「本を出したらピーク」説を越えて、なぜ今書くのか
番組の冒頭で高木新平さんは、ゲストの黒岩里奈さんに、いま一番関心のあるテーマを相談したいと切り出します。高木さんは現在、自身が実践してきた「ビジョニング」をテーマにした本を作っているところです。
高木さんによると、インサイドビジョンを続けてきたおかげで、4〜5社の出版社から書籍化のオファーが届いたといいます。そのなかで、一番早く熱く連絡をくれた出版社と進めることにしました。
高木さんには、これまでにも本のオファーはありました。シェアハウスなどの活動をしていた若い頃にも声はかかりましたが、何もやっていない若造が出していいのかという思いから断り続けてきたそうです。
さらに、「本を出したらその時が人生のピーク」という説を誰かに言われ、それがずっと頭に残っていたといいます。その考えを変えたのが、『嫌われる勇気』などを手がけた編集者の垣内さんとの会話でした。
いや、本っていうのは後から恥ずかしいぐらいがちょうどいいんだと。その、って言われて、なるほどと思って。
高木さんは、ビジョニングは人生をかけてやることでもあると考え、このタイミングで本を出すと決めました。ただ、決めたあとで「いい本とは何か」が難しいと感じ、編集者の黒岩さんに相談したいと考えたのです。
思ったより大きい球が来てびっくりしてます。
黒岩さんはまず、自分はもともと小説を中心とした文芸の編集が長く、ゴリゴリのビジネス書の編集者ではないと前置きします。そのうえで、編集者との付き合い方について一つの考えを示しました。
黒岩さんによれば、高木さんが「この人とやりたい」と心を動かされた編集者には、何らかのやりたいことがあるはずです。だから、その編集者が何を読みたいのかに乗っかってもよいのではないか、と話します。
編集者はこの人とやりたいとか、この人の本を作りたいと強烈に思った時、超熱烈なオファーするんですけど、出口まで見えてるかどうかっていうとそうでもないことがあり、
黒岩さんが一番不幸だと考えるのは、お互いが相手に答えがあると思い込み、探索もうまくいかず、企画が流れたり「こんなもんかな」という本が出てしまったりすることです。だからこそ、編集者と一緒に出口を見つける旅を長い時間かけてするくらいがよい、と黒岩さんは勧めます。
動画で見られるのに、わざわざ紙の本を出す意味は?
高木さんがまず編集者に投げかけたのは、「この時代にわざわざ本を出すとはどういうことなのか」という問いでした。ビジョニングの中身はインサイドビジョンの動画で公開しており、それを見ればよいとも言えるからです。
高木さんの周りでは、番組の全動画をAIに読み込ませて、ビジョニングのやり方をステップに体系化している人もいるそうです。高木さんは「それでいいじゃん」とさえ思ったといいます。
そのうえで高木さんがたどり着いた本の価値は、読むという行為の能動性でした。動画はインプットの効率がよく情報量も多い一方で、本を読むことは著者の熱量や主張と自分が対峙しながら進むアクティブな行為だと高木さんは話します。
本とか読んでて、いい本っていうのはインスピレーション起きて止まるんですよ、手が。
高木さんが例に挙げたのは、デザイナーの原研哉 ── 日本のグラフィックデザイナー。無印良品のアートディレクションなどで知られ、著書『デザインのデザイン』はデザインの本質を論じた一冊として読み継がれていますさんの『デザインのデザイン』です。この本ではデザインが100回ぐらい定義し直されていて、読むたびに問いが返ってくるといいます。
高木さんにとって、さらっと読めず「いい意味で進まない本」こそがいい本です。読者が自分から問いを見つけ、禅問答のように考えられるプロセスは、浴びるように受け取る動画では起きにくいと高木さんは考えています。
担当編集者も、ジャンルを再定義し、読者や世の中に問うような本でなければ作る意味はないと考えていたそうです。2人は、それをビジョニングで実現しようと盛り上がったといいます。
「ここだけ読めばいい本」と、5時間を共にする本
高木さんと担当編集者の考えを聞いた黒岩さんは、そこまで握れているならとてもいい、と評価します。そのうえで、いま求められるヒット型の本とは作り方が違う、と整理しました。
黒岩さんが挙げたのは、章ごとのまとめがあり、読んでほしいところにハイライトが引かれた「ここだけ読めばいい」タイプの本です。そうしたフォーマットを読みたい読者のほうが多く、ありていに言えば売れるだろう、と黒岩さんは話します。
ただし黒岩さんは、その種の本を否定したいわけではありません。動画の速さに対抗する一つの考え方ではあるものの、早く摂取したいならショート動画が一番であり、高木さんたちは逆のことを志向しているのだろう、と見ています。
章ごとのまとめやハイライトで「ここだけ読めばいい」作り。読みやすく、売れやすい
5〜6時間かけて著者と対話し、その世界観に触れ続ける。高木さんたちが目指す方向
黒岩さんが個人的に思う本の一番の価値は、同じ人間と長い時間対話できることです。
なんか5時間とか6時間とか、同じ人間と対話することってあんまもうないじゃないですか。家族でもないじゃないですか。
けど、あの本だともう否が応でも読み切ろうと思うと、5、6時間普通にその人と、その著者と読者が対話しなきゃいけないし、
高木さんはこれを映画館にたとえます。人が映画館に行くのは2時間の集中や没頭を買いに行っているからで、家ではスマホを見てしまう、という理屈です。本も同じように、終わらせなければならない時間のなかで読者に問いが生まれるとよい、と高木さんは話します。
高木さんは、同じ富山出身の安宅和人 ── 脳神経科学者でヤフーCSOなどを歴任。著書『イシューからはじめよ』は問題設定の重要性を説いたビジネス書の定番ですさんの『イシューからはじめよ』にも触れました。名著だが難しく、タイトルの言葉だけは残っていても途中の内容はほぼ覚えていない、と率直に語ります。
それでも高木さんは、そうした本は耐久性が強いと感じています。著者が対峙した時間そのものが本に詰まっていて、読者はそれを買っているのではないか、というのが高木さんなりに納得した本の価値です。
藤田真央のエッセイに見る「書くと無意識が意識になる」
黒岩さんは、読者が「この本と時間を共にしてもいい」と思えるのは、著者自身が本に対してさらけ出している状態があるときではないか、と話します。その具体例として挙げたのが、ピアニストの藤田真央さんのエッセイです。
黒岩さんは2021年から約5年間、藤田さんの連載エッセイを担当しています。世界的に多忙なピアニストで、書くことが本業ではないため、当初は黒岩さんがインタビューしてまとめる形をとっていました。
しかし藤田さんは本当に言葉を持っている人で、連載開始から1年ほどで本人自ら「書きたい」と申し出て、エッセイに切り替わったそうです。いまも世界中を飛び回りながら原稿を送ってくるといいます。
藤田さんの原稿は毎回約1万字で、黒岩さんもそれを咀嚼して3000〜5000字ほどの感想を返しています。黒岩さんはこのやり取りを、気持ちとしては往復書簡のような感覚だと表現します。
この連載のなかで藤田さんは、書いているうちに自分の無意識が出てくると話していたそうです。ピアノを弾いているときはトランス状態のようでも、原稿の中では、何に気をつけてなぜミの音が美しくなったのかを精緻に分析しているといいます。
演奏
トランス状態のように無意識で弾いている
書く
文字に起こすことで、無意識でやっていたことを意識的に捉え直す
伝わる
無意識の営みこそが天才・藤田真央を形作っていると、読者に伝わる
黒岩さんは、この話をビジョニングの本に重ねます。1時間の講演でビジョニングを話すことは高木さんにも十分できるはずですが、そこでは出てこない言葉を見つけていく作業こそが、本を書くことなのではないかと話しました。
高木さんも、書けば書くほど書きたいことが増えていくという書き言葉の性質に共感します。往復書簡のように、送ったあとで考え直し、返事を受けてもう一度照らし合わせるプロセスが、物事への解像度や耐久性を上げていくと話しました。
パパッて早くやったものほどやっぱり耐久性って低いと思うんですよ。
黒岩さんはさらに、本人が当たり前だと思っていることほど他人には真似できない、と付け加えます。ラフマニノフとこう呼応したら美しい音が出た、と言われても読者にはできないように、高木さんのビジョニングも他人からは魔法のように見えるはずだ、というのが黒岩さんの見立てです。
だけど、その魔法がなぜ生まれてるかを触れられると人はすげえ嬉しいみたいな。
ビジョニングの本質は「質問」ではなかった
黒岩さんの「魔法」の話を受けて、高木さんは本に書きたいことだと前置きしつつ、ビジョニングの核心に触れます。ビジョンを引き出す場面で高木さんが一番よく聞かれるのは、「どんな質問をしたらいいですか」という問いだそうです。
そんなもちろん(質問を)考えて臨んでないんですよ。
高木さんが例に出したのは、以前の黒岩さんとのセッションです。そのとき黒岩さんは泣きましたが、それは高木さんが鋭い問いを投げたからではなかったといいます。
リナクロさんが喋ってる話を聞きながら、あ、この人はこう思ってんだ、俺もそれだって僕が勝手に乗っかってたら、自分の話をしたくなったんですよ。
高木さんが自分の話をすると、黒岩さんもそれを自分の話のように聞き、何かが出てきた。高木さんはこれを、インタビュアーのように質問しているかぎり引き出せないものだと説明します。
鋭い質問を考えて投げる。高木さんによれば、これでは多分引き出せない
相手の話に勝手に憑依し、自分の経験を共有する。リズムや身体感覚の共有から何かが出てくる
高木さんは最近、自分が何をしているのかを言語化しようと考えるなかで、ビジョニングとは何を聞くかではなく身体感覚の共有のプロセスなのだと気づいたといいます。
本でビジョニングを追体験できるか
黒岩さんは、ビジョニングを受ける前もインサイドビジョンを面白く見ていたものの、何が起きているのかはいまいちわからなかったと振り返ります。体験して初めて、ずっと悩んでいたはずのことについて、考えていなかったことに気づけた理由がわかったそうです。
そこで黒岩さんがジャストアイデアとして出したのが、「ビジョニングとはこうです」と外側から説明するのではなく、読者がビジョニングされる体験を届ける本にすることでした。
やっぱりビジョニングされるって(新平さんの)シンペイさんの話を聞くことでもあったと思うんですよ。
黒岩さんは、生っぽい高木さんの成分が入っていることが、かえって読者にとってビジョニングを受けた経験になるのではないかと話します。形式としては、自分で自分をビジョニングする「高木新平B」との往復書簡や、編集者というペルソナを相手にする案も挙げました。
高木さんは、ビジョンはみんなが持っているはずだと考えています。実験的に作ったコミュニティでは、高木さんは何も教えていないのに、メンバーが見よう見まねでビジョニングをし合い、結構いい結果が出ているそうです。
黒岩さんは、そのメンバーにインタビューするのが一番早いのではないかと提案します。高木さんの何を参考にし、どこがその人のオリジナリティなのかを聞けば、高木さん自身を相対化できるからです。
黒岩さんはさらに、ビジョニングには相性があり、噛み合わない1時間もあるはずだと指摘します。そうした相手を研究することも含めて相対化すれば、高木さんのイズムを残しつつ、高木さんが教祖にならない本になるのではないか、というのが黒岩さんの考えです。
本を読む人は、簡単な答えを求めていない
黒岩さんは自身も読者の一人として、本を読む人は答えがいらないと思って読んでいる人のほうが多いのではないか、と話します。答えがほしい人は、30分でわかる分かりやすいものを選ぶからです。
そういうひねくれた人がわざわざお金払って時間かけて本を読む時に、簡単に俺の悩みが解決すると思うなよって思いながら人は読んでると思うんですよ。
だからこそ黒岩さんは、「これが正解です」と提示する本よりも、高木さん自身が迷っていることが滲んでくる本のほうがよいと話します。
黒岩さんが本の執筆を依頼すると、「答えが見つかったら連絡します」と返されることがあるそうです。そのたびに黒岩さんは、答えが見つかっていないからこそ今書いてほしいのだと伝えているといいます。
高木さんも最初にオファーを受けたとき、体系ができていないし、まだ極めている途中だから書けないと答えたそうです。それでもいいと言われた理由を、高木さんは「悩みながら考えながら書くから意味がある」ということだったのかもしれない、と受け止めました。
森田真生「言葉は時間差で届く」
話題は少し変わり、高木さんは鹿児島で開かれた薩摩会議というイベントの話を始めます。そこで登壇していた独立研究者の森田真生 ── 数学を軸に研究・執筆・講演を行う独立研究者。『数学する身体』などの著書があり、大学に属さず活動していますさんが、「言葉は時間差で届く」と語っていたそうです。
高木さんが紹介した森田さんの体験は、子どもが生まれた直後の出来事です。子どもが病気で集中治療室に入り、何か月も出られなかったといいます。
集中治療室
生まれた子どもが何か月も出られず、警報音が鳴る環境にいた
空と静けさ
退院後、空は青いことと静けさを伝えたいと、空を見せて静かな場所で抱っこした
子守歌
安堵して腕の中で眠ろうとする子に、思わず子守歌を歌った
父の歌が届く
父親に子守された記憶がないはずなのに、その時父の子守歌が聞こえてきた
(父の子守歌を)思い出したんじゃなくて、今届いたんだと。その時届いたんだみたいなこと言ってて。
高木さんは、この話を本の価値に重ねます。本はスローで、パッとは入ってこない。けれども、大事な言葉は時間差で届くことがある、と考えたのです。
高木さん自身にも、そうした経験があります。会社を作ったときに代表メッセージを書いていたら、10年ほど読み返していなかった村上龍さんの『希望の国のエクソダス』の言葉が出てきたといいます。
高木さんは、つぶやきのように流れていくフローの言葉ではなく、深く入って人生の必要なタイミングで届く言葉を伝えられることが、本という媒体の一つの価値なのかもしれない、と話しました。
村上龍の「一行」と、読者のエゴ
黒岩さんは、小説はまさにそうだと応じます。トリックや設定の面白さもあるものの、「この本が好き」というより「この一行が好き」ということがよくあり、どのシーンのセリフだったかすらわからないこともある、と話します。
高木さんにとっての一行は、『希望の国のエクソダス』で中学生のポンちゃんが国会で語る言葉です。
高木さんはこの一行から、希望を作らなければならない、ビジョンが必要だと考え、そういう会社を作ろうと思ったそうです。物語のポンちゃんと同い年だったことも重なり、世の中や周りの声ではなく、その一行だけが原点になったといいます。
高木さんがうれしかったのは、村上龍さんが亡くなったあと、みんながそれぞれ「俺の一行」を披露していたことです。黒岩さんも、しかもその一行が人によって違うことに驚いたと振り返ります。
高木さんは、本は読むという積極的な行為を通して受け取るから、ここまで残るのだと考えます。黒岩さんはそこにもう一歩踏み込み、読むことはエゴイスティックな行為でもあると話しました。
だってその一行以外は見えてないんですもん、ある意味では。
黒岩さんは作家と伴走する立場として、他の行も気合いを入れて書かれていることを知っています。それでも、1冊を読んでたった2行に出会うために読んだという読者のエゴが許される、そこが本の面白さだと話します。
映画やドラマにも同じことはありますが、黒岩さんによれば、本はよくも悪くも目が滑るぶん、エゴを出してもいい自由さがあるそうです。この話を聞いた高木さんは、「本をちゃんと書かなきゃ」と変に思っていたのが楽になったと語りました。
黒岩さんは、そのエゴをなるべく著者の思う形で広く届けるのは編集者の役割だとしたうえで、著者も読者もわがままになっていいのではないか、と話します。
パーパスより個人のエゴ、要約よりノイズ
高木さんは、ビジョニングで個人の価値観や信念、欲望を抽出しようとする理由を語ります。その人からしか出てこない内発的なものでなければ熱は生まれず、共感も生まれないと考えているからです。
高木さんによれば、社会がこうだからこういう世の中を作る、というパーパスは結局刺さりません。AIなどでゲームチェンジが起きすぎている今、スタートアップも最後は個人のエゴのようなものを出すしかなくなっている、と話します。
そう考えると、紙の本は古い媒体に見えても、むしろ個人のエゴを表現することと相性がいいのではないか、と高木さんは感じたといいます。
黒岩さんは、チームみらいで政党のコピーを考えた経験を振り返ります。最初は本の帯を考えるノリで作っていましたが、まったく違うと気づき、言葉を選ばずに言えば「賢い人たちが賢く作ると届かない」と感じたそうです。
黒岩さんは、帯づくりでは「要約になっている」とよく怒られ、一番ガツンと来たところをピックしろ、万人に届くと思わなくていい、と訓練されてきたといいます。一方でAIに帯を作らせると、素敵ではあっても要約的なものが出てくるそうです。
黒岩さんは、要約的な言葉を正確に出すことにコンプレックスがあったと明かします。けれども、政党がわざわざ街頭演説をするのは、そこに人間の肉声と時間と雑味が入っているからだと考えるようになりました。
黒岩さんにとってそれは、本が好きな理由でもあります。1枚のランディングページでは伝わらないものがあるから、街頭演説をし、長いnoteを書くのだと、最近ようやくわかってきたといいます。
「花は美しい」と言い切る勇気と、返り血を浴びる覚悟
要約ではだめだという話に、高木さんはTwitter時代に好きだった読み人知らずの投稿を重ねます。「花は美しい」と書くと、美しくない花もあると反論が返ってくる、という内容です。
じゃあ花は美しい花もあるけど、美しくない花もあるって書き始めたら、それはもはや書く必要のないものになる。
だから花は美しいっていう言い切る勇気が必要になってくる。表現とは勇気なんだみたいな。
高木さんは、要約はまんべんなくしていくものだが、どこかに体重をかけて言い切ることで、読み手は覚悟や大事にしているものを感じるのだと話します。そして、それは本だからこそできるのかもしれないと考えました。
黒岩さんは、本は買いたいと思った人にしか届かない媒体だからこそ、ミノワさんも話していたように、返り血を浴びる覚悟がしやすい媒体だと話します。偏見をにじませやすい、ということです。
黒岩さんによれば、偏見のない人間はいないため、正しくあろうとすると「花は美しい、美しくない花もある」という話になってしまいます。言い切るには、自分の偏見や正しくなさ、無意識のよくないところをさらけ出さなければならない、と黒岩さんは言います。
誰かが読んだら傷つくかもしれない表現が絶対に入ってるんです。一冊本書いたら。
高木さんが「村上龍も偏見の塊だからいい」と応じると、黒岩さんはジェンダーの描き方などを例に挙げます。黒岩さんが好きな川端康成にも、今の時代に照らすとかなり厳しい表現がありますが、そこには偏見が生み出すある種の覚悟がある、と話しました。
書くのをやめたくなったら「うぅ」と唸りながら書け
黒岩さんは、本を書くことは本来すべての書き手に覚悟が必要な営みだとしたうえで、書くほど自分の嫌なところも見えてくると話します。ロジックがスカスカなところが見えてしまい、大体の人はそれに耐えられずに書くのをやめてしまうそうです。
だからこそ黒岩さんは、どんな人であっても本を1冊書き切れる人をリスペクトしていると言います。そこで高木さんは、壁に2〜3回ぶつかりそうだが、そのときどう乗り越えればいいのか、おまじないはあるのかと尋ねました。
でも俺は俺の強度でいいんだって思ってるとつまんなくなっちゃうんですよね。これ難しいですね。
黒岩さんの答えは、開き直るのでもなく、「うー」と唸りながら書くことでした。高木さんは、開き直ると表現のせめぎ合いがなくなってしまうと理解し、その苦しさこそがいい表現の生まれる瞬間だと背中を押すのが編集者の役割なのかと確認します。
黒岩さんはそれに同意し、本当に「うー」となっているなら、もう少し時間をかけて考えてみることも勧めます。
(うーって)思ってることを読者は絶対に聞きたいはずなんですよ。実は。
スルッと出てるものは大したことじゃないです。
黒岩さんによれば、スルッと出てくるものは、おそらくすでに伝わっていることです。唸っている時間は、自分自身と対話している時間だと黒岩さんは話します。
高木さんも、インサイドビジョンでは、その人にとって恥ずかしくて言いたくない話ほどその人らしさが出て、人の心を揺さぶると感じてきました。話す前に「うー」となっている人ほど、いい回になるそうです。
「エゴイスティックな表現が許された媒体」というマインドセット
高木さんは対話の終わりに、本を楽しめそうな気がしてきたと話します。黒岩さんも、本を書くことを楽しめる人は本当に楽しめるし、高木さんはそういう人だと勝手ながら感じる、と応じました。
高木さんは、本にパブリックなイメージがあったうえ初めての執筆でもあり、ちゃんとやろうと構えていたと振り返ります。そのうえで、今日の対話で考えがどう変わったかを自分の言葉でまとめました。
本はパブリックなもの。初めてだから、ちゃんと書かなければならない
本はエゴイスティックな表現が許された媒体。「うー」と唸り、返り血を浴びる勇気が要るものこそ読者が見たいもの
一方で黒岩さんは、読者は結構シビアで、書き手の自意識が出ていればすぐに見抜くとも付け加えます。高木さんは、本を書き切ると宣言し、完成したら怒られない範囲で共有すると約束しました。
収録の最後には、黒岩さんが担当編集者への気遣いも見せます。他社の編集者が自由に発言していると担当編集は嫌なものだと何度も謝り、担当編集と仲良くしたほうがいいと念を押していました。
まとめ
初の著書に向き合う高木新平さんに対し、黒岩里奈さんは、速く答えを渡す本ではなく、著者と時間を共にし、迷いや偏見ごとさらけ出す本の価値を語りました。AIが要約を担う時代だからこそ、紙の本には言い切る勇気や唸りながら書いたノイズが求められるのかもしれません。
- 本の価値は、著者と5〜6時間対話する時間にあり、いい本ほど読者の手が止まる
- 書くことで無意識が意識化され、人はその無意識の部分こそを知りたがる
- ビジョニングの本質は質問ではなく身体感覚の共有で、本ではその追体験を届けられる可能性がある
- 人の心を動かすのは要約ではなく、言い切る勇気や肉声のようなノイズ
- 書き手が唸りながら絞り出したものこそ、読者が読みたいものになる



