なぜ船橋洋一さんはコラムを書きたかったのか
船橋洋一さんは1980年代半ばに2回目のアメリカ赴任を終えて日本に戻り、朝日新聞の編集委員になりました。そこで任されたのが「経済地球儀」というコラムです。
船橋さんがコラムを望んだのは、アメリカ特派員時代に現地の新聞のコラムニストを見て、自分の陣地を持つ書き手に惹かれたからだといいます。
自分の論だけを言うのではなくて、あるところを切り取って、その中に一つの真実を込めていくというようなコラムが書きたいなと。
もう一つの理由は、船橋さんの考えが朝日新聞の論調と違う部分もあったことです。普通の記事の枠では落とされてしまう内容も、コラムなら書けると考えたそうです。
(朝日の論調と違うと)雑報だと落とされちゃうんでね。
願い出たところOKが出て、船橋さんは「経済地球儀」を3年ほど書き続けました。
川邊さんは、船橋さんと知り合う前から、船橋さんの書くものを「朝日っぽくない」と感じていたと話します。船橋さん自身も、論説や天声人語の道にはあまり興味がなかったと振り返ります。
朝日のいいところは、それ(自分だけの論)をやらせてくれたということで、自由ですよね。
湾岸戦争で書いた「朝日と違う意見」
船橋洋一さんが「経済地球儀」の中で最も強く思いを込めたのは、湾岸戦争でした。イラクがクウェートに侵攻し、国連決議で制裁が決まったとき、日本は何も貢献できないのかと感じたといいます。
平和国家だからやっちゃいけません、憲法が許しませんで済むのかと。
金だけでいいのかと。なんか情けないなと。それはと本当に思いましたね。
船橋さんはこの思いを、そのままコラムに書きました。当時の朝日新聞の立場は、自衛隊を海外に出すことに強く反対するものでした。
船橋さんの主張は、自衛隊を外に出せないというのは、自分たちの組織を自分で信用できていないということではないか、という問いでした。
このコラムには社内から強い違和感の声が上がり、当時あった記事審査部からも批判されたそうです。それでも朝日新聞はコラムをきちんと載せ、読者からも多くの反応がありました。
川邊さんは、読者の側から見れば、朝日新聞にもこういう意見が載っているという多様性を感じられたのではないかと話しています。
天安門事件と台湾危機で変わった中国の見方
冷戦が終わった1990年前後、船橋洋一さんはロシアや東欧を回って取材しました。もう一つの大きな出来事が、1989年の天安門事件です。
船橋さんはもともと、自分の課題を中国に重ねるのではなく、中国そのものを突き放して見る必要があると考えていました。天安門事件を見て、中国が日本側の望む姿とは違う方向へ進む可能性も強いと感じたといいます。
なぜああいうことが起こったのかとか、何をあれは表してるんだ、中国はとか、そういう中国とどう付き合うんだとか。
天安門事件を受け入れがたいと感じた点は、船橋さんも朝日新聞も同じでした。船橋さんが問題にしたのは、その先にある中国との付き合い方です。
1993年にアメリカ総局長として赴任した後には、1995〜96年の台湾危機がありました。李登輝 ── 台湾の政治家。1996年に台湾初の総統直接選挙で当選し、台湾の民主化を進めた人物として知られますの当選が確実視される総統選挙に対し、中国がミサイルで威嚇し、アメリカが空母2隻を派遣した出来事です。
船橋さんが、この件で中国脅威論が世界に広がる可能性があると書いたところ、中国当局は強い不満を示し、実際に圧力もかけてきたそうです。
船橋さんの中国を見る目が、どの出来事をきっかけに変わっていったのかを時系列で整理します。
クリントン政権と日米同盟の揺らぎ、沖縄への危機感
ワシントン総局長時代の船橋洋一さんにとって、著書『通貨烈烈』の英語版が出ていたことは大きな助けになりました。名前が知られ、取材もしやすくなり、いろいろな場に招かれたといいます。
一方で、当時発足したクリントン政権は、当初は経済を最優先する姿勢でした。冷戦時代は同盟維持のために経済面の要求を我慢してきたが、もう我慢しない、という打ち出し方だったと船橋さんは説明します。
これに対し、船橋さんの先生にあたるジョセフ・ナイ ── アメリカの国際政治学者。「ソフトパワー」の概念で知られ、クリントン政権では国防次官補を務めましたが国防次官補となり、カート・キャンベルとともに「ナイ・イニシアティブ」を進めました。冷戦後も日本は同盟国として重要だ、と巻き返したのです。
クリントン政権内で起きた、日本との関係をめぐる揺れを対比で整理します。
冷戦が終わった以上、経済で我慢はしない。安全保障の議論は引っ込める
冷戦後も日本は同盟国として重要で、アメリカのプレゼンスも必要
船橋さんはこの経緯を現地で見て、著書『同盟漂流』のきっかけにしたと話しています。
ただ、船橋さんは同盟の重要性を概念で語るだけでは足りないと考えました。現場で同盟を支えているのは、在日米軍基地の72%以上が集中する沖縄の人々だからです。
これ放っておいて、同盟が重要だ重要だって言ってるけども、こんなの続かないじゃないかという。
船橋さんは、宮古島と沖縄本島の間で中国が演習を行う現在の状況にも触れ、南西諸島の戦略的な重要性をもっと知るべきだと話します。アメリカ側から見た同盟の揺らぎと、日本側から見た沖縄への危機感、この2つが当時の問題意識の軸だったといいます。
「生涯一記者」が唯一経験したマネジメント
川邊健太郎さんは話題を変え、ワシントン総局長としてマネジメントもしていたのかを尋ねます。船橋洋一さんにとって、記者人生で唯一マネジメントらしい仕事をしたのがこの時期でした。
みんな選りすぐりの記者なんでね。朝日の中でもワシントン総局の総局員は。そこははるかに楽ですよ。
所帯は、政治部・経済部・外報部2人・科学部の記者5人と、現地スタッフ10数人でした。小さい所帯ならではの人間関係の難しさもあったといいます。
船橋さんのマネジメントの軸は、群れないことでした。派閥は作らず、小さい所帯でもそれを貫いたそうです。
そもそも引き揚げで帰ってきて、ふるさともないし。というようなことですから、何も群れるあれもないんでね。
川邊さんが「自由放任的な感じか」と聞くと、船橋さんは「相手はそう思ってないかもしれないけど」と笑いを交えて答えています。総局長は1993年9月から3年半ほど務めました。
この時期、経済部を離れたため「経済地球儀」は書いていません。代わりに「日本反射鏡」という連載を毎月1本書いていたそうです。
CNNを見たスタッフの歓声が「インターネット元年」だった
船橋洋一さんのワシントン時代は、クリントン政権のもとでグローバル化とインターネットが広がり始めた時期と重なります。船橋さんは、1995年ごろにネットスケープのブラウザが無料になると伝えるCNNのニュースを、総局で見た瞬間を忘れられないといいます。
10人ぐらいいたアメリカ人のスタッフたちが一斉にうわあって。
川邊さんが「その延長でAIに突入している」と応じると、船橋さんも「何もかも」とうなずきます。
帰国後、船橋さんは「週刊朝日」で「船橋洋一の世界ブリーフィング」を500回ほど連載していました。編集長の穴吹さんに「好きなことを何でもやらせる」と言われ、インターネットをテーマに選んだそうです。
背景には、ピーター・ドラッカー ── オーストリア出身の経営学者。「マネジメント」の概念を体系化し、「現代経営学の父」と呼ばれますが「ニューエコノミー」を語り、グーテンベルク以来の文明的な変化だと述べていたことがありました。
船橋さんは孫正義さん、伊藤穰一さん、幸谷さんらの新興勢と、出井さんや宮内さんら既存企業の経営者と対談し、『創造的破壊経営』という本にまとめました。
若き日の松山太河さんにも会い、渋谷を「ビットバレー」にする構想を聞いて、日本にシリコンバレーのようなものができたら素晴らしいと感じたそうです。ただ、スマホ以降、日本からはプラットフォームが生まれず競争に敗れたと振り返りつつ、「まだ終わったわけじゃない」とも話しています。
コラムニストという「独立王国」と、朱を入れてもらう恩
帰国後の船橋洋一さんは、社長に頼んで朝日新聞に「コラムニスト」という役職を作ってもらいました。編集委員のコラムとは違い、エディターはいるものの、ほぼ手を入れられない完全な独立王国だったといいます。
船橋さんは政治記者の早野さんと並んでコラムを担当し、ネットの時代を意識して「日本@世界」と題したコラムを書き続けました。
川邊健太郎さんが、自分も組織の中で自由にポッドキャストをやらせてもらっていると話すと、船橋さんは「自由すぎる」と返し、場が和みます。
朝日新聞に43年8カ月在籍した船橋さんは、書かせてもらえたことに加えて、育ててもらったことへの感謝を強調します。その中身が、原稿に朱を入れてもらうことでした。
この表現、これじゃ危ないよとか、ここ裏十分取ってないんじゃないの?とか逃げてるねとか、もうグサグサグサっていうことを言ってくれる人がいるかどうかなんですよね。
船橋さんは、読者より先に原稿を読む最初の読者はデスクだと話します。鬼デスクがいるかどうかが書き手を育てると考え、「パワハラって言ったらもう何にも成り立たない」とも語っています。
支局時代の誤報が教えた調査報道の怖さ
川邊健太郎さんが、朱を入れてもらった思い出で最も強烈なものを尋ねると、船橋洋一さんは支局時代の失敗を挙げました。水俣病を担当していた次席検事が、チッソをとことん調べると話したのを聞いたのがきっかけです。
立件されると考えた船橋さんが取材を進めると、若い検事が上の指示で資料を集めている段階だとわかりました。デスクからも「記事になるじゃねえか」と後押しされ、担当として記事を書いたといいます。
そのもっと前の段階の話を書きすぎちゃったんですね、先にね。十分に裏も取らないで、はっきり言って。
記事は記者会見で否定され、誤報になりました。誤報に至った流れを整理します。
情報を得る
水俣病担当の検事から、チッソをとことん調べるという話を聞く
立件を予想
若い検事が上の指示で資料を集めている段階だと知る
組織の後押し
特ダネを取りたい空気の中、デスクも記事化を促す
誤報
裏取りが不十分なまま書き、記者会見で否定される
船橋さんは、地方支局のデスクもしっかりした人だったが、それでも特ダネを取りたい気持ちに組織全体がなってしまうと振り返ります。現場の記者が「これは危ない」と精査しない限り、大変なことになると学んだそうです。
相当めげましたけどね。だけどまあすごい勉強になりましたよ。本当に火傷したんで。
訂正を出したこの経験以降、同じ轍は基本的に踏んでいないと船橋さんは話しています。
日本のシンクタンクに足りない「編集力」とは
船橋洋一さんは、記事に朱を入れる編集力は、自身が経営するシンクタンクでも同じように大切だと話します。シンクタンクの報告書が、仲間内の回し読みではなく、一般の人に届く形で市販できるかどうかが問われるからです。
普通の言葉でちゃんと書いてるかと。コンシステンシーがあるかと。揃ってるかというようなことも含めて、誰かが編集しないといけないんで、それやってないんですよ、ほとんど。
船橋さんによると、日本のシンクタンクにはピアレビュー ── 専門家同士が互いの研究や論文を読み、内容の妥当性を評価し合う仕組み。学術論文の審査などで使われますがありません。大御所の報告書には誰も意見せず、出版社でさえ言わないといいます。
船橋さんがシンクタンクを経営しながら強く感じたのは、読む側に届けるための編集が欠かせないということでした。朝日新聞で鍛えられた経験が、そのまま次の仕事の軸になっていることがうかがえます。
まとめ
船橋洋一さんの記者人生は、朝日新聞の自由な環境の中で「朝日っぽくない」意見も書き、その原稿を鍛えてくれる編集者に恵まれたことで形づくられていました。湾岸戦争、天安門事件、ネット元年という時代の転換点を経て、船橋さんが最後に強調したのは、記事にもシンクタンクにも通じる編集力の大切さです。
- 船橋さんは、朝日の論調と違う意見も書ける場として、コラム「経済地球儀」を持った
- 湾岸戦争では、自衛隊を信用できない国を世界がどう信用するのかと問い、社内から強い批判を受けた
- ワシントン総局で見たブラウザ無料化のニュースが、船橋さんにとってのインターネット元年だった
- 支局時代の誤報から、裏取りとデスクの存在の重要性を学んだ
- 日本のシンクタンクは読む側を見ないプロダクトアウトになりがちで、編集力が足りないと指摘した


