発表資料が進まない理由
この回は、8月頭にイベントが6つ続く週を前に、発表資料を作りながら考えたことを話す内容です。
収録時点で発表資料はまだ白紙。なぜこんなに苦しんでいるのかを考えると、自分のやりたいことが世間一般の高校国語のスタンダードからずれてきているのではないか、という気づきに行き着いたと話されています。
講演は聞きに来た人の期待に応える場でもあります。好き勝手ばかり話してもいけない。そう思うと、なかなか手が動かないのだそうです。
今回の発表に向けて、なんでこんなに苦しんでるんだろうなというのを考えると、自分のやりたいことが世間一般の高校の国語のスタンダード、期待されていることからだいぶずれてきてるんじゃないかなという気がするからなんですよね。
原点にある「自分のことは自分で決める」授業
小難しい理屈を全部差し引いて言うなら、笠原さんがやりたいのは「自分のことは自分で決める」ことができる授業です。
この考え方の根本は、大学時代に出会ったエドビジョン型のPBLにあると話されています。自分たちで決めて、自分たちで学びを評価してもらうような学び方を実現したいのだそうです。
ただしPBLは、学校そのものが動かないと本質的には実現できないと考えているそうです。だから学校全体に急に入れることは諦め、教科教育の中でどれだけ裁量を子どもに渡せるかが、今の挑戦になっていると話されています。
裁量を渡す授業は、なぜ実践報告にしづらいのか
この挑戦を実践報告としてまとめるのが厄介だと言います。
実践発表は、聞いた人が自分の学校に持ち帰れる形で渡すのが礼儀だと考えているそうです。明日から使えるアイデアや、単元の流れの詳細な資料などです。
けれど笠原さんがやっているのは「裁量を渡す」こと。渡す先の子どもが違えば、出てくるものが全部違ってしまいます。そのためスライドにすると、抽象的な話か、自分のクラスの自慢話にしかならないのが悩みだと話されています。
一応、抽象化した理屈としては「責任の移行モデル」を意識しながら授業を作っているそうです。
笠原さんの授業は、3つ目の共同的な学習までは届いている感触があるそうです。仲間と一緒に読んで書いて、お互いに読み合って直す、といったことはできるようになってきたと話されています。
一方で、第4段階の独立した学習にはなかなか届かない。理由の一つは時間の壁で、3年間かけてやっと3段階目が安定するくらいの時間感覚だと言います。
もう一つは、3年生の後半は受験の日程が全部を持っていくこと。一番いろいろなことを独立してやれる力がついた時期には、もう学校の授業どころではなくなっている、という高校のカリキュラム構造の難しさがあると話されています。
再現性のなさと、成績向上への興味の薄さ
年間の指導計画はあるものの、その場その場の子どもの反応や興味関心を見て、思いっきり方向転換してしまうのだそうです。だから再現性がないと言われれば、その通りだと話されています。
方向転換の具体例として、教科書の評論を読ませ、生徒が書いてきたものを見たら、想定と全然違うところに全員が引っかかっていた、というケースが挙げられました。そのときは単元の予定を捨てて、そこを深掘りする方向に変えてしまうそうです。
逆に思ったより手応えがあれば、各単元を前倒しにすることもよくあると言います。目の前の子どもの反応が、設計より上に来てしまうのだそうです。
この10年以上、同じコースを他の先生と連携して持ったことがなく、コースを丸抱えで教えている状況だと話されています。私立ならではの事情ですが、横と組んでいてもやり方は変えないだろう、とも語られました。
その理由は、経験的に、やり方を変えても定期テストや模試の点数は変わらないから。むしろ点数は、授業規律で縛って無理やりやらせた方が出やすいと言います。ただ、そこに興味を持てないのだそうです。
一斉授業で知識を面白く伝えれば、それで知識が定着してパフォーマンスが向上するというのは気のせいだと思ってます。授業者が自分が授業をやったら成績が上がったって思いたいだけだっていう風に、自戒を込めてそうやって思っています。
一斉授業でできるのは、おそらくモチベーションアップと勉強の仕方の伝達だけ。かつて「一斉授業でしか伝えられない熱量がある」と話したのは点数の話ではなく、熱量の話だと補足されています。
大学入試や知識・教養を教えることにあまり興味を持てず、授業でそこに時間を割きたいと思えないのだそうです。それよりは、生徒自身がやりたいことを決め、成果として仕上げられるようになってほしいと話されています。
ただ現実は甘くなく、教科書の題材を上から与えたり、「あなたはどう思うの?」と強引に引っ張って付き合わせたりと、力技の連続が実情だとも語られました。
こうした話をすると、研修の話し合いはなかなか進まないそうです。一斉授業や狭い意味での成績向上に興味がないと言うと、会話が終わってしまう感覚があると話されています。
生成AIの授業は、なぜ「主役」にしづらいのか
最近くる依頼の多くは生成AI関係だと言います。2023年から生徒と授業で使っていたため最先端のイメージを持たれがちですが、そんなことはないと話されています。
活用のノウハウの蓄積はあり、Google for Education認定トレーナーとして研修ができる程度の準備はしている。それでも「最先端」「専門家」と言われると困ってしまうのだそうです。
自分にできることとできないことははっきり断るようにしていると話されています。組織コンサルや、バリバリのプログラミング・データサイエンスなどは自分の専門ではないと明言するそうです。
一方で、国語の授業の中のAI活用についても、実はしっくりきていない場合が多いと言います。生徒が日常的にAIを使うことは当たり前になっているのに、「AIを使った単元を発表してください」と言われると困るのだそうです。
本当の意味でAIが威力を発揮しているのは、日常の何気ない活用だと話されています。話し合いで気になったことをAIで確認して裏取りをしたり、自分の書いた文章を読ませてツッコミを受けて修正したりする使い方です。
要するに生徒が自分の考えを進めたい時に、手に届くところに道具としてAIがもうすでに機能しているっていう状態になっているってことなんです。だから、これはまあなかなか単元にはならないですよね。
そのため、AIを主役にする授業設計はあまり得意ではないと語られています。依頼があれば研究授業や提案授業は作れるが、日常的に続く中の授業はどうしても泥臭く、派手にはならないのだそうです。
見学に来ても「え、それだけなんですか?」と言われるだろう、とも話されています。AIのためにAIの授業をやるのは自分でなくてもいいかもしれない。やらなければとは思うが、今ではない、という感覚だと語られました。
「もう楽しければよくない?」という着地点
では何がしたいのか。今思っているのは「もう楽しければよくない?」ということだと話されています。
ただし、活動あって学びなしでは困ります。学校の授業やイベントでポケモンをやってもしょうがない。ここで言う「楽しい」は何でもありではないと念を押されています。
以前、子どもが楽しいと感じることと成長は必ずしも一致しない、という話をしたことにも触れられました。ここで言う楽しいとは、国語にしっかり向き合った先に出てくるもの。読んで書いて、話して聞いて表現していたら夢中になってしまった、という状態を指すそうです。
表現することは、子どもの頃は楽しかったはずなのに、年齢を重ねるほど嫌になっていく。小学校では国語が好きな児童が多いのに、高校では国語嫌いと答える割合が増えるのと同じ問題だと考えていると話されています。
小さい子は聞かれなくても喋り続け、絵も描き、放っておいても何か作って楽しむ。それが高校生になると「間違ったら嫌なので」となってしまう。どこかで表現は評価されるものだと、嫌な形で学習してしまっているのだそうです。
どこかで表現は評価されるものだと学習してしまってるんですよ、嫌な形で。それを教えてるのは、まあうん、学校ですよね。事業者ですよね、自分も含めて。
社会の中で自分の言葉を届けられるという自信は、必ずその子の人生を支えてくれると考えているそうです。言葉が届いたという経験は、点数とは別のところに自信として残ると話されています。
だからシンプルに、夢中になって楽しくなるような授業を本当は実現したい。その工夫についていろいろな人に話してみたい。ただ、学習指導要領がある以上すべてを生徒に任せるのは難しく、理念的な話は空中戦になりやすいため、発表では伝えづらい、と締めくくられています。
まとめ
発表資料づくりを入り口に、自分の授業観が高校国語のスタンダードから外れていく自覚を率直に言語化した回でした。裁量を渡す授業、成績向上への興味の薄さ、AIを主役にしづらい理由をたどり、最後は「楽しければよくない?」という原点に着地しています。
- やりたいのは「自分のことは自分で決める」授業で、教科の中で子どもにどれだけ裁量を渡せるかが今の挑戦
- 責任の移行モデルでは共同的な学習まで届くが、時間の壁と受験日程で独立した学習には届きにくい
- その場の子どもの反応で方向転換するため再現性がなく、実践報告としてまとめにくい
- 一斉授業でできるのはモチベーションアップと勉強の仕方の伝達で、成績向上そのものには興味が持てない
- AIが威力を発揮するのは日常の何気ない活用で、AIを主役にした派手な授業設計は得意ではない
