると出てくる音が変わり、両足が根を張るように安定して、体への負担も減ったといいます。
集中力については、脳科学者との対談で聞いた考え方を挙げます。
緊張しているって思うとダメだから、興奮しているっていう、ポジティブな言葉に変えていくっていうのを仰ってて。興奮して、かつリラックスとエキサイテッドな状況が共存すると、いいものが出てくる。
川邊さんは、この番組の最初のゲストだった浅田真央さんの話を重ねます。ソチオリンピックで一人で集中しようとしたところ、嫌なことが次々と頭を駆け巡って失敗してしまったという体験です。
一人で抱え込むより、誰かと話して普段どおりでいる方がいい。そんな共通点が浮かびます。
0歳からの英語と2歳からのヴァイオリン
廣津留さんは大分出身で、小・中・高すべて公立校に通いました。母親は英語教室を主宰し、廣津留さんは記憶のない0歳の頃から英語に触れていたといいます。
ただし堅い勉強ではなく、遊びのような形でした。家の階段に一段ずつ問題を置き、ミッションのようにこなさせてくれたそうです。
母親は言語習得が得意で、フランス語も話し、旅先で同乗した中国人に中国語で話しかけたこともあるといいます。そうした力を応用し、独自の「廣津留メソッド」を編み出しました。
ヴァイオリンは2歳から。両親が音楽好きで、家にはあらゆるジャンルのCDが並んでいました。ハイハイが早かったことから「運動神経がいけるのでは」と、楽器をやらせようという話になったといいます。
私のハイハイを始めたのが早かったらしくて、これ運動神経いけるんじゃない?とか言って、楽器いいんじゃね?ってなって、バイオリンやらせようよってなったと聞いています。
一人っ子だった廣津留さんは、物心ついたときにはヴァイオリンを弾いていました。4〜5歳の頃には、家のスピーカーでチャイコフスキーの協奏曲を聴き、有名なメロディーを耳コピして弾いていたといいます。
家族の知り合いが遊びに来ると、袖から出てきて演奏する「発表会ごっこ」もしていました。拍手をもらう喜びが、本番を好きになる原点になったと振り返ります。
巨匠だけを目標にしていた大分時代
大分にはヴァイオリンを弾く人がほとんどおらず、ジュニアオーケストラのような場もありませんでした。そのため自分のレベルがまったく分からなかったといいます。
目標にしていたのは、常にCDの中の巨匠でした。それくらい上手くならないと人前で弾いてはいけない、と勝手に思い込んでいたそうです。
転機は小学3年生。初めて九州のコンクールに出て同世代の演奏を聴き、みんなが完璧ではないことに気づきました。上を知らなかったからこそ巨匠を目標に練習できた、幸せな期間だったと振り返ります。
練習にはインセンティブもありました。当時ゲームが禁止だった家で、廣津留さんはどうしても『どうぶつの森』が欲しかったといいます。
そこで、成績を条件にゲームを買ってもらう約束をし、練習のモチベーションにしました。小学生の頃には母親と一緒にスタンプカードを作り、1日3時間練習したらシールを1枚貼って100円になる仕組みにしていたそうです。
3時間超えないと全部チャラになっちゃうんで、学校から帰ってなんとか3時間ちゃんと確保するように。
当時の先生への感謝も語られます。子供のうちに、将来弾くであろう大曲をすべて一度暗譜させておく方針だったといいます。
20年弾かなくてもやっぱ戻ってくるもんなんですよ。マッスルメモリーも覚えてるし。すごいありがたかったなと思って。
英語も同じように段階を追って進みました。4歳で英検3級を取り、高校在学中には1級まで到達。英検の級やコンクールの大会という分かりやすい目標が、頑張る力になったといいます。
公立校からハーバードへ
英語の学び方も独特でした。文法は中学校の教科書で初めて知り、それまでは文脈で長文を読解していたといいます。「in order to」などの構文も、後から理論として学び直したそうです。
今スペイン語を文法から学ぼうとするとうまく入ってこない、と廣津留さんは語ります。当時の「なんとなく分かる」感覚が良かったのだと振り返ります。
大分では私立の選択肢自体がほとんどなく、県立の進学校が最善という共通理解がありました。公立で育ったことは、多様な背景の人と自然に接する経験にもなったといいます。
その時すごいみんなでドッジボールとかしてたからこそ、どういう人でもお話楽しくできるような感じがして。それは環境としてすごい良かった。
進路の転機は高校2年のアメリカツアーでした。4都市で演奏し、最後はカーネギーホール。その帰りに、近く(といっても特急で4時間)に世界一の学校があると聞き、キャンパスを見学しました。
「ハーバードの人」に得体の知れないイメージを抱いていた廣津留さんは、現地で普通の学生たちを見て考えが変わります。
現役生のキャンパスツアーで、ルームメイトが専攻を軽く決めた話や、課外活動で演劇をしながら舞台袖で論文を読むという学生の話を聞きました。学業と音楽の両方をやる仲間がいるかもしれないと感じたといいます。
日本からの受験は、多くがネットで完結する形でした。SATを複数回受けて良い成績を提出でき、面接は当時のSkypeで行われました。時差が真逆でも、面接官は早起きして対応してくれたといいます。
SATでは世界史を試したものの人名に苦労し、化学も専門用語の暗記が大変で、最終的に単語のいらない数学を選びました。文系だったため、高校で扱わない数3Cは独学したといいます。
さらに小論文を複数本、そして英語の推薦状。推薦状は、そもそも海外受験の仕組みから大分の進学校の先生に説明する必要があり、骨の折れる作業でした。
高校3年の12月、慶應SFCのAO入試とハーバードの合格発表がほぼ同時期にありました。両方に合格し、ハーバードは9月入学のため、SFCには1学期だけ通えないかと学部長にメールで直談判し、認められたといいます。
川邊さん自身も2000年代にSFC研究所に在籍していたことがあり、2人の縁が重なる場面もありました。SFCではハーバードへの送り出しコンサートも開かれたといいます。
合格は本人にとっても予想外でした。日本のような判定が出ないため、結果が出るまで何も分からなかったといいます。
私たちはあなたに嬉しい通知を送ることができて嬉しいですみたいな。合格とかじゃなくて、どっちなの?ってなって。
報告に行くと、世話になった先生たちが職員室で待っていてくれました。家族も含めて喜ぶ姿は、今も記憶に残っているといいます。
まとめ
遊びのような英語教育と、2歳から日常にあったヴァイオリン。巨匠だけを目標に上を知らずに練習を重ねた大分の少女は、段階を追いながら公立校からハーバードへとたどり着きました。緊張を興奮に変える発想や、学業と音楽の両立を貫く姿勢が、その歩みを支えています。
- 三大ヴァイオリン協奏曲を一人で弾ききる異例のコンサートは、2歳からの積み重ねと1ヶ月の集中練習で臨んだ挑戦だった
- 本番前は決まったルーティンを持たず、緊張を「興奮」と捉え直し、人と話して普段どおりで舞台に出る
- 0歳からの英語と2歳からのヴァイオリンは、遊びやインセンティブを通じて日常に自然と組み込まれていた
- 大分ではレベルを比べる相手がおらず、常に巨匠のCDを目標にしていたことが練習の原動力になった
- 学業と音楽の両立を貫きたいという思いから、現地見学で仲間の存在を感じ、公立校からハーバード進学を実現した






