年内最後の収録に迎えたゲストは誰?
超相対性理論の今回の収録日は12月25日で、2024年最後の放送にあたります。冒頭では、渡邉さんが香港からの帰りのフライトを逃した話など、年末らしい近況が交わされました。
はい。ということで、年内最後の収録になりますけれども、今回もまたスペシャルなゲストをお迎えした、はい、対談になります。
この回のゲストは、研究者の石田康平さんです。渡邉さんがJ-WAVEで担当するラジオ番組TAKRAM RADIOにも石田さんは出演しており、建築におけるVR的なものを扱った回は、今でもリスナーから声をかけられるほど反響があったといいます。
荒木さんと石田さんの出会いは、早稲田のキャンパスで開かれたドミニクさんのゼミ展でした。翼をつけて生活した人の記録や、失敗をテーマに椅子を彫刻する作品を、真夏の暑い日にみんなで見て回り、その後にカレーを食べたことを三人は懐かしそうに振り返ります。
2回目に会ったのは、パリコレでオートクチュールを発表する中里唯馬さんのコレクション発表の場だったそうです。
極楽浄土と茶室は「VR的なもの」なのか
石田康平さんの研究テーマは、歴史の中のVR的なものです。一般にVRは新しい技術だと思われていますが、石田さんはそれと通じる世界観が昔からあったと考えています。
石田さんが挙げる一つ目の例は極楽浄土 ── 阿弥陀仏がいるとされる苦しみのない世界。浄土信仰では、死後にこの世界へ生まれ変わることが願われましたです。別世界を作り、そこに向けて祈るという発想が、VR的な世界観と通じるといいます。
二つ目の例は茶室です。茶室はもともと別世界として作られており、にじり口 ── 茶室に設けられた小さな出入口。身をかがめて膝で進むようにくぐるため、日常から切り離される感覚を生むとされますをくぐるときの特別な体験が、別世界らしさを高める装置になっていると石田さんは説明します。
石田さんは、こうしたVR的なものが歴史の中に遍在し、時代とともに発展してきたのではないかという研究で博士号を取りました。本人は、建築なのかVRなのか、創作なのか研究なのか、少しわからない領域で活動していると自己紹介しています。
なぜ人が多く死ぬ時代にバーチャルが花開くのか
番組の習わしとして、石田さんが今回のテーマを投げかけます。夢、幻、宗教、呪術など、リアリティを複数化する文化をたどると、人がものすごく死ぬ乱世の時代に必ずそうした文化が花開く、というのが石田さんの問題提起です。
そもそもVRって言った時に、どっちかというとテクノロジーの方に目が行くじゃないですか。
突然そこで極楽浄土とかお能とか、そういう話に飛んでいくっていうのがちょっと面白ポイントその1なんだけど。
石田さんによると、日本では平安の終わりから室町の初めごろに、絵巻物、来迎図 ── 阿弥陀仏が死者を迎えに来る場面を描いた仏画。空間的な奥行きを感じさせる表現が見られます、お能、茶室など、別のリアリティを感じさせる表現が形式を持って一気に集まってきたといいます。
石田さんは、この時代が『方丈記』の時代と重なる点に注目します。『方丈記』の前段は災害の記述で占められ、飢饉で人が次々に亡くなり、亡くなった母親の乳を赤ちゃんがまだ吸っているような凄惨な場面も描かれています。
同じ時代の法然についても、父を殺した賊を討ったという記述が残るほど、人の死があふれていたと石田さんは語ります。そうした中で人々は別のリアリティに逃げようとし、新しい世界観を体験として感じられる形にまとめていったのではないか、という見立てです。
石田さんは、この構図が日本だけのものではないとも話します。VRで有名な日本・フランス・アメリカの三国を並べると、それぞれのVR的な文化は大きな戦争の時代に育っているといいます。
| 地域 | 時代 | 生まれたもの |
|---|---|---|
| 日本 | 平安の終わり〜室町の初め | 極楽浄土の世界観、絵巻物、来迎図、能、茶室 |
| フランス | 第一次世界大戦のさなか | シュルレアリスムの異次元的な世界観 |
| アメリカ | 第二次世界大戦後の冷戦期 | VRが発展する土壌 |
石田さんは、戦争や、一つの技術が世界を一気に変えてしまう状況を挙げ、現代もこれまでにない形の乱世ではないかと考えています。人間は生きている人の世界だけでなく、死者や夢や幻の世界とも交流しながら生きているため、胡散臭く見られがちなバーチャリティーを今どう考えるかを話したい、というのが石田さんのテーマです。
現代は本当に「死が近い乱世」なのか
石田さんの問題提起に対して、荒木さんはまず面白さを認めます。宗教も、死があるからこそその先を想像したくなる、という点が原動力になっていると荒木さんは考えています。
実際今はそんなに死は近くないと思うんですよ。むしろ長寿になってきていて、死というものがだんだん希薄化してるぐらいの感覚はあるような気がする。
荒木さんは、死を抽象化して捉えるのか、リアルな死として扱うのかが、この議論の焦点を決めると指摘しました。渡邉さんは「めちゃくちゃ冷静なコメントだな」と受け止め、どういう意味で現代が乱世なのかを石田さんに問い返します。
石田さんの答えは2つです。一つ目は、死が遠いと感じられるのは恵まれた一部の層ではないかという実感です。石田さんが関わっていたイスラエルのプロジェクトのエリアで虐殺が起き、音楽フェスの参加者が殺されていく状況を見て、死の近さに強いリアリティを感じたといいます。
二つ目は、変化の広がり方です。かつての宗教的な世界観は狭いローカルから少しずつ広がりましたが、今はChatGPTのような生成AIが出るとすぐ世界中に広がり、世界の構図が一気に変わる、と石田さんは話します。
荒木さんは、目を凝らせば死が近くにあるのは昔も今も同じだとしつつ、一般論としては死は遠くなっていると返します。そのうえで、トランプ現象に代表される分断から来る「リセットボタン欲求」には乱世感があり、そこからバーチャリティーが花開くという筋は通りそうだと述べています。
死が遠いのは恵まれた層だけで、目を凝らせば死はあふれている。生成AIのように変化が一気に世界へ広がる点でも乱世といえる
一般には長寿化で死は遠くなっている。ただし分断から来るリセットボタン欲求という意味での乱世感はある
渡邉さんは、三人の「チャンネルがまだ揃っていない」ことも含めて面白がります。渡邉さん自身は、生と死に限らず、企業人同士が分かり合えないときや、大統領選で二大政党の価値観が分かれるときのように、現代には様々な「あちらとこちら」の分断があると連想していました。
バーチャリティーに善悪はあるのか
荒木さんが分断の話とバーチャリティーのつながりを尋ねると、石田さんは、トランプの話はバーチャリティーの議論でなぜかよく出てくると明かします。そこで議論されるのは、良いバーチャリティーと悪いバーチャリティーはあるのか、という問いです。
石田さんの説明では、共同幻想のように皆で共有する別世界のイメージが、社会を良くない方向へ動かすなら作らないほうがいいバーチャリティーかもしれません。一方で、そうしたバーチャリティーによって守られるものや、生まれる規範もあります。
ただ石田さん自身は、何をもって善悪を決めるかは判断のしようがないと考えるタイプだといいます。仏教があったから戦争が起きたとしても、それで救われた人もいれば、平和な社会ができることもある、という例を挙げています。
石田さんはさらに、夢の社会学という領域を紹介します。昔は夢が嘘の世界ではなく神仏のいる本当の世界と考えられ、夢のお告げも真実とされていたため、昔の社会を知るには当時の夢も知る必要がある、という考え方です。個人には良い夢が社会には悪い夢だということもあり、どこまでを価値判断に含めるかが面白いテーマだと石田さんは話します。
渡邉さんは、この善悪の複雑さから、最近読んだ新書『香港と日本』を思い出します。現代の香港人が日本語で書いた本で、香港人のアイデンティティが中国大陸との関係で大きなテーマになっている、という内容です。
渡邉さんによると、香港の人々が誇りを持つ広東語が強い地位を得たのは、アヘン戦争後に香港の割譲を受けたイギリスが、北京との分断を強調するために広東語を公用語にしたことが関係しているといいます。
アヘン戦争後
イギリスが香港を割譲され、北京との分断を強調するため広東語を公用語にする
その後の世代
かつての敵国が押し付けたルールのもとで、広東語をネイティブとして育つ世代が生まれる
現在
北京中心の流れに戻されようとする動きに対し、反発が起こる
変えさせられたから戻そう、いや、戻りたくないみたいな。
一回変えられるには痛みは伴ったけど、もうそれをネイティブとして育ってきている世代がいて、さらにまた変えられるっていうのは辛くなってしまうみたいなね。
香港をめぐる状況は、ある世代には正義で、別の世代にはそうではないとも解釈できます。渡邉さんはこれを、善悪の価値判断の複雑さを示す例として挙げました。
戦争の記憶と「平和と暴力」の近さ
石田さんは、知り合いのドキュメンタリー作家が撮った作品の話をします。ミャンマーの国境から逃れ、タイの辺境で暮らす人々を記録したドキュメンタリーです。
石田さんはその人々の姿を、堀田善衞さんの自伝的小説『若き日の詩人たちの肖像』と重ねます。二・二六事件から第二次世界大戦ごろを描いたこの小説では、戦争に行かなければならない若者たちが、35まで、あるいは30を超えて生きられるかと考えながら、生きた証を残そうと文学に情熱を傾けていたといいます。
タイの辺境の人々も、30まで生きられないかもしれないからこそ、自らドキュメンタリーを作り、現状を記録して状況の改善につなげようとしていました。石田さんには、昔の日本と今のミャンマーが重なって見えたそうです。
そこから石田さんは、日本が戦争をした責任を今の人がどれだけ引き受けられるのか、という問いに触れます。土門拳の写真集『生きている広島』正式な書名には、凄惨な状況と同時に、戦争が終わってほっとした人々の表情も残っているといいます。
原爆を落とされた被害者意識を持つべきなのかもしれない一方で、日本人が戦争に突き進んだ歴史もあります。今の日本人が平和に生きている意義を考えると、平和と暴力は案外対立していないのではないか、と石田さんは語りました。
ZOOMやメタバースに人間生活の本質はあるか
渡邉さんは、生と死の隣り合わせが会話全体を貫いていると整理しつつ、次回以降の軸を石田さんに尋ねます。
石田さんが考えたいのは、メタバースやZOOMのように生活の中で増えたバーチャルなものを、「ちょっとヤバげ」「たまに便利」な技術としてだけ捉えず、人間の生活の問題として考えることです。
その試みとして、石田さんはMetaverseWindowsEscapeという作品を紹介します。ZOOMのように人を直接つなぐのではなく、ディスプレイに映したメタバースの街路の向こうの窓に、ZOOMの映像を映す構図の作品です。
相手の映像を画面に直接映す
メタバースの街路の奥の窓に相手を映す。距離感が調整され、かえって存在感を感じられることがある
誰かがいる・いない、交流できる・できないといった人間の生活のありようとバーチャルをどう結びつけるかが、石田さんの考えたいテーマです。
初回は完全になんか見失った感があるんだけど。(議論の)取っ掛かりが今見えてないんだけど。
荒木さんの率直な感想を受けて、渡邉さんは、次回のテーマを「交通整理」にしようと提案します。
ZOOMやメタバースのようなテックの話と、乱世や生と死の話が、なぜ同じ部屋で語られるのか。石田さんに見えているその角度に近づいてみることが第2回の入口になる、と三人は確認して初回を締めくくりました。
まとめ
初回では、石田康平さんが「乱世にVR的な文化が花開く」という仮説を示し、荒木さんと渡邉さんが現代の乱世や善悪の問題から問い返しました。議論はまだ散らばっていますが、その散らばりをどうつなぐかが次回以降の焦点になります。
- 石田さんは、極楽浄土や茶室、能、絵巻物などを、歴史の中のVR的なものとして捉えている
- 日本の平安末〜室町初期、フランスの第一次世界大戦期、アメリカの冷戦期など、人が多く死ぬ時代にVR的な文化が育ったというのが石田さんの見立て
- 荒木さんは現代は死が遠いと指摘し、乱世をどう定義するかが論点になった
- バーチャリティーの善悪は判断が難しく、香港の言語や日本の戦争の記憶もその複雑さの例として語られた
- 次回は、ZOOMやメタバースと生と死の話を結ぶ石田さんの視点を「交通整理」していく


