「SaaS is Dead」は本当か?──SaaS vs AIエージェント、垂直統合をめぐる領土争い
ぼくらの戦略論の新シリーズ「AI時代の戦略論」がスタート。グロービス・キャピタル・パートナーズ代表パートナーの高宮慎一さんと編集者の長谷川リョーさんが、「SaaS is Dead」という刺激的なフレーズの真偽を掘り下げ、データの出口を握るSaaS側とAIエージェント側の垂直統合バトル、そしてAI時代に残る「人の仕事」について語りました。その内容をまとめます。
「SaaS is Dead」騒動の背景
きっかけは、ClaudeAnthropic社が開発するAIアシスタント。コーディング支援機能が強化され、エンタープライズ向けシステムの構築にも活用される。の新機能リリースでした。Claudeを使えば企業向けのシステムを自社内でサクッと作れてしまう──そんな事例が一気に広まり、「外部のSaaSを契約しなくても、自社でシステムを作ればいいのでは?」という空気が生まれたのです。
影響は株式市場にも即座に波及しました。高宮さんによると、SaaS企業の評価指標であるARRマルチプルARR(Annual Recurring Revenue=年間経常収益)に何倍の倍率をかけて企業価値を算出するかの指標。マルチプルが高いほど市場からの成長期待が大きい。は、バブル期に10〜13倍だったものが近年5〜10倍に落ち着いていたところ、Claudeの新機能リリース一つで3〜5倍にまで急落したといいます。
しかも、この動きはスタートアップ界隈だけの話ではありません。上場株の投資家やVCファンドのLP(出資者)など、メインストリームの金融投資家までもが「SaaS is Dead」の流れに反応し、業界全体が「お通夜」のような雰囲気になっていると高宮さんは語ります。
バズワード的なやつってテック業界だけで盛り上がることが多いんですけど、今回は上場株の投資家まで反応していて、若干お通夜みたいな状況になっちゃってる
SaaS vs AIエージェント──垂直統合の領土争い
では本当にSaaSは「死ぬ」のでしょうか。高宮さんの見立ては明快です。「SaaS is Dead」はAI側からのポジショントークであり、実際にはSaaS側もAI側も同じゴールを見ている──というのがその結論です。
AIエージェントが業務を自律処理するためには、2つの要素が不可欠です。第一に、処理の対象となるデータ(経費情報、売上データ、領収書など)。第二に、そのデータを自動で処理するエージェント。どちらか一方だけでは自律処理は成立しません。つまり、データの出口とエージェントの垂直統合が必須になるのです。
すでにデータベースを保有。その上にAIエージェントを実装して垂直統合を目指す
自律処理エンジンを持つ。データの出口を押さえに行って垂直統合を目指す
現時点でデータベースを抱えているのはSaaS企業です。SaaS企業がAIエージェントを自社サービスに載せれば垂直統合は完成しますし、逆にAIエージェント企業がデータの出口を押さえに行っても結局は同じ形になります。高宮さんはこれを「上から攻める人と下から攻める人の領土争い」と表現しました。
マネーフォワードやfreeeのようなSaaS企業も「甘んじて殺されに行くわけではない」と高宮さんは指摘します。ポチポチと人手で入力していた作業をAIが代行し、例外処理も学習で自動化していけば、SaaS企業自身がAIエージェント企業に変わっていく。「同じ世界を下から登るか、上から降りてくるかの違い」に過ぎないというわけです。
バーティカルSaaSが持つ守りの優位性
SaaSには大きく2種類あります。会計・人事・経理のように業界横断で共通の機能を提供するホリゾンタルSaaSと、建設業の積算システムや福祉の記録管理のように特定業界に特化したバーティカルSaaSです。高宮さんは、この違いがAIに対する「守りやすさ」の差を生むと分析します。
どの業界でもルールが共通。AIエージェントが一度ルールを覚えれば全業界に横展開しやすく、攻められやすい
業界固有のルール・法規制・運用ノウハウが複雑。汎用AIエージェントがゼロから把握しに行くのは困難で、守りやすい
バーティカルSaaSは業界独自の細かいルールに基づいてデータを処理しています。その蓄積されたデータと処理ロジックがあるからこそ、エージェントを学習させやすい。一方、汎用のAIエージェントがゼロからその業界の特殊事情を把握するのはハードルが高いため、「バーティカルSaaSがエージェントを実装する方が垂直統合の早道」だと高宮さんは述べます。
福祉SaaS「かいごのかくし」の実例
長谷川さんは、自身が福祉事業で導入しているSMS(エス・エム・エス)東証プライム上場の医療・福祉領域に特化した情報サービス企業。介護・福祉向けSaaS「カイポケ」などを提供している。の福祉SaaS「かいごのかくし」の体験を共有しました。福祉現場は元来、利用者の日々の記録、定期アセスメント、支援日誌など膨大な書類業務を抱えています。このSaaSはそれらを一元管理し、ペーパーレス化を実現しているそうです。
特に印象的だったのは、SaaSの「裏側」にある人的サポートです。SMSには元々実地指導行政機関が福祉事業所に対して行う監査・指導のこと。法令遵守の状況や運営の適正さを確認するために、抜き打ちで実施されることもある。の対応経験者がCSとして在籍しており、「ここはどうすればいいですか?」という現場の疑問にサクサク答えてくれる。さらに厚労省の法改正にも常にキャッチアップして、SaaS側で自動対応してくれるため、「導入しておけば安心」という信頼感が生まれているといいます。
Claude Codeで同じようなものが作れたとしても、その運用ノウハウの部分は代替が難しいよなと感じてます
高宮さんも「明確にルール化されていない、運用でカバーされている部分のノウハウがちゃんとシステム化されている」点を評価し、これこそがバーティカルSaaSの強みだと指摘しました。もっとも、こうした運用ノウハウもいずれAIが吸収していく可能性はあります。ただ、その時間軸が読めないからこそ、今はSaaS側に分があるという見方です。
AI時代のキーサクセスファクター
AI時代に勝ち残るために大事なのは何か。高宮さんは2つの「端」を押さえることだと語ります。
第一に、データの出口を押さえること。きれいな構造のデータベースを持ち、そこにアクセスできる状態を作ることが基盤になります。第二に、ユーザー側の接点をしっかり持つこと。ユーザーがどういう業務をしたいのか、そのアウトプットとして何に価値があるのかを理解し、それを実現するエージェントを作ることです。
高宮さんは「エージェントを作ること自体はそのうち差別化できなくなる」と予測します。しかし、ユーザーのビジネス要件を正しく理解して目的に沿ったものを作る力──いわば「データ寄り」と「ユーザー寄り」の両端を持っていて、それをつなげられるかどうかが勝負の分かれ目になるのです。
AIエージェントの進化ロードマップ──業務からワークフロー、意思決定へ
AIの普及はどういう順番で進んでいくのか。高宮さんは「定型化度合い」と「付加価値の高さ」という2つの軸で整理します。
定型化しやすくて付加価値が高い領域から順に置き換わっていきます。コーディングがまさにその筆頭で、すでに半分ほどがAIで置き換わっているという統計もあるそうです。一方、他の領域はまだ一桁台にとどまっているとのこと。
では目先の業務が自動化された後、何が起こるのか。高宮さんは「樹形図を上に登っていくイメージ」で説明します。
最終的に人に残るのは意思決定だけだと高宮さんは予測します。なぜなら、意思決定は「例外処理しかない」領域だからです。
この進化がいつ実現するかは不確実ですが、「遠くはないだろう」というのが高宮さんの見立てです。明日かもしれないし、3年後かもしれない。しかし方向性としては確実にそちらへ向かっています。
コンセプトと「Why」は人に残るのか
長谷川さんが興味深い事例を持ち出しました。最近、Claude CodeAnthropic社が提供するAIコーディングツール。ターミナル上でAIがコードを書いてくれるため、非エンジニアでもアプリ開発が可能になると話題に。を使って個人でポーカーアプリを開発することがポーカー界隈で流行しているそうですが、イケてるUI/UXや機能を作っても翌日にはパクられてしまう。その中で今一番遊ばれているのが「深海」というコンセプトのアプリだといいます。
機能で差別化できない時代には、コンセプト勝負になる。まさに「Why」の領域です。高宮さんはポーカーアプリを例に、Whyの違いが生むプロダクトの方向性の差を解説しました。
高宮さんは「Whyを決める意思決定は人に残り続ける」と述べつつも、興味深い示唆を残しました。従来のスタートアップのセオリーでは、「ヒリヒリ感」と「コミュニケーション」のような二兎を追うとリソースが分散してうまくいかないとされてきました。しかしAI時代にはその前提が変わるかもしれない──という含みを持たせたところで、この話題は次回に持ち越しとなりました。
AI時代には二兎を追うのもアリかもしれない、という話もあったりして。まあそれはCMの後で(笑)
まとめ
「SaaS is Dead」はキャッチーなフレーズですが、実態は「SaaS vs AIエージェント」の垂直統合をめぐる領土争いです。データの出口を押さえているSaaS側にも、自律処理能力を持つAIエージェント側にも、それぞれ勝ち筋があります。特にバーティカルSaaSは業界固有のデータとノウハウという壁を持っており、短期的にはAIに対する防御力が高いと言えそうです。
AIの進化は「定型業務 → ワークフロー → ビジネスプロセス全体」と段階的に上がっていき、最終的に人に残るのは「Why」に基づく意思決定だけかもしれません。そしてAI時代には、従来のスタートアップの常識──「二兎を追うな」──さえも覆される可能性がある。その先の議論は次回に続きます。
- 「SaaS is Dead」はAIエージェント側のポジショントーク。実態はSaaS vs AIエージェントの垂直統合をめぐる領土争い
- AIによる自律処理には「データの出口」と「エージェント」の両方が必要で、どちらから攻めても最終形は同じ
- 業界特化のバーティカルSaaSは固有のデータ・ルール・運用ノウハウを持ち、汎用AIに対する防御力が高い
- AI時代のKSFは「綺麗なデータ構造」と「ユーザーのビジネス要件の深い理解」の両端を押さえること
- AIの進化は個別業務→ワークフロー→ビジネスプロセス全体と段階的に進み、最終的に人に残るのは「Why」に基づく意思決定のみ
- AI時代には「二兎を追うな」の常識も変わる可能性がある(次回に続く)
