江戸に逃げ帰った慶喜は、まず何をしたのか
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鳥羽伏見の戦いのあと、徳川慶喜は大坂から船で江戸へ逃げ帰ります。強風にあおられ、品川に着くまで1週間ほどかかったといいます。
到着直後の慶喜の言葉について、深井さんは歴史家も戸惑うエピソードとして紹介しています。
(慶喜は)「あの店のうなぎが食べたい」つって、店指定で「うなぎ食いてえ」つってうなぎ食いに行きます。
慶喜のそばには、松平容保 ── 会津藩主で、幕末に京都守護職を務めた人物。鳥羽伏見の戦いでも旧幕府側の中心にいましたの弟で桑名藩主の松平定敬らがいました。深井さんは、この二人も引いていたはずだと話します。
なんかすごく空気が読めるのに読めない人ですよね。
深井さんによれば、慶喜は人の思惑を理解し、コントロールもできる一方で、随所で信じられない動きをする人物です。樋口さんは、ある意味で無邪気とも言えると受け止めています。
勝海舟すら9日間知らされなかった敗戦
江戸城に戻った慶喜らに、勝海舟は戦いの結果を尋ねます。しかし顔色の悪い面々は、互いに目を見合わせるばかりで誰も口を開かなかったといいます。
勝海舟は老中の板倉勝静板倉勝頼からようやく戦闘のあらましを聞きます。海軍の責任者だった勝ですら、鳥羽伏見の開戦から9日も経って戦況を知ったことになります。
もう俺、松平容保がかわいそう。
江戸城内では徹底抗戦を主張する主戦派と、恭順派が半々に分かれ、連日激しい議論が続きます。老中や若年寄も呆然自失で、慶喜自身も態度をはっきり示しませんでした。
主戦派の中心は、陸軍奉行の小栗上野介でした。箱根より東に敵を誘い込み、海軍で駿河に出て退路を断ち、フランス式の砲兵隊で粉砕する作戦まで立てましたが、職を罷免されます。
慶喜の完全降伏と、許さない大久保・西郷
慶喜は恭順へと舵を切ります。松平春嶽や山内豊信山内豊道ら、幕府に同情的な新政府の要職者に、病気で隠居を考えていると手紙を送りました。
さらに慶喜は江戸城を出て、上野の東叡山寛永寺に移って謹慎生活に入ります。ここで初めて「全く全て私の責任によって生じたことです」と自らの責任を認めました。
深井さんはこれを、新政府と薩長政権への絶対恭順であり、最後まで戦わなかった完全降伏だとまとめています。
江戸へ帰還
大坂から船で1週間かけて品川に到着
態度保留
城内が主戦派と恭順派に割れても方針を示さない
主戦派を退ける
作戦を立てた小栗上野介を罷免
恭順・謹慎
寛永寺に移り、自分の責任を認める
しかし大久保利通は、慶喜の恭順表明を「処刑を免れようとする意図が明々だ」と見て、容赦しない姿勢を示します。
西郷隆盛も大久保宛ての書簡で、慶喜の隠居嘆願を「不届き千万」と書き、切腹させずには済まないと述べました。深井さんは、慶喜が何を言おうと江戸まで攻めるという意味だと解説しています。
鳥羽伏見の勝利で、新政府内の穏健派は力を失っていました。西郷は形式上のナンバー2で実質的な総指揮官である参謀に任じられ、江戸へ向かいます。
勝海舟の脅しと、祇園の女性に泣いた西郷
幕府側で重要な役者として浮上したのが勝海舟です。深井さんは、先を考えてきちんと話せる人は勝くらいしかいなかったと見ています。
勝海舟は講和と戦争の両方を構えていました。まずは交渉で講和を目指し、西郷が本気で江戸城を占拠しに来るなら迎え撃つつもりでした。
勝海舟は新政府に、これ以上侵攻するなら軍艦で抗戦すると脅す手紙を送ります。これを読んだ西郷は、勝の首を引き抜いても足りないと激怒したといいます。
西郷は薩摩・長州に、長崎の大村藩、宮崎の佐土原藩など九州の藩兵を率いて京都を出発し、箱根を占領させます。
進軍中には、兵士の思い出話も残っています。軍資金不足で琵琶湖畔に滞在したとき、京都・祇園の茶屋の仲居おたつが駆けつけ、行かないでくれと泣きすがりました。
兵士たちの前でも西郷は恥ずかしがる様子を見せず、「おたつ泣くな」と繰り返し、自分も泣きそうになっていたといいます。
おもろいですよね。近くにいる人に感情移入するんですよ、この人(西郷さん)。
深井さんは、勝には激怒しながら目の前の女性には涙ぐむ姿に、西郷の人間味を見ています。遠くの相手には心が離れる分かりやすさがあるとも話します。
総攻撃は3月15日、送り込まれた山岡鉄舟
新政府軍は江戸総攻撃の日を3月15日と決めます。戊辰戦争が始まったのは1月初旬なので、2か月ほどで総攻撃まで進んだことになります。
この状況で、勝海舟の手紙を携えて西郷のもとを訪れたのが幕臣の山岡鉄舟です。楊さんは「海舟と鉄舟で船船」と冗談を交えて紹介しています。
深井さんは、勝海舟の人選がすごいと話します。山岡鉄舟は剣も禅も書も達人で、武士が修めるべきものを極めた「武士の中の武士」でした。
なんですかね、ビジネスパーソンで言ったらスピーチがめっちゃ上手くて、企画もすごくて。
何より山岡鉄舟は、幕臣として命をかけていました。西郷はのちに、この人物について次のように語っています。
深井さんは、これは褒め言葉であり、西郷はそういう人間が大好きだったのだろうと解釈しています。
「慶喜を岡山へ」を拒んだ鉄舟に、西郷はなぜ折れたか
勝海舟の手紙には、徳川家は君臣ともに恭順していること、戦争になれば皇国の存亡に関わることが書かれていました。そのうえで、西郷の責任で情理を正して処理してほしいと求めています。
西郷は山岡鉄舟に、慶喜の身柄を岡山藩に預けること、江戸城の明け渡し、軍艦と武器の引き渡しを求めます。岡山藩は京都と鹿児島の中間にある中立の藩でした。
学者によっては、岡山藩に預けることはその後の処刑を意味するとも解釈されます。山岡鉄舟もそう受け取った可能性があります。
山岡鉄舟は、慶喜を岡山藩へ送ることだけは承服できないと答えます。見殺しにするくらいなら、旗本八万騎で江戸城を枕に討ち死にしたほうがましだと訴えました。
するとここで、ずっと慶喜を殺すと言っていた西郷が、いきなり意見を変えます。
「よろしい」と。「この一事は大切ながら、慶喜公の身はこの西郷が命に代えて救います」とか言っちゃうんだよね。
慶喜は切腹でも許さず、勝の手紙にも激怒して江戸へ進軍
慶喜の身は自分が命に代えて救うと山岡鉄舟に約束
深井さんと楊さんは、西郷が山岡鉄舟に共感し、「説得を説得された」のだと読み解きます。
やっぱりその自分が(島津斉彬)に持ってる感情とかあったじゃん。
西郷が主君の島津斉彬に抱いていた忠誠心に近いものを、山岡鉄舟から感じたのではないかという見立てです。勝がどこまで見越していたかは不明ですが、人選は大当たりだったと深井さんは話します。
勝海舟の江戸焦土作戦とイギリスの圧力
会談を前に、勝海舟はある作戦を立てていました。楊さんが紹介するのは、新政府軍が総攻撃してきたら江戸の街を焼き払うよう火消したちに指示していたという「江戸焦土作戦」です。
楊さんによれば、落合弘樹落合宏樹先生はこの作戦を、イギリスの外圧を引き出すための策だった可能性があると説いています。
焦土作戦
総攻撃なら江戸を焼き払う計画を立てる
イギリスの利害
横浜での貿易利権のため、江戸壊滅は大きな損失
パークスの意見書
恭順している慶喜への厳罰は国際法上ありえないと西郷に伝える
総攻撃への牽制
新政府軍に江戸総攻撃をしないよう釘を刺す
イギリスは薩摩藩を支援しており、薩摩との対話ルートを持っていました。計画が伝えさせたものか伝わったものかは分からないと、楊さんは断っています。
楊さんは、イギリスが情報収集で勝の考えも把握していた形跡があり、単に利権を守りたかった可能性もあると補足します。
だから何も考えずに新政府軍西郷と向き合うことは勝はしなかったんですよね。ちゃんと準備をしてるんです。
薩摩藩蔵屋敷での会談、勝海舟の笑顔と冗談
西郷は3月13日と14日、江戸を包囲しながら勝海舟と直接談判します。山岡鉄舟と約束した慶喜の助命を、具体的にどう実現するかを話すためでした。
秘密会談のため公式記録はありませんが、関係者の証言で細かく残っています。いつでも攻め込める態勢の中での交渉で、深井さんは勝側の立場で見ると面白いと話します。
場所は、船で出入りできる薩摩藩の蔵屋敷でした。同行した西郷の下男・熊吉の証言によれば、西郷は高輪海岸から小舟で目立たないように到着し、そこに勝が立って出迎えました。
勝は久しぶりに西郷の顔を見てにっこり笑い、西郷も無造作に一礼を返します。勝は麻の裃、西郷は洋式軍服姿でした。
ここで勝さんが笑うっていうのもやっぱ器でけえな。
玄関までの100メートルほどを並んで歩く途中、勝は「西郷、お前はどうして俺をこう苦しめるのだ」と、半分冗談、半分本気で語りかけます。
さらに勝海舟は、自分が薩摩勢の先鋒を率いるから、西郷は大久保一翁大久保一応と相談して江戸城を守ってくれないかと冗談を言います。大久保一翁は早くから大政奉還論を唱え、閑職に回された幕臣でした。
変わったらお前も意見変わるだろうっていうことが暗に示されてる。
西郷はこれを聞いて大笑いしたといいます。楊さんは、勝がつばぜり合いをユーモアで包み込んでいたと見ています。
「大合戦しましょう」と返した西郷との5時間
畳にそのまま座って向き合った勝海舟は、西郷が参謀として来たので大いに安心したと切り出します。開城すれば江戸も焦土にならず、追討の目的も果たせるではないかと訴えました。
西郷は笑いながら、ここまで兵を進めて戦わないのも人心に関わると返します。互いに不足を貸し合い、小金原あたりで大合戦をして決めればいいのではないかという返答でした。
勝は、お前までそんなことを言うから困る、俺の心配を察して無事にまとめてくれと頼みます。楊さんは、顔を立ててくれと柔らかく言っているのだろうと読みます。
交渉の後、二人は島津斉彬の思い出や篤姫の近況など昔話もしながら、5時間ほど話したといいます。
総攻撃前日の2回目の会談で決まったこと
翌日、総攻撃予定日の前日に2回目の会談が行われます。西郷は、山岡鉄舟に拒否された案の代案を出しました。
| 論点 | 山岡鉄舟への要求 | 勝海舟との合意 |
|---|---|---|
| 慶喜の処遇 | 岡山藩に預ける | 水戸の実家で謹慎 |
| 慶喜を助けた者 | 言及なし | 格別の憐れみで死刑者を出さない |
| 軍艦・武器 | 全て引き渡す | 取りまとめて引き渡す |
暴挙を起こす者が出れば官軍に鎮定を依頼することも決まり、事実上、無血開城が認められました。深井さんは、相手が西郷だったからこそ勝海舟はすごいと話します。
この日、勝海舟の懐が大きく膨らんでいて、人斬り半次郎と呼ばれた桐野利秋らはピストルかと警戒しました。しかし取り出したのは、上等な握り寿司の竹の皮包みでした。
で、少ないけど陣中のお見舞いだよとか言って、西郷たちに渡して食べてもらうみたいなことをこの交渉の中でなんかこんな感じでやってんだって。
西郷は熊吉に、駿府にいる形式上の大将・有栖川宮への早駕籠を用意させ、その間は寿司を食べながら相撲などの世間話で談笑していたといいます。
勝海舟は日記で西郷を、虎が羊を狩るようだと評し、「奸雄」と書いています。のちの回想では、西郷の一言が江戸を救ったと語りました。
独断で攻撃中止を決めた西郷の重さ
西郷は、慶喜を殺さないことも、総攻撃を中止することも、独断で決めていました。樋口さんは、人心への影響というリスクを分かった上での決断だった点に注目します。
十年ぐらい前まで下級武士ですよ、この人。
勝海舟もまた、江戸と慶喜の処遇の全てを任されていました。深井さんは、勝がしくじれば慶喜は処刑だったと強調します。
しかも西郷は、自分だけ意見が変わった状態で、あれだけ慶喜を殺そうとしていた薩摩の人々や新政府を説得しなければなりませんでした。
京都の夜の大会議、「まずこの西郷を殺せ」
西郷は急いで駿府の有栖川宮に会い、攻撃中止を伝えます。自分では決められないと言われ、猛スピードで京都へ向かいました。
京都に着いた西郷は、夜遅くに太政官で緊急会議を招集します。集まったのは三条実美、岩倉具視、大久保利通、長州の広沢真臣と木戸孝允、そして西郷の6人でした。
討幕を先導したのは薩摩で、密勅にも慶喜を討てとある。錦の御旗に発砲した慶喜を救えば大義名分が立たない
鳥羽伏見は家臣が慶喜を立てたもの。死罪にすれば東西の大争乱になり、外国に漁夫の利を取られる
西郷の主張は勝海舟が言ったことそのものだと、深井さんは指摘します。追い詰められた西郷は、討幕を主張したのは王政復古のためで、慶喜への私怨ではないと言い切りました。
さらに西郷は、慶喜に他意がないことは自分が保証し、失策になれば一身で責任を取ると述べます。そして、会議があくまで慶喜を殺すなら、まずこの西郷を殺してから慶喜を殺せと言い放ちました。
西郷の伝家の宝刀。やるならまず俺を殺せろじゃ。
多分ね、比喩的な意味で俺を殺せって言ってんじゃないんですよね。多分マジで本気で言ってる。
場の空気が張り詰める中、公家の三条実美が、謹慎している慶喜を死罪にするには及ばないだろうと口を開きます。こうして徳川家の処分が決まりました。
深井さんは、高杉晋作ら長州の過激な人物がすでに亡くなっていたことで、話の分かる木戸孝允が相手だったのは幸運だったと振り返っています。
無血開城の後に残った彰義隊と慶喜の余生
江戸城は無血開城され、首都機能はほぼ無傷で新政府に引き継がれます。徳川家は城内を清掃し、財宝を持ち出さずに整頓して明け渡したといいます。
ただし軍艦と武器の引き渡しは全ては履行されませんでした。榎本武揚の艦隊は上司の勝海舟の言うことを聞かず、函館まで逃れて五稜郭の戦い ── 箱館(函館)の五稜郭を拠点に、榎本武揚ら旧幕府軍が新政府軍と戦った戊辰戦争最後の戦い。1869年に旧幕府軍の降伏で終わりましたなどにつながります。
慶喜は水戸での謹慎後、静岡に移り、1897年(明治30年)に東京へ移住します。明治天皇への拝謁を許されて公爵となり、余生は狩猟や写真撮影に明け暮れたといわれます。
この人、普通の時代に来てたら超優秀だっただろうと思う。
一方、どうしても納得できない旧幕臣は彰義隊を結成して抵抗します。政府軍の死者30名余り、彰義隊の死者200名余りを出しましたが、佐賀藩のアームストロング砲などにより1日で制圧されました。
徳川家は70万石へ、それでも終わらない戊辰戦争
徳川家は徳川家達が相続し、領地を駿府70万石とすることが内定します。旗本を含めて700万石だった徳川家にとって、収入は10分の1になりました。
しかし戊辰戦争はまだ終わりません。悔しさのあまり最後まで戦うことを決めた会津藩によって、この後悲劇が起こっていきます。
平和になるって結構プロセスがかかるんだな。
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まとめ
江戸無血開城は、慶喜の恭順だけで実現したものではありません。命を捨てる覚悟の山岡鉄舟、準備と器で交渉に臨んだ勝海舟、そして一身に責任を引き受けた西郷隆盛の一言が重なり、江戸と徳川家は守られました。
- 慶喜処刑を主張していた西郷は、山岡鉄舟の覚悟に触れて助命を約束した
- 勝海舟は江戸焦土作戦などの準備を整え、笑顔と冗談、寿司で交渉の空気をつくった
- 西郷は独断で総攻撃を中止し、京都の会議で「まず西郷を殺せ」と迫って処分を決めさせた
- 無血開城後も彰義隊や榎本艦隊、会津藩の抵抗が続き、戊辰戦争は終わっていない




