項羽と劉邦とは何者で、なぜセットで語られるのか
今回のシリーズが扱うのは、中国古代の項羽と劉邦です。日本では司馬遼太郎の歴史小説『項羽と劉邦』で名前を知った人も多いと、楊さんは話します。
二人は、始皇帝が築いた秦帝国を実質的に滅ぼした人物です。楊さんによれば、そのうち劉邦が漢帝国を作った初代皇帝であり、歴史上とても重要な人物だといいます。
項羽と劉邦がセットで語られるのは、二人がライバル同士だったからです。項羽が負け、劉邦が勝って帝国を開いたという関係にあります。
先に結論言っちゃうと、項羽が負けますね。
ネタバレやん。ネタバレ。
歴史だからさ。劉邦が勝つんだよ。
楊さんは、最終的な勝者がなぜ項羽ではなく劉邦なのかが、この物語の大きなテーマだと述べます。この問いは2000年ほど議論され続けているといいます。
貴族の御曹司とチンピラ、対照的すぎる二人の出自
項羽と劉邦は、もともと同じ楚という国の生まれです。しかし育った背景は正反対だったと、楊さんは説明します。
項羽は楚の武将の名門に生まれた貴族の御曹司でした。戦争がむちゃくちゃ強く、ガタイもよいエリートで、始皇帝に滅ぼされた故郷の楚を復興させるという志を持っていました。
一方の劉邦は庶民で、育ちもガラも悪く、史記にも酒・女・賭博の遊び人として書かれていると、楊さんは話します。よく言えばアウトローの任侠気取り、悪く言えばチンピラです。
そのチンピラがなぜこのエリートの項羽に勝って帝国まで作ったのか。これはね、もう2000年ぐらいずっと議論されてるテーマですよ。
深井さんによれば、劉邦にはこれといった才能はほとんどありません。ただ一つ、めちゃくちゃ人から好かれるという点だけが際立っていたといいます。
アニキ、アニキ、アニキっていう風にすごい好かれるタイプ。
さらに対比を際立たせるのが戦績です。項羽は70数戦を無敗で勝ち抜きながら最後の一戦で負けて死に、劉邦は何度も負けながら最後の最後で勝った、と深井さんは話します。
楚の武将の名門に生まれた貴族の御曹司。戦争が強くエリート。70数戦無敗ながら最後の一戦で敗れる
庶民育ちのアウトローで才能は乏しい。ただ人から好かれる。何度も負けながら最後に勝つ
漢帝国が中国と日本に残した大きな足跡
劉邦が作った漢帝国は、途中の中断を挟みつつ約400年続きました。深井さんによれば、漢字の「漢」も、中国最大の民族である漢民族の「漢」も、この漢帝国に由来します。
漢帝国は、長期間の中央集権国家の運営に初めて成功した国だと深井さんは位置づけます。皇帝制のグランドデザイン自体は始皇帝が描いたものの、秦は10年ほどで潰れてしまいました。
ヨーロッパで言えばローマ帝国のような立ち位置で、その後2000年続く中国の皇帝制度の基礎を作ったのが、平民出身のチンピラである劉邦だという点を、樋口さんは常識に反する事象だと受け止めます。
劉邦のキャラクターの荒っぽさを示す逸話も紹介されます。知識人が嫌いな劉邦は、相手がかぶっている帽子を取って、その中に用を足したと伝わります。
漢帝国の影響は日本にも及びました。深井さんによれば、未開社会から脱し始めた当時の日本は、隣にできた大帝国から中国の高い文明を受容し、後の卑弥呼の登場や古墳時代へとつながっていきます。
戦乱500年、周王朝の権威失墜から春秋・戦国へ
ここからは、以前に扱った始皇帝回のおさらいとして、二人が生きる時代の前提が整理されます。項羽と劉邦の物語は、始皇帝シリーズの直後にあたる続編だと深井さんは説明します。
まず、春秋戦国時代とまとめて呼ばれる約500年の戦乱が続いていました。その時代を終わらせて中華を統一したのが始皇帝です。
戦乱の前には周王朝が君臨し、その権威のもとで封建制がとられていました。各地の王が、周王朝の王から任命される形で土地を治める仕組みです。
紀元前770年頃、北方民族の犬戎の侵攻で周の都が陥落し、東の洛陽への遷都を余儀なくされます。この頃から周王朝の権威が落ち、戦乱の世に入っていきました。
戦乱のうち、まだおとなしかった前期を春秋時代、その後の本格的な戦乱を戦国時代と呼びます。春秋時代には、黄河流域の中原の覇者を目指して各国の君主が力を競い合いました。
それまでは権威社会だったんだけど、どんどんどんどん実力の方が大事になっていくわけ。
癖が強すぎる王たち、春秋五覇と個性の逸話
実力社会の中で、各国に名君が現れました。春秋時代を代表する5人の覇者を春秋五覇と呼ぶと、深井さんは紹介します。
その一人、楚の荘王は「鳴かず飛ばず」の故事の元になった王です。3年間わざとバカのふりをし続け、その間におもねってきた家臣を後で全員切ることで、イエスマンを排除したと伝わります。
一人の人生からしたらめっちゃ長いもんね、3年って。
呉と越の王たちは、互いに復讐し合う「臥薪嘗胆」の故事に残る人物です。薪の上に寝て恨みを忘れず、苦い胆を舐めて復讐心を保ったという逸話が伝わります。
深井さんは、世界史のなかでも春秋戦国時代がとくに好きだと語ります。500年もの戦乱が続いた結果、圧倒的な実力社会になり、登用された人々の個性が際立っているからだといいます。
この時代には諸子百家が活躍しました。孔子は春秋時代の人で、孟子は王に「五十歩百歩だ」と言い放ったと深井さんは紹介します。兵法家の孫子の系譜にも、両足を切られながら強かった孫ピンのような人物がいます。
200国から7国へ、実力社会が生んだ人材獲得合戦
春秋五覇の後、時代は戦国時代へ移ります。晋という国が紀元前403年に韓・趙・魏の3国に分裂したところから戦国時代が始まり、以後180年間を戦国時代と呼びます。
周王朝の権威があった頃には200カ国ほどあった国が、実力社会のトーナメントを勝ち抜いて7つに絞られました。韓・魏・趙・斉・燕・楚・秦の戦国七雄です。
プロセスがやべえ。
この時代は身分が低くても実力があれば登用され、人材の流動性が非常に高かったと深井さんは説明します。孟嘗君のように3カ国で宰相を務めた人物まで現れました。
王様は宰相に来てもらうために頭を下げるっていう時代なんです、この時代。
各国は生き残りをかけて人材獲得合戦をしていた、というのがこの時代の本質です。深井さんは、これを現代の株式会社と同じだと表現します。
辺境の秦を強国に変えた「法家の力」
辺境にあり強大でもなかった秦は、人材の採用で頭角を現します。深井さんによれば、孝公の時代に商鞅を採用したことが転機になりました。
商鞅は貴族の権利を制限し、貴族も法律に従えという法治国家化を進めました。これによって王の権力が高まり、秦は中央集権化に成功します。
他国では庶民と貴族で適用される法律が違い、貴族が特権を持つのが普通でした。中世ヨーロッパと同様のこの構造を、古代の秦は「王以外は法律に従う」形へと変えていったのです。
血縁とか生まれで序列が評価されるんじゃなくて、戦場でどれぐらい軍功を上げたか、これによって評価するシステムを作りましょう。
楊さんによれば、実力社会への流れ自体は各国で進みましたが、それを最も制度として実装したのが秦でした。軍功で評価する仕組みが機能し、秦は富国強兵へ向かいます。
商鞅の採用
孝公が商鞅を登用する
法治国家化
貴族の権利を制限し、貴族も法律に従わせる
中央集権化
王の権力が高まり、軍功で人を評価する制度が機能する
富国強兵
列国のなかで抜きん出た力を持ち、始皇帝の即位時には強国になる
採用と一人の王で明暗が分かれた戦国七雄
深井さんは、秦以外の6国も駆け足で紹介します。まず韓は戦国七雄で最弱とされ、領土も狭く、最初に秦に滅ぼされました。韓非子が出た国です。
魏は経済先進国で、呉起の富国強兵策により戦国初期には最強国となりました。しかし優秀な人材の採用に連続で失敗し、秦などに逃したことで衰退していきます。
趙は北方の強国で、武霊王が騎馬民族の戦術を取り入れて軍事力を高めました。しかし長平の戦いで大敗し、衰退します。この戦いは秦の白起将軍が40万人を生き埋めにしたと伝わる戦いです。
どういう状態?40万人生き埋めって。
楚は南方の大国で、唯一、中原の文化を引き継いでいない国でした。ナンバーツーを宰相ではなく令尹と呼ぶなど、役職名も他国と異なります。項羽も劉邦もこの楚の出身です。
斉は商工業で栄え、学術を重んじた国で、多くの学者を輩出しました。しかし末期に暗愚な王が現れ、燕の楽毅将軍にほぼ滅亡寸前まで叩かれ、秦一強の時代を招いてしまいます。
学者めっちゃおるのに王様バカやったっていうのが。
最後の燕は北方の弱小国で、秦王政の暗殺を企てるものの失敗して滅びました。こうして七雄は次々と秦に滅ぼされ、中華が統一されます。
樋口さんは、弱小と呼ばれる国も200余りの国から勝ち残った7国だと指摘し、「M1の決勝には出ている」とたとえます。深井さんも、決勝に残った者同士のなかで差がついた話だと応じます。
王を超える「皇帝」を作った始皇帝の統一
秦の始皇帝は13歳で即位し、わずか26年で統一を成し遂げたと深井さんは説明します。王より偉い存在を示すために、初めて「皇帝」という称号を作りました。
「皇」は輝く・偉大の意味を持ち、「帝」は天の支配者である天帝から取られています。他国の王を倒した自分を、王より上の存在として権威づける必要があったのです。
始皇帝は李斯という法家を用いて中央集権化を進めました。皇帝の下に、丞相・御史大夫・太尉の三公を置き、執行・監視・軍事をそれぞれ担わせます。
さらに全土を36の郡に分け、中央から長官を派遣する郡県制を採用しました。あわせて文字・貨幣・度量衡を統一し、封建制を終わらせたのが始皇帝の統一です。
皇帝の称号
王より上の存在として「皇帝」を新設する
三公
丞相・御史大夫・太尉に執行・監視・軍事を担わせる
郡県制
全土を36の郡に分け、中央から長官を派遣する
統一
文字・貨幣・度量衡をそろえ、封建制を終わらせる
想像を働かせて読む、原典としての史記
最後に、今回の物語の原典である史記について説明されます。項羽と劉邦の題材は6〜7割が史記に依拠し、他に『素間春秋』や『漢書』などがありますが、資料は非常に少ないと深井さんは述べます。
歴史的には、項羽と劉邦の戦いは楚漢戦争と呼ばれます。項羽が再興した楚と、劉邦が作った漢が戦ったからです。「項羽と劉邦」という呼び方は司馬遼太郎の影響だといいます。
史記は、前漢の武帝の時代の人である司馬遷が書きました。劉邦らの時代より100年ほど後の人物で、当時を直接見てはいません。父の司馬談から国史をまとめる仕事を引き継いだと伝わります。
史記を読むうえで、深井さんは2つの注意点を挙げます。1つは、まだ漢の時代に書かれたため、創業者の敵である項羽への評価が低くなりやすいという制約です。
もう1つは、司馬遷が人の話を聞いて書いており、劉邦が龍の子だといった逸話までそのまま記されている点です。当時の人が信じていた話も含まれるため、そのまま史実として受け取れません。
もはや史記さえも史実かどうか分からなくて、想像しないといけないです。
樋口さんは、史記が数少ない第一級資料で、突き合わせて検証できる同水準の史料がほとんどない点を確認します。だからこそ今回は、いつもの近代史より想像を多く交えて語られます。
深井さんは、少ない情報から想像して復元する作業自体が人文学として重要だと語ります。真相は闇の中でも、復元できるだけしようとするプロセスにも意味があるというのが今回の姿勢です。
史記に書いてあることと自分たちの想像はなるべく分けて話すと断ったうえで、次回は始皇帝が死ぬところ、つまり前シリーズの終わりから本題が始まると予告されました。
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まとめ
項羽と劉邦編の第1回は、二人の物語に入る前の助走として、対照的な二人の出自、漢帝国の意義、春秋戦国から統一までの流れ、そして原典・史記の読み方が整理されました。
- 項羽は貴族の御曹司で無敗の武人、劉邦は才能に乏しいが人に好かれるチンピラという、対照的な二人が物語の軸になる
- 劉邦が築いた漢帝国は約400年続き、漢字や漢民族の由来となり、日本にも影響を与えた
- 春秋戦国の500年の戦乱は圧倒的な実力社会を生み、人材獲得合戦のなかで法家を用いた秦が抜きん出た
- 始皇帝は王を超える「皇帝」を作り、三公・郡県制・度量衡の統一で中央集権の骨組みを築いた
- 原典の史記は資料が少なく評価の偏りもあるため、今回は想像を交えて読み解く姿勢がとられる






