「見る」から「触れる」へ、前回までに何が語られたのか?
今回の対談は、詩人の今宿未悠さんが「マクロレンズで世界を見ているというより、触れている感覚を得た」と話したところから始まったシリーズの続きです。冒頭では渡邉康太郎さんが、前回までの議論を振り返っています。
渡邉さんの振り返りによれば、写真には世界との関係を結び直す力がありそうだという話が出ていました。一方で、フォーカスやフレームで「これを見ている」と意思表明すると、対象と距離を取ってしまうという見方も示されていました。
これに対して今宿さんは、一口に写真やカメラといってもアフォーダンス ── 環境やモノが、人にどんな行為の可能性を差し出しているかを表す概念。生態心理学者ジェームズ・ギブソンが提唱しましたはさまざまだと応じていました。渡邉さんのカメラは距離を取ることを促し、マクロレンズは近づくことを促すのかもしれない、という整理です。
さらに、写真を「撮る」はテイクにもサンプルにもレコードにもキャプチャーにもハントにもなるという話や、ファインダー越しの揺れる身体感覚とシャッターを切る瞬間がそれぞれ楽しいという話もありました。
荒木博行さんは前回、私たちは大半のものを記号として見ていて、そこには身体性が伴っていないのではないかと問題提起していました。そこで今回は「どんなレンズを持てば、世界を再び身近にできるのか」をブレストする回として進みます。
逆さに写すと、なぜ絵が描けるようになるのか
渡邉さんが最初に挙げたのは、デッサン指導で知られるベティ・エドワーズ ── アメリカの美術教育者。右脳・左脳の働きの違いを手がかりに、誰でも描けるようになるデッサン教育を広めましたの本『脳の右側で描け』です。絵の教室に来る人の多くは、棒人間やへのへのもへじのような顔を描いてしまうといいます。
渡邉さんによると、そうした絵はどれも記号化していて、観察していないことの表れです。しかも描いている本人は、自分が記号をそのまま写しているだけだということに気づいていません。
ベティ・エドワーズが示す処方箋はシンプルで、誰かの絵を上下逆さまにして模写するというものです。逆さにすると突然脱記号化が起こり、本当に見ることが始まるといいます。
たとえば眼鏡なら、「丸と線でしょ」で済ませずに、光が反射する部分や、フレームの曲線と直線のつながり方を観察し始めます。渡邉さんは、ここに記号を外すための世界との触れ合い方がありそうだと話しています。
普通に模写すると「眼鏡は丸と線」のように記号化し、観察せずに描いてしまう
上下逆さにすると記号が外れ、光の反射や線のつながりを観察し始める
だから上下逆さにするだけで、僕らはそれ(絵)をゼロから必死に知覚しないとダメだっていうモードになるんだろうね。
だから普通に見てるとショートカットしちゃうってことなんだよね。
荒木さんはこの話を、自身が十勝で行っている取り組みにつなげます。知らないビジネスパーソンが15人ほど集まってチームでアクティビティをする場で、最初の出会いの場面では名刺交換も、自分の属性を語ることも一切禁止にしているそうです。
荒木さんは、Takramでデザイナーをしている渡邉康太郎です、と名乗られれば、それだけで強い記号情報になると例を挙げます。「何々銀行の頭取です」と言われた瞬間に人は構えてしまいますが、ただのおじさんが目の前にいるだけなら、フラットに観察できるといいます。
荒木さんは、属性を隠すと参加者はお互いを必死に観察し始めると話しています。名刺を禁じる試みは、人を本人ではなく周囲の社会的記号で見てしまう状態を崩すという意味で、絵を逆さにする方法と似ているのではないか、という見立てです。
詩を生かし続けるための答えは「行為せよ」
二人の話を受けて、今宿さんは詩を書くことについての自身の考えを語ります。今宿さんにとって詩作は、言葉や世界をいかに生かし続けられるかの戦いで、生かせなくなると何も書けなくなってしまうといいます。
試行錯誤の末に今宿さんがたどり着いた答えはシンプルで、身体に関わるものでした。世界を生かすためには行為せよという考えです。
今宿さんは雲ノ平での滞在制作の写真を見せながら説明します。岩があれば乗っかりに行き、抱きつく。沼があれば入って、泥を自分の手に塗りつける。そうした行為をすると世界は簡単に変化し、新しい世界と自己の様相が引き出されるといいます。
今宿さんによれば、ただ眺めたり写真を撮ったりするだけでは何も起きません。冷たい水に手を触れれば手の温度も水の温度も変わるように、対象に接触することで自己と環境は変わり続け、その中で詩は勝手に立ち上がり、書くべきことが浮かんでくるのだそうです。
行為する
岩に抱きつく、沼に入る、泥を手に塗るなど対象に接触する
互いが変わる
手の温度も水の温度も変わるように、自己と環境が変化する
新しい相が現れる
世界と自己の新たな様相が引き出される
詩が立ち上がる
書くべきことが勝手に浮かんでくる
今宿さんは、渡邉さんの逆さ模写も荒木さんの名刺禁止も、この「行為」の一種だと捉えます。絵を逆さにするのは環境を変える行為であり、名刺を奪われれば「この人はどういう人だろう」というコミュニケーションが誘発される、という見方です。
荒木さんは今宿さんの話を、岩の例で言い直します。普通は「大きめの岩が水たまりの上にあるね」と見て終わりますが、乗ってみたり体のいろいろな部分で触れてみたりすることで、岩という記号すら外した何かを感じられるのではないか、という理解です。
荒木さんはここで、精神病理学者の木村敏さんの言葉を借りて、岩という「リアリティ」と、岩らしきものの「アクチュアリティ」を区別しています。
今宿さんは、行為によって近づけば岩のキメが見え、重力の向きが変われば頭の感覚も変わると補足します。さらに、好きな哲学者として中村雄二郎さんの『臨床の知とは何か』を挙げ、そこにある一文を紹介しました。
中村雄二郎さんの本から今宿さんが引いたのは、「実践とは、各人が責任を持ってする行為によって現実の諸相が引き出されることである」という一文です。今宿さんは、パッケージ化されて閉じた現実のさまざまな相は、実践によってしか引き出せないという趣旨だと説明しています。
美術館や都市では、どう行為すればいいのか?
今宿さんの「行為せよ」に共感しつつ、渡邉さんは実践上の問いを投げかけます。あらゆる場所で岩を抱くわけにはいかず、美術館や博物館では対象に触れられないため、視覚や思考が優位になりがちです。社会の中では行為できる場面とできない場面がある、という問題提起です。
荒木さんはその問いに入る前に、今宿さんの話自体の面白さを強調します。世界が平凡に見えるのはリアリティの世界で生きているからで、記号を外せばそこには新しい世界がある、という受け止めです。
(日常で記号を外すのは)認知リソース食いまくるんで。疲れちゃうみたいな。
シンプルにね。だからリアリティの世界で生きる方が楽なんですよね。これ岩だよね、OKみたいな。
荒木さんによると、リアリティの世界では認知リソースを最小限に抑えられるので、多くのことを認知できます。逆に岩と行為していると、岩の中にディープダイブするため、岩しか感じられなくなるといいます。
「岩だね」「森だね」と記号で済ませる。認知リソースは少なく楽で、多くのものを認知できる
岩に触れて深く入り込む。新しい世界が見えるが、認知リソースを使い、その対象しか感じられない
渡邉さんは今宿さんに、雲ノ平の滞在制作に事前のテーマがあったかを尋ねます。今宿さんによると、小屋主のジローさんから「自然とは何か、それをアーティスト一人ずつの視点から表現してください」という大きな問いだけが示されていたそうです。
今宿さんは、その場にいても何も感じられなかったので「じゃあ入ってみちゃえ、抱いてみちゃえ」という感覚だったと振り返ります。社会通念に縛られない自由さがあったからこそ、ああした行為が可能だったとも話しています。
では都市や日常の中ではどうするか。今宿さんは、きれいな答えになってしまうと断りつつ、カメラを持って知覚様式を変えることが別の行為を促す手軽な方法の一つだと述べます。ただ、それでは話が元に戻ってしまうので、別の方法も考えてみたいとしています。
ダメな歌への耐性と「多作多捨」が教えること
渡邉さんは、最近読んだナナロク社 ── 詩歌や短歌の本を多く手がける日本の出版社。現代短歌の歌集でも知られていますの歌集副読本を紹介します。『老人ホームで死ぬほどモテたい』と『水上バス浅草行き』の2冊を、著者の上坂あゆ美さんと岡本真帆さんがお互いに読み合い、読解を書き合う本です。
渡邉さんが印象に残ったのは巻末エッセイでした。2人の歌人はClubhouseやTwitterで公開型の歌会を開き、リスナーからのお題に対して短歌を3首や5首作って持ち寄り、見せ合いながら語り合っていたそうです。
締め切りやテーマが自分の意思とは違うところからやってくるのが良かった、と2人は書いているといいます。数を揃えようとお題をいろいろな角度から見つめることになり、苦手なテーマでも新しい切り口が生まれたそうです。
さらに、うまくいかなかった歌も含めてすべてTwitterで読めるようにしたことで、自分のダメな歌に対する耐性が生まれたといいます。渡邉さんはこれを、毎回ホームランでなくてもバッターボックスに立ってバットを振り続けることが大事だという話として紹介しています。
ダメで当たり前だが、行為し続ける、創作し続けるみたいなことだよね。
渡邉さんは、短歌という表現の手段は自分で決めていても、テーマは外から来るという点にも注目します。自分で決めたことと決めていないことが両方あるからこそ、異物が入って考えざるを得なくなり、硬直状態に陥らないのではないか、という見方です。
今宿さんはこれに、俳句の「多作多捨 ── 多く作って多く捨てることを勧める俳句の心得。数をこなす中で良い句が生まれるという考え方です」という考え方を重ねます。また、波多野爽波さんの「俳句スポーツ説」も挙げ、テニスのラリーのように多く作り多く捨てることで反射を鍛え、上達するという話だと理解していると述べました。
今宿さん自身も、詩を書いていて卓球をしているような気分になることがあるそうです。テーマやモチーフ、イメージは自分の中から湧き出るというより、行為する中で外からやってくるもので、まさに外部性の話だと捉えています。
今宿さんは、郡司ペギオ幸夫さんの本『やってくる』にも触れ、外からやってくるものによって書かされる感覚があると話します。そこに自分を開き続け、何度も打ち返し、行為したことをよすがに創作することが大事だと締めくくりました。
最後に荒木さんは、次回の冒頭で自分自身のささやかな「異化する行為」の話をすると予告し、全4回の最終回へとつながります。
まとめ
今回の対談では、記号として世界を見てしまう状態をどう崩すかが、逆さ模写、名刺禁止、身体での行為、他者からのお題と多作多捨という具体的な方法を通して語られました。今宿未悠さんの「行為せよ」を軸に、日常で行為することの難しさにも触れつつ、外から来るものに自分を開き続ける姿勢が浮かび上がっています。
- ベティ・エドワーズの逆さ模写は、記号化した見方を外して本当に観察を始めるための簡単な方法として紹介されました
- 荒木博行さんは名刺や肩書きを強い記号情報と捉え、属性を伏せて出会う実験をしています
- 今宿未悠さんは、触れることで自己と環境が変わり、その中で詩が立ち上がるとして「行為せよ」を掲げています
- リアリティの世界は楽で効率的ですが、記号を外して深く関わるには認知リソースが必要だという難しさも語られました
- 外から降ってくるお題や多作多捨は、ダメな作品への耐性を育て、行為し続けるための仕組みとして共有されました



