Podcast Weekendに出展して感じたこと
この回はまず、しもちゃんが「Podcast Weekend」に出展した話から始まります。しもちゃんはこの番組とは別に運営しているチャンネルで出展したと話しています。
出展のきっかけは、大きな目標があったわけではなかったようです。しもちゃんは2年前に前回のイベントがあったと振り返り、そのときの気持ちを説明しています。
(2年前に前回があって)その時に、「あ、次あったら出るか」みたいなノリです。
会場は世田谷区で、池尻大橋の近くから歩いて向かったといいます。ファミリー層や地域住民が多い雰囲気の中で、しもちゃんは自分のチャンネルの色との違いを感じたようです。
(会場は)めっちゃそうやったんで、「ああ、俺らここおったらあかんな」って言って。
一方で、実際に聞いてくれているリスナーも来てくれたと話します。ただし本質ラジオの新規リスナーではなく、もう一つのチャンネルを追っている人たちでした。
普通の人これ(を)バーって通り過ぎていくんすけど、大体来てくれる人って、こう体がこっち向いてるんすよ。
来てくれた人と会話もしたものの、内容はあまり覚えていないとしもちゃんは言います。それだけ来てくれたこと自体がうれしかったようです。
(会話は)あんまり内容は覚えてないんですよ。もう来てくれた感動が、もう勝ってて。
その上で、しもちゃんはこのイベントの性質についても冷静に見ています。本当にちゃんと聞いてくれる人と話したいなら、自分たちだけで開いたほうがいいのではないかという見方です。
ほんまにちゃんと聞いてくれてる人と、なんかこう話したいんだったら、自分たちだけで開いた方がいい気はします。
再生数40人と1万人、どちらに意味を感じるか
ここから、この回の本題である「成果と過程」の話に入ります。しもちゃんは会場でいろいろな出展者と再生数の話をしたと言います。
その中で長く続けている人もいて、続けた年数と聞かれている数の関係について考えたようです。しもちゃんは、2つの状態を対比して自分の感覚を語りました。
だらだら10年やってました。でも聞かれてんの一本あたり40人とかですっていう状態と、
5年とかやってて、もう1万人に聞かれてるんですよねって言われてる状態って、後者の方が意味を感じやすいなって思って。
これはあくまでしもちゃん自身の感覚だと本人も断っています。いなけんはこの立場を、少し強めに言い換えて確認しました。
しもちゃんはスケールすることが絶対であり美学だという信念のもと、今は生きているという。
違う違う違う、そんな強く言ってない。誇張しすぎや。
しもちゃんが言いたいのは、やるからには分かりやすい指標が大きいほうがいい、というシンプルな話でした。そこでいなけんは、なぜ後者のほうがいいと思うのかを問い直します。
「誰が言っているか」が重要になる理由
しもちゃんは、後者に意味を感じる理由として「誰が言っているか」の重さを挙げます。情報そのものの価値が下がってきているという前提に立った話です。
誰が言ってるかってめちゃくちゃ重要やなと思ってきて。今なんかすごい情報自体に価値が少なくなってきてるじゃないですか。
その理由として、しもちゃんはAIによって誰でも情報にアクセスできるようになったことを挙げます。いなけんも、知識がコモディティ化しているという見方に同意しました。
しもちゃんは、生き方の正解のように答えが1つに定まらない問いを例に挙げます。AもBも意見がある中で、人は最後に何で選ぶのかという問いです。
いろんな情報あると思うんですよ。(中略)やっぱ何で選ぶかって言ったら、やっぱ誰が言ってるかっていうのがより重要になってくると思うんですよ、こっから。
しもちゃんは、選ぶ基準を「情報そのものの価値」「自分にとってのフィット感」「誰が言っているか」の3つに分けて整理しました。その上で、マクロで見れば情報自体の価値は下がっていると話します。
いなけんは、この話を自分なりに大学に例えて解釈しました。かつては良い大学ほど良い情報にアクセスでき、それが競争優位につながっていたという整理です。
いい大学を目指すっていうのは、つまるところいい情報にアクセスするため、で、いい情報にアクセスできるっていうのが競争優位性が生まれたからっていう話だったと思って。
しかし、その知識がインターネットやAILである程度まで垣根なく手に入るようになった、といなけんは続けます。だからこそ、どの先生から聞くのかという「誰なのか」が価値の源泉になると理解を示しました。
生きた証を残したいという本能と、批判のないコンテンツ
しもちゃんはもう1つの前提として、「自分が生きてきた証を残す」ことが本能に刻まれているのではないか、と話します。特に男性に見られる傾向ではないかという見立てです。
「自分が生きてきた証を残す」っていうのは結構本能に刻まれてる気がしてて。
その例として、しもちゃんは自分の像が建ったら嬉しいだろう、という感覚を挙げます。名前や貢献が世の中に形として残っている状態は、本能的に気持ちいいのではないかという話です。
この2つの前提を重ねると、数字をちゃんと出しているほうが楽しく、気持ちよく、ワクワクする、としもちゃんは結論づけます。いなけんは、それは誰かに見つかる可能性が高まるということかと確認しました。
自分の人生が誰かに見つかる可能性、その人の中で生き続けられるっていう、なんかそんな状態に近づくんじゃないかなと思って。
そこからしもちゃんは、批判のないコンテンツは基本的に面白くないと思う、と自分の考えを述べます。これも本人が「僕はそう考える」と断ったうえでの意見です。
いなけんはこれを、広げるほど不特定多数に見つかり、石を投げられる可能性も上がる、という話として受け止めます。裏を返せば、石を投げられないコンテンツは本当にマスに届いているのか、という問いになります。
石投げられないとマスに届いてるって言わないから、それって価値ある?石投げられてないコンテンツって本当に価値あるんだっけ?
ただしいなけんは、価値がないとまでは言っていないと補足しつつ、毒にも薬にもならないものについては同意すると話しました。
広さを取るか、深さを取るか
話は再び発信のあり方に戻ります。いなけんは、ポッドキャストという媒体で本当に石を投げられる必要があるのか、という疑問を口にします。
その上でいなけんは、旅先で見かける無名の石碑を例に挙げます。教科書に載っていなくても、土着のコミュニティに深く貢献して名を残している人がいる、という話です。
広さじゃなくて深さ取りに行ってるからこそ、その深さベースでめちゃめちゃ名が残ってる人ってさ、いるわけじゃん。
いなけんは、この戦い方のほうが自分には美しく感じると言います。広さを取るのではなく、あるセグメントの深さを取りに行くという考え方です。
広さを取るんじゃなくて、あるセグメントの深さを取りに行くっていうか。
ここで2人は、根本の価値観は近いのに使っている言葉が違う、と気づきます。しもちゃんから見れば、他人の人生に影響を与えて像を作ってもらう状態は、それ自体が成果だといいます。
誰か他人の人生に影響を与えて、その人を動かして、その像とかを作ってもらってる状態、(中略)もう成果でしかなくないですか?
しもちゃんは、届くのは正直1人でいいとしつつ、現実的には1人だけに深く届くことはまず起きない、と確率論で説明します。だからこそ数字が意味を持つという立場です。
現実的に一人の人だけに届いて、その人がめっちゃ変わるなんて、まあありえないじゃないですか。
影響を受けて動く人が増えた状態自体が成果。1人に深く届くのは確率的に難しいので、数字が意味を持つ
まず目の前の1人に刺しにいく。その1人は結果として1人ではなく、同じ人たちが周りにいると信じる
目の前の1人に刺す、というパッション
いなけんは、YouTubeのように歩留まりを逆算してコアなファンにたどり着く考え方は理解できると言います。しかし自分はそこに一撃で行きたい、という美学を語ります。
なんか俺は一撃そこに行きたいなっていう美学があるというか、なんかその逆算じゃなくて。
いなけんは、その「1人」は見えているわけではないと認めます。それでも、隣にいる目の前のあなたに向けることが、結果として刺さると信じている、という思いベースの話です。
俺らの隣にいるあなたです。もう目の前のあなたです。(中略)っていう人に向けることが、結果刺さると思うんだよな。
しもちゃんは、それはやり方の話かと問い返します。いなけんは、これは家業やロジックの話ではなくパッションの話だと言い、今は右脳で喋っていると断りました。
今俺完全に右脳で喋ってます。
しもちゃんは、その姿勢に違和感はないと応じます。プロセスだけにこだわっているわけでもなさそうだと受け止めました。
山頂の見えない山を登る発信観
いなけんは自分の発信観を、山登りに例えて説明します。階段状に右肩上がりで山頂を目指す登り方には、あまり楽しさを感じないと言います。
階段状に右肩上がりで、(中略)山頂目指していく登り方って、俺はなんかそこ楽しくないなとか、なんか今の時代そっちじゃねえなと思っちゃう。
いなけんが挙げるのは、山頂がどこにあるかさえ分からない山に登る感覚です。攻略法の確立した富士山ではなく、未踏の山に登りに行くイメージだと話します。
山頂がどこにあるかさえわかんない山登りに行く感覚というか。
右肩上がりではなく、谷にいったん突っ込むような登り方もあり得る、といなけんは続けます。これが自分のパッション理論だと語りました。
しもちゃんは、その未開の地でやることは結局「地図を作る」ことではないかと応じます。2人の差はフェーズの違いから生まれているのではないか、という見立てです。
未開の地でやっぱり、結局は未開の地の地図を作りたくないですか?やることって多分そうやと思うんですよ。
しもちゃんは、大航海時代に未開の地へ渡った人たちが地図を作っていったことを例に挙げます。わからんことをわかることにする、その繰り返しではないかと表現しました。
わからんことをわかることにする。その繰り返しみたいな気がして。
『Civilization』脱線と、フェーズの違いという着地
ここで話は大きく脱線し、いなけんがシミュレーションゲーム『Civilization』をしもちゃんに勧め始めます。地図のない世界を発見しながら自分の国を作っていくゲームだと説明します。
いなけんは、このゲームでは戦争・宗教・科学など複数の勝ち方があると紹介します。歴史を追体験するようなゲームだと表現しました。
ないところに地図を塗ってくみたいな。
2人は、卑弥呼やクレオパトラ、ガンジーなどの歴史上の人物が登場することや、日本では北条時宗が出てくることで盛り上がります。しもちゃんは最近『信長の野望』をやっていると話し、その世界史版のような位置づけだと確認しました。
ひとしきり脱線したあと、しもちゃんが元の話題に引き戻します。結局この回の結論は、成果と過程をめぐる2人の違いはフェーズの違いにすぎない、という着地でした。
だからフェーズが違うだけの話なんじゃないかなって思ったって話でした。
まとめ
この回は、Podcast Weekendの出展体験から始まり、数字の大きさと届く深さ、そして発信の美学へと話が広がりました。しもちゃんは成果の視点から、いなけんはパッションの視点から語りますが、最後は「見ているフェーズが違うだけ」という着地に落ち着きます。
- 情報がコモディティ化した時代には、内容そのものより「誰が言っているか」が選ばれる基準になる、としもちゃんは話す
- しもちゃんは、生きた証を残す本能や確率論から、数字が大きいことに意味を感じると語る
- いなけんは、広さより深さ、目の前の1人に刺しにいくことを美学とし、山頂の見えない山を登る感覚に例える
- 2人の価値観は根本では近く、成果を見る段階か過程を見る段階かというフェーズの違いだと整理された
- 未踏の地に踏み込むことは、結局「わからないことをわかることにする」地図作りに似ている




