大学はブランドとネットワークとマインドセットでできている
小笠原さんは、大学にはブランドビジネスの側面があると切り出します。
大学は、ブランド、不動産投資、システム投資、そしてネットワークで構成されていると小笠原さんは整理します。
ここで言うネットワークとは、人と人のつながりのことです。それが財産になり、さらに「どう学ぶか」というマインドセットが加わると話します。
さっきのネットワークっていうのはつながりみたいなもので、僕はそれが財産になるし、あとマインドセットですよね。学び続ける、どういうふうに学ぶかっていうマインドセット。
マインドセットが近い人同士がつながり、そこにどんな冠が付いているかがブランドになる。小笠原さんは、その例として海外の大学院を挙げます。
芸術とSTEAMを組み合わせて、大学院として大体2200人ぐらいで、ハイブランド化していることで学費が800万ぐらいでしょ。それによって160から180億ぐらいの収入。
この大学院は、少人数のハイブランド化によって授業料収入の上限に近づいている状態だと小笠原さんは見ています。
少人数のハイブランドと、大人数の大学。同じ収入でも違う場
話は自分たちの大学へと移ります。学生数は約10倍違うのに、収入はほぼ同じだと小笠原さんは指摘します。
同じぐらいの収入がある我が学園ですよ。今、通信・通学合わせて2万3000人ぐらいだから、10倍の人数の差があるわけですよ。
場としては全く違うのに、経済としてはほぼ同じ。ここに面白さがあると小笠原さんは語ります。
場としては全然違うものだけど、エコノミーとしてはほぼ一緒なんですよ。
小笠原さんは、少人数のハイブランド校は今後オンラインなどで裾野を広げる方向に来るだろうと予想します。ハイブランドのブランドが、店舗で幅広い価格帯の商品を売って成立する構図に例えます。
一方で、すでに広く大きく取っている自分たちは「次に何をするか」という別の方向性があると話します。それをどんな場を作るかという意識で考えると面白いと投げかけます。
ただし木原さんは、大学がハイブランド化するという話はあくまで妄想であり、事業計画としてそうなっているわけではないと注意を促しました。
場には色があり、文化が生まれる
場が長く続くと、文化やカルチャーが生まれる。小笠原さんのこの言葉に、木原さんは自分たちの大学の実例を挙げます。
うちって映画学科だけキャンパス離れてるじゃないですか。もうめちゃくちゃ独自なんですよ、文化が。もう全く違う。
距離としてはそれほど離れていなくても、行き来が頻繁でない教職員や学生の間には、大きく異なる文化が育つと木原さんは実感を語ります。
小笠原さんは、これを飲食店の話に引き戻します。立ち飲みのバーはどこもやっていることは同じでも、立地や人によって場の価値は全く違うと説明します。
まず作ってから考える。維持は目的ではない
場づくりを考えると、続けられる運営ができるかを先に考えてしまう。木原さんはそう打ち明けます。
それがこう継続して維持できるような運営ができるのかっていうのが、場作りの場合、やっぱ最初に先行して考えちゃうんですよね。
これに対して小笠原さんは、維持することが目的なのかと問い返します。維持したくなるものになるかどうかは、やってみて初めてわかるという考え方です。
維持することを考えて作ったけど、維持したいものにならなかったら一番しんどいじゃないですか。だから先やってみましょう。これプロダクト作りでも何でも。
プロダクト開発でMVPやPOCを作るのと同じだと小笠原さんは言います。庭先で小さく始めて、続け方は熱狂が生まれてから考えればいいという順番です。
木原さんは、自分ひとりの旗揚げなら気軽に撤退できるが、人が参加するコミュニティとなると計画が必要だと考えてしまうと悩みを重ねます。
コミュニティは友達。文句を言う人は呼ばなくていい
小笠原さんは、場づくりを「遊び」と捉えます。やってみて面白くなければルールを変えればいい、という気軽さです。
やってみておもんなかったらこういうふうにルール変えようみたいな。それがおもんないやつとは友達でいられないでしょ。
コミュニティのメンバーは言わば友達であり、文句を言う人はそもそも友達ではない。だから呼ばなければいいと小笠原さんは言い切ります。
維持のために責任を発生させる思考は、組織で無駄な仕事を生むパターンだと小笠原さんは注意します。
大学は誰のための場所か。反主流であることの意味
話は大学という場の本質に及びます。小笠原さんは、大学は学生のための場所だと成り立ちから説明します。
もともと学びたい人が教えられる人を雇ってきてやってるわけで。教員がいるから大学があるわけではなくて、学びたい学生がいるから、学生のための場ですよね。
だからこそ、学生が試すことを止めるルールは本質的にダメだと小笠原さんは述べます。ただし社会や法律上必要なルールは別だとも補足します。
木原さんは、自分は立場上「体制側」で話しているが本質は反体制だと冗談めかして言います。すると小笠原さんは、自分の主張が本当に反体制なのかと問い返します。
僕が言ってることは多分、学生のためにというのは、うちの土台のはずですよね。でもそのルールが職員のためにとか教員のためにってなってるなら、考え直す余地があるはずですよね。
小笠原さんは、これは反体制ではなく「反主流」だと整理します。そして、主流が間違っているなら革命を起こした方がいいと続けます。
木原さんは、反主流の立場では意思決定や学生対応で他と違う対応をするため、イレギュラーなコストや反感が生じると現場感覚を語ります。
小笠原さんは、自分たちは少人数の飛び地でやっており、いろんな意見がバラバラにあることを理解してもらうのも役割だと応じます。意見の統一を求める姿勢を「宗教に入るのはやめてほしい」と表現しました。
教員の意見は違って当たり前。先生と呼ばせることへの違和感
小笠原さんは、教員それぞれの言うことが違うというクレームを受けた経験を挙げます。そのとき、小中学校のように子ども向けに意見を統一する方針は大学にはないと説明したと言います。
あなたたちにそれぞれ意見がある人であるように、教員もそれぞれ意見がある人ですと。どの意見を選ぶのかを深く考えてください。
木原さんは、芸術大学の面白さはまさにそこにあると同意します。合評で先生同士が一つの作品をめぐって意見をぶつけ合う場面を例に挙げました。
学生は最初こそ意見が割れる状況に戸惑うが、複数の意見を聞いた上で自分で判断し学んでいくことに気づいてほしいと木原さんは語ります。
小笠原さんは、教員としての自分は知識を教える存在ではなく、学ぶことへの対話の相手だと位置づけます。知識同士のつなぎ方や、興味の向かう先を経験則から伝える役割だと言います。
そもそもうちは建学の理念に教師の自己否定って書いてるやんけって思ってるんで。
さらに小笠原さんは、「先生と呼びなさい」と言うことへの違和感を語ります。教授や課長のような役職は定義だからいいが、「先生」という概念で呼ばせるのは違うという考えです。
先生ってお前キャバクラで社長言われてるのと変わらんからなと思って。それを、そう呼べって言ってること自体がもう。
これが少数意見だとしても構わない、こういうことを言う教員がいると学生に伝わればいい。小笠原さんは、それが場の空気を作っていくと話します。
ゼミの講義化への違和感と、対話の場を残したい理由
学びの話が盛り上がる中、小笠原さんはゼミが講義化していることへの強い違和感を口にします。
今ゼミが講義化してるのすげえ嫌で。大人数で教員が劇場型でっていう、もうあのクラスという最悪な状態。それゼミナールちゃうやん。対話してないやん。
小笠原さんには、自分に大学時代がなかったからこそ、大学という場への憧れがあると言います。だから学外でも10年ゼミを持ち続けているそうです。
そのゼミ出身者が、うまくいくと後輩のために寄付をしてくれる。小笠原さんは、これこそが場のカルチャーだと語ります。縦のつながりを作りたい気持ちと、それを負担に感じる人もいるという多様な意見。それを話せる場が欲しいだけだと言います。
一対Nの講義形式は変わる。ゼミという少人数の対話が残る
木原さんは、AIによって学びの環境が変わる中で、ゼミのような場の価値は上がると指摘します。全員が集まってスクリーンの座学を聞く形式は、環境として優れているとは言えないという見立てです。
小笠原さんは、一対Nの講義形式は「教えられる人が少ない」という前提に立っていると分析します。
学ぶということ、情報を得て、それを処理して蓄積するということにおいては、エージェント使ってほぼ一対一が成立しますと。その時に劇場型の講義って何なん?
ただし小笠原さんは、劇場型の講義を全否定しているわけではありません。1人が大人数に熱量を伝えるために劇場があってもいいと言います。変わるのは「講義形式」だと整理します。
だって前提変わるんだもん。その人専用のものができるんだもん、学びも。
木原さんは、オンデマンド授業なら一対Nですらなく、ゼロ対Nになると付け加えます。そのうえで、教員の一方的なレクチャーにならないゼミの設計が必要だと話します。
場づくりの価値。人間らしさを発露させる意味
なぜ場づくりの話をするのか。小笠原さんは、場を作ることの価値がこれから上がりそうだという肌感覚があるからだと答えます。大学そのものが学びの場づくりだと確認し合います。
小笠原さんは、大学のコンセプトを「闊達自在な学び舎を作り続ける」という言葉で説明します。闊達は文化、自在はどこでも誰とでもどんな形でも学べること、学び舎は場のことだと解きほぐします。
ここでのブランドとは、みんなの共通認識のことだと小笠原さんは言い直します。大学がよく思われていて悪いことはない、という程度の意味合いです。
AIで確率の計算じゃなくて、自分たちがこう想起したり創発的にってみんなが求めている、人間らしさ、人間臭さみたいなものを発露させるっていう意味で価値あるなと思ってますけどね。
AIを使ってもいいが、場にはそれとは違う、人間らしさを引き出す価値がある。小笠原さんはそう締めくくります。
まとめ
AIが1対1で学びを提供できる時代でも、人が集まる「場」には別の価値があります。大人数への一方向の講義形式は変わっていく一方で、少人数で意見をぶつけ合うゼミのような対話の場は、文化を生み、人間らしさを発露させる場所として残ると2人は語りました。
- 大学はブランド、投資、ネットワーク、マインドセットで構成され、人のつながりが財産になる。
- 場づくりは維持を先に考えず、まず小さく始めて熱狂が生まれてから続け方を考えるのがよい。
- 大学は学生のための場であり、学生の挑戦を止めるルールは本質的にはよくない。
- 教員の意見は違って当たり前で、学生が複数の意見から自分で選び学ぶことに価値がある。
- 一対Nの講義形式は前提が変わり縮小するが、少人数で対話するゼミ形式は残したい価値だと語られた。
