写真を撮ると、世界との関係はどう変わる?
この回は、前回の振り返りから始まります。今宿未悠さんは雲ノ平山荘でマクロレンズを借りて写真を撮ったとき、視覚の媒体なのに「見ている」というより「触れている」感覚を得て、自分は世界を見たいのではなく触れたいのではないかと気づいた、という話が前回の中心でした。
前回の話題にはほかに、伊藤亜紗 ── 身体論や障害の研究で知られる日本の美学者。視覚に頼らない世界の捉え方や「触れる」ことについての著作がありますさんのいう「距離感マイナス」のように、相手の中へ入っていく関わり方が何なのか、という問いもありました。
写真初心者だという渡邉康太郎さんは、写真を撮ろうとする行為そのものが世界との関係を結び直していると話します。渡邉さんのカメラにはオートフォーカスがなく、自分でレンズを回して距離を測る必要があります。
この場所にフォーカスを合わせようと思った時に、これを見てるんだぞっていう態度表明をするわけですよね。
同時にこれは見ていないんだぞっていうのの表明をしなきゃいけなくて、何をフォーカスの外に出すのか、何をフレームの外に出すのか。
渡邉さんにとってピント合わせは、見るものと見ないものを同時に選ぶ行為です。その選択によって、そこにあるだけの景色を、見方次第で作品にできるのが写真という媒体だと渡邉さんは考えています。
「これを見ている」という表明。撮りたい場所を選ぶ
「これは見ていない」という表明。何を外に出すかを選ぶ
渡邉さんのライカのカメラは、最短撮影距離が70センチほどで、テーブルの上の料理や隣の人は撮れません。渡邉さんは、一定の距離を保たなければいけないこの制約も、世界との関わり方を規定していると話します。
ボケてていいからテーブルの上を撮るとか、目の前にいる人を撮るみたいな態度になってくるっていうね。
渡邉さんは、その限界や制約自体を楽しむようになってきたといい、これが撮るときの根本的な土台だと語っています。
カメラが促す身体の姿勢、都市と自然で何が違うのか
渡邉さんのカメラの話を受けて、今宿さんは2つのことに気づいたといいます。1つは、渡邉さんの写真に多いボケは、レンズの性質が規定していたのだという単純な発見でした。
もう1つは、「カメラ」というくくりが問いの立て方として大雑把すぎる、ということです。今宿さんは、カメラごとにアフォーダンス ── 環境や道具が、そこに関わる生き物に特定の行為を促す性質のこと。心理学者ギブソンが提唱した概念ですが全然違うのだろうと話します。
今宿さんの見立てでは、70センチより近いものがボケる渡邉さんのカメラは、むしろ距離を取ることを促します。一方でマクロレンズは、全部近寄らなければ撮れないため、近づくことを促す道具だといいます。
今宿さんがもう1つ重要だと考えるのが、撮るときの身体の姿勢です。帰ってからマクロレンズを自分で買って都市で撮影したところ、身体の感覚がまったく違ったといいます。
今宿さんによれば、都市は人がいて、地面は靴で歩く場所で、止まったり寝転んだりしてはいけない環境です。姿勢が近代的な人間の二足歩行に強く規定されています。
雲ノ平の自然では、登山道を少し逸れると人はあまりおらず、寝転がっても、くにゃくにゃしながら近づいて撮ってもかまいません。今宿さんは、そうした身体の態度も「触れる」感覚を得るために重要なのだろうと話しています。
荒木博行さんは、カメラがない時の人間も視力という「レンズ」の制約を受けていると指摘します。
だからその視力によって距離感みたいなものも規定されているわけだし、ものを見る時の。
「撮る」は1つではない。取る・採る・録る・捕る・獲る
渡邉さんは、写真を撮るときの身体性を言葉の面から考えます。英語ではTake a photoといい、日本語では「撮る」と書きますが、日本語の「とる」にはたくさんの種類があります。
渡邉さんは、手に取る「取る」、標本を採取するサンプリングの「採る」、レコーディングの「録る」、引っ捕らえる「捕る」、ハンティングの「獲る」を挙げ、写真にはそのどれもがある気がすると話します。
| 表記 | ニュアンス | 写真での場面 |
|---|---|---|
| 取る | 手に取る、テイクする | 一般的な撮影 |
| 採る | 標本を採取する、サンプリング | 対象を切り出す |
| 録る | レコーディング | 通り過ぎていく電車を撮る |
| 獲る | ハンティング | ストリートスナップ、動物の一瞬 |
| 捕る | 捕捉する、引っ捕らえる | 一瞬を捉える |
渡邉さんは、写真で何に触れているのかを考えるとき、触れるような距離もあれば、触覚以外のものをたくさん撃ち、狩り、サンプリングしている可能性もあると述べています。
ファインダーの中の「グワングワン」と、押さざるを得ない一瞬
今宿さんは、写真の体験には2つの面白さがあると話します。1つはファインダーを覗いているときの、世界がグワングワンと揺れる感じです。もう1つは、その中から「今だ」という一瞬を切り取ることです。
今宿さんは、シャッターを切る瞬間について、自分が「ここだ」と思うだけでなく、「ここだ」と思わされて押さざるを得ない時がある、とも語っています。そして「触れる」感覚により強く関わるのは前者のグワングワンしている時間だといいます。
マクロレンズはピントが本当に一部にしか合わないため、ファインダーの中が揺れるように感じられるそうです。渡邉さんは、グワングワンしていること自体を大事な情報だと受け止めます。
マクロレンズでやってるとほんとグワングワンするって感覚はめちゃくちゃわかって。さらにどこにピントを当てるかによって世界の立ち現れ方が全然違う。
何もない都心にある植え込みとかにレンズ当てるだけで、なんか全然うわっみたいな。ここ都心なの?みたいな。
一方で荒木さんは、マクロレンズでの発見は自分にとって視覚情報だけだといいます。荒木さんにとって、視覚と触覚がどうつながるのかはまだ答えが見えない未知の世界でした。
写真を見返して日常が揺らぐ。哲学研究者・近内悠太さんの体験
荒木さんの「視覚と触覚のつながりは未知」という言葉に、渡邉さんは「未知でもない気がする」と応じ、哲学研究者の近内悠太さんとのエピソードを紹介します。
渡邉さんと近内さんはイタリアンのオープンキッチンレストランのカウンターに並んで座っていました。渡邉さんがその場でカメラを渡すと、近内さんは距離を測りながら、薪火のある厨房で料理人の手や火が入るところを撮影したといいます。
(近内さんは)見返している時になんか彼はそれこそなんかクラクラしてるんですよ。
渡邉さんによれば、近内さんは「日常が揺らいでしまう」「あらゆるものがユニークでオリジナルな瞬間になってしまう」「祝福されているようだ」と話し、自分の慣れ親しんだ身体が変わってしまうような衝撃を受けていたそうです。
渡邉さんは、近内さんの衝撃は脚色された美しさではなく、自分は日常を実は見ていなかったのだと気づくことにあった、と振り返ります。
ただ渡邉さん自身は、撮ったものを見返しても、すぐには美しいと思えないことが多いといいます。そこで渡邉さんは、近内さんがしていたのは視覚だけの体験ではなく、過ぎ去った一瞬の反芻だったのかもしれないと想像します。
写真によって瞬間冷凍された一瞬凍ったままの時間に触れることで、ただ冷たい時間以外のものがわっと伝わってくる。
薪火から伝わる熱や、遠くで作られるペペロンチーノのにんにくの香りまで、1枚の写真から解凍できるのではないか、というのが渡邉さんの考えです。だとすれば荒木さんも、視覚を頼りに残りの4感が道連れに訪れてくる体験をすでにしているかもしれない、と渡邉さんは指摘します。
リアリティとアクチュアリティ、記号の手前にある体験とは?
荒木さんの「感覚器官はつながっている」という話を受け、今宿さんは個人的な問題意識を語ります。雲ノ平では「自然とは何か」が大きなテーマになっていたといいます。
今宿さんは、景勝地や展望台の絶景にあまり感動できないそうです。綺麗だと人は思うだろうが、と感じてしまう。それに対してマクロレンズでの体験は違っていました。
今宿さんがその違いを説明するのに使ったのが、木村敏 ── 日本の精神科医・精神病理学者。現象学的な観点から自己や時間を論じ、リアリティとアクチュアリティの区別でも知られますのリアリティとアクチュアリティという言葉です。
認識が完了した状態。「これはペンである」「これは山である」とわかっている
認識が完了する以前の、言葉にしえないまざまざとした体験
今宿さんは、人間は普段あらゆるものをリアリティで完結させてしまい、それは視覚優位で理性的な捉え方だと話します。その手前にあるアクチュアルな感覚が、マクロレンズなどによって引き出されるのではないかと考えています。
これは本である、だから本だよねとかね、まあすでに記号情報が与えられて、認識がそこを単に後追いしているだけみたいなところがある。
荒木さんは、マクロレンズで見る世界は、前回話題になった地衣類のように、まだ名前の与えられていない存在だといいます。名詞がないから、触ったら、食べたら、どんな匂いだろうと、一瞬で感覚器官が研ぎ澄まされるのかもしれない、と荒木さんは考えます。
荒木さんは、その瞬間に「距離感マイナス」の感覚に陥るのだろうという見立てが、めちゃくちゃしっくりきたと語っています。
異なるレンズを持てば、世界にもう一度触れ直せる
渡邉さんは、ここまでの話を「異なるレンズを持つこと」としてまとめます。マクロレンズという文字どおりの意味でも、異なる感覚で世界に向き合うという意味でもよいといいます。
知ってるはずの世界を知らないものにしてくれる。
渡邉さんによれば、普段の場所で普段の目を持っているだけでは、人間の脳は世界を記号で処理してしまいます。だから記号を取り外すためのレンズが必要で、それを持てば再び世界に触れ直すことができる、というのが渡邉さんの整理です。
普段の目
人間の脳は見たものを記号で処理してしまう
異なるレンズ
マクロレンズや異なる感覚で、記号を取り外す
触れ直す
知っているはずの世界が知らないものになり、もう一度触れられる
荒木さんはこの話に強く反応します。荒木さんには、自分が記号優位であることへの反省があり、そこからどう逃れるかを常に考えているといいます。
マクロレンズで世界を見るみたいな話がめちゃくちゃ参考になったんだけれども、それをもうちょっとなんか違う側面で切り取るとどういうことなんだろうみたいな問いが今立ち現れていて。
荒木さんの問いを受けて、渡邉さんは次回にブレストしようと提案し、この回は締めくくられます。最後に今宿さんは、木村敏のリアリティとアクチュアリティの話は、みすず書房から出ている『関係としての自己』に書かれていると思う、と紹介しました。
まとめ
この回では、カメラやレンズの制約が身体の動きや世界との距離を変えること、そして写真が視覚だけでなく他の感覚も呼び起こすことが語られました。記号で処理された世界から抜け出し、もう一度世界に触れ直すための「異なるレンズ」とは何かという問いが、次回へ引き継がれます。
- ピント合わせは「見るもの」と「見ないもの」を同時に選ぶ態度表明だと、渡邉さんは話す
- カメラごとにアフォーダンスが違い、都市と自然でも撮る身体の姿勢が変わると、今宿さんは指摘する
- 写真の1枚から熱や香りまで解凍され、感覚器官はスタンドアロンではないという話が出た
- 木村敏のリアリティとアクチュアリティを手がかりに、記号の手前にある体験が語られた
- 異なるレンズを持つことで、知っているはずの世界を知らないものにできる



