「アルデンテって何?」から始まった料理人人生
帰国してD&DEPARTMENTでアルバイトを始めた安達さんですが、ニューヨークでやっていたのはカフェの軽食が中心でした。
パスタも肉も本格的にはやっておらず、周囲からは「お前素人じゃん」という空気だったと振り返ります。
アルデンテとかちょっとよくわからないし、ペペロンチーノなんすか、みたいな。どうやって作ればいいのか、乳化とか(パスタに)あるじゃないですか。
転機になったのが、ほぼ同期で入った当時のシェフ・佐藤さん、通称サッさんとの出会いでした。
5歳下ながら料理学校を出てイタリアンで働いてきた彼から、夜遅くまで一緒に働きながら料理を教わっていったといいます。
じゃあペペロンチーノ勝負しようぜみたいな、どっちがうまく作れるかみたいなのをやってみたりとか、そんなことをやりながら教えてもらって覚えていったんですよ。
料理が好きなのではなく「場」を作りたかった
そもそも料理人になりたかったのかと聞かれ、安達さんの答えは意外なものでした。
俺、料理が好きなわけじゃなくて、ただ場を作りたいっていう。それのためには料理できなきゃいけないよねっていうところで料理を始めてるの。
集まる場所を作りたい、その手段として飲食やカフェがあり、そのために料理が必要だった、という順番だったと話します。
大学時代には彼女にオムライスを作ろうとしてうまくいかず、一人でキレて、それが原因で振られたというエピソードも。料理そのものへの愛着とは違う何かがそこにありました。
もう一つのキーワードとして安達さんが挙げたのが「モテたい」でした。
一つキーワードになるのがモテたいんすよ、俺。カメラとか写真も当時流行ってて、女の子の写真撮れるじゃんとかもあったし、料理してたらモテるかなみたいな、そこもあったかな。
一方で藤原さんは、内装から料理、メニュー、扱う酒、音楽、イベントまで全部が揃ったソースダイナーを「総合格闘技」と評します。
職人肌ではなく、浅く広く全体をプロデュースするタイプ。それが安達さんの店づくりのスタイルだと整理されました。
『POPEYE』に載れない男の悔しさ
総合的にかっこいい店を作ってきた安達さんですが、ふと漏らしたのは意外な本音でした。
でも『POPEYE』には載れないのよ。『CASA BRUTUS』とか、アミジョクが載ったことがあるんですよ、初期の頃に。俺も店やったら載れるかなと思ったけど。
雑誌に載ることへの憧れと、載れない悔しさ。それもまた「モテたいムーブ」の延長かもしれない、と安達さんは語ります。
藤原さんは、これは照れ隠しではないかと切り返します。悩んでいるということは、モテやミーハーだけではないのではないか、と。
さらに安達さんは、自分が置かれた立ち位置についても語りました。
マジョリティとマイノリティの間にいると思ってるんだけど、ソースダイナー有名じゃないですかって言われるけど、イオンとか行ってみ、誰も知らないと思う。
ニッチにしすぎて稼げないのは嫌だが、駅前やイオンで不特定多数を相手にするのも耐えられない。その間のバランスを大切にしていると話します。
そのベンチマークとして名前が挙がったのが、かつて働いたD&DEPARTMENTでした。「誰もが知るわけじゃないけど、知る人ぞ知る」という距離感への共感が語られます。
東京での暗黒期と「毎日死にたい朝」
話は独立前の東京時代へ。安達さんの中に、東京で店を出すという選択肢はありませんでした。
ニューヨークから帰ってきて、東京に住んで面白くないなと思った。多分自分のコミュニティを築けなかったからだと思うの。
日本の飲食店の労働環境も大きな不満でした。ニューヨークでは週休2日で困らない程度に稼げていたのに、帰国後のアルバイトは時給700円台だったといいます。
なんじゃこりゃと思ったな。ニューヨークで働いてる時、週休二日完全にもらえてたし、困らないぐらいに稼げてて、年に何回かバケーションがあって。
一度は「ニューヨークに帰りたい」と辞めて渡米しますが、その先のビジョンがないまま、動きがぼやけていたと自己分析します。
そこで安達さんは、Dでの1年半を「回収」するため、料理長になって正社員として就職することを決めます。29歳、大学まで出してもらった親にもきちんとしたと言える形を求めた選択でした。
しかし料理長になってからは、とにかく忙しく、休みもほとんど取れませんでした。精神的に参ってしまい、それが辞める理由になります。
もう毎日死にたいと思ってた。朝起きてベッドの上でうずくまって、仕事に行きたくない。
これが安達さんの人生で初めての大きな挫折でした。全力で打ち込んだ末に、心も自信もボロボロになっていったのです。
地元に帰ってやりたいと伝えると、「そんなの逃げだ」「独立しても絶対うまくいかない」と散々言われたといいます。
松本という居場所への回帰
藤原さんは、東京で店を出す方が「モテる」はずなのに松本を選んだ点に注目します。そこにモテとは違う本心が見える、と。
松本帰ると、こう、どんどん自分の居場所ができていく感じが、少しのこう規模でも感じられたのかもしれないですね。
小さいながらも面白い店や人が出てきていて、同世代が活躍し始めていた。コミュニティが狭いからこそ、つながっていく感覚が心地よかったと振り返ります。
北爪さんも、東京では「いつもの店でいつもの常連と飲む」だけで、東京である意味はなかったと語り、松本の居場所感に共感します。
東京でやってることって、別にいつも行く店でいつもの常連と飲んでるんですよ。そういうような居場所があればいいなって。それがありそうって思ったんだよね、松本。
帰郷直後は「飲食嫌だ」と思い、学校の先生になる道も考えていた安達さん。しかし、外食するたびに「俺だったらこうする」と考えている自分に気づきます。
この店より俺絶対いい店作れるなとか、そんなこと考えてんなと思って。これ先生じゃねえか、って。
結局、自分の場所を作りたいという思いに立ち返り、もう一度飲食の仕事を探すことになります。
ブエナビスタでの抜擢と「掃除道」
名の通ったブエナビスタなら休みも取れるだろうと入った安達さんですが、ニューヨークやD&Dの料理長経験を書いた履歴書を出しても、採用はアルバイトからでした。
ところが入って1カ月も経たないうちに、面接した総料理長から経営会議「ディビジョン」に連れて行かれます。各セクションの料理長やマネージャー、総支配人が集まる場でした。
最後に一言を求められた安達さんは、思ったことをそのまま口にします。
何のための会議かは全然わかんなかったんですけど、みたいな。とりあえず報告するけど怒られてるだけなわけ、みんな。意味あるんですか、この会議、と思いましたと。
数日後、総料理長にブッフェのレストランへ連れて行かれ「どう思った」と問われた安達さんは「美味しくないっすね」と正直に答えます。すると、その場で料理長就任を打診されました。
お前、じゃあここの料理長やるかって言われて、えってなって。いきなり、と思って。俺バイトだけど、いや社員にしてやるみたいな。
なぜ抜擢されたのか。安達さん自身は、料理の腕を披露したからではないと考えています。
シフトより早く行き、みんなが来る前に汚いところを掃除して全てを整えていた。その姿を総料理長が見ていた、それだけだろうと振り返ります。
アミジョクという救いと、居場所の物語
藤原さんは、ブエナビスタ時代の安達さんに会っていたことを明かします。いずれ独立する料理人として紹介され、食べに来ていたそうです。
藤原さん自身も、東京から松本に戻った当初は「東京に帰りたい」と思い、休日は一人でワインを飲みながら漫画を読み、テレビに話しかけるような居場所のない日々を過ごしていたと語ります。
二人を救ったのが、伝説のコミュニティ「アミジョク」でした。
アフターアミジョクとビフォーアミジョクで、多分松本のカルチャー的な人たちは思ってると思うけど、やっぱアミジョクが一つの転換期だったと思う。
百瀬さんや北爪さんは、松本に来た時にはすでにソースもアミジョクも「ある」状態で、その裏側の文脈を知らなかったと語ります。
帰ってきた時にはもうソースもある、アミジョクもある、全部あって、全部かっこいい、どうしたらいいの、この街みたいな。
字面だけ並べれば、ニューヨーク帰りでD&D料理長という完璧な成功ストーリー。しかし中身を噛み砕くと、ボロボロになって居場所を求めて帰ってきた物語でした。
最後はなんかこうボロボロになって居場所を求めてきて、見え方によっては逃げ帰ってきたって思ってる人たちもいる。中からのこの店っていうのはすっごい味がある。
まとめ
輝かしいキャリアの裏にあったのは、料理そのものへの情熱ではなく「場を作りたい」という思いと、東京での挫折、そして居場所を求めて松本に帰り着いた回想でした。ソースの本番の話は、いよいよ次回に持ち越されます。
- 安達さんにとって料理は目的ではなく、集まれる「場」を作るための手段だった
- 「モテたい」やPOPEYEへの憧れの裏に、認められたい気持ちと照れが混在していた
- 東京の料理長時代は「毎日死にたい」と思うほどの初めての大きな挫折だった
- ブエナビスタでの抜擢は、料理の腕ではなく誰よりも早く来て掃除する姿勢が見られていた結果だった
- アミジョクをはじめとする松本のコミュニティが、居場所を失った安達さんの救いになった
