長年の付き合いでも聞いたことのなかった人生とは?
今回、川邊健太郎さんの会食インタビューに招かれたのは、ジャーナリストの船橋洋一さんです。二人の出会いは、川邊さんがヤフーニュースの責任者だった時代にさかのぼります。
川邊さんと船橋さんは、朝日新聞の関係者を通じて一度食事をしたのをきっかけに、長く付き合いを続けてきました。最近では、船橋さんが率いていたシンクタンクと、川邊さんが評議員を務めていた国際文化会館 ── 東京・六本木にある公益財団法人。1952年に設立され、日本と海外の知的交流の拠点として活動してきた組織ですが合併し、同じ組織を運営する間柄になっています。
川邊さんと船橋さんは、世の中の出来事についてはさんざん語り合ってきた一方で、川邊さんは船橋さんの人生そのものを聞いたことがなかったといいます。船橋さん自身も「喋ったことないからね」と応じ、今回は船橋さんの生い立ちに焦点が当てられます。
収録は、いつもの晩ご飯ではなく、船橋さんの都合に合わせて朝食をとりながら行われました。川邊さんは、若い人やジャーナリズムに詳しくない人も聞いているとして、基本的なことから尋ねていくと断っています。
満鉄調査部の祖父と国策会社の父、中国と深く結びついた一家
船橋洋一さんは1944年、終戦の直前に北京で生まれました。川邊さんは今回の下調べで、船橋さんが中国生まれだと初めて知ったといいます。
船橋さんの父は、北支那開発 ── 日中戦争期に中国北部の資源開発を目的として設立された日本の国策会社。鉄鋼や石炭などの事業を統括しましたで、総務課や秘書課のような仕事をしていたそうです。船橋さんによれば、総裁は対馬寿一という人物でした。
船橋さんの父は、敗戦後に北支那開発を畳む仕事の責任者を最後まで務めたため、一家の引き揚げも最後になったといいます。父自身は大連で育ち、大連一中から一高へと進んだ人でした。
船橋さんの祖父は、もともと徳富蘇峰 ── 明治から昭和にかけて活躍した言論人。国民新聞を創刊し、多くの評論や歴史書を残しましたがつくった国民新聞の記者でした。その後、満州に渡って満鉄 ── 南満州鉄道株式会社の略称。鉄道経営だけでなく、調査部を持つなど満州経営の中核を担った日本の国策会社ですの調査部に入り、満州を牛耳っていた奉天派の軍閥を担当していたそうです。
この経歴を聞いた川邊さんは「戦前史そのもの」「ドラマみたい」と驚きます。船橋さんも中国との縁の深さを認め、父が中国語を学び、家には中国関係の本ばかりあったと振り返りました。
船橋さんは、こうした家庭環境から中国を勉強したい、知りたいと思うようになり、大学もそれを軸に選んだといいます。家族三代の歩みが、そのまま船橋さんの関心の土台になっていたことがうかがえます。
引き揚げ家族が大事にした「恩」とは?
船橋洋一さんは祖父に会ったことがありません。祖父は船橋さんが生まれたときにはすでに亡くなっていたそうです。
それでも祖父の存在は、のちに思わぬ縁を生みます。船橋さんが大変世話になったという大北三郎先生は、父親が大連の新聞記者でした。先生は「同じ頃に同じ空気を親父と船橋くんのおじいちゃんが吸ってたんだな」と親近感を持ち、船橋さんに目をかけてくれたといいます。
川邊さんは、戦前に満州へ渡った日本人はスケールが大きかったという話をよく目にすると尋ねます。これに対して船橋さんは、船橋家にスケールの大きさを誇るような話はあまりなかったと答えました。
船橋さんが家族から感じ取ったのは、何代にもわたって積み上げたものを敗戦ですべて失うことのつらさでした。そのうえで、世話になった人への恩だけは忘れないという思いがあったと話しています。
船橋さんは、引き揚げを経験した人たちへの共感も口にしています。野村證券の田淵節也さん、アジア石油の長谷川隆太郎さん、加藤登紀子さんなどの名前を挙げ、「引き揚げ族」という集まりがあるわけではないものの、本人や親の苦労を思わせる何かが共通してあると語りました。
敗戦直後の北京で、母が見た中国人の姿
川邊健太郎さんは、1944年から1946年までの激動の2年間に、船橋さん一家が迫害を受けたのかを尋ねます。船橋さんはまず、北支那開発が「五族協和 ── 満州国が掲げた理念で、日本人・漢人・朝鮮人・満州人・モンゴル人などの民族が協力して国をつくるというスローガンです」を掲げ、日本人だけでなく中国人、台湾人、朝鮮人、モンゴル人、満州人と一緒に働いていたことを説明しました。
敗戦後、それぞれの民族が日本人にどう接したかには違いがあったと、船橋さんの母は強く感じていたそうです。船橋さんの母は、中国人は心が大きかった、そのことを忘れてはいけないと船橋さんに言い聞かせていました。
船橋さんは、川邊さんが挙げた中国残留孤児の話にもつながると考えています。一方で、蒋介石が共産党と戦うなかで日本を何らかの形で使おうとした地政学的な事情もあったはずだと付け加えました。
それでも船橋さんの母の意識のなかでは、中国の人は心が大きかったという記憶が残っていたといいます。一家は1946年夏に船で引き揚げ、佐世保港に着きました。そのとき、船橋さんの母のお腹には弟がいたそうです。
船橋少年の最初の記憶は、青山から渋谷まで続く焼け野原
引き揚げ後の船橋家は転々とし、東京・青山で間借りをして暮らしたそうです。船橋洋一さんの記憶は、この青山での生活から始まります。
船橋さんが今でも覚えているのは、青山5丁目あたりから渋谷のほうまで一面が焼け野原だった光景です。1946年の秋ごろのことで、船橋さんは「本当に焼け野原」と繰り返しました。
船橋さんにとって、幼い頃の記憶としてはっきり残っているのはこの光景だけだといいます。川邊さんは、焼け野原の東京にどんな思いを抱いたのかは後半で聞きたいと話を預けています。
開成から灘へ、ロックとアメ車に夢中だった少年時代
船橋洋一さんは東京の開成に入学しましたが、父が勤める旭硝子の転勤で、1学期だけで関西の灘に移りました。当時は試験なしでそのまま転校できたそうです。
船橋さんによれば、灘の生徒は開成よりはるかによくできたといいます。数学が苦手だった船橋さんはかなり苦労しましたが、あまりの出来の悪さに先生がひと夏つきっきりで補習をしてくれたと、感謝を込めて振り返っています。
中高時代に船橋さんが打ち込んだのは、サッカーとロックバンドでした。ボーカルを担当し、ニール・セダカやポール・アンカ、カントリーのハンク・ウィリアムスなどを演奏していたそうです。船橋さんは、当時のビートはとても新鮮だったと話しています。
船橋さんのアメリカ好きは小学生の頃から始まっていました。青山にはスチュードベーカー、オールズモバイル、パッカードといったアメリカ車が走っていて、船橋さんはアメリカ車の絵本を眺めては、街角で車種と年式を当てるのが得意だったといいます。
川邊さんは、敗戦国の子どもとしてアメリカに屈折した思いはなかったのかを尋ねます。船橋さんは自分は憧れのほうが強かったとしつつ、父はもっと複雑だったと答えました。
戦後の民主教育・平和教育を受け、ロックやアメリカ車に憧れた
アメリカに対してより複雑な思いを抱いていた
その象徴として船橋さんが挙げたのが、横浜で見た力道山 ── 戦後日本のプロレスを代表するレスラー。アメリカ人レスラーを倒す試合で国民的な人気を集めましたとシャープ兄弟の試合です。観客は「力道山頑張れ」と熱狂して暴徒化し、ホースで水をかけられ、船橋さんは父と一緒に逃げたそうです。
新聞記者を「下」と見た祖母、戦場カメラマンだった叔父
祖父が記者、父が中国で働いていた船橋家ですが、家庭で政治や社会を論じ合うことはあまりなかったと船橋洋一さんは話します。むしろ影響を与えたのは、母の姉の夫である叔父でした。
船橋さんの叔父はアボさんという毎日新聞のカメラマンで、中国の戦線を渡り歩いた敏捷な特ダネカメラマンだったそうです。船橋さんは叔父の家で写真を見て、すごい、面白いと感じたといいます。
朝日新聞の入社試験の前には、叔父が中国で世話になった立花さんという人が、朝日の広岡さんという社長と友人で、一言伝えておいてくれたこともあったそうです。船橋さんは、それが効いたわけではないだろうと断っています。
一方で、船橋さんの祖母は、記者になり大陸へ渡った夫に振り回され、相当苦労したはずだと船橋さんは推測します。祖父については、記者だけではできないことをしたくて中国に惹かれたのではないかと話しました。
そのため、船橋さんが朝日新聞に入ったときも、祖母はまったく反応しなかったそうです。大蔵省に入った弟のときは狂喜乱舞で、明治の女性らしい官尊民卑だったと船橋さんは笑います。船橋さんいわく、民のなかでも新聞記者は特に下という感覚でした。
エドガー・スノーの中国報道に見た「野心的なジャーナリズム」
船橋洋一さんは高校まで関西で過ごし、1浪して東京大学に進みました。関心の中心は、1920〜30年代、いまから100年ほど前の中国でした。
船橋さんがその時代に惹かれたのは、共産党が現れ、軍閥も残る混沌の中国だったからです。そこに日本がゲームプランもないまま吸い込まれるように入っていき、緊張と融和が入り混じる、形のない国際政治があったと船橋さんは語っています。
船橋さんは中国語も学びましたが、大学の授業というより、自分で勝手に本を読み進めていたといいます。そのなかで大きかったのが、エドガー・スノー ── アメリカのジャーナリスト。1930年代に中国共産党の根拠地を取材し、『中国の赤い星』で毛沢東らの姿を世界に伝えましたら1930年代以降のアメリカ人ジャーナリストによる中国報道でした。
船橋さんは、スノーらが共産党べったりだと批判されたことにも触れつつ、新しい勢力のど真ん中に入り、当事者の言葉を直接聞いて世界に伝えたことを「大変なジャーナリズム」だったと評価します。こうした本を読んだことが、ジャーナリストになりたいと思った大きなきっかけだったといいます。
大学時代の船橋さんはアイスホッケー部にも入っていました。サッカーに似ていたこと、全日本学生の選手だったいとこがかっこよかったこと、夏でも涼しいことが理由です。夜10時ごろから新宿のリンクで練習していましたが、自動車事故で大けがをして退部しました。
1968年、中国語で受けた朝日新聞と熊本支局の学園闘争
就職活動で船橋洋一さんは三菱商事にも受かりましたが、朝日新聞に入りました。目指していたのは中国の特派員です。
朝日新聞の入社試験では英語と中国語から外国語を選べ、船橋さんは中国語のほうが易しそうだったので中国語を選んだそうです。川邊さんは、船橋さんといえばアメリカのイメージが強かったので、中国語で入社したのは意外だったと驚いています。
船橋さんは、中国語はその後さび付いたと謙遜しつつ、特派員時代は英語を話す中国人が少なかったため、下手なりに中国語を使わざるを得なかったと話しました。
船橋さんの入社は1968年、昭和43年です。当時は朝日、読売、毎日などの新聞社が就職人気ランキングの上位10社にいくつも入るほど人気があったといいます。振り出しは熊本支局でした。
熊本支局で最初に取材したのは、熊本大学も占拠された学園闘争でした。全共闘には朝日をブル新 ── 「ブルジョア新聞」の略。大手新聞を体制側の新聞だと批判するときに使われた言葉ですと見る空気もありましたが、他紙に比べれば書いてもらえると期待されたのか、船橋さんはよく中に入れてもらえたそうです。
船橋さんは、当時の学生には純粋な人も多く、反公害運動に取り組む学生もいたと振り返ります。水俣病の患者を支える大学のサークルや支援グループも生まれていました。
警察回りで「毎日新聞の記者に抜かれ続けた」新人時代
熊本支局に政治部や経済部はなく、船橋洋一さんは着任してすぐ、サツ回り ── 新聞記者の用語で警察担当のこと。新人記者が最初に配属されることが多く、取材の基礎を学ぶ場とされてきましたを担当しました。船橋さんは、これで鍛えられたと話します。
船橋さんによれば、警察の幹部は検察と組んで事件を立件するため、刑事訴訟法に非常に詳しかったそうです。東大教養学部教養学科出身の船橋さんは「教養学士様がお見えになった」とからかわれ、刑事訴訟法を知らないことを突かれながら教えてもらったといいます。
巡査長クラスの警察官とは、夜通し車で張り込みをする世界で親しくなりました。船橋さんは「言っちゃダメだぞ」と言われながら張り込みに同行させてもらったこともあったそうです。
それでも船橋さんは、毎日新聞の岸井新克さんという記者に特ダネを抜かれ続けました。のちにTBSのコメンテーターを務めた記者で、船橋さんより1年先輩だったといいます。
船橋さんは、警察の電話交換手の女性などが一番の食い込み先だと考え、自分も食い込み型の記者だと自負していました。それでも抜かれる理由がわからず、夜空を見上げて悔しさを書き付けたこともあったそうです。熊本での警察回りは、取材手法や人との接し方において「決定的だった」と船橋さんは語っています。
船橋さんが語る「事実」と「真実」の違いとは?
川邊健太郎さんは、船橋洋一さんと初めて会った日のやり取りを明かします。新聞社の経営が話題になった際、川邊さんはストレートニュースは通信社に任せ、オピニオンや調査報道に特化してはどうかと提案しました。
すると船橋さんは、それは無理だと言い切り、記者にとって取材は餌のようなもので、それを食べていないと記者は育たないと答えたそうです。船橋さん本人はその場面を覚えていないとしつつ、「バクテリアではなくプランクトンと言ったのでは」と訂正し、今でも同じ意見だと話しました。
船橋さんは、事実を確定することは調査報道のいろはだとしたうえで、事実と真実は違うと考えています。真実とは、当事者がその時の雰囲気を最も的確に表す自分の言葉で語ってくれたときに取れるものであり、そこには感情や心理も含まれるといいます。
取材で確定する出来事。調査報道の基礎となる「いろは」
当事者が自分の言葉で語った、感情や心理も含む認識。論評や分析だけでは取れない
船橋さんは、論評や分析をしているだけでは真実は絶対に取れないと強調しました。当事者に会い、相手の言葉で語ってもらうことが、支局取材の積み重ねが欠かせない理由だということです。
水俣病取材で見た、原稿を送るために警備員をどやす先輩
熊本支局の3年間で最も大きかったのは水俣病の取材だったと、船橋洋一さんは振り返ります。船橋さんは患者さんの家を回り、寝泊まりさせてもらいながら取材を続けました。
印象的だったのは、患者さんたちがチッソ ── 水俣病の原因企業。工場排水に含まれたメチル水銀が水俣湾の魚介類を汚染し、多くの被害者を生みましたの株主総会に乗り込んだ場面です。船橋さんは熊本から汽車で同行し、一株株主となった患者さんたちが井頭社長を取り囲む様子を取材しました。
同行
患者さんたちと熊本から汽車で会場へ向かう
総会
一株株主として乗り込み、社長を取り囲む
送稿
公衆電話で実況の原稿を送ろうと記者同士が取り合う
当時はスマホもなく、記者たちは硬貨を入れて公衆電話から原稿を口頭で送っていました。警備員に電話を使うなと止められたとき、先輩の鴨志田さんは「新聞記者に原稿を送るなって言うのは死ねということなんだぞ」とどやしつけ、ひるんだ警備員は電話の使用を認めたそうです。
船橋さんは、この先輩の姿が忘れられないと語り、「今日今思い出した」と付け加えました。会食はここで一区切りとなり、次回も船橋さんとの対話が続きます。
まとめ
北京で生まれ、引き揚げと焼け野原を経験した船橋洋一さんは、中国と縁の深い家族やアメリカ人ジャーナリストの中国報道に刺激を受け、朝日新聞の記者になりました。熊本支局での警察回りと水俣病取材が、当事者の言葉から真実を取り出すという船橋さんの取材観の原点になっています。
- 祖父は満鉄調査部、父は北支那開発に勤め、船橋家三代は中国と深く結びついていた
- 引き揚げ後の最初の記憶は、青山から渋谷まで続く焼け野原だった
- エドガー・スノーらの中国報道に「野心的なジャーナリズム」を見て記者を志した
- 熊本支局の警察回りで他社に抜かれ続けながら、取材の基礎を身につけた
- 船橋さんは、事実と真実は違い、真実は当事者の言葉を直接取材しなければ取れないと考えている



