iモードの登場と、携帯インターネットで築いた競争優位
携帯電話とインターネットが結びついたのは、1999年でした。2月にiモード、4月にEZwebが登場し、キャリア主導で市場が一気に立ち上がったと川邊は振り返ります。
大きかったのは課金の仕組みでした。パソコンのインターネットでは課金がボトルネックだったのが、携帯では解消されたのです。
むしろパソコンのインターネットはやらないけど、携帯のインターネットだったら儲かるからやる、そういうコンテンツプロバイダーもいっぱい出てきた
電脳隊は、携帯サイトを作るためのツールを開発しました。かつては受注して個別にPCサイトを作っていましたが、今度はサイトそのものではなく、作るためのツールを売る形に変えたのです。
売り方も特徴的でした。コンテンツプロバイダーではなく、キャリアに一括で買い上げてもらい、プロバイダーは無料で使えるという強固なビジネスモデルを築いたと話します。
売り上げもすごく上がっていったし、すごい競争優位が、ほぼ一時なんかそういう独占状態にあるっていうことがありましたよね
この頃は、日本のITが最も強かった時代でもあります。FOMAという3G規格を世界に提唱し、iモードで世界初の本格的な携帯インターネットを実現していました。
この頃がだから、日本のITが一番強かった時代ですね。一時世界をリードした時代ですよね
ただし、その優位は長くは続きませんでした。川邊はネット産業30年を総括する本を執筆する中で、2007年から潮目が変わったと見ています。
大手キャリアとのトラブルと、追い詰められた電脳隊
軌道に乗った電脳隊でしたが、ここでトラブルが起きます。最大手キャリアとの関係がこじれてしまったのです。
電脳隊は2位、3位のキャリアの携帯インターネット規格の普及に力を入れていました。オープンな技術のため最大手のiモード系にも対応していたのですが、向こうからは競合の規格を担ぐ相手と見なされたと言います。
向こうからすると、競合の規格を担ぐ輩だみたいになって、なんか結構出禁になってしまって
この部署は、携帯インターネットに参入できるかどうかの生殺与奪権を握る強力な部署でした。取引先のコンテンツプロバイダーとも付き合えなくなり、電脳隊は追い詰められていきます。
当時はまだKDDIが誕生する前で、一強多弱の時代でした。後に振り返れば割り切りようもありましたが、当時はその判断材料もなかったのです。
その一強に嫌われてやっていけんのか、みたいなのは相当ありましたね
Yahooとの出会いと、寝られたプレゼン
出口の見えない状況で、電脳隊は2つの手を打ちます。1つは自らサービス提供者となる道でした。カレンダーやメール、ストレージなどを扱うPIMという会社を作り、マルチデバイスで展開する作戦です。
もう1つは、より大きな企業にM&Aされる道でした。この両にらみで動いていた2000年前半、携帯インターネットで出遅れていたYahoo! JAPANが電脳隊とPIMに目をつけます。
きっかけは、早稲田の講演会でした。川邊やグッドウィルの堀口氏、アプリックスの郡山氏らが登壇した会に、客として来ていた人物が話しかけてきたのです。
なんかすごい別に柔らかい感じのおじちゃんが話しかけてきて、名刺をいただいたら、当時はジオシティズの名刺を持ってましたけど
それが佐藤寛氏でした。Yahooの新規事業やM&Aを担当しており、後に「一緒にやろうか」と声をかけてきます。最初はYahooモバイルの立ち上げを提案する関係でした。
そのプレゼンには、印象深いエピソードがあります。川邊は携帯インターネットのポテンシャルを大上段に語りましたが、Yahoo側の反応は冷ややかでした。当時は目の前のPCインターネット事業がどんどん伸びていたためです。
後にYahooのCEOとなる北野氏は、当時社長室長でした。その北野氏が、川邊のプレゼン中に寝てしまったのです。
北野さんが、僕が説明してる間に寝たんですよね。だから僕のプレゼンは寝られたっていうのは覚えてます
やがて話は「外部から手伝うだけでは難しいから、中に入ってやってくれないか」という誘いへと変わっていきました。
損切りの決断と、54億円になった事業
Yahoo側の誘いが具体化する一方、大手キャリアとの関係はさらに深刻化していきました。PIM社長でスカウト役だった松本氏が最大手キャリアとの対応を担い、川邊がYahooとの交渉を担っていました。
川邊は、大手キャリアと仲違いする最初の会議にいたメンバーでもありました。責任を感じていたこともあり、Yahooへ移ることをメンバーに説得する立場にまわったと言います。
議論は1週間ほど続きましたが、若くして早く決断できたことを後によかったと感じているそうです。
もちろん、思い入れがなかったわけではありません。長く一緒にやってきた仲間との事業であり、上昇気流にも乗っていました。
独立性云々ってあんまり当時分かってなかったからあんまり気にしてなかったですけど、もったいないなっていう感覚はみんなにありましたね
決断を後押ししたのは3つの要素でした。置かれた環境の過酷さ、Yahooと組めば日本一使われるサイトになるというポテンシャル、そして提示された条件です。
環境の過酷さ
大手キャリアとの関係が悪化し、追い詰められていた状況
ポテンシャル
Yahooの携帯対応をすれば日本一使われるサイトになれる可能性
提示された条件
M&Aで示された条件に魅力を感じた
自分で20万円ほどをかき集め、清水君の母親が数十万円を出して始めた事業は、最終的に54億円になりました。
パソコン取り付け業からやったやつが、一応54億円になったんで、それはなんかやった感はありましたよね
出資してくれた清水君の母親は、複数の会社を経営するファミリービジネスの人物でした。逐次報告していたため、「いいんじゃない?」と背中を押してもらえたそうです。
Yahoo入社と、イノベーションのジレンマ
2000年6月頃、川邊はYahooに加わります。ミッションは2つでした。Yahooモバイルを日本最大にすること、そしてビジネスモデルを確立することです。
Yahooは、公式メニューへの掲載を認められていませんでした。いわゆる「ポータルインポータル」は不可とされていたためです。だからこそ、多くの人に使われる場所にした上で、広告で稼ぐしかないと考えていました。
環境は非常に良かったと川邊は言います。柔軟で、優秀なエンジニアも多く、働きやすかったのです。しかし、2012年まで苦しみ続けた問題がありました。開発の優先順位です。
事業とか戦略って突き詰めると、何に優先順位を置いてどうリソースを配分するか、これに尽きる
当時はPCインターネットが伸び盛りで、広告市場も拡大していました。そのため、リソースはあっても携帯対応の優先順位が上がらなかったのです。
象徴的だったのが、Yahoo天気をめぐるやり取りです。後にYahoo社長、そして東京都副知事となる宮坂氏が、当時Yahoo天気の責任者でした。
リオデジャネイロの天気を知りたい人と、今日、勤務先の天気を知りたい人と、どっちが多いと思ってるんですか?
こうしてPCのサービス対応が常に優先される状況が続きました。これはまさにイノベーションのジレンマであり、川邊は経営者になって以降もこの問題に悩まされ続けます。
モバイルの手応えは、少しずつ現れました。特にヤフオクの携帯対応は大きかったと言います。写真も、デジカメからの取り込みではなく、写メで撮ってすぐアップロードできるようになりました。
ただし、本当の突破口はiPhoneが普及した2011年を待つことになります。しびれを切らして辞めていった仲間もいました。
フラフラした日々と、ボーダフォン買収での「外し」
2005年、ソフトバンクがボーダフォンを買収し、グループがキャリアになります。キャリアに悩まされてきた川邊にとって、これは魅力的なチャレンジでした。孫氏を焚きつけた一人でもありました。
キャリア買ったから、自分たちがキャリアやっても、その最大手のキャリアにチャレンジできる。結構いいチャレンジだなと思って
ところが、いざ買収が実現すると、川邊は担当から外されてしまいます。理由は明確でした。当時の川邊が「フラフラしていた」からです。
優先順位が上がらないもどかしさから、川邊は気が散り始めていました。湘南藤沢キャンパスの研究員になったり、会社を火曜日に休んだりしていたのです。
極めつけは2004年でした。会社とは無関係のプロ野球1リーグ制反対運動に半年間、身を投じていたのです。
川邊は一体何やってんの、あいつらみたいになってて。これ大丈夫か、ボーダフォンかって
一方、PIM社長だった松本氏は、Yahoo入社直後から社長室に入り、Yahoo! BBの立ち上げなど幅広く動いていました。ボーダフォン買収を機に、松本氏が担当となり、川邊は外されます。
川邊はフラフラして用はあんないから、もう一回孫さんの前出せないから外れろって言われて
今思えば当然の判断だと川邊は言いますが、当時はショックだったそうです。しかも、この「外し」を後に何度か経験することになる、その最初の出来事でした。
なぜそんな環境でプロ野球の運動に関わったのか。理由はシンプルでした。
楽しそうだったな、っていうのは本当にそれに尽きますよね。あれから20年経ったけど、あれ以上のことは結局起きてないですよね
Yahooニュース責任者へ──マスメディアとの融和
外された川邊は、社会貢献関係のサービスやソフトバンクホークス関連の対応をしていました。そこへ宮坂氏から声がかかり、2007年にYahooニュースの責任者になります。
お前暇そうだなって言われて。万事塞翁が馬というか、やっといてやってよかったな
川邊にとって、これは大きな転機でした。大学3年生までは価値観の半分がフジテレビ、半分が少年ジャンプというほど、既存メディアが好きだったからです。
あくまでもそういう既存メディアっていうフィルターを通してインターネットを理解していたぐらい、既存メディアがすごく好きだった
しかし、Yahooニュースは大変な状況にありました。問題は2つです。1つは、記事の感想をレーダーチャートで表示する機能を、情報提供元に無許可で始めてしまったこと。もう1つは、共同通信が地方紙を引き連れてYahooニュースから離脱してしまったことでした。
川邊はお詫び行脚に出ます。あるスポーツ新聞では、名刺すら受け取ってもらえませんでした。
俺、Yahoo嫌いだから。Yahooって読売新聞屋さんなんだ。え?何これみたいな。こんなことになってんの?
それでも川邊が謝ったことが、相手には新鮮だったようです。天狗になっていたYahooの担当が謝ることは、これまでなかったのです。この経験から、川邊はある自覚に至ります。
もともとマスメディアが好きだった川邊は、Yahooとマスメディアの融和を自らのミッションと定めます。細かな経緯は割愛されましたが、離脱した共同通信を戻すところまでやりきりました。
頭を下げる、利害を調整する。あと、相手を追い込むっていうか、相手が勝手に状況が悪くなっていく
離脱組が立ち上げた「47NEWS」はトラフィックが集まらず、状況は相手側で悪化していきました。川邊はヤフコメも、事前に相手の声を取り付けてから始めています。
2009年にはGyaOの社長にもなり、民放キー局各局から出資を取り付ける交渉も担いました。2007年からの5年間、川邊はマスメディアと深く関わり続けます。
iPhone上陸と、繰り返されたイノベーションのジレンマ
マスメディアに深く関わっていた頃、テレビの置かれる状況が変わり始めていることも川邊は感じていました。決定打はYouTubeの登場です。
あれをあそこまで目の敵にして排除してたら絶対やられるぞと思ってたら、やっぱりやられたな
同じ5年間に、iPhoneの上陸もありました。2007年にアメリカで登場した当初、iPhoneは「おもちゃ」と言われていたと川邊は振り返ります。
これはiモードが登場した時とまったく同じ構図でした。安っぽいものが出ると人はバカにし、やがて性能が上がった頃にはシェアを奪われている。イノベーションのジレンマの教科書通りだったのです。
かつて電脳隊時代は、川邊たちがジレンマを起こす側にいました。しかしiPhoneでは、ボーダフォンでYボタンを展開し市場ポジションを占めていたため、今度は守る側にまわっていたのです。
物の見事にiPhoneをバカにしてましたよね、最初ね。こんなのおもちゃだって、日本の携帯の方が性能がいいと
実際、iPhoneは日本で2008年から出始めましたが、数年間は物好きの人が使うものでした。じわじわ普及し、あるきっかけで一気に広がったと言います。
iPhoneの場合はもう完全にやっぱり3.11ですよね。TwitterとかLINEとかが出てきて、ガラケーよりも扱いやすかったから
孫氏が「やれ」と言い続けたにもかかわらず、Yahooは出遅れました。ブラウザで提供するか、アプリで提供するか。今では常識のアプリ活用も、当時は先が読めなかったのです。
しびれを切らした孫氏は、体制変更してでもやると決断します。宮坂社長、川邊副社長の体制で、スマホファーストへと全面的に舵を切ることになりました。
こうして川邊は、経営陣のど真ん中である副社長へと入っていきます。そのきっかけは、SNSも少しあったものの、やはりスマホ、そしてiPhoneでした。
何度か体験したイノベーションのジレンマの、良くない方の体験の一つですね
まとめ
PCからモバイルへの転換期は、川邊にとって躍進と挫折が入り混じった12年間でした。競争優位を築いた電脳隊、大手キャリアとの対立、Yahooへの損切りの決断、そしてマスメディアとの融和。その道のりは、繰り返し向き合うことになるイノベーションのジレンマの記録でもあります。
- iモードとEZwebの登場で携帯インターネットが立ち上がり、電脳隊はキャリア一括買い上げの強固なビジネスモデルで競争優位を築いた
- 大手キャリアとの関係悪化で追い詰められる中、川邊は「損切りは早い方がいい」との判断でYahoo移籍を決断し、事業は54億円になった
- Yahoo入社後、PCインターネット優先という開発の優先順位の壁に直面し、これが後の経営者人生でも悩み続けるイノベーションのジレンマとなった
- フラフラした日々を経てYahooニュース責任者となり、頭を下げてマスメディアとの融和を進め、離脱した共同通信を戻すまでやりきった
- iPhone上陸では守る側としてジレンマに陥り出遅れたが、孫氏の決断で副社長としてスマホファーストへ舵を切ることになった


