代表発表を「LINEでちらっと見た」だけのしもちゃん
この回は、収録前日に行われたサッカーワールドカップの日本代表メンバー発表を入り口に始まります。仕事をほっぽって会見を生で見たといういなけんに対し、しもちゃんはスポーツにほとんど関心がありません。
昨日仕事をほっぽって、2時からの発表会見、ずっと生で見てました。
いなけんが試しに選出メンバーを尋ねると、しもちゃんの答えは怪しいものでした。ディフェンダーで長友の名前は出たものの、続けて出したのは16年前の南アフリカ大会が最後の闘莉王でした。
お前それ、長友、今大会5大会連続なんだけど、(闘莉王が選ばれたのは)一番最初の南アフリカワールドカップの時だぞ。2010年。
発表そのものも、しもちゃんの耳には友達のLINEグループ越しにしか入っていませんでした。誰が選ばれた落ちたという話題が流れていても、既読で眺めるだけで乗ることはなかったといいます。
友達が話してるのをLINEのグループでちらっと見てたぐらいです。
「嫌い」を経て「凪」へ たどり着いた無関心の正体
いなけんは、対象への態度を「熱烈に好き」「無関心」「めちゃめちゃ嫌い」の3つに大きく分けて、しもちゃんがどこにいるのかを掘ろうとします。しもちゃんは今は無関心だと答えますが、昔は少し嫌いだった時期もあったと明かします。
嫌いだった理由は、サッカー部への反発のような人間関係ではなく、もっと単純なものでした。見たい番組があるのに、テレビの枠がスポーツで埋まってしまうことへのいら立ちだったといいます。
もうテレビの枠が埋まるから。でもやらん。
いなけんは、地上波で野球が長時間流れていた時代を例に、「おもんないのにやってんな」というヘイトの向き方に共感します。そして、嫌いだった時期を経て、今はどうでもいいですらない状態に移っていると整理します。
この「凪」という言葉が、この回全体を貫くキーワードになります。しもちゃんの態度は、嫌いでも好きでもなく、心が波立たない状態だという整理です。
時間がないだけ? それともめんどくさい?
いなけんは無関心の内側をさらに分けようとします。好きになるきっかけがないだけなのか、それとも好きになること自体がめんどくさいのか。きっかけさえあれば動くのかを知りたがります。
しもちゃんの答えは、めんどくさいでも興味がないでもなく、「見る時間がない」でした。わざわざそのために時間を作ろうとはならない、という感覚です。
めんどくさいというかは、なんか見る時間がないっていう状態です。別にその興味ないこともないですし。
いなけんはこれを、推し活をしている人から「アイドルを推してない人生、もったいなくないですか」と言われる状況に置き換えます。自分ならそう言われると少しピキッとするかもしれない、と正直に語ります。
しもちゃんはそこまで反応せず、「好きな人おるよな」ぐらいの受け止めだと返します。さらに、ニートの人から「なんで仕事してるんすか」と聞かれるのと同じだと例えます。
ニートの人も「え、なんで仕事してるんすか」とか、多分一緒なんですよ。
いなけんは、これは結局ベースの価値観が違うということだと結論づけます。幼少期からスポーツに触れて自然と見ることが育まれた人が多い一方で、そうではない価値観の人も一定数いる、という理解です。
メッシもボルトも「すごいな、で?」で終わる
しもちゃんは、そもそも見ても楽しめない理由を審美眼のなさに求めます。どの技術がすごいのかを見分ける目がないので、見ても楽しめないというのです。
そもそもどの技術がすごいのかとか、そこ僕、その審美眼というか、見る目がないんで、見ても楽しめないんですよ。
いなけんは、競技を知らなくても感覚的に「これすげえ」とわかる象徴的なプレーがあるはずだと食い下がります。ダンクシュート、ホールインワン、そしてメッシのようなプレーを例に挙げます。
しもちゃんはそうしたプレーを見て「うわー」となることは認めます。しかし、そこで完結してしまうのが特徴です。感動は「すごいな」の一言で終わり、その先に広がらないのです。
ボルトの世界新記録すら、しもちゃんの心は大きく動きません。いなけんは「人間ってこんな速さで走れるんだ」という沸き立つものがないのだろうと解釈します。
「ああ、めっちゃ速いやん。それ以上あります?」っていう話です。
ボルトと同じベクトルに置かれた「日本刀」
いなけんは、ではスポーツ以外でしもちゃんの心が動く瞬間は何かと尋ねます。返ってきた答えは、この前見に行った日本刀でした。
この前日本刀見に行ったのはめっちゃかっこよかったですね。
いなけんは、大喜利で外した角度を差し込んできたのではと疑いますが、しもちゃんは「結構ガチ」だと否定します。何に感動したかを思い返すと、絵画などのアート作品、そして日本刀だったといいます。
その日本刀は、大阪の立派な美術館ではなく、臨時で建てられたような簡易スペースに置かれていました。有名な武将や鍛冶師の背景があるかどうかも、しもちゃんは把握していません。
しもちゃんにとって、誰が作ったかという文脈は関係ありませんでした。それはすごく左脳的で、感覚とは関係がないという立場です。ライトアップされ、透明ボックスの真ん中にズドンと置かれた刀そのものが、ただかっこよかったのです。
ライトアップされて、刀一本だけが透明ボックスみたいなのに入って、真ん中にズドンって置かれてるんですよ。
人を殺す道具を「美しい」と眺める現代人の滑稽さ
しもちゃんは、日本刀を美しいと言う行為そのものへの違和感も口にします。刀は本来、人を殺すための道具だからです。
刀を美しいって言ってんのってマジで現代人特有やな、と思って。
いなけんもこれに乗り、物騒な事件で使われた凶器が何百年か経って飾られる状況と、日本刀が飾られる状況は、雑にくくれば同じシチュエーションだと指摘します。人は死ぬが、物は朽ちないからです。
その上で、後の時代の自分たちが、殺すための道具を並べて「綺麗やな」と眺めていることの滑稽さを、2人は認め合います。
ただし、しもちゃんが感じたかっこよさは、その滑稽さとは別のベクトルにありました。人を殺めるための武器として洗練し続けた結果、偶発的に美しさを孕んでしまった、という点です。
しもちゃんは、自分もこうした概念としての刀のようなものを死ぬまでに残せたら気持ちいい、とまで語ります。機能を突き詰めた先に美が宿るという構図に、強く惹かれている様子でした。
機能を突き詰めた先の美と、鎌倉時代の到達点
いなけんは、しもちゃんが言う美を「機能美」と呼びますが、しもちゃんはそこに一つ注釈を入れます。作り手は美を追求していたわけではなく、いかに切りやすくするかだけを追っていた、という点です。
機能美は別に追求してないんじゃないですか。もういかに切りやすくするかだけですよね。
つまり、後世の自分たちから見ると機能美に映るだけで、当時は純粋に機能を突き詰めていた、という整理になります。しもちゃんはこれを「歯車が合ってる感」と表現します。
いなけんは、鎌倉時代あたりに作られた刀が、科学的にも超えられない到達点らしいという話を持ち出します。当時の素材と時代性が相まって、今から同じ作り方を真似ても劣化品しか作れないというのです。
いなけんはその「もう二度と最高級のものは作れない」という点をセクシーだと感じます。一方しもちゃんは、現代でただ飾るためだけに日本刀を作ろうとする試み自体が気持ち悪いと返します。
今のこの現世でただただ飾るためだけに日本刀を作ろうとする試み自体が、そっちがちょっと気持ち悪いですけどね。
しもちゃんにとっての引っかかりは、昔が美しいという称賛よりも、目的を失ったまま形だけ作ろうとする現代のアプローチへの違和感の方が強かったのです。
ワールドカップは「戦争の代替」なのか
話はスポーツに戻ります。いなけんは、オリンピックやワールドカップを、戦争ができない時代の戦争の代替手段だと捉えていると語ります。
国という輪郭すら規定しにくい時代に、あえて国旗とユニフォームを与えて国同士が戦う構図を作ると、一体感が生まれる。その設計をいかに健全にするかが芸だ、というのがいなけんの見方です。
そこから、いなけんは自分自身への問いを投げかけます。純粋に楽しんでいる自分と、作られた虚構に乗せられている自分の両面を感じることがある、というのです。
乗せられてるシナリオでもある。純粋に楽しんでる自分と、ある種操作されてる、両面俺は思うことがあるわけよ。
その上で、いなけんはこの回の核心的な問いをしもちゃんにぶつけます。なぜしもちゃんはそのナショナルアイデンティティに踊らされていないのか、という純粋な疑問です。
日韓戦の熱狂にも乗らない、しもちゃんの無我
しもちゃんの答えはシンプルで、面白みを感じていないから、というものでした。面白かったら見る、というだけの理由です。
いなけんは、これは単に競技が面白いかどうかとは別の話だと補足します。日韓戦のように「韓国を倒せ」という文脈が乗ると、スポーツ好きでなくても消費の仕方が一段変わる、というのです。
「韓国に負けるのは許せない」とか「絶対に勝て」みたいなのが乗っかってくるわけよ。これがナショナルアイデンティティ的な消費の仕方だと思うんだけど。
しかし、しもちゃんはそのナショナルな熱狂にも乗りません。「日本が勝つと嬉しい」という感情も、あまりないと認めます。あるとしても「よかったね」「すごいやん」ぐらいだといいます。
いなけんは、その感情の温度は、近所の知り合いが駆けっこで一位を取ったときの「すごいじゃん」と大きく変わらないのではと解釈します。しもちゃんは、それは極端だとしつつも大筋を否定しませんでした。
もっとも、しもちゃんにもサッカーを見ていた時期はあったといいます。高校の頃、周りが見ていたので「とりあえず見とこうかな」と眺め、「すごいすごい」となっていた時期もあったそうです。それでも、ハマりきることはありませんでした。
ハマりきれてないというか、もう全然、まあ興味がないなと思います。
負けても「日本終わった」とは思わない距離感
しもちゃんは、ナショナリズムの話を受けて、負けたからといって日本が終わったとは思わない、と語ります。
いなけんは、実際には一喜一憂する人が大半ではないかと反論し、極端な例を挙げます。南米のある国で、ワールドカップで敗退の一因となった選手が帰国後に射殺された、という事件です。
しもちゃんはこれを「別にあるんじゃないですか」と冷静に受け止めます。国の前提が違えば反応も違う、それはそういう問題だという理解です。
一種目負けたからって、日本人としての尊厳が崩されるっていう人は、別にそういう人だけだって。僕は何も影響されないってだけなんで。
いなけんは、それほど感情が揺さぶられる人が世界にはいる一方で、しもちゃんは無我状態なのだと整理します。ここには、生き方や価値観、ライフスタイルの根本的な違いがあるのだろうと2人は認め合います。
GHQの洗脳? 「作られた熱狂」への違和感
いなけんは半ば冗談めかして、しもちゃんはGHQの洗脳教育に染まっていないのではないか、という陰謀論チックな見立てを持ち出します。
しもちゃんはこれを解釈として面白いと受け止めつつ、話を洗脳そのものより「かけられる言葉の影響力」の方へ広げます。幼少期にかけられた言葉の呪いや魔法は、脱ぐのがとてもしんどい、というのです。
一回かけられた言葉のその呪いというか魔法というか、その力脱ぐのってめっちゃしんどいじゃないですか。幼少期であればあるほど。
しもちゃんはさらに、学年が上がるほど成長するという地続きの前提や、時間の概念そのものも、西洋的な考え方の蔓延の結果として知らず知らず自分に組み込まれているのではと問いかけます。
いなけんはこれに強く同意し、この回の締めくくりとなる整理へたどり着きます。スポーツを純粋に面白いと思う心と、面白いと思わされている側面は、どこかに必ず混在しているのだ、と。
しもちゃんの結論は、あくまで力の抜けたものでした。自分が好きなものだけ見ときゃいい、というのがこの回の一つの着地点です。
結論:森保監督の26人を信じて応援する
番組の恒例として、しもちゃんが「結論としてワールドカップをどうしたらいいか」を尋ねます。いなけんはまず「GHQによって」とオチに走り、しもちゃんに突っ込まれます。
最終的にいなけんが出した答えは、あくまでまっすぐなものでした。森保監督が選んだ26人を信じて応援する、というものです。
森保さんの選んだ26人を信じてね。僕は応援するので。
無関心を掘り、審美眼や機能美、ナショナルアイデンティティまで脱線した末に、いなけん自身はやはり素直な一人のサッカーファンとして着地しました。熱狂を疑いながらも、その熱狂を手放さない姿勢が残ります。
まとめ
熱狂に乗れないしもちゃんと、熱狂を疑いながらも乗るいなけん。2人の温度差から、「その熱狂は本当に自分のものか」を掘り下げた雑談回でした。
- しもちゃんのスポーツへの態度は、嫌いを経て今は心が波立たない「凪」の無関心
- ボルトの世界新記録でも「すごいな、で?」で終わり、日本刀には震えるという審美眼の違い
- 日本刀の美は、機能を突き詰めた結果として偶発的に宿ったものだという見方
- ワールドカップや日韓戦の熱狂は、ナショナルアイデンティティの消費という側面を持つ
- 純粋に面白い心と面白いと思わされている側面は混在しており、自分が好きなものを見ればいいという着地



