代官山カルチャーで育った少年時代
番組にはsioの鳥羽周作さんがゲストとして登場します。まずは、二人がテーマにしているカルチャーとレストランの交差点から話が始まります。
鳥羽さんがレストランを独立して始めたのは37歳。修業を始めたのも32歳ごろと、料理の世界に入ったのは遅かったといいます。
それ以前は、学校の先生やサッカー選手の練習生をしていました。一方でカルチャーへの目覚めはかなり早く、中学1年生の頃には代官山のA.P.C.フランス発のファッションブランド。シンプルで上質なデザインで知られ、90年代から日本でも人気を集めた。に通っていたそうです。
もう中一の時にはA.P.C.の代官山行ってましたからね。当時店員の人がロン毛でめっちゃ感じ悪くて、奥の変な布みたいなとこが試着室になってるんですけど、中一で行って、もうプレッシャーに負けて試着室から三十分声かけられながら出てこなかったっていう。
埼玉出身の鳥羽さんがこうした世界に入ったきっかけは、お姉さんの影響でした。パタゴニアのシンチラが流行っていた時代に、その入り口を作ってもらったといいます。
姉貴がめちゃくちゃ当時ラブラドールリトリバー、パタゴニアのシンチラとかが流行ってた時の、なんか姉貴のおかげでそうなって。
好きを一度断ち切った修業時代
学校の先生を辞めた後、鳥羽さんは代官山のカフェで働き始めます。ディエゴマラドーナ好きのオーナーが営むカフェで、給料日には給料袋ごと持って、近くのTOKISHIRAZU代官山にあった伝説的なセレクトショップ。当時2〜3坪ほどの小さな店で、服好きの間で知られていた。で買い物をしていたそうです。
当時、種市さんはビームスの吉田カバンのプロジェクトで代官山にいた頃。同じ時期に友人の一ノ瀬さんがTOKISHIRAZUを作っていて、二人の記憶がリンクします。
原宿から代官山のお店に行く途中、歩いて行く途中に俺はTOKISHIRAZUでサボってた。
大好きだった服から、鳥羽さんは一度距離を置きます。料理でナメられたくないという思いから、31歳ごろにレストランへ移りました。
本格的にレストランで働き始めた27歳ごろからは、7年間ほど誰とも会わず、服も買わない生活を送ったといいます。
金もなかったし忙しかったから、服買えないから会いたくないじゃないですか、友達みんな買ってんのに。だからもうそこは地下に潜りつつ。相当やばかったっすよ。
実家を担保に始めた独立と、混沌の初日
7年ほどの修業を経て、鳥羽さんは修業先の店を買い取り、上原にオープンします。資金は、父親と渋谷の雑居ビルに行き、実家を担保に1000万円ほど借りて用意しました。
親父となんか渋谷の雑居ビル行って、実家を担保に一千万ぐらい借りて。こういう感じでお金借りて大丈夫なのかと思ってドキドキしながら始めて。だから最初親父が皿洗いとかしてましたもん。
オープン初日は前日に椅子が届くほどギリギリでした。9時以降をアラカルトにしたところ、常連が食事中に友人たちが大勢入ってきて店が混乱し、翌日にはアラカルトをやめたそうです。
買い取る前の店はすでに人気で、食べログ飲食店の口コミ・評価サイト。当時は点数が集客に大きく影響し、3.6から4.1への上昇は大きな意味を持った。の点数も3.6から4.1ほどに上がり、予約が取れなくなっていました。その勢いのまま、独立1年目でミシュランを獲得します。
クリエイターに刺さる「センス」と「スタンス」
店の戦略として、鳥羽さんはロゴを水野学さんに依頼しました。デザインとは何かを教わり、それを基準にすべてを揃えていったといいます。
当時はニュースピックスなどで経営者が前に出てくる時代。鳥羽さんは、広告代理店やクリエイティブの人たちに向けて「センスがいい」と思われる店を作ろうと最初に決めました。音楽は沖野修也さんに依頼し、その後DJのムロさんに引き継ぎながら、カルチャーを店に取り込んでいきました。
鳥羽さんは、センスをおしゃれとは切り離して捉えています。
だからこそ、鳥羽さんが打ち出したのはスタイルではなくスタンスでした。ヒップホップが流れる店で役所のお偉いさんに音がうるさいと怒られても、「これがうちです」と言い切る。そんな姿勢です。
スタイルっていうよりもスタンスって感じを打ち出したっていうのが良かったと思うんですよね。ファッションなのかカルチャーなのかっていう、そこの違いがあると思うんですよね。
ファッションとカルチャーの違いは、文脈の有無にあると鳥羽さんは言います。
見た目やスタイルはあるが、飯がうまいといった文脈が伴わない
文脈や流れを知っているため、ずっしりと芯があるものになる
憧れだった作り手たちとも、料理が知られるにつれフラットに話せるようになりました。料理のこだわりと、服作りのこだわりが方向として重なっていったといいます。
最終ものづくり好きってやっぱ同じ方向行くじゃないですか。だってみんなダサいの嫌いじゃないですか。
業態を分けて経験値を貯める
現在の鳥羽さんは、sioのほかにすき焼き屋やパスタ店など、業態の違う店を福岡なども含めて手がけています。すべて違うものをやることで経験値を貯め、インプットを増やすのが狙いです。
富士そばとのコラボも進行中で、鳥羽さんは代々木八幡店を強く推します。富士そばは店ごとに別会社が運営しているため自由度が高く、八幡店はそばへのこだわりが特に強いのだそうです。
だからよくわかんない、紅天のってねえじゃんみたいなこともあるんですけど。でもその中でも八幡はもう暖簾に乱切りそばみたいな書いてあんすよ。だからもうちょっとそばへのこだわりが強すぎて、マジで美味しいんすよ。
イタリアンやフレンチのシェフがそばをやることには、業界で理解されない面もあると鳥羽さんは話します。それでも動機はシンプルです。
目の前のものを単純に美味しくしたいんすよ。なんか別になんだっていいんすよ。コンビニだろうがアイスだろうがなんだってよくて。ただ美味しくする人だから。
ロジカルに設計された「感動体験」のコース
一方で、sioのコースには明確な設計図があると鳥羽さんは明かします。感動体験を作るために、打順のように出す順番が決まっているのです。
鍵になるのが「ドラマチックカーブ」という考え方です。かつてのsioでは、最初にあえて薄いスープを出していたといいます。
一番最初にめっちゃ薄いスープ出るんすよ。そこがうますぎちゃダメなんですよ。で、次のスペシャリテの馬肉の真っ赤な皿がめちゃくちゃ美味しく作ると、この下がって上がってる分の差分を作るように、コースに三つぐらいそういうのを入れてるんすよ。
これはまずいものをわざと出すことではありません。鶏の出汁だけを出したり、具のないペペロンチーノを出したりして、次にいい食材を使う。そうやって強弱、つまり差分を作るのだと説明します。
あえて淡く
薄いスープや具のないペペロンチーノなど、あえて控えめな一皿を出す
強い一皿
馬肉のスペシャリテなど、極上の一皿で一気に引き上げる
差分が感動になる
下がってから上がる落差が、体験価値の差分として感動を生む
鳥羽さんはこれを、一度やられたヒーローが修行して敵を倒す映画の構造にたとえます。ジャッキー・チェンのように、最初は弱いからこそ、勝った瞬間が効くという理屈です。
なぜコース料理なのかという点も、再現性の観点から語られます。景色のように出たとこ勝負の感動は再現しづらい。だから寿司屋がコースになったように、体験をこちらでコントロールするのだといいます。
言語化できないと再現性低いから、やっぱ。
さらに「サウナ理論」もあります。デザートで甘さと苦さを組み合わせるのは、その代表例です。
なんかめちゃくちゃ甘いの作ってめちゃくちゃ苦いの入れるっていう。甘さに対して苦味くださいって言った時にありますよっていう。それぐらいの皿の中に必然性を作ることで納得する味になってるみたいな。
ショートケーキの甘いクリームと酸っぱいイチゴ、シフォンケーキとコーヒーも同じ構造だと鳥羽さんは言います。富士山で食べるカップラーメンがうまいのも、ストレスへのご褒美だからだそうです。
店の空間づくりにもこだわりが表れます。上原時代の店は照明が暗く、いい音楽が流れ、スタッフはラルフローレンの大きめのシャツを着ていました。それらは鳥羽さんが下北沢などの古着屋で1着ずつ探して集めたものです。
ホールの人がエプロンしてたりとか、ジャケットとかはダサいなってなった時に、あえてラルフの全部違うやつを古着屋で探しに行って。それでみんな好き好き着てんすよ。で、もう全員足元ニューバランスみたいな。
まとめ
鳥羽周作さんの店づくりは、早熟なカルチャー体験と、それを一度断ち切った修業時代の上に成り立っていました。センスを「最適解を選ぶ能力」と定義し、スタイルではなくスタンスを打ち出す。そして感動体験までロジカルに設計する。その姿勢こそが、クリエイターたちを惹きつける原点だと考えられます。
- 鳥羽さんは中学時代から代官山A.P.C.に通うほど早くカルチャーに触れ、その後料理の世界へ遅くに飛び込んだ
- 修業時代は7年ほど服も買わず友人とも会わず、実家を担保に独立して1年目でミシュランを獲得した
- センスは「その場所での最適解を選ぶ能力」であり、店はスタイルではなくスタンスで作られている
- sioのコースは「ドラマチックカーブ」や「サウナ理論」で、感動体験を再現性高く設計している
