後見人が皇帝になった幸運の人、ハドリアヌス
帝政ローマ編は五賢帝時代の後半に入り、これまで13人ほどの皇帝を追ってきました。深井さんは、覚えるべき人はアウグストゥスやティベリウス、ネロ、トラヤヌスなど数人だと整理しつつ、次の主役としてハドリアヌスを取り上げます。
ハドリアヌスの家系は、トラヤヌスと同じくイタリカの出身でした。ここでいうイタリカは、今のスペイン南部にあった都市です。
ハドリアヌスの父は、親戚であるトラヤヌスの出世に伴って自身も出世していきました。ハドリアヌス自身はローマで生まれたものの、家族はイタリカ出身です。
ところがハドリアヌスは、10歳にもならないうちに父を亡くしてしまいます。そこで2人の後見人の保護を受けることになり、その一人がまだ皇帝ではなかったトラヤヌスでした。
皇帝じゃないトラヤヌスが皇帝になるんだよね。そら出世するよね。後見人が皇帝ですからね。
後見人が皇帝になったハドリアヌスは、順調に出世していきます。20歳にならないうちに元老院議員としての公職を歩み始め、多くをトラヤヌスの近くで勤めました。
ダキア戦争では軍団司令官となり、33歳で執政官、さらにシリア総督まで務めます。深井さんは、実力もあったが運も大きかったと話します。
即位直後の処刑と、元老院との難しい関係
ハドリアヌスがシリア総督になった年、トラヤヌスが脳卒中で倒れ、ローマに帰れないまま亡くなります。死の間際に後継者としてハドリアヌスを指定したと言われていますが、前回話題になったように、そのプロセスには疑惑も残ります。
ねつ造なんじゃないかみたいな話ちょっとしましたよね。
41歳で即位したハドリアヌスの特徴の一つが、いきなり敵対する有力な元老院議員を処刑したことでした。ハドリアヌス殺害を計画したという嫌疑を4人にかけての処刑です。
トラヤヌスやネルワが元老院に気を使っていたのとは対照的で、この行動によってハドリアヌスは元老院から比較的嫌われた皇帝となりました。
そう、不評で憎まれた皇帝だったというふうな記述がありますね。
一方で、その後は元老院の許可なく議員を処刑しないと誓い、宴会では議員を立ったまま出迎えるなど、細やかな気配りも見せています。深井さんは「やる時はやるが、配慮もする人」と評します。
領土を広げず守る。旅する皇帝の統治
トラヤヌスが版図拡大主義だったのに対し、ハドリアヌスは領土保全主義を取りました。これ以上広げず、統治の負担を抑える方針です。併合地の一部を放棄して国境防備に努めるほどでした。
これはなんか判断としてはすごく冷静だよね。
深井さんは、軍人だったトラヤヌスと違い、ギリシア文化に傾倒したハドリアヌスの気質がこの判断に影響したのではと見ています。実際ハドリアヌスは、子どもの頃にギリシア語や修辞学に夢中になり「小さなギリシア人」と呼ばれたほどでした。
ハドリアヌスは「旅する皇帝」とも呼ばれ、治世の半分を属州の視察に費やしました。ガリア、ゲルマニア、ブリタニア、ギリシア、エジプトなど、帝国各地を回り続けています。
これは、帝国の安定には属州統治が重要だという認識の表れでした。深井さんは、自治意識が強く「征服はしても統治する観念が薄かった」ローマが、ようやく現地を見て回るようになった転換点だと指摘します。
版図拡大主義。軍人的で領土をどんどん広げた
領土保全主義。文化的で守りと視察を重視した
壁、多神教、そして本格化する交易
視察のなかで、ハドリアヌスは兵士とともに簡素な生活を送り、軍隊からの信頼も勝ち取りました。また属州ブリタニアには、110キロ以上にわたる「ハドリアヌスの長城」を築いています。
各地を回るなかで、ハドリアヌスは地域ごとにさまざまな神が崇められているのを見て、あらゆる神を尊重する多神教の世界帝国を目指したとされます。樋口さんは、こうした人心へのアプローチはこれまでの皇帝になかったと話します。
当時の宗教や神話は、単なる教養ではなく、現実を解釈し、都市同士の同盟関係を語るためのフレームワークでもありました。神話まで遡って両都市の結びつきを説明する、といった使われ方をしていたのです。
内政面では官僚制を整備し、国家機構が自律的に動くようにしていきました。人数は中国に比べれば少ないものの、広大な版図を250人ほどで治めていたといいます。
さらにローマの法律や貨幣、奴隷法を属州に広げ、平和のうちに交易が盛んになるよう整えました。エジプトを手に入れたことで、インドとの海路の交易も本格化します。
インドからは胡椒などの香辛料、薬、ラピスラズリ、象牙、真珠が、中国からは絹が運ばれ、ローマからは鉱石や珊瑚、ガラス器、ぶどう酒が輸出されました。
めっちゃグローバルやん。
なかでも多く輸入されたのが胡椒で、その支払いのために大量の金貨と銀貨が輸出されたという記録が残っています。大航海時代を思わせる規模の交易が、およそ1800年前に成り立っていました。
人間ハドリアヌスと、次代への引き継ぎ
人となりとしては、生涯に3度もアテネを訪れるほどのギリシア好きでした。ローマ近郊のティヴォリには壮麗な別荘を建て、庭園に視察先の思い出を再現したといいます。
また、美少年アンティノウスを寵愛していましたが、彼はナイル川で溺死してしまいます。滑落、犠牲、自殺など諸説あり理由ははっきりしませんが、ハドリアヌスは深く悲しみ、多くの像を作らせ、アンティノーポリスという街まで築きました。
在位中は元老院に嫌われ評判が悪かったものの、今日ではトラヤヌス、マルクス・アウレリウスと並ぶ五賢帝の代表格とされています。派手な事績はないものの、よく考えて動いた皇帝でした。
この立場にいてそれができたっていうのはすごいんですけど、その、それをやったっていう感じですよね。
晩年、病を察したハドリアヌスは後継者にアントニヌスを指名します。元老院に近い有力議員であり、自身が嫌われていたぶん、バランスを取ろうとした選択でした。
さらにハドリアヌスは、アントニヌスに対しても、16歳のマルクス・アウレリウスと7歳のルキウス・ウェルスを養子に迎えるよう命じました。次の次まで見据えた指名です。
地味だが平和。倹約家アントニヌス・ピウス
52歳でハドリアヌスの養子となったアントニヌスは、南フランスのニーム出身の貴族でした。父方も母方も執政官を出す名門で、順当に出世を重ねた人物です。
後継者選びは実力だけでなく政治的理由もあり、スペイン系勢力を抑える人物として選ばれた側面もありました。深井さんは、あらゆる理由の総合判断だと強調します。
養子となったアントニヌスは、ハドリアヌスを神格化するために尽力し、元老院とうまくコミュニケーションを重ねました。その結果「孝行者」を意味するピウスと呼ばれるようになります。
即位後、アントニヌス・ピウスは約20年にわたり、ほとんど戦争をしない平和な治世を築きました。後世の歴史書では何も起きていないように見え地味ですが、当時を生きた人には最高の皇帝だった可能性があります。
富や身分を誇示せず、倹約家でもありました。妻に気前が良くないと責められた際には、次のように返しています。
愚か者よ、我々は今、ローマ帝国を手にしたことで、それまで持っていた財産まで全て失ってしまったのだぞ。
これはケチという意味ではなく、皇帝としてパトロヌスの役割を果たすため、私財を惜しみなく投じたという意味だと深井さんは解説します。実際、亡くなった後には過去最高額とされる6億7600万デナリウスの資産を国庫に残しました。
平和の代償と、次代マルクス・アウレリウスへ
マルクス・アウレリウスは著書『自省録』で、養父アントニヌス・ピウスから学んだことを記しています。温和さ、決断を守り通すこと、虚栄心を抱かないこと、公平さ、そして少年への恋愛を自制することなどです。
樋口さんはこれをネロの時代と比べ、まっとうな教育がなされていたと評します。深井さんも「ネロとの差は確かにすごい」と応じました。
ただし、平和には別の側面もありました。アントニヌス・ピウスが武力衝突を避けたことで、次のマルクス・アウレリウスの時代にはゲルマン人が一気に攻め込んでくることになります。
深井さんは、何もしなかったからこそ相手が力をつけやすかったのかもしれないと指摘します。数十年単位で見れば、一つの判断の良し悪しは表裏一体だというのです。
アントニヌス・ピウスは西暦161年に亡くなります。夕食にチーズを多く食べた後に嘔吐し、翌日発熱して病状が悪化したと伝わりますが、チーズが直接の原因とは考えにくいと2人は話します。
そして、史上最高の皇帝とも言われるマルクス・アウレリウスが即位します。深井さんは、彼の人生を「一言で言えば大変な苦労人」と予告し、次回へとつなげました。
まとめ
帝政ローマ編第11回は、領土を広げたトラヤヌスの後を受け、守りと整備、倹約によって帝国を安定させたハドリアヌスとアントニヌス・ピウスを取り上げました。派手さはなくとも、その統治が後世に高く評価される理由が語られています。
- ハドリアヌスは後見人トラヤヌスが皇帝となった幸運も背景に出世し、41歳で即位した
- トラヤヌスの拡大路線と対照的に、ハドリアヌスは領土保全と属州視察を重視した
- 内政では官僚制を整え、エジプト獲得を機にインドや中国との交易が本格化した
- 52歳で養子となったアントニヌス・ピウスは、戦争をせず倹約に努め、過去最高の資産を国庫に残した
- 平和な治世の裏で次代にゲルマン人の脅威が持ち越され、判断の良し悪しは表裏一体だと語られた
