「万博の次は?」順風満帆に見えるプロデューサーの葛藤
小橋賢児さんは、8歳から26、7歳まで俳優として活動し、その後イベントプロデューサーに転身した人物です。最近では東京2020パラリンピック閉会式の演出、花火とテクノロジーを融合したショー「STAR ISLAND」、そして大阪・関西万博のイベント全体を統括する催事企画プロデューサーを務めました。
高木新平さんは、ある会で小橋さんと会った際に、万博の後これからどうしようかという話を聞き、番組に招いたといいます。外から見れば順風満帆なクリエイターですが、小橋さん自身は「外側からの見た目と自分の中の葛藤は意外と相反する」と話します。
本当に4年以上(万博に携わって)経ってるっていうことで、普通にだったらもう中学生だったら卒業しちゃってるわけですよね。
小橋さんにとって万博は、人生の大きな時間軸を費やした仕事でした。逆風の時期には「この選択で良かったのか」と迷いつつ、自分で決めたことだからと最後までやり抜いたといいます。
結果として予想を超える来場者が訪れ、形の上では成功しました。ところが終わったあと、小橋さんを襲ったのは燃え尽き症候群のような感覚でした。
あれ、俺次何すればいいんだっけ?みたいなところは正直あったんですよね。
ここで高木さんは、小橋さんの話し方が「パブリックモード」になっていると指摘します。夜にしか会ったことのない高木さんから見ると、テレビのインタビューを受けているような口調だったからです。小橋さんも「万博モードに入った」と認め、ここから対話はカジュアルな本音へと移っていきます。
イベント未経験者ばかりの万博チームで何が起きていたのか
万博の運営チームは、構造上、さまざまな企業や行政からの出向者で組成されます。小橋さんが率いた催事チーム、いわばイベント部にも、銀行や行政、旅行会社などから人が集まりました。
ストレートに言うと、(万博の催事チームには)イベントに携わったことない人たちがほぼ全員集まってくるんですよ。
世の中は万博に「未来を見せるもの」を期待しています。しかし現実には、足元での地道な調整や交渉に長い時間がかかりました。小橋さんが先の未来を見据えたぶっ飛んだアイデアを出すと、チームの空気が「怪しいな」という方向に傾いたといいます。
僕がただもうなんか狂って絵空事言ってるんじゃないかみたいな、もうその空気を感じちゃうから、なんかこう(アイデアを)出してはちょっと引っ込めるみたいな。
行政の仕事では「嫌われてもいい」と突破していくタイプだという高木さんに対し、小橋さんは自分を「意外といい人なのかもしれない」と表現します。一人一人の感情が繊細に汲み取れてしまうため、無視して突っ走る気持ちと、チームだからという気持ちが半々だったそうです。
小橋さんには、万博に携わると決めたときの思いもありました。クリエイティブを通じて「本当の自分で生きられる気づき」を届けたい相手は、来場者だけでいいのか、と考えたのです。
出向っていうことは自分の会社から数年離れるわけですよね。戻ったらその自分の席があるかどうかわかんない。その覚悟で皆さん来てるわけだから。
ただ、大きなイベントほど制作期間は長く、地味な調整が延々と続きます。一歩進んで三歩下がるようなやり取りの中で、当時のアシスタントが「万博はもういいです」という状態になった時期もあったと小橋さんは明かしています。
高木さんは、オリパラ後の事情もあり、全体を仕切る「ブルドーザー的な役割」がいなかったことを指摘しました。小橋さんも、その調整役をある種求められていたと認めています。
数ヶ月前のオファーで挑んだパラリンピック閉会式
高木さんは、東京パラリンピックと万博という大きな国家イベントを2つ経験した先輩として、ブレイクスルーの具体的な場面を尋ねます。小橋さんによれば、パラリンピックのオファーが来たのは本番の数ヶ月前でした。
2020年に準備された企画は、実行直前で1年延期になっていました。作ったものを倉庫に置いておくだけでもコストがかかり、無観客になってスポンサーが追加でお金を出すわけでもないため、同じプランをそのまま実行することはできなかったといいます。
世界放送の中では、1年延期したことによって時間もコストもありませんでしたって言い訳言えないじゃないですか。だからもうあるがまま、そのまま見せられるっていうプレッシャーはものすごいあって。
小橋さんは3、4ヶ月の間に、自分で集めたわけではない1000人以上のチームを率いることになりました。直前には多くの関係者が「地雷」を踏んで退いており、首の皮一枚でつながっているような感覚だったと振り返ります。
いきなり戦時中にポンって落とされて、地雷がいっぱいあるのを駆け抜けろって言われてる感じで。
富山出身の高木さんは、閉会式で富山の民謡こきりこ節 ── 富山県五箇山地方に伝わる民謡。日本最古の民謡の一つともいわれ、竹製の楽器「こきりこ」を打ち鳴らして歌われますがモダンにアレンジされていたことに強く心を動かされたといいます。伝統とモダン、バーチャルヒューマンの司会までが重なる奥行きに、ワクワクしたそうです。
「夢を叶えたことがない」俳優とプロデューサーはどう始まったのか
「次何するんですか?」という問いに、小橋さんは仕事の依頼は先々まであるとしつつ、本当に自分は何をやりたいのかがわからないと答えます。その背景には、これまで自分が思い描いた夢を叶えた経験がない、という意外な事実がありました。
(俳優もプロデューサーも)強い夢を持ってビジョンを叶えたみたいに見えるじゃないですか。僕全くそうじゃなくて。まあ言ってみたらハプニングみたいなもんなんですよ。
小橋さんの子ども時代は、超が付くほど貧乏でした。戦時中から残るボロボロの家で、床が抜け、台所にはネズミが這っていたといいます。両親は共働きで、いわゆる鍵っ子でした。
芸能界に入ったきっかけも勘違いでした。高田純次さんが出ていたバラエティ番組の「新レギュラー募集中」を観覧希望と勘違いしてハガキを送ったところ、オーディションの通知が届き、たまたま受かってしまったのです。
イベントの道に入った経緯も、決して順調ではありませんでした。30歳前に俳優を休業して世界中を旅したあと、帰国しても「どうせ俳優さんでしょう」と足元を見られ、仕事も貯金もなくなり、うつのような状態が数ヶ月続いたといいます。
療養のために茅ヶ崎へ引っ越し、ライフセービングのトレーニングをする中で、小橋さんは小さな目標として自分の誕生日パーティーを「もてなす側」で開くことにしました。先輩がお台場のホテルのプールでイベントをしていたため、軽い気持ちで会場を借りたところ、とんでもない請求書が届いたそうです。
「その金額に見合う中身にすればいい」と周囲に助言され、ロゴを作り、かっぱ橋で装飾を買い揃えました。そこから仲間とノウハウが生まれ、100人、200人の箱を経て、300人の箱に1000人が並ぶまでに成長し、企業からイベントを依頼されるようになりました。
上の流れは、小橋さんが「ハプニング」と呼ぶ転機を時系列で整理したものです。小橋さんにとってイベントは目的ではなく、みんなに感謝し、笑顔を見て、出会いや気づきを生むためのツールでした。だからこそ、イベントプロデューサーという職業そのものを生涯続けたいわけではないと話します。
47歳になり、50歳が見えてきた小橋さんは、ULTRAやSTAR ISLAND、パラリンピックのようにアクセルを踏めば踏める気はするものの、どこにアクセルを踏めばいいかわからず悶々としていると打ち明けました。
万博の4年間で、なぜ「次」は見つからなかったのか
小橋さんは、万博をやっている間に「次はこれだ」というものが自然に見つかると漠然と思っていました。しかし意外にも見つからなかったといいます。
見つかってるのかもしれないんですよ。ただ、自分が若かりし頃にあった情熱とか、そういうものをもしかしたら追いかけて気づいてないだけかもしれなくて。
小橋さんは、人はギリギリだったからこそ燃えられる面があると話します。いろんな景色が見えてしまった今は、昔必死だった山すら苦しいと思わず、必死になれないのだといいます。
全てを捨ててゼロからやり直す道も考えたそうです。けれど小橋さんは、それも「誰かの教科書に書いてあったことをなぞってるようでしかない」と感じ、違うと思っていると話しました。
国家プロジェクトの座席に座ると、なぜ「お行儀よく」なるのか
高木さんは小橋さんに2つの問いを投げかけます。1つは、多くの人が狙う国家プロジェクトの座席に、なぜ小橋さんが座れたのか。もう1つは、その座席に座ると政治に近くなりすぎ、調整や全体最適をやる側になって、ULTRAを作った頃とは視界が違うのではないか、という問いでした。
小橋さんは後者の問いに「ドキッとした」と答えます。民間で右も左もわからずにがむしゃらだった頃は、ルールを知らないからこそ突っ切れたといいます。
自分の中でやっぱどっかお行儀が良くなってきてるなっていう、そこに多分自分のつまんなさみたいなものが今あるのかなっていう。賢くなってきちゃってるんですよね。
高木さんのイメージでは、小橋さんは日本人でいち早くバーニングマン ── アメリカ・ネバダ州の砂漠で毎年開かれる大規模なイベント。参加者が自ら街をつくり、アートや表現を持ち寄る文化で知られますに行き、その狂気性をULTRAなどで日本に持ち込んだ人でした。だからこそ、万博の関係者全員の人生まで気遣う姿勢に驚いたといいます。
俳優時代にも起きていた「つまらなくなる自分」
高木さんの指摘を受けて、小橋さんは俳優時代を思い出します。売れたのは15歳ごろ、KinKi Kidsが出演したドラマ「人間失格」にエキストラのような形で出たのがきっかけでした。そこからファンレターが1日に段ボール2箱届くようになり、世界が急に変わったといいます。
当時の小橋さんは、オーディションで「笑ってください」と言われても「面白くないのになぜ笑わなきゃいけないんですか」と返すほど生意気でした。ほとんど受からない中、100回に1回「お前おもろいな」と言ってくれる監督に岩井俊二監督がいたそうです。
ピアスに茶髪、ボロボロのジーンズにレアなスニーカーという姿でオーディションに現れる小橋さんは、劇団出身の子どもたちとはまったく違う存在でした。しかし人から見られるようになるにつれ、お行儀よくなり、つまらなくなっていったといいます。
そのうちそのつまんないって気持ちさえも捨てて、自分の中で不感症のような感じになってった自分って、今めっちゃ(高木さんに)言われてて重なったなと思って。
高木さんはこれを、俳優として起きたことがプロデューサーとして「2周目で起きている」と表現しました。
さらに小橋さんは、10代で不良役が多かったのに、朝ドラ「ちゅらさん」で医者役を演じてから「いい人」の役ばかり来るようになった経験も語ります。バラエティ番組でもいい人を演じるようになり、「一回全部やり直すしかない」と感じたといいます。
異質さで評価されたのに、人目を気にしていい人を演じ、不感症のようになった
ルール度外視で突破していたのに、国家プロジェクトを経てお行儀よく、賢くなった
「究極的な個性の消滅」という指摘にどう向き合ったか
高木さんは、小橋さんが人の感情や状況を敏感に読めるからこそ、イベントも俳優も人を感動させることもできたのだと話します。そのうえで、今日一番聞きたかったこととして、万博の総括を切り出しました。
小橋さんの返事は「グサッ」の一言でした。高木さんは、万博後の投稿文が「政治家のスピーチと一緒でした」とまで言います。
(そういう指摘は)思ってても多分言われないで、どっか自分の中で薄々気づいてても見ないようにしている本質的なことだと思ってて。
高木さんは、これは実績や評価とは別の話だと強調します。万博は朝ドラや月9のようにみんなが見るものを作り上げた仕事であり、ただ次を考えると、また「いい人の役」をやらなければいけない構図になってしまうというのです。
小橋さんは、選ばれた理由について、全体最適にうまくフィットしようとしていたからかもしれないと振り返ります。それは全体としては良かったかもしれないものの、自分の人生にとって良かったかは別の話だと話しました。
本当の自分で生きれるためのきっかけ作りの一つとして、自分は何かコンテンツや体験を提供してると思ってるんですよね。その僕が自分らしくないっていう。
インド3ヶ月の旅に見る、失われた「狂気」
自分らしさを問われた小橋さんは、後先考えずに貪欲にいろんなものを取り入れていたことが自分の良さだったと答えます。その象徴が、ULTRAの3年目ごろのエピソードでした。
すごいいろんなお仕事バンバン来てたのに、それ全部蹴ってバックパックでインド3ヶ月行っちゃったんですよ。
会社を作ろうとしていた時期で、当時はオンラインで仕事を進める環境もなく、数千万円単位の仕事が吹き飛ぶ状況でした。それでも行ってしまう呑気さ、あるいは狂気が、今の自分からはなくなってきていると小橋さんは話します。
さらに、万博の4年間は「次」を見ないと決めていたため、仮にチャンスがあっても見過ごす癖がついたといいます。万博が終わっても、万博の看板を背負い続けている感覚があるそうです。
万博のプロデューサーだった自分がこんなことをしていいんだろうかみたいな。こんなSNSの投稿していいんだろうかみたいな。
近しい人からは、酔った勢いで「あんたの投稿つまんない」と言われることもあるそうです。箕輪さんや高木さんのような人を羨ましいと話しつつ、小橋さんは「羨ましいと思ってる時点で、本当は自分にそういうところがある」と気づきます。
かつては、日本のダンス人口が1万人ほどと言われる中で何万人ものフェスをやると決め、狂気の沙汰だと言われても成し遂げると思っていました。今は、社会や国が求めるものをどう成立させるかの側に回ってしまったといいます。
小橋さんは、国家規模の仕事を終えると逆に仕事の依頼が減る現象にも触れます。「小橋さんはああいうレベルしかやらない」と勝手に忖度され、来るのはアドバイザーや先生のような仕事ばかりになるため、自分で作っていくしかないと話しました。
前代未聞のSTAR ISLANDは、どうやって成功したのか
高木さんは、俳優からプロデューサーへのキャリアチェンジを成功させたこと自体が特異だと指摘し、なぜそれができたのかを尋ねます。小橋さんは、自分はアーティストではないと答えました。
大勢の人たちにやっぱり知ってもらいたい、気づいてもらいたい、感じてもらいたいっていうのがあって。やるなら大きくやりたいみたいなっていう感覚がすごくあって。
ULTRAは世界で成功しているモデルを、エイベックスと一緒に日本へ持ち込んだものでした。一方のSTAR ISLANDは、誰もやったことのないオリジナル企画です。花火大会という既存の文化に、ストーリーやテクノロジーなど「やらなくていいこと」を全部くっつけ、当時あり得なかった全席有料席に挑戦しました。
小橋さんは、自分はスタートアップの経営者のように優秀でもエリートでもなく、ストリートスマートだと話します。自分の匂いとして次に行けるのはこれしかない、失敗したら死ぬ、という覚悟で飛び込んだといいます。
1ヶ月前
1万5000席のうち3000枚しか売れていない
1週間前
販売はまだ大きく動かず、当日の降水確率は80%
自分を信じる
作りたいと思ったときの感覚に戻り、ビラ配りやポスティングまで何でもやる
2日前
テレビの取材依頼が突然入り、ソールドアウトに
上の図は、小橋さんが「本当に奇跡みたいなこと」と語る初年度の流れです。運転しながらハンドルを殴り、「自分を信じろ」と言い聞かせたといいます。
言葉では絶対と言えない、でも感覚としては絶対と言える何かみたいな。
「人生は変えられる」を証明する、第三の人生へ
高木さんは、若い頃と違って今は手札が増え、自分を追い込むのが難しいと整理します。かといって、ここまで来て急にアンダーグラウンドに戻るのも違和感があるといいます。そこで高木さんは、小橋さんの人生に別の見方を提示しました。
貧乏な鍵っ子から俳優になり、俳優からプロデューサーになった小橋さんが、もう一度人生を変えれば、それはわがままではなく人生を通じたメッセージになる、というのが高木さんの見立てです。伊能忠敬やカーネル・サンダースのように、何歳からでも挑戦できるという勇気にもなり得ると話します。
そう、なんとなくもう一回やりたいんですよ。今めっちゃ鳥肌が立って。鳥肌は嘘つかないっていう。
小橋さんは、俳優として映画に出て、映画監督として映画も作った経験に触れます。政治で何かを変えたいとは思わないものの、一冊の本や一本の映画で人生が変わるとまだ信じており、自分の生き様そのものがそうなれたらいいと語りました。
一方で、ビジネスとして成立させる必要もあります。求められるものだけをやり続けると、ゼロから作る感覚が鈍っていくというのが小橋さんの悩みでした。
イベントや催事のプロデュースなど、パブリックな案件を社会への恩返しとして引き受ける
小橋賢児個人としての表現とチャレンジを、俳優から転身したときのように切り替えて行う
高木さんは、この2つを無理につなげると「万博の次がこれなんだ」というノイズが生まれ、新しい挑戦を邪魔すると指摘します。小橋さんも、自分の中で2つをくっつけてしまい、ずっと万博の影があったと認めました。
行政の仕事でも緑色の髪のままで臨む高木さんは、スタンスを失うと苦しくなるため、大企業やエスタブリッシュな仕事は「できない」と決めていると話します。反骨心を持ち、世の中の価値観をひっくり返したいという軸だけは守っているそうです。
小さな橋をかける。感性の分断をつなぐ場づくり
話は小橋さんがやりたいことへと移ります。AIが多くを代替し、人に時間ができる「ネオルネッサンス期」には、美しいと思えるアート的な感覚や、他者や未来を思える利他的な感性が大切になると小橋さんは考えています。
日本人は本来その感性を持っていたはずだと小橋さんは話します。それでも、高度成長期などを経て忘れてしまった面があり、NIGOさんや藤原ヒロシさんが世界で活躍していることを知らない経営者もいるといいます。
じゃあITの人たちとかスタートアップの人たちはみんな同じような場所で飲んでる。じゃあ例えば原宿とか渋谷に行くと、僕はファッションのストリートアンダーグラウンドの人たちと一緒に飲んでる。全然つながってないんですよね。
文化と経済が融合してこそ国のアイデンティティになる、と考える小橋さんは、ある時、自分の名前に意味を見出しました。
小橋の橋は小さい橋だなと。小さい橋をかける。
誕生日パーティーも大きなイベントも、結局はさまざまな人の間に橋をかけてきた、と小橋さんは振り返ります。感性の分野に橋がかかっていないことが今の日本の課題であり、そこをかける場を生み出したいと語りました。
東京の本質はカオスだったのではないか
高木さんは、東京の価値の本質は「カオス」だと考えています。時間が資産として積み重なる京都と違い、東京はスクラップ・アンド・ビルドを繰り返し、食も文化も入り乱れた街です。社会全体が綺麗になっていく中で、一番損をするのは東京ではないかと高木さんは話します。
さまざまな価値観をミックスすれば、一時的にカオスになります。高木さんは、それがオンラインでは炎上になるものの、オフラインなら交流や社交になり、新しい文化が生まれる起点になり得ると考えています。
最も東京でカオスを象徴する、東京のカオスらしさっていうものを象徴する場を小橋さんにやってほしいなっていう。
小橋さんは即座に「それやりたい」と応じました。東京出身の小橋さんは、東京のイメージは8割以上が東京以外から来た人たちによって作られてきたと話し、都市開発が進むと文化が失われていく面にも触れます。
高木さんは、熊本で竹あかりの祭りを作る共通の友人・チカオさんの言葉も紹介しました。竹は撤去され灯りも消えるものの、その日見た街の景色は、残りの364日の情景を変えるという考え方です。
小橋さんも、お台場でイベントを作ってきた中で、帰り道に同じ景色が違って見えることこそ醍醐味だと共感します。高木さんはこれを受け、建築のように「残るもの」を作るより、カオティックな祭りやイベントをあえて街にインストールすることこそ究極の街づくりではないか、と提案しました。
街ごとに分断された今の東京に失われたもの
小橋さんは、今の東京は街ごとのアイデンティティが固まりすぎていると話します。再開発した渋谷は渋谷っぽく、原宿は可愛い原宿っぽく、秋葉原は秋葉原っぽくなり、昔のように境界線がないほどのカオスは消えてしまったといいます。
街の境界線がないほど混ざり合い、職業やジャンルを超えて人が交わる場所があった
デベロッパーが用途ごとに最適化し、IT系、大企業、飲み屋街など街ごとに分断されている
高木さんは、昔のカオスが結果的にできたのか誰かが仕掛けたのかはわからないものの、今は仕掛ける人が減っていると見ています。小橋さんは、カオティックな場は時に居心地が良くないかもしれないけれど、その先に新たな景色があると話しました。
いろんなジャンルの人たちと繋がってるからこそ、その景色(東京に足りない場)はちょっと見えるんですよ。
高木さんはすかさず「それがビジョンじゃないですか」と返します。国家や行政主導では避けられないリスクヘッジを超え、誰かの内発的な情熱に企業や資金が集まるものしか、AIの時代には価値がなくなると高木さんは考えています。
調整の和から、超える和「超和」へ
小橋さんの考えるカオスの先には、日本人の誇りと感性を取り戻すという目的があります。高木さんは、閉会式のこきりこ節やSTAR ISLANDの花火のように、伝統文化を外の目線から再解釈する表現は、よくわからない人も居られる許容度を高めると話しました。
小橋さんは、日本の「和」は調和の和であり、日本の思想にある結び ── 日本の神道などに見られる考え方で、異なるものが結びつくことで新たなものが生まれるとする思想。「産霊(むすひ)」とも書かれますのように、相反するものを結ぶ力が日本人の強みだと語ります。パラリンピック開会式にも裏テーマとして入れていたそうです。
これに対して高木さんは、小橋さんの場合は調整の和ではなく「超える和」だと言い換えます。
驚くことに、小橋さんがパラリンピックに携わった際、言語化される前のコンセプトは「超和」だったといいます。世の中には出ていない言葉で、高木さんも知らなかったため、二人は「シンクロした」と盛り上がりました。
高木さんは、ビジョンは「未来は過去の再編集」だと話します。小橋さんのいろんな人生が回収されて、次のテーマが見えてきたという瞬間でした。小橋さんは、普段のトークセッションでは自分が感動させる側なのに、今日はずっと鳥肌が立ちっぱなしだと語っています。
ウルトラを日本に持ってきた本当の情熱とは
高木さんは、地方のお祭りで事故が起きるとSNSで批判が集まる現状に触れます。その裏には、熱中できるものが欲しい、またはそんなものがあるなんて信じられない、という緩やかな閉塞感があるのではないかと考えています。
小橋さんはこの話から、ULTRAを日本に持ってきた原点を語り始めます。韓国のULTRAの立ち上げに携わった際、10万人のオリンピックスタジアムで熱狂する人の8割ほどが、クラブに行ったこともない人たちだったといいます。
当時はYouTubeで海外のフェスの映像が1億回再生されていた時代でした。日本の若者はすごいと言いながら、コメント欄では「どうせ日本でこんなの起きない」と口を揃えていたそうです。
自分が想像してなかった世界が東京のど真ん中で起きたら、えっ、俺の時代でもこんなことが起きるんだ。
結果として、ULTRAを介して1万人以上が世界中のフェスへ旅に出たといいます。10年経った今、「あの時に映像や音楽を始めた」という人が小橋さんのもとを訪れるそうです。小橋さんは「なんかそういうことをもう一回やりたいですね」と語りました。
高木さんは、最初の万博の話のときより顔が生き生きしていて熱が違うと指摘します。経済ではなく文化だからこそ、街の景色が変わり、自分も変われると身体的に知ることができるのではないか、と二人は話し合いました。
コンフォートゾーンを抜け出すのは体の違和感から
高木さんは、小橋さんが燃え尽きたまま「お偉い先生」のような仕事に向かうことを心配していたと明かします。小橋さんも、今日がなければそちらへ行っていたかもしれないと応じました。
話は再び東京へ戻ります。小橋さんは、今は地方で実験したものを東京が取り入れる形になっているが、東京のカオスから生まれた突出したものが地方の憧れになり、スタンダードになる流れをもう一度起こしたいと話します。
小橋さんはその例として、DCブランドブームとバブル崩壊後、地価の下がった裏原宿で20歳そこそこの若者がTシャツ屋を開き、今ではLVMHが欲しがる人材になっていることを挙げました。高木さんは、東京は「ちゃんとする街」になってしまったと表現します。
ヒット曲だけを歌い続けるように、過去の成功と同じものを求められ続けるのが、何かを成した人の悩みだと高木さんは話します。小橋さんは「人ってこう変わるんだが見えた1時間半」と、この対話を締めくくりました。
まとめ
大阪・関西万博をやり切った小橋賢児さんは、対話を通じて、燃え尽きの正体が「お行儀よく賢くなった自分」にあると気づきました。そして、人生は何度でも変えられることを自ら証明しながら、分断された東京にカオスと「超和」の場をつくるという次のビジョンにたどり着いています。
- 万博で感じた燃え尽きの背景には、全体最適に合わせる中で個性が薄れていった感覚がありました
- 俳優時代にも、異質さで評価されたのに「いい人」を演じて不感症になった経験があり、同じ構造が2周目で起きていました
- 高木新平さんは、小橋さんの人生を「人生は変えられる」ことを証明し続けたものと捉え直しました
- パブリックな仕事と個人の挑戦を分ける「両利き」が、万博の影から抜け出す鍵として示されました
- 東京に必要なのは、ジャンルを超えて人が交わるカオスの場であり、それが小橋さんの「超和」というテーマにつながりました





