ドバイの夜のアートフェス「SIKA」とは?
渡邉康太郎さんが今回話したかった本題は、ドバイで開かれるアートイベントSIKA ── ドバイで毎年開かれるアートフェスティバル。アラブ圏のアーティストを中心に、歴史地区の伝統家屋を会場に展示やワークショップが行われますで日本館をつくった経験です。
渡邉さんによると、SIKAは15年目くらいになるイベントで、毎年1月末から2月にかけて、おそらくラマダンの前に開かれます。期間中の来場者は10万人ほど、出展者は500名以上で、主にアラブ圏のアーティストだといいます。
SIKAの会場は、現在の国家元首であるモハメド・ビン・ラシード氏が生まれた場所でもある、運河沿いの歴史地区です。平屋の土壁でできた30から50ほどの伝統家屋をリノベーションし、1棟ごとにテーマを持たせて展示が並びます。
SIKAの変わった特徴は、毎日夕方4時に開場して深夜12時まで開いていることです。渡邉さんは、仕事帰りに立ち寄り、ライトアップされた空間で食や音楽とあわせて楽しむ「フェスっぽい」イベントだと説明しています。
陶芸協会の展示や、ムンバイのストリートカルチャーに影響を受けたアーティストの展示など、油絵や彫刻からメディアアートまでが並びます。基本的には「アラブ人によるアラブ人のためのイベント」という側面が強いそうです。
そのSIKAから、初めて非アラブの国際館として日本館をやってみないかというオファーが、前年の11月に渡邉さんへ届きました。開幕まで2か月ちょっとしかない中で、日本人アーティスト3組をキュレーションしてほしいという依頼でした。
それ自体が結構、もう何て言うんですか、ナイトメアっていうか、そんな直前でやってくれる人いるのかよっていう感じなんだけど。
途中でオファーした相手に直前で断られるトラブルもありつつ、最終的に3名のアーティストが参加しました。渡邉さん自身も壁画を描き、茶室で点茶をし、日本庭園をつくるなど、多くの役割を担ったといいます。
テーマ「不完全の崇拝」に込めたアンチテーゼ
渡邉さんが日本館の全体テーマに据えたのは「不完全の崇拝」という言葉です。普通は完全を求めたくなるものなのに、あえて不完全を掲げたところに狙いがありました。
渡邉さんの見立てでは、美術では西洋的な価値観のもと、完全性や左右対称、永遠に続くものが良いとされがちです。さらに経済成長の著しいドバイでは「より速く、より高く、より強く」が求められ、情報や物、財産が増えていくことが希求されているといいます。
それと異なる美意識もありうるよっていうアンチテーゼは、日本館として提示できるのかなという思いがあって。
渡邉さんが挙げる異なる美意識の例が、無常感や不在、そして金継ぎ ── 割れたり欠けたりした器を漆で接着し、継ぎ目を金粉などで装飾して仕上げる日本の修復技法。傷跡そのものを景色として楽しみますです。器が壊れたという来歴の中にこそ美しさが宿る、という価値観です。
日本館で並べようとした2つの美意識の対比を整理すると、次のようになります。
永続するもの、成長するもの、洗練されたもの。より速く、より高く、より強く
儚いもの、薄れてかすれて消えていくもの、わびているもの・錆びているもの
渡邉さんは、こうした日本らしさを伝統の中だけで見せるのではなく、現代のアーティストの作品の中に見出すことが面白くなりそうだと考えました。
「不完全の崇拝」という言葉は、およそ120年前に書かれた岡倉天心 ── 明治期の美術思想家。英語で日本や東洋の美意識を海外へ紹介し、『茶の本』はその代表作ですの『茶の本』に出てきます。茶道の要は不完全なものを崇拝することにある、という趣旨の一節です。
渡邉さんはまずこのテーマを定め、「日本館をやるならこれだろう」と考えたうえで、テーマに合うアーティストを探していったといいます。
負の彫刻、飲める雲、1ビットのランプ
日本館に参加した1人目は、国際的に展示を重ねる彫刻家の大西泰明大西康明さんです。山並みのような彫刻を天井から吊るした作品ですが、山そのものではなく、反転した「負の彫刻」だと渡邉さんは説明します。
大西さんの彫刻は、山の表面だけが薄くうねる1枚のシートとして表現されていて、その下は空洞になっています。鑑賞者は空洞の中に入り込み、彫刻を裏側から見ることになります。
素材は接着剤とビニールシートですが、見た目は非常に緻密で美しいそうです。現地でしか作れないサイトスペシフィック ── 特定の場所の環境や空間に合わせて制作され、その場所でしか成立しない作品のあり方を指す美術用語ですな作品で、大西さんは最初に現地入りし、何日もかけて制作しました。
2人目はAKI INOMATAさんです。荒木さんは「すごい好きなアーティスト」と反応し、渡邉さんはヤドカリが3Dプリンターで作ったマンハッタンの摩天楼の殻に引っ越す作品を紹介しました。
AKI INOMATAさんが今回出展したのは「昨日の空を思い出す」という作品です。ドバイの空を撮影して雲を3Dモデリングし、液体で3Dプリントしてガラスのコップに浮かべます。しかもその雲は飲むことができます。
雲はいずれ形を変えたり、なくなってしまうもの。それ(雲)を一度残そうとするも、グラスの中に飲むことによってまた失われていく。
この作品を聞いた荒木さんは、「いかのぼり昨日の空のありどころ」という句を思い出しました。荒木さんは、松岡正剛さんが影響を受けて編集に目覚めたという、空という儚いものに面影を見出す句だと語っています。
渡邉さんはさらに、ドバイは砂漠で晴れが多く、雲がそもそも珍しい場所だと指摘します。失われやすい雲を留めようとする試みが、作品の儚さをいっそう強めたと感じたそうです。
3人目は、オーストリアのリンツを拠点とするグループh.oh.oの小川秀明さんと小川由美子さんです。出展したのは、何年前か前の作品「AIR」で、離れた場所にいる2人のための一対のランプです。
「AIR」は、たとえば東京とドバイに同じ赤と青のランプがあり、東京では青、ドバイでは赤だけをオンオフできる仕組みです。ベッドサイドに置けば、相手が今本を読んでいるといった気配が伝わります。
渡邉さんは、ブロードバンドも普及していなかった時代に、あえて情報量を絞る方向へ舵を切った点が面白いと話します。誰もがFaceTimeを使える現代だからこそ、0か1の1ビットという最小単位で想像力を最大化することが、人間らしい営みに映るといいます。
ただ、当時の技術ではもう動かないため、Takramで再制作することになり、TakramのメンバーのミツルさんがAIRを作り直したそうです。
| アーティスト | 作品 | 「不完全」とのつながり |
|---|---|---|
| 大西泰明さん | 天井から吊るした反転の山並み「負の彫刻」 | 負や虚空の造形、その場限りの作品 |
| AKI INOMATAさん | 飲める雲「昨日の空を思い出す」 | 留めた雲が飲まれて失われる無常感 |
| h.o(小川秀明さん・小川由美子さん) | 離れた2人をつなぐ一対のランプ「AIR」 | 1ビットの情報で存在と不在を伝える |
ドバイの来場者はどう受け止めたか
荒木さんが現地の反応を尋ねると、渡邉さんは3つの作品それぞれに多くの人が喜んでくれたと答えました。
AKI INOMATAさんの飲める雲には実際に飲みたいという人が多く現れ、庭の中につくった茶室で飲むといった体験も行われました。
大西さんの「負の彫刻」は、天井から垂れる無数の細い黒い糸で吊られていて、その糸は実はグルーガンから垂らした接着剤です。膨大な時間をかけて作られたことが、部屋に入った瞬間にわかるといいます。
すごいものに出会ってしまったっていう。だから部屋に入った瞬間のワオみたいなものがあって、立ち止まってしまう。
h.oのランプは、部屋の反対側を遠い場所に見立てたもう一つの部屋とつながっていて、家族連れや友達同士が実際にコミュニケーションを体感していました。居心地のいいリビングのような設えに、猫がやってきて椅子の上で眠り出す場面もあったそうです。
余白の美学は「足し算の文化」に伝わるのか
荒木さんは、不完全の崇拝には余白や「間」が大事だと指摘します。たとえば長谷川等伯 ── 安土桃山時代の絵師。水墨画の「松林図屏風」は、霧の中に松林が浮かぶ余白の多い構図で知られる国宝ですの「松林図屏風」のように、間に想像力を投影して絵が完成する知的な作業が、ドバイの人々にどう受け止められたのかを問いかけました。
渡邉さんの答えは、最初は伝わらなかったというものです。まず運営チームに伝わらず、コンセプトを面白がってはくれても、良かれと思って用意してくれる道具の多くが不要なものだったといいます。
いやもう派手なもの、豪華なものが大好きだから。模様と情報で埋めたがるんで。
象徴的なのが照明の一件です。龍安寺の石庭を模した枯山水を静かな白熱色の光で照らしたいと依頼したところ、運営側は「一番日本っぽいの持ってきたよ」と、桜の柄のステンシルを持ってきて石庭の砂を桜柄でライトアップし始めました。
さらに運営側は「不完全の崇拝」という日本語の巨大な照明を勝手につくり、館の前に掲げました。渡邉さんは「外国の人がフェイクで作るTシャツじゃないんだから」と、それも取り外してもらったそうです。
なんか粋な感覚みたいのがないんだよね。その引き算していくっていうことによる美学みたいのはね。
それでも完成してみると、現地の人も「かっこいい」と受け止めたといいます。渡邉さんは、松林図屏風の余白が霧や奥行きを感じさせるように、余白は人を立ち止まらせ、考えさせる「想像への招待状」になると話します。
一方で渡邉さんは、余白はただ何もしないこととは違うと強調します。伽藍堂では説得力がなく、どのくらいが適切な間なのかを緻密に作り込む必要があるという考えです。
ガフの木の壁画と、一夜で作り直した枯山水
渡邉さんは、松林図屏風を模した壁画のドバイ版も制作しました。松の木を砂漠にも生えるドバイの国樹ガフの木に置き換え、砂嵐で半分ほどが余白になった向こうに、うっすらとドバイのスカイラインが見える構図です。
ガフの木の壁画はデータで作って大きくプリントしたもので、6メートル×2メートルほどの大きさで館の外に掲げられました。荒木さんは「僕はあんまり作れないとか言ってたけど、めちゃくちゃ作ってんじゃん」と驚いています。
日本館の石庭は、もともと作る予定ではありませんでした。ところがドバイ在住のロシア人の園芸家が、盆栽に見えるだろうと、うねうねとした全く違う木を植え始めたのです。
いや、これ(その木)植えた瞬間にもうフェイクの日本になるんで、すいません。
渡邉さんはその日来ていた5、6人の職人に解散してもらい、図面を引き直して、翌日職人と一緒に枯山水を作り直しました。石庭をめぐる前後の変化は次のとおりです。
園芸家が「松っぽい」と持ち込んだ、うねうねとした盆栽風の木を植える計画
図面を引き直し、現地の材料で見立てた枯山水の庭と2畳の茶室
作り直した庭では、ドバイのハイビスカスを紅葉に、ピンク色の石を日本の砂に見立てるなど、現地の材料で枯山水を表現しました。山梨から来た工務店の素朴屋素朴屋さんが2畳の茶室蒼庵を現地で組み立て、渡邉さん自身がそこでお茶をたてるセレモニーも行いました。
作り手になると、展示の見え方はどう変わる?
荒木さんは、この経験が今後のキャリアにつながりそうかを尋ねました。渡邉さんは、1棟丸ごとをキュレーションする体験は初めてで、素人ながらアートに引き続き関わりたいと答えています。
心のかけらをちょっと置いてきた、また戻りたいなっていう場所の一つになったというふうに思ってます。
荒木さんは、受け手の立場だけでは見えないものが、作り手になった瞬間に全く違う解像度で見えてくるのではないかと話します。渡邉さんも強く同意しました。
渡邉さんが挙げる細かな例は、キャプションの位置や高さ、上端揃えか中央揃えか、動線の考え方、誤植を直しやすくするための部品の分け方などです。キュレーターの説明を聞くと、作品に込められた批判的な眼差しなど、想像の及ばないことに気づけるとも話しています。
荒木さんは、受け手が自由に考えることは尊いと前提にしつつ、どのレイヤーで受け取るかによってインタラクションが変わると語ります。渡邉さんは、突き放せば誰にもわからず、説明しすぎれば野暮になると、その塩梅の難しさを付け加えました。
最後は、荒木さんが静静さんさんのアートゼミに通い、noteにウォーホルの記事などを書いている話題に。渡邉さんは記事の締めの「知らんけど」に笑ったと話し、2日にわたる雑談回は締めくくられました。
まとめ
渡邉康太郎さんがドバイのSIKAで手がけた日本館は、岡倉天心の「不完全の崇拝」を軸に、成長や豪華さを求める場所へ引き算の美を差し出す試みでした。現地とのすれ違いを経ながらも、緻密に設計された余白は来場者を立ち止まらせたといいます。
- SIKAは歴史地区の伝統家屋で夕方から深夜まで開かれるアラブ圏中心のアートフェスで、日本館は初の非アラブの国際館だった
- テーマ「不完全の崇拝」は、より速く・高く・強くを求める価値観へのアンチテーゼとして掲げられた
- 負の彫刻、飲める雲、1ビットのランプという3作品が、虚空・無常・不在を現代の表現で示した
- 桜柄の照明や盆栽風の木など、情報で埋めたがる現地の発想とぶつかりながら、枯山水や壁画を作り直した
- 余白は何もしないことではなく、最小限の情報を適切に配置する緻密さによって成り立つ

