五賢帝の大トリ、マルクス・アウレリウスとは何者か
帝政ローマ編の五賢帝シリーズも、今回で最後の1人にたどり着きます。深井さんは、ローマ皇帝といえばアウグストゥスかマルクス・アウレリウスと言われるほどの重要人物だと紹介します。
マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、西暦121年4月26日に首都ローマで生まれました。誕生時の名前はマルクス・アンニウス・ウェルスです。
楊さんによれば、この「ウェルス」は「真実の」「真の」という意味だといいます。ここから番組では、彼を親しみを込めて「まこっちゃん」と呼ぶ流れになりました。
名前はその後も何度も変わっていきます。親の死、再婚、養子縁組があるたびに変化したためで、ローマの名前が個人名・氏族名・家族名で構成されていることが背景にあります。
父方の祖父はスペイン出身の大貴族で、皇帝を除いて何度もコンスルになる人は珍しい中、3回コンスルを務めた人物でした。義理の叔父は前皇帝アントニヌス・ピウスであり、由緒正しい名家に生まれたことがわかります。
粗末なマントで地べたに寝た、哲学好きの幼少期
マルクスは幼くして父を失い、大貴族である父方の祖父に引き取られて育ちました。彼には『自省録』という著書が残っており、どんなことを考えていたかが詳しくわかります。
楊さんは、これは公開を前提とした本ではなく、自分自身と対話し、思いを吐露するための文章だったと説明します。だからこそ赤裸々な気持ちが残っているといいます。
すげえ、限定公開のブログみたい。自分だけ見れるブログを勝手に公開されてるみたいな
その『自省録』の中で、マルクスは「節度と旺盛な向上心を父から学んだ」と書いています。良い父だったのかもしれないと深井さんは話します。
マルクスは厳かな印象を与える幼児だったと言われています。その根拠と考えられるのが、幼い頃から哲学に強く興味を持っていたことです。
乳母の手を離れた3、4歳ほどの頃には、すぐに進歩的な哲学者たちに預けられました。公の学校ではなく、名家として自宅で良い家庭教師から教育を受けています。
やがてギリシャ哲学者に憧れ、彼らを真似て粗末なマントをまとい、地べたに寝るようになります。これはストア哲学の考え方に倣ったものでした。
家庭教師からは、呪いや悪魔祓いを信じないこと、詩や美辞麗句を退けること、饒舌な人にすぐ同意しないことなども教わりました。
楊さんが特に面白がっていたのは、その教えの中に「私は忙しいという言葉を連発しないこと」があったことです。現代でも通じる戒めに、出演者たちは思わず反応します。
めちゃくちゃ言ってるわ俺。口癖が疲れたと忙しい
さらに「自分が病気の時でも機嫌よくしていること」も教わっており、深井さんはこれを「まさにストイック」と表現します。ストイックという言葉自体、彼が学んだストア派に由来しています。
ギリシャ語やラテン語、音楽、数学、法律、修辞学を学びながら、その中で最も好きだったのが哲学でした。地べたで寝る習慣は、母親に頼まれて渋々ベッドに戻ったといいます。
16歳で養子、20歳でコンスル。既定路線の後継者に感じた恐怖
16歳のとき、マルクスはアントニヌス・ピウスの養子に迎えられます。同時に9歳下のルキウス・ウェルスも養子となり、義理の弟になりました。
2人を同時に養子にしたのは、これまで皇帝の後継候補が次々と早死にしてきた歴史を踏まえ、リスクを分散するためだったと考えられます。
マルクスの出世は非常に早く、18歳で財務官となって元老院議員となり、同じ年にカエサルの称号を得て副皇帝格になります。翌年にはコンスルに就任しました。
25歳で皇帝の娘であり自分のいとこでもあるファウスティナと結婚します。楊さんによれば、これは別の婚約者との婚約を解消させられた政略結婚でした。
27歳ごろには護民官職権とプロコンスル命令権を与えられ、この時点で皇帝に近い権限をすでに束で持っていました。皇帝になることは、ほぼ既定路線だったといえます。
ところが楊さんによれば、後継者に指名されたマルクスは喜ぶどころか、むしろ恐怖を感じたと伝えられています。哲学を好む彼にとって、皇帝になることと哲学を続けることは同じではなかったからです。
宮廷内の権力闘争の闇を見聞きしていた彼は、自分の前に敷かれたレールの先を想像して恐怖したのではないかと考えられます。なりたいものと、させられるものが違う人生の始まりでした。
戦争・疫病・喪失。皇帝になった瞬間に始まる苦難
40歳のとき、アントニヌス・ピウスが亡くなり、マルクスは義理の弟ルキウス・ウェルスとともに帝位に上ります。これはローマ史上初めての「共治帝」、2人で治める体制でした。
マルクスが皇帝の仕事を1人で背負いたくなかったこともあり、共同統治は歓迎するものでした。ただし法的地位は同等でも、権威の面ではマルクスが優位だったといいます。
マルクスの治世では、戦争、洪水、飢饉、疫病、そしてまた戦争と、休まる時のない出来事が次々と起こります。まずパルティアとの本格的な紛争が始まりました。
保護国だったアルメニアにパルティアがちょっかいを出したことから戦争になり、弱体化していたパルティアに対しローマは勝利します。ところが帰還した兵士たちが疫病を持ち帰りました。
これは「アントニヌスの疫病」と呼ばれ、天然痘だった可能性が指摘されています。当時の名医ガレノスの記述に、全身に広がる発疹の描写があることが根拠とされています。
被害は甚大で、人口の3分の1が失われたと推計する学者もいます。10パーセントとする説でも600万人規模となり、現代のコロナを上回る規模の惨事でした。
同じ時期、中国の後漢王朝でも疫病が流行しており、同一のものだった可能性が指摘されています。ユーラシア規模の流行だったと考えられます。
弱ったローマに殺到する諸部族と、平和の正体
パルティア戦争で兵力が割かれ、疫病で人口も激減した隙を突くように、今度はゲルマン人が攻め込んできます。これはマルコマンニ戦争と呼ばれます。
これまでゲルマン人は部族同士の仲が悪く、まとまって攻めてくることはありませんでした。ところがこの時期から、多くの部族が一斉に攻め込むようになります。
深井さんは攻めてきた部族名を次々と読み上げます。マルコマンニ人、クアディ人をはじめ、ヴァンダル人、ランゴバルド人など、20を超える部族の名が並びました。
番組ではその響きから「どの部族になりたいか」を語り合う脱線もはさみつつ、主力は現在のチェコあたりに住んでいたマルコマンニ人だったと紹介されます。
深井さんは、この事態からアントニヌス・ピウス時代の「平和」の正体を読み取ります。表面上は平和でも、その水面下では反乱の勢力が静かに力を蓄えていたのだと話します。
平和があるって感じじゃないんだよね、やっぱり
今戦闘行為がないっていう話と、真に平和かっていう話はなんか多分別なんだよね
樋口さんはこれを「ポテンシャルが溜まっていて、トリガーが疫病だった」と整理します。平和な時代は、後から見れば次の戦争の準備期間でもあったのです。
さらに45歳ごろには、ランゴバルド人とオビィ人がドナウ川を越えて属州パンノニア、現在のハンガリーに侵入します。背後ではゴート人の民族移動が玉突き状に他部族を押し出していました。
マルクスとルキウスは反攻に出て、蛮族をアルプスより北へ追い払うことに一応成功します。しかしローマへ帰る途中、共治帝ルキウス・ウェルスが脳溢血で突然倒れ、亡くなってしまいます。
失うことを恐れるな。喪失の中で書かれた自省録
楊さんは、マルクスの私生活の過酷さにも触れます。彼には14人の子がいましたが、多くが亡くなり、成人できたのは娘5人と息子1人だけでした。
そんな中でマルクスは、自分自身に語りかけるように『自省録』へ言葉を書き残しています。文中では自分を「お前」「君」と呼び、鏡に向かって話すように綴りました。
妻であり皇后であるファウスティナも、戦地に同行していた最中に急死します。マルクスは15歳の息子コンモドスを共治帝に任命しますが、この息子が後にやばい皇帝となります。
子の多くを失い、疫病が流行り、共治帝も義弟も妻も亡くなり、ゲルマン人が攻め込んでくる。深井さんは、それでも呪いを信じてはいけないと教わった彼が、呪いではないと自分に言い聞かせながら耐えていたはずだと話します。
楊さんは財政の危機も補足します。ローマはシルクロード交易の関税で潤っており、マルクスの在位中は国家予算の4〜5割を賄えるほどでした。
しかし後漢王朝の崩壊とともに交易の利益は減っていきます。収入が落ちる一方で戦費や疫病対策の出費は増え、マルクスは皇室の財宝を競売にかけたり、金銭を払って戦闘を止めたりせざるを得なくなりました。
深井さんは、この苦難の背景にトラヤヌス帝時代の版図拡大があると見ます。急拡大で抱えた「固定費」が、収入が落ちる局面で重くのしかかる、株式会社にたとえられる構図だといいます。
版図の拡大
トラヤヌス帝時代に領土を広げすぎ、守るべき国境と固定費が増大
疫病の流行
アントニヌスの疫病で人口が激減し、社会と財政が疲弊
諸部族の侵入
弱ったローマを狙い、ゲルマン諸部族が一斉に攻め込む
喪失と財政難
家族や共治帝を相次いで失い、交易収入も減少して出費が増大
窮して乱れず。戦場で哲人皇帝になった皮肉
マルクスは治世の後半、ほとんどを戦場で過ごしました。軍人気質はまったくなく、学芸とストア哲学を身につけて生きたかった人物です。楊さんは「彼は文学部に行きたかった」と表現します。
それでも戦争に駆り出され、その戦場の中で哲学し、書き残したのが『自省録』でした。結果として、彼は代表的な哲人皇帝として歴史に名を残していきます。
深井さんは、これが二重の皮肉だと指摘します。ストア哲学は、望むと望まざるとにかかわらず与えられる運命を、理性でいかに受け取るかを説く哲学だからです。
戦争に駆り出され疫病を裁く宿命を受け入れるため、彼は本当は嫌だったからこそ、自分を「お前」と呼びながら何度も語りかけました。それが最高のストア派哲学の実践版として残ったのです。
楊さんは、そこにマルクスの偉大さがあると話します。やりたくないこと、得意でないことを耐えながらやり切った。凡人ならどこかでネロのように壊れてしまうところだといいます。
不幸が重なると、カリグラやティベリウスは世を嫌い、人を信頼せず自暴自棄になっていきました。しかしマルクスは、それ以上に過酷な環境で自らに語りかけ続け、最後まで立派な皇帝を務め上げます。
楊さんはこれを「窮しているけれど乱れていない」と評し、まさに君主だと語ります。深井さんも、孔子の言う君主のようだと応じます。
マルクスは体も弱く、肺結核や胃潰瘍、片頭痛を患っていたと言われます。そうした中で相次ぐ戦争に耐え続けたことになります。
苦難はさらに続き、味方の反乱まで起こります。将軍アウィディウス・カッシウスが、マルクス死亡という誤報を信じて自ら皇帝を名乗りました。反乱は部下による暗殺であっけなく終わります。
楊さんによれば、マルクスはこのカッシウスを許すつもりでした。首が送られてきたとき、喜ぶことも誇ることもせず、慈悲をかける機会が奪われたことを悲しんだといいます。
何か慈悲をかける機会が奪われたっていうことを何か悲しんだそうですね。生きたまま捕らえて欲しかったと
疫病と飢饉に苦しむ市民のため、マルクスは合計8回の現金給付を行いました。その額は1人当たり850デナリウスで、兵士の年収500デナリウスを上回る規模だったといいます。
まとめ
哲学者を志したマルクス・アウレリウスは、皇帝という宿命の中で戦争と疫病と喪失を背負い、それでも自らに語りかけながら立派な皇帝を務め上げました。次回は、その苦難の中で書かれた『自省録』とストア哲学、そして彼の晩年が掘り下げられます。
- マルクス・アウレリウスは名家に生まれ、幼少期から哲学を好み、地べたに寝るほどストア哲学に傾倒した
- 後継者への指名を喜ばず恐怖を感じた彼は、皇帝就任と同時に戦争・疫病・喪失に見舞われた
- アントニヌスの疫病は人口の大きな割合を奪い、弱ったローマにゲルマン諸部族が一斉に侵入した
- 表面上の平和は、水面下で次の戦争が胎動する準備期間でもあったと読み解かれた
- やりたくない宿命を理性で受け取ろうとした実践の記録が『自省録』であり、彼は哲人皇帝として歴史に残った






