第1希望ではなかった経済部が分かれ道に
対談の2回目は、中国を学んで朝日新聞に入った船橋洋一さんが、いつ中国の取材を始めたのかという川邊さんの質問から始まります。船橋さんは、まず経済部に在籍し、その後に外報部へ移って特派員になったと振り返ります。
北京に向かったのは1980年の2月ごろだったといいます。それまでの期間、船橋さんは経済記者として、1973年のオイルショックを担当していました。
船橋さんは入社時に社会部を希望していましたが、配属されたのは九州の西部本社の経済部でした。数字が苦手だと思っていたため、経済部は向いていないのではと感じていたそうです。
不本意ではないけれども、まあ第1希望ではなかった。だけど、やってみたら面白くてね、やっぱり。
船橋さんは経済部への配属を「分かれ道の一つ」と表現します。経済部にいたからこそ通産省を担当し、石油危機の取材に関わることになりました。
だって石油危機で、これ(取材)だって経済部に行ったからこそね、まあ通産省担当ですから。
トイレットペーパーが消えた石油危機は、コロナと何が違ったか?
船橋さんは西部本社で福岡と小倉を担当したあと、東京本社に移りました。東京では最初から通産省の担当になり、2月か3月に着任した年の10月に石油危機が起きたといいます。
石油危機の間、船橋さんは2週間ほど通産省の記者クラブ「虎ノ門クラブ」に泊まり込みました。睡眠時間は3〜4時間で、大臣の自宅への朝駆け・夜回りが1日に2回あるほどの激しさだったそうです。
1974年生まれの川邊さんは、石油危機はコロナ禍のような感覚だったのかと尋ねます。船橋さんは、国家的・世界的な危機という点では同じだとしつつ、もっときつかったと答えます。
やっぱりあっという間に石油価格4倍になるしね、これは。だからトイレットペーパー無くなっちゃうとかね。
船橋さんによると、当時の日本はアメリカとアラブの産油国のあいだに挟まれていました。日本は親イスラエルすぎると見なされ、石油の禁輸対象国にされてしまったといいます。
政府の中でも意見は割れました。船橋さんの説明では、大平さんはイスラエルが何をしたから日本が袖にしなければならないのかと考え、中曽根さんや田中さんは石油が来なければどうするのかと考えていたそうです。
日本っていう弱い国で、小さい国で、もろい国だなと、つくづく思いましたよね。
国際政治に翻弄される日本の姿こそが、船橋さんの考えるコロナとの違いです。船橋さんは、その「もろさ」を感じたとおりに、ストレートすぎるほど報道したと話しています。
石油価格が一気に4倍になり、トイレットペーパーが消えるなど生活不安が急速に広がった。アメリカとアラブ産油国のあいだで日本が翻弄された
国家的・世界的な危機という点では石油危機と共通する
中曽根通産大臣の中東訪問に見た「政治リーダーシップ」
石油危機の前の1973年の連休中、中曽根通産大臣は中東を訪問しています。船橋さんによると、中曽根さんはアメリカの石油資本であるメジャー経由で石油をもらうだけでは危ないと考えていたといいます。
中曽根さんはアラブの産油国と直接取引をするため、自ら王様たちに会いに行くと決めました。イランのパーレビ国王などと会談して手を打つ様子を、船橋さんは同行記者として間近で見ています。
やっぱり僕は政治家って決定的に重要だなと。最後はやっぱり政治リーダーシップだなと思ったのは、あそこからですね。
制度だとか政策決定過程とかプロセスとかメカニズムとかいろいろ言うけども、最後はやっぱりリーダーシップじゃないのか、結局個々人の力じゃないかというふうに本当に感じましたよね。
川邊さんは、後年の菅首相によるワクチン交渉も同じ構図ではないかと重ねます。船橋さんは「菅さんじゃなきゃできなかった」と応じ、最後はトップの個人の力が決め手になるという見方を示しました。
経済安全保障を学びにジョセフ・ナイのもとへ
オイルショックを経て、船橋さんは安全保障、とくにエネルギーの安全がとても重要だと考えるようになりました。そこで生まれたのが「経済安全保障」という問題意識です。
船橋さんによると、それまでの経済政策の目的は物価の安定と完全雇用の2本柱でした。船橋さんは、日本のような国にはもう1つ、経済の安全保障という柱があるのではないかと考えたといいます。
このテーマを学ぶ相手として選んだのが、アメリカの国際政治学者ジョセフ・ナイ ── アメリカの国際政治学者。ハーバード大学教授で、国防次官補なども務めました。「ソフトパワー」の概念の提唱者としても知られますさんでした。当時30代だったナイさんの論文「パワーと相互依存」を読み、手紙を書いて研究を申し込んだところ、受け入れてもらえたそうです。
船橋さんはフルブライト ── アメリカ政府が支援する国際的な奨学・交流プログラム。日本からも多くの研究者や社会人が留学していますの奨学金を得て、1975年に1年間留学しました。朝日新聞は休職し、記者の仕事はまったくしていなかったといいます。
ナイさんについて船橋さんがまずありがたかったと振り返るのは、英語の分かりやすさです。初めてのアメリカ生活で耳が慣れず苦労するなか、キッシンジャー氏や元連銀議長のポール・ボルカー氏の英語は分かりにくかった一方、ナイさんの英語は本当に分かりやすかったそうです。
非対称な相互依存はパワーになる
ナイさんから学んだことの1つが、相互依存の考え方です。経済で相互に依存すれば、無茶をするとお互いの経済が痛むため、平和的な環境をつくりやすいと一般には言われます。
あまりに一方が他方に依存すると、つまり非対称っていうんだけど、そうなるとこれはそれを使って何か圧力かけようとかいうような、そういう誘惑を生みやすいと。
川邊さんがレアアースを例に挙げると、船橋さんは「まさにその典型」と応じます。日本も2010年に、中国からレアアースの事実上の禁輸を受けています。
コンテクスチュアル・インテリジェンス
もう1つナイさんから教わったのが「コンテクスチュアル・インテリジェンス」です。船橋さんはIQやEQになぞらえて、文脈を理解する力のことだと説明します。
船橋さんは、ナイさんに最初についたことで、結果的に研究者としての自分も与えられたと話します。ケーススタディをとことんやると先行研究が気になり、面白くて調べていくうちに、研究者としての自分が見えてきたそうです。
大恐慌研究が示した「国際収支の不均衡」とトランプ
ナイさんの勧めもあり、船橋さんはMITの経済学者チャールズ・キンドルバーガーさんにも学びました。キンドルバーガーさんは国務省でマーシャル・プランの作成に関わった一人で、1929〜33年の大不況の研究で世界的に知られていたといいます。
船橋さんが紹介するキンドルバーガーさんの結論は、大不況の最大の問題は国際収支の不均衡であり、その理由は不均衡が自由貿易に対する最大の脅威だったから、というものでした。
船橋さんはこの話を、今の日米関係に重ねます。日本は40年以上黒字で、アメリカは赤字が続いています。黒字国は赤字国の人々が真面目に働かないからだと思いがちですが、船橋さんは、国際貿易は誰かが黒字なら誰かが赤字にならないと成り立たないと指摘します。
これ(ずっと赤字の状態は)成り立たないわけないだろうと言ったのはトランプですよ。
船橋さんによると、トランプ氏は1987年にニューヨーク・タイムズなどに10万ドルの全面広告を出し、アメリカはむしり取られていると訴えました。船橋さんは、トランプ氏は40年間同じことを言い続けていると話します。
船橋さんは、トランプ氏をかつての貿易戦争でアメリカが抱いた日本への「妄執」の産物だと見ています。キンドルバーガーさんから学んだことのなかで、この不均衡の話が一番心にしみたそうです。
プラザ合意の研究で見た、シンクタンクの本当のパワー
アメリカの知的交流について聞かれた船橋さんは、日本の大学で研究した経験がないとしたうえで、アメリカのシンクタンクの力には何度も驚かされたと話します。
きっかけはプラザ合意の取材でした。プラザ合意 ── 1985年、米・日・西独・仏・英の財務相・中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルで合意したドル高是正策。その後、急速な円高が進みましたについて取材した元米財務次官のフレッド・バーグステンさんは、設立して4〜5年のシンクタンクを率いていました。
船橋さんはバーグステンさんから、シンクタンクに来てプラザ合意の検証本を出さないかと誘われました。面白いと感じた船橋さんは、朝日新聞をふたたび休職して飛び込んだといいます。
スパーリング相手としてのシンクタンク
船橋さんがアメリカのシンクタンクをすごいと感じた点の1つは、政府の政策当局者との深い対話です。シンクタンクの人材は政権が変わると政府に入っていくため、最初から心構えもゲームプランも違うといいます。
要するにスパーリングの相手なんですよ。スパーリングの相手として認められるほどのものを持ってるんですよ。
川邊さんが「回転ドア ── 政府の要職とシンクタンクや民間とのあいだを人材が行き来するアメリカの慣行。政権交代のたびに多くの専門家が入れ替わります」と言うと、船橋さんもそのとおりだと応じます。単に批判するだけでは駄目で、プロの政策当局者に「なるほど」と思わせる会話でなければならないと痛感したそうです。
代案と費用対効果のリアリズム
シンクタンクのもう1つの強みとして船橋さんが挙げるのは、代案をいかに出すかの戦いです。今あるものが全部正しいなら意味がないので、こちらのほうが良いと理路整然とデータで示せるかが問われます。
もう要するに給付金だ。はい、もう消費税ゼロだ。はい、これでいいんです。だけど、その副作用はどうなるのと。
船橋さんは、社会保障や地方への財源が削られる影響まで含めて考え、費用対効果を踏まえていない議論は相手にされないと話します。アメリカのシンクタンクでは、費用対効果を踏まえたリアリズムが徹底していたといいます。
政権交代で政府に入る人材がいるため、プロの当局者のスパーリング相手として認められる
理路整然とデータに基づき、副作用も含めた費用対効果を示してオルタナティブを出す
要人が集まる「主催力」
船橋さんはシンクタンクで、ほぼ毎週の昼食会や、政府関係者を招いたディスカッションにすべて参加しました。本の発表の機会を与えられた昼食会には、FRB副議長のプレストン・マーティン氏や、ベイカー財務長官の側近だったリチャード・ダーマン副長官らが来て、コメントをくれたそうです。
つまりこれ、英語でコンビーニングパワーっていうんだけど、主催力、主催する力があるんですよ。
川邊さんは、船橋さんの著書『通貨烈烈』を読むと、なぜこれほどの要人に話を聞けたのか不思議に思うと話します。船橋さんは、シンクタンクに所属したことが大きかったかという問いに「100%そうです」と答えました。
ただし船橋さんは、シンクタンクを利用しようというゲームプランはまったくなかったと言います。当時は日本の国力も強く、取材先から逆に日本のことを質問されたため、船橋さんが解説も含めて説明すると、単に特ダネを狙う記者ではないと受け止めてもらえたそうです。
プラザ合意は成功か失敗か?
プラザ合意について、船橋さんはアメリカでは成功例と見られていると話します。トランプ政権のもとで「プラザ2」や「マールアラーゴ合意」といった案が出てくるのも、プラザ合意が成功したと考えられているからだといいます。
船橋さんによると、アメリカの対日の貿易赤字はそれほど減らなかったものの、対世界では1991年ごろまでにGDP比の赤字が3分の2以上減りました。一方で日本では、プラザ合意は失敗例と見る人が多いといいます。
成功例。対世界の赤字がGDP比で3分の2以上減り、今も「プラザ2」などの案が出る
失敗例と見る人が多い。利下げがバブルを招き、その崩壊が「失われた時代」につながったと捉えられている
船橋さんは、バブルにつながった面がまったくないわけではないとしつつ、別の見方を示します。国際秩序は誰かが作ったものを消費者として使うだけでなく、当時の経済大国第2位だった日本が一緒に作っていくものだ、という視点です。
国際秩序ってこの誰かが何か作ってくれてて、我々消費者として使うだけじゃなくて、一緒に作っていくもんだろと。
船橋さんによると、当時のアメリカは保護主義が爆発寸前で、レーガン政権はプラザ合意でそれを抑え込みました。民主主義国同士の政策調整として日本がルール作りに臨んだ点を見るべきで、それは今も必要だと話しています。
日本の首脳にもその主体性はあったのかという川邊さんの問いに、船橋さんは中曽根さんには明確にあったと答えます。同盟を維持するには日本も貢献しなければならないと考え、経済では相当譲歩してでも防衛同盟を維持するという、一種の戦略だったといいます。
改革開放の北京で見た「日本から学べ」の熱気
時期を戻すと、船橋さんの北京特派員時代は1980〜81年の1年10カ月で、シンクタンク入りはその後の1987年です。中国を学んで朝日新聞に入った船橋さんにとって、北京赴任は念願でもありました。
船橋さんが北京に赴任したのは、中国で改革開放 ── 1978年以降、鄧小平の主導で始まった中国の経済改革と対外開放の政策。市場経済の導入や外資の受け入れを進めましたが始まった時期でした。文化大革命や四人組の時代が終わり、中国が世界経済に入って世界から学ぶ時代が初めて訪れたといいます。
船橋さんによると、そのときの中国の「教師」は日本でした。1978年に来日した鄧小平氏は福田赳夫首相に会い、古代には日本が中国から学んだが、今度は中国が日本から学ぶ番だと語ったそうです。
象徴的な場面として船橋さんが挙げるのが、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者エズラ・ボーゲル ── アメリカの社会学者・東アジア研究者。1979年の著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で日本の経済成長の要因を分析し、日米で話題になりました氏の北京での講演です。中国人民政治協商会議の場で、2500人ほどを前に「日本から学ぶ」をテーマに話しました。
ボーゲル氏は、日本の総合商社の社員が現地の言葉や文化、歴史をしっかり学び、現地化を徹底してきたことを紹介しました。船橋さんは、聴衆が静まり返って必死にメモを取る光景が忘れられないと振り返ります。
当時は日本企業も電通、東芝、松下電器(今のパナソニック)などが続々と北京に事務所を出し始めていました。船橋さんは、中国語が非常にうまい初期の駐在代表たちがとても魅力的で、多くを教わったと話しています。
カップラーメンと麻雀、公安にマークされた特派員生活
川邊さんは、船橋さんが北京で公安にマークされていたという話を持ち出します。船橋さんは、中国人の家に招かれたり、高級幹部の息子と親しくなって一緒に麻雀をしたりすると警戒されると説明します。
当時の中国では日清のカップラーメンが大人気でした。船橋さんは外国人向けの店で大きなチャーシューを買い、カップラーメン20個ほどとネギを持っていって、振る舞っていたそうです。
あとチャーシューをわーってぶつ切りにして、こんなうまいもの食べたことないとか(言われました)。
川邊さんが今なら逮捕されかねないと言うと、船橋さんも危なかったと認めます。赴任が1年10カ月で終わったのは、社の側でもいろいろ考えたからではないかと話しています。
同じように狙われていた記者として、船橋さんは共同通信の辺見さんの名前を挙げます。辺見さんはすごい特ダネ記者で、船橋さんとは比べものにならないほど食い込んでいたといいます。
著書『内部』が描こうとした中国の「OS」
船橋さんは帰国後、北京での取材をもとに『内部』という本を書きました。「内部」とは、外国人立ち入り禁止の、中国の支配階層だけの内輪の世界を指す言葉で、あえてそこに入りたいという思いを込めたそうです。
もとになったのは、朝日新聞の経済面での20回余りの連載です。船橋さんが書きたかったのは、タイトルに入れた「風土」の部分でした。
船橋さんのいう中国の風土には、共産党の支配体制と、それ以前からの中国の社会、組織文化、ガバナンスが含まれます。経済が開放されたのは日本にとっても良いことでも、その結果は日本と同じようには進まないのではないか、という問題意識でした。
川邊さんは、表面的なソフトウェアではなくOSやBIOSを見るということかとたとえます。船橋さんは「OSとかね」と応じ、内部の論理を見なければ中国を見たことにならないと考えていたと話します。
船橋さんは、全国人民代表大会(全人代)の議員が政府に出す3000以上の提案書を入手したことも明かします。人民日報はその一部しか報じておらず、報道されなかった部分にこそ不都合な問題が多かったため、それを全部本に入れたそうです。
「友好第一、取材第二」への違和感と等身大の中国
幼少期に中国の影響を受けていた船橋さんですが、中国に幻想はもともとなかったといいます。むしろ当時の朝日新聞の中国報道に違和感を覚えていたそうです。
えっとね、まあ友好第一、取材第二なんていう言葉があった。
船橋さんによると、この言葉の背景には、当時の社長だった廣岡知男さんら上の世代の贖罪意識がありました。戦前の日本が中国でしたことや、当時の報道はひどかったと船橋さんも認めています。
船橋さんは、戦後に本多勝一記者が「千人斬り」を報じたことにも触れ、そうした過去への贖罪意識が論評だけでなく記事にまで友好的な角度としてにじみ出ていたと話します。それは報道としておかしいと考えていたそうです。
そんな社会ないだろうと。大体どの社会だってみんな同じちょぼちょぼなんで。
一方で、中国の暗部を暴くために行ったつもりもまったくなかったといいます。船橋さんが目指したのは等身大の中国を見ることで、経済は暮らしや消費、物価、賃金に表れて「だませない」ため、その視点が役に立ったと話しています。
帰国後、船橋さんはしばらく中国に行きませんでした。取材先が拘束されたことを申し訳なく思っていること、当局が証拠をつかんで船橋さんを拘束しようとしていたと後で聞いたことを明かしています。
ビザを断られれば二度と中国に行けなくなるため、中国の取材を続けたい船橋さんはあえて行かない選択をしました。その後、船橋さんはアメリカ特派員になっています。
文化大革命がなければ習近平はいなかった?
1980年代の中国から、今の中国は想像できたのかという川邊さんの問いに、船橋さんは「全く想像できなかった」と答えます。ただし、中国人が文化大革命の経験をどう消化し、次の人生や国に生かすかが決定的になると、当時から書いていたそうです。
文革を経験したなら二度と繰り返さないのではという川邊さんに対し、船橋さんは、習近平氏が文革のような愚かなことはしないだろうと認めます。そのうえで、文革経験は別の形で習近平氏を形づくったと話します。
船橋さんの説明では、習近平氏は地方に下放 ── 文化大革命期に、都市の若者や幹部を農村に送り込み、労働に従事させた政策され、家族も惨憺たる目に遭いました。それでも共産党員は苦難を乗り越えて筋金入りになり、国に尽くして歴史に名を残すのだという使命感を、父の姿にも重ねて持っていると船橋さんは見ています。
文革の苦難
地方への下放を経験し、家族も惨憺たる目に遭う
使命感
苦難を乗り越えて筋金入りになり、国に尽くして歴史に名を残すと考える
軍への厳しさ
足りない軍首脳を腐敗の摘発で放逐し、台湾をめぐって「それでは勝てない」と考えている可能性
船橋さんは、軍首脳を腐敗で次々と放逐する動きも、そのままでは台湾に勝てないという考えからではないかと推測します。
まとめ
今回の対談では、船橋洋一さんがオイルショックの取材で日本のもろさと政治リーダーシップの重要さを知り、ナイさんやキンドルバーガーさん、アメリカのシンクタンクから経済安全保障や国際秩序の見方を学んだ過程が語られました。北京特派員時代の経験からは、表面の経済ではなく中国の「内部」や文革経験を見ようとする視点が浮かび上がります。
- 第1希望ではなかった経済部への配属が、石油危機の取材と経済安全保障への関心につながった
- ナイさんからは、非対称な相互依存がパワーになることと、文脈を比べて課題を見抜く力を学んだ
- アメリカのシンクタンクの力は、政策当局者との対話、費用対効果を踏まえた代案、要人を集める主催力にある
- プラザ合意は、日本が国際秩序づくりに加わろうとした例として見るべきだと船橋さんは話す
- 船橋さんは、習近平氏のリーダーシップは文化大革命の経験なしにはなかったと見ている


