エッセイ、小説、そして日記。3本目の連載はどう始まった?
蒼石盆太郎さんは番組の冒頭で、「嬉しい報告」として日記の連載が始まったことを伝えます。連載のタイトルは『バナナジュース念念無常日記』で、本人も「いいタイトルでしょう、これ」と胸を張ります。
『バナナジュース念念無常日記』は、仏教に関する記事を発信するウェブメディア智恵文プラスで公開されています。盆太郎さんは「めっちゃ嬉しいっす」と、素直に喜びを口にしています。
(連載は)めっちゃ嬉しいっす。
盆太郎さんにとって、この日記連載は3本目の連載です。幻冬舎プラスでのエッセイ連載『あなたのために暇でありたい』、難波の寺ミツテラが発行するフリーペーパーミーでの短編小説の連載に続くものです。
盆太郎さんの3本の連載を並べると、書いているジャンルがそれぞれ異なることがわかります。
| ジャンル | 媒体 | タイトル・内容 |
|---|---|---|
| エッセイ | 幻冬舎プラス | あなたのために暇でありたい |
| 小説 | 難波の寺が出すフリーペーパー | 短編小説の連載 |
| 日記 | 仏教系ウェブメディア | バナナジュース念念無常日記 |
盆太郎さん本人も「いろんなジャンルで書いております」と話し、この回は日記連載について掘り下げると宣言します。
先輩僧侶の日記が教えてくれた「僧侶が読みたい文章」
日記連載が決まった経緯について、盆太郎さんはまず智恵文プラスでの寄稿歴を振り返ります。ブックレビューで仏教本の紹介を3回ほど書き、同メディアが出すZINE ── 個人や小さなグループが自主的に制作・発行する小冊子のこと。少部数で、テーマや体裁の自由度が高いのが特徴ですの創刊号にはエッセイを寄稿しました。
そのエッセイは、地元にあり干拓によって失われた巨椋池 ── 京都府南部にあった大きな池。昭和初期の干拓事業で農地に変わり、現在は池としては残っていませんと、仏教の「浄土」という世界を折り合わせる内容でした。こうした寄稿を重ねた結果、担当編集者から連載の依頼が届きます。
連載の中身を何にするか、盆太郎さんはエッセイや仏教本レビューも考えたうえで、最終的に日記を選びました。きっかけは、兄貴分として慕う先輩僧侶の加賀さんが、自身のフリーペーパーで書いている十日坊主日記でした。
加賀さんの日記の良さとして盆太郎さんが挙げるのは、「程よい日常感」です。子どもとカラオケに行った話や、剃髪した翌朝は寒さがこたえるといった僧侶らしい話の合間に、純粋で深い仏教の言葉が挟まってくるといいます。
盆太郎さんが特に心を動かされたのは、加賀さんが風邪で体調を崩したときの記述です。1歳ぐらいの娘さんに「しんどい時はギューってしたらいいよ」と言われ、お釈迦様に救われた人もこんな気持ちだったのか、と書かれていたそうです。
これよって思って。僧侶で読みたい文章、これやんって思って。
盆太郎さん自身も、以前から誰にも公開しない日記をブログサービスのTumblr ── 短い文章や画像を手軽に投稿できるブログ型のサービス。日記のような個人的な記録にも使われていますに書きためていました。加賀さんの日記を読んで、僧侶と日記は相性がいいのではと気づき、「ぜひ日記書かしてください」と申し出たといいます。
日記ブームの中で振り返る、僧侶と日記の長い歴史
盆太郎さんは、最近は文学フリマなどで日記がブームになっていると聞くものの、文学界の流行はあまり追えていないと話します。Xで話題になる「言語化ブーム」についても、ブームではなく、やっている人はずっとやっているのでは、という感覚だそうです。
一方で、僧侶と日記の組み合わせについては、昔の僧侶たちがずっとやってきたことだと盆太郎さんは語ります。代表例として挙げるのが、盆太郎さんが大好きな僧侶でもある鎌倉時代の明恵 ── 鎌倉時代前期の華厳宗の僧。京都・高山寺で修行し、40年近くにわたり自分の見た夢を記録した『夢記』で知られますです。
明恵は夢日記を書き続けたことで知られ、その記録は「夢の記」と呼ばれています。盆太郎さんによれば、ユング心理学 ── スイスの精神科医ユングが築いた心理学。夢や無意識、人類に共通するイメージを重視するのが特徴ですを研究した河合隼雄さんが、明恵の夢日記を読み解いた名著もあるそうです。
ほかにも、唐へ渡った旅の紀行文のような日記をつけた僧侶もいると盆太郎さんは触れ、僧侶と日記はもともと相性がいいものだと話をまとめます。
煩悩を書くと嫌らしく、書かないと胡散臭い。僧侶の書き手の悩み
盆太郎さんは、日記と僧侶の相性を現代的な視点からも語ります。僧侶を名乗って文章を書き始めてから10年近くが経ち、フリーランスの僧侶ライターとして活動してきたからこその悩みがあるといいます。
盆太郎さんの悩みは、自分の中の煩悩をどう書くかという問題です。酒を飲むことや肉を食べること、物欲や性欲など、さまざまな欲を当然持っているのに、僧侶を名乗る以上は書きづらいと感じています。
まあむずいんすよ、これ。本当に。書いてもやらしいし、書かなかったらうさんくさいしみたいな。
お前何いいこと言ってんねんみたいな。非常に僧侶という主体はむずいです。
盆太郎さんによれば、煩悩をあえて書くと「あけすけにやっています」というアピールに見えて、かえって嫌らしくなるそうです。仏教的には煩悩は塵のように積もり、無限に生まれるものなので、あって当然なのに打ち明けられないことが一番良くない、とも話します。
そこで盆太郎さんが日記の良さとして挙げるのが、複数の日をまとめて出せる形式です。煩悩めいた日もあれば、翌日には仏教のことを考えている日もある、という僧侶の中のグラデーションを、そのまま差し出せるといいます。
読者の側も、煩悩と仏教的なことの間にある揺れを一括で受け取れます。盆太郎さんは連載を始めて改めて僧侶と日記は相性がいいと感じ、変に気を使わずに書けて楽しいと話しています。
仏教と近づきすぎた書き手にとって、日記はなぜ書きやすいのか
盆太郎さんは、仏教について語ることが年々難しくなっている感覚があると打ち明けます。どんなジャンルでも、のめり込むほど対象を客観視するのは難しくなる、というのがその理由です。
盆太郎さんの考えでは、何かを好きになったばかりの頃が、対象を遠くから力強く見られて、いかようにも語れる状態です。ところが仏教は日頃から考え、仕事にもしている近しいもので、僧侶になってからも10年ほど経っています。
良くない恋人同士の関係みたいなね。もう俺なのかお前なのかわからんみたいな。
盆太郎さんは、自分と仏教が不可分になり、距離を取って喋れなくなったと話します。そのためエッセイを書くときにはわざと距離を作ろうとして、文章が遠回しになることがあったそうです。
一方で日記は、1日の無数の出来事から何を取り上げるかという取捨選択そのものに意味が出る形式だと盆太郎さんは考えます。仏教について直接語らなくても、選ぶというフィルターに仏教が宿るというのです。
エッセイと日記で、盆太郎さんの仏教の表し方は次のように変わっています。
エッセイでは仏教との距離をわざと作って書こうとし、遠回しになりがちだった
日記では出来事の取捨選択がフィルターになり、仏教の話をしなくても仏教的な見え方が出る
盆太郎さんは日記を「楽しい」というより「楽」だと思いながら書いているそうです。その気持ちが伝わったのか連載は好評で、妻からも、これまでの連載の中で一番楽しく読めたと言われたといいます。
「バナナジュース」と「念念無常」。連載タイトルの由来は?
盆太郎さんは、連載タイトル『バナナジュース念念無常日記』の由来を明かします。将来できるであろう自分のWikipediaのページに由来を書いてほしいので、このPodcastを脚注に付けて明記してほしい、と冗談めかして話しています。
タイトルの発想の元は、盆太郎さんが好きな池田澄子 ── 現代を代表する俳人の一人。口語を生かした軽やかで意外性のある句風で知られています先生の俳句です。本をめくっていて目に留まった句が、「バナナジュースゆっくりストローを来たる」句の正確な表記でした。
盆太郎さんは、喫茶店で太めのストローの中をバナナジュースがせり上がってくる情景を想像し、「どこにカメラ置いてんねん」とツッコミつつも、いい俳句だと評します。ただ同時に、自分はこうは思えない、とも感じたそうです。
盆太郎さんにとって、バナナジュースは因縁のある飲み物です。家でもジューサーでよく作りますが、バナナ1本分とは思えないほど一瞬でなくなってしまいます。
あれってMサイズ頼んだら絶対ダメなんすよ。Mサイズってマジでもう3口ぐらいで飲んじゃう。
駅のジュース店でも盆太郎さんは一番大きいサイズを頼みますが、それでも足りないと感じます。さらにバナナジュースは時間が経つと黒ずんで色が変わることから、無常を感じさせる飲み物でもあるといいます。
タイトルには、池田先生のようにゆっくりバナナジュースを味わえない自分への戒めも込められています。早すぎる世界の中で、ゆっくり味わいたいという気持ちだそうです。
「念念無常」は、刹那ごとに世界が一瞬で変わっていくという意味の仏教用語で、盆太郎さんは「いわゆる無常と同じ意味」と説明します。極端に長いタイトルにしたくて仏教用語を探し、禅系ではなく念仏を唱える「念系」のお坊さんとして、この言葉を選んだそうです。
ここでの「念」は念仏の念というより「一瞬」のイメージだと盆太郎さんは補足し、由来はここでしか言わないと締めくくります。
日記を書いて見えた、無意識の感情という「第3のパラメーター」
盆太郎さんは、日記を書いて自分について気づいたことが多く、日記はおすすめだと話します。書き方は、書きたいと思ったことをその場でメモし、寝る前や翌日に文章に起こすスタイルです。
メモした出来事は脈絡がなく、「それから」「その後」とつないでいるだけだと盆太郎さんは思っていました。ところが実際に日記としてつなげてみると、実はつながったモチーフをメモしていたことに気づいたといいます。
その例として盆太郎さんが挙げるのが、能勢の山奥のお寺に行った日の日記です。生き物や目に見えないものなど、いろいろな存在に囲まれて幸せだと書いた日の前には亡くなった檀家さんのこと、後には虫の話を書いていました。
(日記の出来事は)なんか実はめっちゃ繋がってるんですよ。自分は意識してないのに。
盆太郎さんは、取り上げる出来事によって「知られざる私」、つまり無意識の感情があぶり出されていると感じたそうです。普段は落ち込むこともテンションが上がることも少ない凪のような性格ですが、それでも感情の波があると日記で初めて気づいたといいます。
盆太郎さんはここから、今の世の中で語られがちな指標に話を広げます。お金をどう稼ぐか、筋トレブームに見られるように健康をどう保つかに加えて、感情も大事な指標ではないか、という考えです。
| パラメーター | よく語られる話 | 盆太郎さんの見方 |
|---|---|---|
| お金 | どうやって稼げるか | もちろんめちゃくちゃ大事 |
| 体 | 体力や健康、筋トレブーム | よく語られている |
| 感情 | あまり語られない | 日記を書いて初めて持続に気づいた。特に大事 |
盆太郎さんは、自分の気持ちに気づくのがとても苦手だったと明かします。3、4年前に友人に勧められて初めて小説を書いたときには、意識が空へ飛んでいく、体から湯気が上がってその湯気が自分になる、といった幽体離脱のような話ばかり書いていたそうです。
なんつうの、置き去りにしがちだったんですよね。自分の身体だったり感情だったりみたいなもの。
盆太郎さんは「当たり前のこと言ってますか?」と照れつつも、お金、体、感情の3つ目が特に大事だと改めて感じたと話し、リスナーにも日記を勧めています。
武田百合子の『富士日記』と、浄土宗僧侶だった作家・武田泰淳
話題は、盆太郎さんが読んできた日記作品へ移ります。日記の名作はあまり読んでいないとしつつ、日記文学の代表作としてよく挙げられる武田百合子さんの『富士日記』を読んだそうです。
『富士日記』は、武田百合子さんが夫で作家の武田泰淳に連れられ、富士の山小屋のような場所で暮らした日々の日記です。夫に言われて初めて書いた日記がとても面白いと評判になり、盆太郎さんの手元の本には田村俊子賞受賞作と書かれているそうです。
武田百合子さんの作品では、ロシア旅行記の『犬が星見た』も読んだと盆太郎さんは話します。武田泰淳とその友人とのロシア旅行を書いた作品で、盆太郎さんはタイトルの良さを繰り返し褒め、読売文学賞の受賞作だと紹介しています。
盆太郎さんが脱線として語るのが、夫の武田泰淳が浄土宗の僧侶だったという事実です。Wikipediaで知って驚いたといい、自分も妻が作家なので、僧侶で作家の夫と書き手の妻という関係にシンパシーを感じたそうです。
武田泰淳って浄土宗の僧侶なんすよ。知ってました?
武田泰淳の作品では、エッセイ『目まいのする散歩』がとても面白かった記憶があると盆太郎さんは言います。一方、自伝的小説『快楽(けらく)』は中古で手に入れた茶色いハードカバーが家にあるものの、まだ読めていません。
盆太郎さんによれば、『快楽』は学生運動の時代を生きた武田泰淳が、僧侶であること、左翼運動、性欲の3つの間で葛藤する青春の苦しみを描いた作品だそうです。盆太郎さんは「政治と仏教と青春ですよね。おもろすぎるやろこれ」と期待を語りつつ、ハードルが高くてまだ読めていないと笑います。
シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』と川上弘美『東京日記』
盆太郎さんがもう一人シンパシーを感じるのが、哲学者シモーヌ・ヴェイユ ── 20世紀前半のフランスの哲学者。キリスト教的な思索と社会問題への関心を結びつけ、自ら工場労働も経験しましたです。代表作『重力と恩寵』は読めていないものの、日記の『工場日記』は読んだそうです。
『工場日記』は、哲学者のヴェイユが正義感とも使命感ともつかない思いから工場で働き、その日々を綴った日記です。盆太郎さんは「何読まされてるんだ」と感じる類の本で読み進めるのに時間がかかったとしつつ、非常に面白かったと話します。
盆太郎さんは、自分もコンビニで働いていることから、当時の工場とは全く違うと断ったうえで、労働者に紛れて苦悩する哲学者の姿に共感を寄せています。
ウェブで読んでいる日記として盆太郎さんが挙げるのは、大好きな小説家で俳句も詠む川上弘美さんの『東京日記』です。ウェブ平凡で月に1回ほど更新され、ひと月のことを5日分ほどの「某日」の出来事で書いているそうです。
(『東京日記』は)ほんまにこれフィクション?ノンフィクションなの?みたいな。わかんない。
盆太郎さんは、川上さんの小説と同じく本当か嘘かわからない独特のフィクション感が面白いと語ります。ただし自分の連載はこうした日記本の影響を受けたものではなく、これまでのブログのように書いているとも話しています。
盆太郎さんは川上さんのように書きたいと思うこともあるものの、今はこういう書き方しかできないとし、書きながら自分のスタイルを模索していくかもしれないと結んでいます。
日記に表れた「働いてるアピール」と、これからの予定
盆太郎さんは最後に、日記連載が公開されてから気づいたことを打ち明けます。書いているときは気づかなかったものの、日記全体で明確に何かを訴えようとしていたというのです。
まあめっちゃ働いてるアピールしてるっすね。そこに弱さが見えました。俺の。
盆太郎さんは、働いていることが1日の内実だから仕方ないとしつつも、取捨選択の中でつい「今日もこういう業務をしました」と書いてしまっていたと振り返ります。それを自分の弱さだと認めたうえで、「働いてんだなって思ってくれたらありがたいです」と笑いに変えています。
ここでも、何を書くかという取捨選択に自分の内面が表れるという、日記の性質が見えています。
今後の予定として、『バナナジュース念念無常日記』は15日分ずつまとめて毎月1日と15日の月2回公開され、次回は11月1日の予定です。分量が多いという声ももらっているそうです。
幻冬舎プラスの『あなたのために暇でありたい』は少し止まっているものの、第3回を執筆中です。フリーペーパーでの小説も年内に出る見込みで、まだ言えない寄稿も年内に何らかの形で発行されるはずだといいます。
結構手札が充実してる。充満してますよね。いけるっていう。ぼんたろう今だっていう。
盆太郎さんはこの波に乗りたいと意気込み、いつもの締めの言葉で番組を終えています。
まとめ
蒼石盆太郎さんにとって日記連載は、仏教を直接語らなくても、何を書くかという選択に仏教や自分の内面が自然に表れる形式でした。タイトルに込めた無常の感覚から、日記で気づいた感情の波や「働いてるアピール」まで、書くことで見えてくる自分の姿が率直に語られています。
- 日記連載『バナナジュース念念無常日記』は、先輩僧侶・加賀さんの日記に「僧侶で読みたい文章」を見たことから始まった
- 煩悩と仏教的な日々のグラデーションをまとめて出せる日記は、僧侶の書き手と相性がいいと盆太郎さんは考えている
- タイトルは池田澄子さんの俳句と、一瞬でなくなるバナナジュース、仏教用語「念念無常」を組み合わせたもの
- 日記を書いて、お金と体に並ぶ第3のパラメーターとして感情が大事だと気づいた
- 武田百合子、武田泰淳、シモーヌ・ヴェイユ、川上弘美の日記や作品も紹介されている




