なぜ中井祐樹は川邊健太郎をXでフォローしたのか
この回は、LINEヤフー会長の川邊健太郎さんが、東京・練馬区で格闘技道場を営む中井祐樹さんを招いた会食インタビューです。二人はこの日が初対面でした。
川邊さんによると、この会食は「自分のXをなぜこの人がフォローしてくれているのだろう」と思った人に声をかけるシリーズの第2弾です。川邊さんは、中井さんからフォローされたことをよく覚えていたといいます。
フォローの理由を聞かれた中井さんは、フォローバックを求めているわけではないと答えます。体や人生を使って何かをしている人には共鳴するものがあり、勉強させてもらうつもりでフォローしているそうです。
体を使って何かしてるとか、人生を使ってなんかしてるって人は、きっとなんか共鳴する何かがあるかもしれないし、もしかしたら勉強させていただくみたいな感じなんですね。
中井さんがフォローしているのは、スポーツ選手、多ジャンルの武道家、治療家や医師など「体を扱う人」が中心です。その流れで、川邊さんもタイムラインに引っかかったのだろうと中井さんは推測しています。
一方の川邊さんは、自称「猪木信者」の格闘技好きです。グレイシー ── ブラジルの柔術一家。1990年代に来日し、グレイシー柔術の強さで日本の格闘技界に大きな衝撃を与えましたが来日した頃のことをよく覚えていて、中井さんのことは「バーリトゥード・ジャパンの決勝でヒクソンと戦った人」として知っていたといいます。
さらに川邊さんは、作家の柳澤健さんと親しく、柳澤さんの著書『1984年のUWF』の冒頭が中井さんの話から始まることで、中井さんの人物像を改めて知ったと話します。中井さん自身は、その本に「狂言回しのように」登場したと振り返っています。
川邊さんは、これまでは知人をゲストに招いてきたものの、面識のない人と会食することがこの番組の本来の目的だと説明します。格闘技に詳しくないリスナーにも伝わるよう、基本的なところから人生を振り返ってもらう形で話が始まります。
格闘家か、武道家か。中井さんが「道」と呼ぶもの
川邊さんがまず尋ねたのは、中井祐樹さんの今の肩書きです。中井さんは、総称としては「格闘家」でいいとしつつも、現役で試合をしている人のような響きがあるため、少し引っかかりがあると話します。
中井さんは現在、試合の第一線からは降りて指導者として活動しています。そのため「柔術家」「武道家」と呼ばれることもあり、どれも間違いではないという立場です。
格闘家と武道家の違いを問われた中井さんは、今の自分は武道家に近いと答えます。試合をメインにするのではなく、格闘技に関わるすべてを通じて「道」を作っているからだといいます。
今は人々にその理念とか術を伝える方に回っている。で、これは面白いものなんだよとか、人生にきっとプラスになるところもあるよとか、単純に楽しいものだよっていうようなところを伝えるためにやっている。
中井さんは以前、「武道」という言葉を使っていなかったそうです。始まりはレスリングでプロレスファンでもあり、堅苦しい印象があったため、自分は武道とはかけ離れたところにいると思っていたといいます。
考えが変わったのは、格闘技の話がすぐバイオレンスな方向に受け取られ、悪い人のように言われることが少なくないと気づいたからです。違うアプローチを示すために、中井さんは今「武道」という言葉を使っていると話します。
川邊さんが「格闘技は武道の一部ということか」と確かめると、中井さんは今はそう思っていると答えました。「石が飛んできている可能性もある」と笑いながらも、自分のやってきたことを武道と呼んでも、もう反対されないのではないかと考えています。
レスリング出身のプロレスファンで、「武道」は堅苦しく、自分とは縁遠い言葉だと感じていた
格闘技が暴力的に受け取られることを知り、理念や楽しさを伝える「道」として武道という言葉を使っている
プロレス少年はなぜ馬場・鶴田に惹かれたのか
中井祐樹さんの格闘技との出会いはプロレスです。1976年の猪木対アリ戦について、6歳になる年の中井さんは入場の様子を見た記憶がかすかにあるといいます。
小学1年生の頃には、全日本プロレスのザ・ファンクス ── ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクの兄弟タッグ。1970年代の全日本プロレスで絶大な人気を誇りました対ブッチャー・シーク組のタッグマッチを興奮して見ていたそうです。中井さんはこの頃から完全なプロレスファンになり、プロレスラーを志すようになりました。
好きだった選手を聞かれた中井さんは、ジャンボ鶴田さんの名前を挙げます。新日本プロレスより、馬場さん・鶴田さんの全日本プロレスが好きだったといいます。
その理由には、育った土地の事情がありました。中井さんの出身は北海道の浜益村で、2005年に石狩市に編入されて村としては消滅しています。当時の浜益村では、フジテレビ系とテレビ朝日系の映りが悪かったそうです。
新日本は映るんですけど、ちょっとストレス感じるんですよ。見ても黒タイツの人ばっかりだし。なんかね、地味に見えるんですよね。
一方の全日本プロレスは、土曜日の夜に鮮明に映り、赤や星柄のタイツの選手、フォークで刺す反則攻撃、たくさんの外国人選手と、わかりやすい華やかさがあったといいます。
映りが悪くストレスを感じた。黒タイツの選手ばかりで、ストロングスタイルが地味に見えた
土曜の夜に鮮明に映った。派手なタイツ、フォークでの反則、外国人選手の多さでわかりやすかった
ただし中井さんは、自分の進路は「猪木方面」だったとも話します。心は馬場・鶴田にありながら、進んだ道は猪木さんの系譜だったという、少しねじれた関係です。
UWFに憧れ、村でスクワット500回
中井祐樹さんがプロレスごっこに明け暮れていた頃、大人たちからは「プロレスなんて」と言われて口喧嘩になったそうです。そのとき反論に持ち出せたのは、名だたる格闘家と戦った猪木さんだけでした。
論破するためにはイノキさんを持ってくるわけです。だからここにちょっとこのアンビバレンスなところが表れているんですけど。
こうしたやり取りを通じて、中井さんの中には「プロレスが最強の格闘技で、やるならプロレスだ」という思いが育っていきました。
中学生になった頃、UWF ── 1984年に旗揚げされたプロレス団体。キックや関節技を多用するリアルな試合スタイルで、格闘技志向のファンを熱狂させましたが誕生します。ところが当時の北海道ではテレビ東京系が映らず、中井さんは雑誌の写真でしか見られなかったといいます。
それでも中井さんは、写真のリアルさから「今までのプロレスとは違う、こっちなんだ」と確信し、入門を目指してトレーニングを始めます。新日本プロレスの入門テストの基準を参考に、自己流で体を鍛えました。
汗で絨毯がびしょびしょになるほどだったそうで、中井さんは「よく親が見逃してくれた」と振り返ります。UWFには身長制限がないと聞いたことも、170センチを超えなかった中井さんには大きな希望でした。
中学にはもともと格闘技の部活がなく、中井さんはサッカー部に入ります。途中で柔道部ができたものの、移ると先輩に怒られる雰囲気があり、移れなかったそうです。
プロレスラー志望の少年が選んだ高校レスリング部
中学卒業後すぐにプロレスラーになりたいと考えていた中井祐樹さんは、担任の先生と親から「ちょっと待て」と説得されます。勉強ができた中井さんには「高校はどこでも行ける」という選択肢があったからです。
中井さんは高校進学を受け入れる代わりに、レスリング部のある高校にしか行かないと条件を付けます。そうして選んだのが札幌北高校でした。
レスリング部ある高校なら最強の高校行きゃいいのに、やっぱり進学校の中から選んだところに僕のこの全員のバランスを取った感覚が出ちゃってるんですね。
中井さんは、先生も親も自分も納得できる進学校を選んだことが「その後を暗示している」と笑います。北海高校や札幌第一高校といったレスリングの強豪校ではなく、強くはない進学校のレスリング部に入ったわけです。
当時はちびっこレスリングがなく、部員はみな高校から競技を始めていました。プロレスごっこ歴の長い中井さんは、最初は快進撃を見せたそうです。
しかし強豪校との練習量の差は大きく、2年生の後半になると負け始めます。中井さんは、札幌には何でもあり、村のように夢だけに打ち込めなかったことを「都会に負けた」と表現しています。
入学直後
プロレスごっこの経験で、高校から始めた同級生に勝ち続けた
2年生後半
強豪校との練習量の差で負け始めた
挫折
「これではオリンピックもプロレスもない」と感じた
普通の高校生へ
北大を目指す進学校の空気の中で受験勉強に向かった
中井さんは北海道大学に合格しますが、そのころには「世界最強の男になる」という夢は消えていたといいます。親に迷惑をかけられないと受験は1校だけに絞っていて、落ちていたらどうなっていたかわからないと振り返ります。
極真に行くはずが、なぜ柔道部に入部したのか
北海道大学に入った中井祐樹さんは、組み技のレスリングはやったから次は打撃をやろうと考え、近くにあった極真空手の道場に通うつもりでした。中井さん自身、その発想がすでに総合格闘技的だったと話します。
ところが、部活を紹介する冊子で、北大柔道部の「俺たちの柔道は普通の柔道と違う」「寝技ばかり」という紹介文が目に留まります。気になって見学に行くと、そこはサブミッションとグラウンドばかりの世界でした。
見学行ってたら名前書いちゃいました。
中井さんは練習風景を見て「これもUFCじゃん」と感じ、その日のうちに入部を決めたといいます。極真空手に行くはずだった予定は、その場で変わりました。
七帝柔道と講道館柔道は何が違うのか
川邊健太郎さんはリスナーに向けて、北大柔道部が取り組む「七帝柔道」の成り立ちを尋ねます。中井祐樹さんによると、その源流は戦前の高専柔道 ── 旧制高等学校や専門学校の柔道大会で発展した柔道。寝技への引き込みが認められ、寝技中心の独自の技術体系が育ちましたにあります。
高専柔道の大会は、今でいうインターハイのような規模で、通常ルールの大会よりはるかに大きかったそうです。学校同士が15人ずつ並んで勝ち抜き戦を行い、最後に残った側が勝ちます。熱くなりすぎて、学業に支障が出るからやめろと学校から言われるほどの人気だったといいます。
高専柔道は独自の道を歩み、柔道の創始者・嘉納治五郎さんが存命中に寝技が多すぎるとルール変更を求めても、突っぱねたという逸話があるそうです。
投げられたら甚大なダメージ受けるかもしれないから、最初から寝ちまったら投げられないみたいな発想ですよね。
中井さんは、オリジナルのグレイシー柔術のルーツはこの発想にあったのではないかと思うほどだと話します。北大の前身である北大予科は、昭和9年に高専柔道で全国優勝した名門でした。
高専柔道は戦後いったん途絶えますが、旧帝国大学7校の関係者が復興させたのが七帝柔道です。中井さんは、同一のものではないが歴史の系譜はつながっていると説明します。
七大学は、北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学です。北大柔道部は講道館ルールや国際ルールの大会にも出ていましたが、あくまでメインは七大戦だったといいます。
中井さんは高校時代から、北大の寝技の存在をかすかに知っていました。札幌北高校のレスリング部は隣の柔道部と交流があり、北大へ出稽古に行った柔道部員が「北大生の寝技はしつこいぞ」と言って帰ってきたそうです。
そんなとこ絶対行きたくねえと思ってたんですけど。
「僕のための柔道じゃん」と感じた北大柔道部の日々
北海道大学柔道部での日々について、中井祐樹さんは大げさでなく「僕のための柔道じゃん」と思ったと話します。タックルもし放題で、寝技には「待て」がなく、決まるまで攻め続けられたからです。
七大戦の試合時間は6分や8分で、引き分けなら両者が退き、勝てば次の相手と戦います。15人対15人で行うため、1試合に2時間ほどかかるといいます。
グラウンドが多いっていう、要するに強制的に立たされないので、とことんまで攻めれるっていう点で、あ、これだと思って。
中井さんにとって、柔道は大学で初めて本格的に始めた競技でした。帯の結び方も最初は先輩に教わったそうです。
中井さんが入部した当時の北大柔道部は、6年連続最下位といった低迷期にありました。自分が一番強くなれると思っていた中井さんでしたが、同期が15人もいて、強い選手もたくさんいたといいます。
それでも中井さんは、同期が15人いたことをありがたかったと振り返ります。OBからは「この15人が全員4年生になれば、4年生だけでチームが組める」と言われ、チームが上向きになっていく時期だったそうです。
大学での生活は、授業はあるものの、午後4時からの柔道部の練習に向かって生きているような感覚でした。北高の同期の間で「中井死亡説」が出たほど、大学に行っているのか柔道部に行っているのかわからない状態だったといいます。
寝技の大学がなぜ立ち技乱取りを欠かさなかったのか
北大柔道部の練習は、午後4時から本練習が2時間半から3時間ほど続き、6時半か7時に終わります。そのあと武道館が閉まる9時まで、研究や筋トレをしていたそうです。練習は月曜から土曜までで、休みは日曜だけでした。
中井祐樹さんは、練習でカラカラになったあとに筋トレをしていたのは今思うと効率が悪かったと笑いながらも、5時間ずっと武道館にいたと振り返ります。
高校で柔道部だった川邊健太郎さんは、寝技中心の七帝柔道でも立ち技の練習をしていたのかと尋ねます。中井さんによると、当時はアップと打ち込みのあとに20〜30分の立ち技乱取りを必ず行い、その後に寝技乱取りという流れでした。
普通の柔道では寝技がアップで立ち技がメインになるため、北大の順番は逆だったといいます。七大戦は寝技への引き込みが許されていますが、中井さんは立ち技を捨てると弱くなると考えていました。
立ち技が強くないと結局寝技もできないと今は思ってます。その当時はよくわかんなくて、立ち技の時間が苦痛でしょうがなかった時もあるんですよ。
中井さんは、立ち技をちゃんとやることが結果的に七大戦の優勝につながったのかもしれないと話しています。この考え方は、今の総合格闘技的な発想にも通じるといいます。
最下位から優勝へ。七大戦の4年間
七大戦での北大柔道部の成績は、中井祐樹さんの在学中に大きく変わりました。1年生の中井さんは20人の登録メンバーに入ったものの、試合に出る15人には選ばれず、応援に回ったといいます。その年、北大はようやく3位に入り、最下位から抜け出します。
2年生の年は地元・札幌での開催で、部員たちは優勝を目指していました。しかし結果は再び3位でした。
3位って前からするといい成績じゃないですか。だけどもう泣いてるんですよ。もうお通夜みたいになって。
中井さんは、練習のきつさよりも「優勝しなければならない」というプレッシャーのほうがきつかったと話します。川邊健太郎さんが作家の増田さんの本を引いて「練習は死ぬほどきつかったのでは」と聞くと、練習は楽しく、やって当たり前だと思っていたと答えています。
3年生の年、北大は京都大学の11連覇を阻みますが、決勝で九州大学に敗れて準優勝に終わります。主将が体落としで投げたものの、判定は一本ではなく技ありで、一本勝ちしか認められないルールのため引き分けとなり、代表戦で敗れたといいます。
そして最後の年、北大は七大戦で優勝します。平均体重は70キロほどと他大学の80〜85キロより軽かったものの、全員がポイントゲッターのつもりで戦い、強豪の「大砲」に取られた失点を最小限に食い止めたそうです。
練習量はすべてを決めるのか
北大柔道部が強くなった理由を聞かれ、中井祐樹さんは先輩たちのやり方を踏襲しつつ、とにかく練習量にこだわったと話します。ウェイトトレーニングのコーチが入って乱取りが減る時期もありましたが、幹部になってからは練習量を落とすことを許さなかったそうです。
僕が幹部学年になってからとにかく絶対練習量落とすな。嫌な先輩だったんじゃないですかね。
中井さんは、今もこの考えを持ち続けています。量をこなすことは古臭いと見られがちで大手を振っては言えないとしながらも、量をやっている人にはかなわないという実感があるといいます。
一方で、中井さんたちの代は研究にも力を入れました。出稽古に来てくれる相手を大事にし、その技の中に使えるものがないかを探っていたそうです。寝技は頭を使わなければ強くなれないという認識があったと考えられます。
当時の北大は「巨人軍みたいなチーム」と言われていたといいます。中井さんによれば、突出した大砲はいないものの、全員が確実に打ち、全員で取って全員で引き分けられるチームだったという意味です。
その結果、平均体重が最も軽いチームで七大戦優勝を果たしました。
優勝は総合格闘技への「通行手形」だった
七大戦で優勝した瞬間、中井祐樹さんが感じたのは「これでやっと次に行ける」という思いでした。次とは、総合格闘技のことです。
きっかけは1年生の頃に大学生協で見た『格闘技通信』でした。そこには、シューティング ── 初代タイガーマスクの佐山聡さんが創始した総合格闘技。現在の修斗で、打撃・投げ・寝技を組み合わせて戦いますがプロ化したという記事が載っていたといいます。
中井さんは、佐山さんがUWFを抜けるときにシューティングはアマチュアスポーツとしてやると言っていたことを覚えていました。プロ化したのなら自分が行くべき場所だと感じ、柔道で気持ちがアグレッシブになるにつれて、元々やりたかったことへ走ろうと思うようになったそうです。
中井さんは在学中にすでに監督へシューティングに進む意思を伝えていましたが、監督の反応は「わかるけど、なんだそれ」という感じだったと振り返ります。
その背景には、自分の勉強への疑問もありました。中井さんは、受験勉強はマークシートを塗るのがうまいだけで、大学では論文が書けず、年号を暗記するだけで物事の真実を考えてこなかったと感じ始めたといいます。
それでだんだんこう、自分は職人になった方がいいんじゃないかっていう思いになってきて、だんだんそれで格闘技の職人になろうということになるわけですよ。
そして中井さんにとって、七大戦の優勝は結果を出してから次へ進むための通行手形でした。優勝という結果がなければ、シューティングに行けないと思っていたそうです。
プロレス少年
浜益村で馬場・鶴田に憧れ、プロレスラーを志した
UWFへの憧れ
雑誌の写真で見たUWFを目指し、自己流で体を鍛えた
高校の挫折
進学校のレスリング部で強豪校に負け、夢が消えかけた
七帝柔道
北大柔道部で寝技に没頭し、最後の年に優勝した
シューティングへ
優勝を通行手形に、格闘技の職人を目指した
会食はまだ続き、次回も引き続き中井さんをゲストに、その後の歩みが語られる予定です。
まとめ
中井祐樹さんの青春期は、北海道の村で育ったプロレスへの憧れが、高校での挫折を経て、北大柔道部の寝技の世界で再び燃え上がる物語でした。七大戦の優勝は、格闘技の職人として総合格闘技へ進むための通行手形になっていました。
- テレビの映り具合から全日本プロレスを好んだ少年は、UWFを目指して村で自己流のトレーニングを続けた
- 七帝柔道は戦前の高専柔道の系譜を引く寝技中心の柔道で、中井さんは「僕のための柔道」と感じて即入部した
- 北大は最下位から3位、準優勝を経て、平均体重が最も軽いチームで優勝した
- 中井さんは今も練習量を重視し、立ち技が強くないと寝技もできないと考えている
- 受験勉強への疑問から「格闘技の職人」を志し、優勝を機にシューティングのプロを目指した




