インターネットが「遠かった」1995年
1995年は阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件があり、11月にはWindows951995年にマイクロソフトが発売したパソコン用OS。インターネット接続が容易になり、日本での個人向けインターネット普及の起点とされるが登場した年でした。
川邊さんによれば、当時は新聞では「インターネット」という言葉が踊っていたものの、身近に使っている人は少なかったといいます。
大学1、2年の頃は「マルチメディア」という言葉が主流で、それが1994〜95年にかけてインターネットという言葉に置き換わっていったそうです。
身近に使ってる人は少ないみたいな状態が、95年の11月まで続くんですけど、Windows95が出て、ブラウザがほぼ標準搭載になって、人とインターネットの距離が近くなってくる。
ただし、Windows95でブラウザが載っても、実際にインターネットへ接続するのは簡単ではなかったといいます。
プロバイダー契約、複雑な回線接続、難しいソフトのインストールが必要で、料金も高かった、と振り返ります。
状況が大きく変わったのは、NTT日本電信電話株式会社。当時の主要通信事業者で、テレホーダイなどの定額接続サービスを提供したが23時以降の定額制を打ち出したあたりから。1996〜97年頃にインターネットを始める人が一気に増え、2ちゃんねるの登場へとつながっていったそうです。
「血が足りない」からインターネットへ──電脳隊の旗揚げ
川邊さんは、サンバ隊の活動に飽きてきたタイミングでWindows95を目にし、「絶対これだ」と感じたといいます。
そこで「サンバ隊」のサンバをコンピューターを意味する「電脳」に置き換え、インターネットで何かをやろうと企画書を書いたのが、95年の文化祭直後だったそうです。
血が足りなくなってきた。
そうそう、足りなくなってきたから、インターネットの方が血が足りたっていうことで。
最初の具体的な業務として書き込まれていたのが「パソコン取り付けよう」。買ったはいいが繋げない人が大勢いた時代に、自分たちで接続を手伝う仕事です。
つまり電脳隊という器が先にあって、その最初の事業としてパソコン取り付けがあった、という順番だったと川邊さんは整理しています。
Windows95を見て決意
「絶対これだ」と確信し、サンバ隊から電脳隊へ
企画書を書く
インターネットで何かをやる構想を文章化
最初の業務を設定
知人宅向けのパソコン取り付け業からスタート
SFCとの出会い──ホームページが作れる学生たち
インターネットでホームページを作りたかったものの、青学の学生だけでは作り方がわからないという「絶望的な」状況だったといいます。
そこで頼ったのが、当時「未来からの留学生」というコンセプトで燦然と輝いていたSFC慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス。1990年開設で、情報技術や学際的な学びを重視したカリキュラムで知られたでした。
知人のツテをたどってSFCの学食で田中祐介さんや佐々木大地さんと知り合い、後に電脳隊を有限会社化する際の取締役メンバーとなっていきます。
いやもう、何もかもが先進的でしたよね。日本で一番太い回線が入ってて、大学も24時間動いてて、どの教室行ってもコンピューターがあって、生徒はみんなアカウント持ってて、UNIXが使えて、Eメールとか当然やってる。
SFC生はメディアリテラシーとして、HTMLでのホームページ制作やJavaScriptによる簡単なプログラミングを一般教養で学んでいたといいます。
「誰に聞いてもホームページぐらいは作れる」というその環境は、当時の日本で唯一に近かったのではないか、と川邊さんは振り返ります。
さらに田中さんや佐々木さんは三菱総研でコンサルのアルバイトをしており、企業との折衝やBtoBの感覚も持っていたといいます。家庭向けにパソコン取り付けをやっていただけの電脳隊にとって、これは大きな補完でした。
サンバ隊から派生し、行動力と熱量はあるがウェブ制作のスキルがない
HTMLやJavaScript、UNIX、Eメールを一般教養として習得し、BtoBの感覚も持つ学生がいた
そもそもSFC生との縁を結んでくれたのは、青学の先輩・音銀さんと同じマンションに住んでいたSFCの宮下さんでした。
音銀さんとの出会いも、高校時代に「綺麗なドロップキックをする人がいる」と聞いて柔道場に行き、声をかけたところからだったそうです。
すごく綺麗なドロップキックをしている音銀さんがいて、「すごく綺麗なドロップキックしてますね」って話しかけて。それで仲良くなったっていう、すごいですよね、人の縁はね。それが最後50何億円までなるわけですから。
「求めよ、そうすれば与えられる」──宗教教育とアクション
SFC経由ではさらに、当時通産省にいた鈴鹿さんとの縁も生まれ、多くの企業経営者を紹介してもらえたといいます。あのタイミングでSFC生を誘っていなければ「何にもなっていなかった可能性が高い」と川邊さんは語ります。
そして印象的なのが、青学のキリスト教教育からの刷り込みだったという話です。礼拝中は寝ていても、繰り返し聞かされる聖句が頭に残っていたといいます。
「SFC生と知り合いたいよね」とか会話で終わらないで、求めよそうすれば与えられるだろうだから求めに行くか、みたいな感じで、アクションにつながるんですよね。
宗教教育は短期的にはあまり効かないけれど、長期的にアクションを促す土台として効いていた──そう川邊さんは捉えているようです。
じゃんがらラーメンの隣の外国人と東大工学部
SFC生は一般教養として技術を扱えたものの、本格的なソフトウェアエンジニアリングを学んでいたわけではなく、企業からの仕事が高度化する中で次第に限界が見え始めます。
大人のエンジニアを雇う選択肢もあったものの、続けるかどうかも見えない学生たちには怖かった。そこで「日本で一番技術力のある学生は東大の工学部ではないか」という安易な、しかし真っ直ぐな結論に至ったといいます。
とはいえ当時はSNSもなく、東大生と接点を作る手段がありません。そんな中、恵比寿で仕事を終えて原宿のじゃんがらラーメン東京の人気とんこつラーメン店。原宿店などは深夜営業で多くの社会人や学生に親しまれてきたに通うのが日課だったといいます。
ある夜、「ラーメンの匂いをインターネットで送るにはどうしたらいいか」とふざけて議論していたところ、隣の外国人が話しかけてきました。
そしたら、なんか向こうが話しかけてきて、「君たち随分面白い話をしてるけど、何なの?」って言われたから、「いや、実は学生なんだけど、ウェブとかの会社をやってて」って名刺を出したんですよね。
彼の名はブライアン。ユナイテッドテクノロジーの社員で、修士論文のために東大工学部の鈴木木村研に来ていた、まさしく東大生でした。
うちの研究室にいくらでもいるから来なよ、遊びに来なよって言われて。それで本当に、じゃんがらラーメンで知り合ったブライアンの手引きにより、東大工学部の学生が後に電脳隊にジョインしてくるようになった。
結果として98〜99年頃には電脳隊に東大の同じ研究室から3人が入社する事態になり、他社からは「協定破りだ」と怒られたり、教授に心配されたりもしたといいます。
きっかけ
深夜のじゃんがらラーメンでの雑談
出会い
隣席の外国人ブライアンが話しかけてくる
展開
ブライアンが東大鈴木木村研の学生を紹介
結果
東大工学部の学生が電脳隊に複数ジョイン
シリコンバレー武者修行と「差別化競争戦略」
95年に始めたパソコン取り付けからウェブ制作会社的な存在になっていった電脳隊。しかし97年頃にはIBMの「eビジネス」、富士通の「ソリューションビジネス」など、大手が同じ領域に参入してきます。
学生だけで運営していた電脳隊は、フルコミットの経営経験者がいない分、むしろ教科書的にビジネスを組み立てていたといいます。参考にしていたのは、グロービス日本のビジネス教育機関。MBAプログラムや書籍を通じて経営学の体系を日本語で広める活動を続けているが出していたMBAマネジメントハンドブックでした。
教科書に当てはめると、当時の電脳隊は典型的な価格競争戦略の世界にいて、人を増やし続けても価格は上がらない「悪夢のシナリオ」に陥りそうだと感じたといいます。
一方の差別化競争戦略の象徴がAppleでした。シリコンバレーは差別化競争戦略の塊のような場所だから、そこで学んでこようという話になります。
人を雇って受注を増やしても、価格が上がらず規模だけが膨らむ
他社にないプロダクトで市場を作り、ニッチでシェアと価格を取りに行く
コネのなかったシリコンバレーへの渡航は、ここでもブライアンが鍵になります。MIT出身でルームメイトたちがボストンからシリコンバレーへ移住しており、紹介先には事欠かなかったといいます。
事前にアポを取り、現地でさらに紹介を重ね、ブライアンの実家のあるケンタッキーにも立ち寄りつつ、1ヶ月弱の武者修行を行ったそうです。
シリコンバレーで得た自信と「モバイル」の予感
シリコンバレーから持ち帰った最大のお土産は、川邊さんによれば「自信」でした。
大学在学中か大学出ぐらいのあんちゃんたちが、いわゆるドットコム企業を作って、もう全然その大きくしてってる。あるいは価値をつけてる。彼ら同じような人たちがやれてんだ。怖くないみたいな。
もう一つの大きな収穫が、ブライアンのルームメイトであるベンさんが立ち上げていたアンワイヤードプラネット社との出会いです。
彼らは携帯電話に載るマイクロブラウザを開発しており、すでに日本のキャリアにも手を出している、と聞かされます。
「次のパラダイムは携帯電話とインターネットの融合らしい」という情報は、パブで耳にする会話とも一致しており、シリコンバレー全体の空気として川邊さんに刻まれたといいます。
滞在中、Apple救済のためにマイクロソフトが10数%の株主になるというニュースも流れ、Appleファンのブライアンは大きなショックを受けていたといいます。
訪問したApple本社はお葬式のような雰囲気だったものの、社食のレジにはNewtonAppleが1990年代に発売した携帯情報端末(PDA)。市場では失敗とされるが、後のモバイル端末の原型として位置づけられているが使われていました。
だからやっぱりどん底でもやっぱ自社のプロダクトをちゃんと使ってこういうことやってるAppleって偉いなって、当時は思ってた。
どん底でも自社プロダクトを使い続けるAppleの姿勢は、後にヤフー経営者になった川邊さんに、強いパッションとして残り続けたといいます。
モバイルへの全張り──「パソコンのインターネットはもうやらない」
帰国後はメンバーの就職問題と絡みながら、電脳隊をこの先どうするかの議論が活発になります。川邊さん自身はシンガポール大学留学で学年が1年ずれており、他のメンバーも修士に進むなど、結果として「モラトリアム延長」の状態にあったといいます。
そして98年、メンバーの卒業が見えるタイミングで、続けるのか就職するのかの決断が迫られました。
なんとなくやっぱ自分たち会社やるの楽しいよねと。なんとなくというか、明確に楽しいよねと。だけど今のまま続けてても、その価格競争戦略の中で会社だけが肥大化してって、何も復活しないみたいな、なるのもやだよね。
そこで打ち出されたのが、受託ビジネスからソフトウェア提供型へ、そしてパソコンから携帯電話とインターネットの融合領域へ、という大きな方針転換でした。
川邊さんはこれを「もうパソコンのインターネットはやりません」というレベルで宣言したと振り返ります。今のAIシフトの姿勢にも近い割り切り方だったといいます。
パソコン向けウェブ制作を受託でこなす価格競争型のビジネス
携帯電話×インターネット領域に絞り、自社ソフトウェアを提供する差別化型のビジネス
クライアントだった企業の反応は「極めて悪かった」といいます。「あんな小さなお金でやるわけがない」と引き留められたそうです。
当時は「世の中が無理だと言うほどチャンスがある」という解釈で踏ん張ったといいますが、今振り返るとまた別の見方もあると川邊さんは語ります。
今結構老眼が急速にきつくなってきたんですよ、僕が。あの人たち老眼だったんだろうな。だから心の底からこんなんでやられんよって、先行きが見通せないんじゃなくて、身体的に思ってたんだろうな。
また、トラフィック面の手応えもあったといいます。タダ同然で配られていたPHSPersonal Handy-phone System。1990年代に普及した日本独自の携帯電話システム。低料金で若年層を中心に普及し、ショートメッセージ通信も活発に使われたでは、すでに音声よりショートメールのトラフィックが多くなっており、「若い人はこっちなんでしょ」という確信があったと振り返ります。
受託からソフトウェア提供へ、PCからモバイルへ──このトランスフォーメーションを本格化させたのが98年夏以降だったといいます。
まとめ
Windows95の登場をきっかけに動き出した電脳隊が、SFC生や東大工学部との出会い、そしてシリコンバレーでの武者修行を経て、価格競争から差別化競争、PCからモバイルへと舵を切るまでの過程が語られた回でした。
- Windows95は登場時点ではブラウザを「載せた」だけで、実際にインターネットへ繋ぐハードルはまだ高かった
- 電脳隊は青学のサンバ隊から派生し、SFC生がウェブ制作とBtoB感覚を、東大工学部メンバーが本格的な技術力を補った
- 「求めよ、そうすれば与えられる」という刷り込みが、雑談を行動と縁につなげていた
- シリコンバレーで得た最大のお土産は同世代スタートアップを見た自信と、モバイル×インターネットというパラダイムの予感
- 98年夏以降、PCのインターネットを切り捨てて携帯電話領域に全張りする決断が、その後の電脳隊の方向性を決めた
