前回までの議論、どこまで来ていた?
「僕たちは集団的不安に打ち勝てるのか」の最終回は、渡邉さんによる振り返りから始まります。深井さんが「進捗が悪いから終わんないかもしれない」とこぼすほど、この企画は寄り道を重ねてきました。
前回までのテーマは、他者をめぐるナラティブを、アメリカと日本がそれぞれどう見ているかという点でした。荒木さんの対談をきっかけに、西洋思想と仏教的な考え方を「OS」にたとえて対比する話も出ています。
実在論や唯物論が多く、目に見えるものや数字を重視しがち。一神教では神の意思や目的が重要な位置を占める
唯識論のように認識を重視する。多神教的な日本OSとあわせ、ナラティブを相対化しやすいのではという仮説が出た
この対比から、仏教OSが今のアメリカにインストールされれば、お金を稼ぐことや大きな家に住むことといった物質主義的な価値が相対化されるかもしれない、という見方も示されました。
ただし渡邉さんは、日本は宗教観としてはアドバンテージがあっても、実戦としては経験不足ではないかと指摘していました。異なる人種や宗教が可視化されにくい環境では、自分の常識を覆してくれる他者に出会う機会が少ないという理由です。
同調圧力の国で「アンチテーゼ」は言葉になるか
振り返りの後半は、荒木さんの反論から始まった議論です。荒木さんは、違いとは相対的なものなので、同質的に見える日本でも細かい違いは日々経験しているのではないかと問いかけていました。
これに対して渡邉さんは、同調圧力のある日本では、あるテーゼへのアンチテーゼを言語化しないままコミュニケーションを済ませてしまうと返しています。アンチテーゼすら言葉にならない以上、新しいテーゼに至る挑戦の経験は、人口全体で見ても少ないかもしれないという見立てです。
荒木さんは、レヴィナス ── エマニュエル・レヴィナス。20世紀フランスの哲学者で、他者の他者性や倫理を中心に論じた。リトアニア出身のユダヤ人ですエヴィタスの哲学が他者との断絶を前提にしているのは、本人がリトアニア系ユダヤ人というマイノリティだったからではないかとも話していました。本で想像や勉強はできても、それを身体知にするには距離がある、というのが振り返りの締めくくりです。
すごいな。よくまとめれるな、マジで。
事実について語り合えない社会は、日本にも来たのか?
渡邉さんは、最終回では不安について仮の着地でもいいから何か示したいと提案します。第1話で深井さんが語ったのは、違うナラティブがあることが顕在化し、その衝突から不安が生まれているのではないか、という見立てでした。
深井さんはここで、『世界秩序が変わるとき』の著者・斎藤仁さんの言葉を紹介します。アメリカの分断とは、一つの事実について議論しているのではなく、そもそも何が事実かで意見が分かれてしまっている状態だというものです。
それってめっちゃもう議論になんないから、まじむずいみたいなこと(斎藤さんは)言ってたんだけど。
日本もまさに今その状態に突入したなと思ってて。この前の選挙ぐらいから。
深井さんが強調するのは、自分自身がその分断を不安に思っているわけではないという点です。多くの人がアメリカのような分断社会になっていくことを不安に思っているのではないか、と推察しているのだと話します。
SNSが罵倒のし合いになっていることや、意見が違うと思っていなかった経営者仲間の発言に驚くことなど、一つ一つの現象を深井さんは悪いとは思っていません。ただ、ニュースを少し見るだけでも、不安を煽られている感覚があるといいます。
僕が悪いと思ってないのにこの場に出してるから結構バグってると思うんだけどね。
議論は昔からできていたのか?
荒木さんは、事実をベースに対話ができなくなっているのはやはり悪いことではないか、と問い返します。深井さんの答えは、そもそも今までは議論ができていたのか、という問いでした。
良くも悪くも僕、日本って議論もしてないと思うし、今までの政治と今の政治で昔の方が良かったかって言われると、そんなことないなって個人的には思ってる。
ただ(政治に)関心なかっただけでしょって感じ。
深井さんによれば、アメリカも昔から一つの事実を事実として扱えない状態だったといいます。解釈が分かれる現象は古代から続いており、今はSNSが媒介しているだけで、SNS以前にも噂話はあったという見方です。
さらに深井さんは、問題が表に出ていなかっただけだとも話します。アメリカ一強の時代にもウクライナ戦争以前から戦闘地域はあり、その人たちにとっては今のほうが良くなっている可能性もある、という例を挙げました。
戦国時代と比べると、今の不安はどう違う?
荒木さんは少し話をずらして、戦国時代を例に出します。タイムリーな情報伝達ができなかった時代は、相手が本当に自分を信頼しているのかもわからず、隣国に誰がいるのかも見えない、非常に不安な状況だったはずだというのです。
誰かがこういうあれで殺されましたっていうのも、本当にあいつ謀反を起こしたんじゃねえかとか、なんかそういうのも想像で不安になる。
この比較から、荒木さんは深井さんの「昔からそうだった」という見方に納得します。そのうえで、不安や恐怖を刺激しやすいメディアと、そのスピード感は今のほうが確かに強いと付け加えました。
写真も情報伝達手段もなく、何が事実かわからないまま想像で不安になる。広まる速度は遅い
AI生成で写真や映像の信頼性が覆され、ソーシャルメディアで真実かのように流通し、すぐ周知のものになる
深井さんは、インテリやエリートの人たちにとって不安な世界になっている理由も挙げます。かつては世界が自分たちの言説で満たされていたのに、今はそうではない言説を言う人の存在が目立っているからです。
元からそうだったんだと。ただ、あなたの目の前で言わなかっただけなんだろうなっていう感じがする。
統計も取っていない不安に、なぜ誰も反対しないのか
深井さんは、ここが問題の核心だと語ります。みんなが本当に不安なのかは統計を取っていないのでわからないのに、「不安がってますよね」と言っても、今は反対する人があまりいないという点です。
深井さん自身の中にも、みんなが不安がっていると感じて不安になる現象が起きています。内面化された集団心理が世界情勢を怖がっていて、その感覚はおそらく多くの人、特にインテリ層と共有できるだろうと深井さんは考えています。
渡邉さんは、自分はあまりニュースに触れていないだけかもしれないと応じます。それを受けて深井さんは、この感覚自体がファクトではなく、アサンプション ── 前提・思い込みのこと。検証されないまま当然視されている仮定を指し、ビジネスや議論の場でもよく使われる言葉ですから来るナラティブだと言い切ります。
この回の議論で浮かび上がったのは、ファクトではないナラティブで世界が動いているという現実そのものに、今になって気づき始めたことへの戸惑いでした。
森で聞こえる正体不明の音は、怖がるべきなのか?
深井さんは、今の感覚を森にいる状態にたとえます。よくわからない音が聞こえるが、正体がわからないので危険なのかどうかも判断できない、という状況です。
全てがナラティブで、そしてそのナラティブ自体はファクトじゃなくて、でもファクトじゃないもので、まさにこの世界は動いている。
渡邉さんはこのメタファーを受けて、声の正体が犬だとわかれば備えられるが、わからない状態がいちばん怖いのだと整理します。さらに、「声なんて聞こえない」という人もいるのではないかと問いかけました。
深井さんは、そういう人も実際にいると認めつつ、自分の環世界 ── 生物学者ユクスキュルが提唱した概念。生き物はそれぞれの知覚と行動で構成した固有の世界を生きている、という考え方ですでは声が聞こえると感じている人のほうが多いと話します。出雲の両親と話せば、パートの愚痴を聞いて「何も変わってねえな」となるかもしれない、とも笑います。
自分の環世界のアサンプションに振り回されてるっていう事実は変わらないよね。僕が。
違いを乗り越える鍵は熟議だけではない?
渡邉さんは、アサンプションに振り回されない方法には正直あまり答えがないとしたうえで、みんながある程度の不安を持っていると一度決めつけて、その乗り越え方を考えようと提案します。
渡邉さんの第一の仮説は、自分と異なる価値観を持つ人とたくさん出会うことです。政治的な対立も、単純な右翼と左翼ではなく、どちらにも大事な要素があるはずなので、自分の考えを構成する要素を細かく捉えてみることが役に立つといいます。
第二の仮説は、会話や熟議だけではない方法です。渡邉さんは、みんなで音楽を聴く、みんなでキャンプに行くといった、共通体験や身体性に可能性を見ています。
儀式ってみんな感じる不安を乗り越える一つの知恵だったんじゃないかっていう気はするよね。
渡邉さんが挙げたのは、儀式をテーマにした分厚い本『リチュアル』です。深井さんもこの本を知っていて、共通体験の強烈さに深く同意します。
バングラデシュの人々はどこに戻ってくるのか
深井さんは、共通体験の強さをバングラデシュを訪れたときに実感したと語ります。バングラデシュは1970年代ごろにパキスタンから独立した若い国で、歴史を遡りすぎるとインドやパキスタンとアイデンティティが重なってしまいます。
バングラデシュにはチベット系などマイノリティの民族もいて、宗教もイスラム教ではない人たちがいます。深井さんがそうした人たちにバングラデシュ人としてのアイデンティティを尋ねると、返ってきたのは独立戦争で一緒に戦ったという話でした。
共通体験持ってるっていうところにみんな必ず戻ってくるんだよね、彼らは。
深井さんは、それがナラティブであり、ナショナリズムでもあると認めます。それでも、みんなで戻れる場所があることを「すごいいいな」と感じたといいます。
オードリー・タンの合意形成と「見えない共通点」
渡邉さんはさらに、オードリー・タン ── 台湾の初代デジタル担当大臣を務めたプログラマー。市民参加型の政策づくりやデジタル民主主義の取り組みで知られていますが関わるWeTaiwanWeTaiwanの取り組みを挙げます。オンラインで熟議し、対面で会議し、政策に反映するというプロセス自体を設計したものです。
オンラインで熟議
Uberのような具体的な問題について、さまざまな意見が出て対立から始まる
対面で会議
次第に合意していくプロセスが可視化される
政策に反映
傍観者もいつの間にか輪の中に入り、関与していく
渡邉さんは、このプロセスは直接身体を伴うわけではないものの、議論の存在をタイムリーに感じることが、立ち返る核の一つになるかもしれないと考えています。
渡邉さんはもう一つ、知り合いと「実はこの時期に同じ街にいた」と判明して盛り上がる体験を紹介します。直接出会っていなくても、そう信じるだけで、同じ中学だったような謎のつながりが生まれるというのです。
渡邉さんの結論は、実際の共通体験と、見えない共通点を探すことの両方が、不安を乗り越える助けになるかもしれない、というものでした。
3人の共通体験はイスタンブールで
深井さんは、着地しきれてはいないかもしれないが面白かったと振り返り、3人もまた共通体験をしに来年どこかへ旅に出ようと話します。荒木さんによれば、第一候補はイスタンブールです。
渡邉さんは事前学習図書として、小島剛一さんの中公新書『トルコのもう一つの顔』書名表記を勧めます。ストラスブールの大学を拠点に、トルコでマイノリティの言語を採取した言語学者のフィールドワークの本です。
(この本は)クライムサスペンスにも読めてしまうくらいすげえスリリングなんですよ。
最後には、香港で収録した古典ラジオ用の音源がまだ渡されていないことを荒木さんが指摘し、深井さんが謝る場面もありました。深井さんは、イスタンブールではその場でデータを抜き出してアップロードしようと提案し、次回はもう少し話しやすいテーマにしようと笑って締めくくっています。
まとめ
最終回では、集団的不安を「正体不明の音が聞こえる森」にたとえ、その不安自体がファクトではないナラティブかもしれないという地点まで掘り下げました。そのうえで、異なる価値観との出会いや、共通体験・儀式・見えない共通点が、不安を乗り越える手がかりとして示されています。
- 事実について語り合えない状態は昔からあり、SNSやAIが可視化とスピードを強めただけだと深井さんは見ている
- 「みんな不安がっている」という感覚自体が、統計に基づかないアサンプションから来るナラティブかもしれない
- 渡邉さんは、異なる価値観の人と出会い、自分の考えを細かく捉えることを提案した
- バングラデシュの独立戦争の例のように、みんなで戻れる共通体験は不安を払拭する力になりうる
- 合意形成の可視化や見えない共通点探しも、立ち返る核になるかもしれない



