記号の世界から、身体の世界へ。前回までに何が語られたか
今宿未悠さんを迎えた「世界に触れる方法をさぐる」シリーズは、この回が4週目の最終回です。冒頭で渡邉康太郎さんが、これまでの議論を振り返ります。
第1の論点は、人は対象をうっかり記号で見てしまうということでした。ベティ・エドワーズ ── アメリカの美術教育者。著書『脳の右側で描け』で知られ、手本を上下逆さまにして模写するなど、思い込みを外して対象を見る描画法を広めましたの、絵を上下逆さまにするだけで脱記号化できるという話が紹介されました。
荒木博行さんからは、名刺交換が人をフレームに囲んで見てしまう社会的記号だという指摘がありました。名刺交換を禁止するだけで、相手を観察することが自然と起こるといいます。
今宿さんは、詩を書くことは日常をいかに異化し続けられるかの戦いで、今のところの答えは「端的に行為せよ」だと語っていました。滞在制作で自然に向き合うために、泥をまとったり岩を抱いたりしたというエピソードもありました。
記号的なリアリティの世界でなく、身体的なアクチュアリティの世界にいかに入っていけるかみたいなのが多分大事な切り口で。
記号で見てしまう
絵を描くときも、人に会うときも、対象を記号やフレームで捉えてしまう
脱記号化の工夫
上下逆さまに描く、名刺交換をやめるといった小さな操作で観察が始まる
端的に行為する
泥をまとう、岩を抱くといった行為で新しい自己と世界が引き出される
渡邉さんによれば、前回の最後に荒木さんが「記号を異化する切り口が1つある」と予告していたといいます。最終回はその話から始まります。
いつもの通勤路で「人生初」を探すとどうなるか
荒木さんが感覚を研ぎ澄ますトレーニングとして、余裕があるときにやっているのが「初めてのものを探す」ことです。初めて通る道ではなく、通い慣れた通勤路のような場所で、視覚・嗅覚・聴覚・触覚を使って探すといいます。
荒木さんが挙げる例は具体的です。葉っぱの角度、ブロック塀の線の交わり方、女子高生の話し声に小学校のチャイムが重なる音などが、実は人生初かもしれないと気づくのだそうです。
だから抽象化すれば日常なんだけど、具体化すると全部が初めてに見えるっていう法則がやっぱりあって。
荒木さんは、忙しいとすべてを抽象化してしまい、それがリアリティの世界で生きることだと話します。具体化してアクチュアリティの世界で生きるためのキーワードが、荒木さんにとっては「初めてを探す」ことだといいます。
忙しいときの見方。通勤路は見慣れた日常として流れ、リアリティの世界で生きることになる
葉の角度や音の重なりに目を向ける見方。すべてが初めてに見え、アクチュアリティの世界に入れる
最近見つけた「初めて」を渡邉さんに聞かれた荒木さんは、木の実の先端を触った体験を挙げます。産毛のようなふわふわ感のすぐ横に鋭くとがった部分があり、それを親指で触った感覚は人生初だったといいます。
触覚の「初めて」はなぜ都市でむずかしいのか
荒木さんは何度も試すなかで、視覚や聴覚では脳で考えて「初めて」を生み出せるのに、嗅覚や触覚はとても難しいと感じていました。自分だけなのかと今宿さんに尋ねます。
今宿さんの答えは逆で、触覚が一番やりやすいと感じたそうです。たとえば机でも「お腹で触る」ことはたぶんやったことがなく、どこで触るか、強く触るかふわっと触るかで、触り方は無限にあるといいます。
いや、草むらの前に立ってなんか植物スリスリしている時点で、ちょっと不審者みたいなポーズになるんで、気をつけながら触ってるんですけど。
荒木さんは、人が歩く道では変な挙動が取れないという前提があったうえ、触るのは暗黙のうちに指が多かったと振り返ります。
今宿さんはここで整理を加えます。視覚や聴覚はある程度動かなくても変えられるので、都市でも不審に見られずにできます。一方で触覚は行為を前提としていて、動かないと変わらないため、都市生活ではやりにくいのだろうと考えています。
動かなくてもある程度変えられる。都市でも不審な目で見られずに試しやすい
行為を前提とし、動かないと変わらない。人同士の接触も含め、触ってはいけないものが多い
荒木さんが「人の目、眼差しの影響なのか」と問うと、今宿さんはどちらもありそうだと答えます。2週間山にこもった経験では、山ではみんなオープンでフレンドリーで、誰かがよろめけば腕を取るような身体接触が普通に起きたそうです。都市という環境が規定するものは大きい、というのが今宿さんの実感です。
渡邉さんは別の入り口として、サン=テグジュペリ ── 『星の王子さま』で知られるフランスの作家・飛行士。飛行体験をもとにした小説やエッセイを多く残しましたの小説によく出てくる「風が頬を愛撫した」という表現を紹介します。日本語ではなかなか「愛撫」とまで言わないからこそ、異国の言葉が新しい触覚の想像を引き出すのではないかと話します。
それなかったわっていう表現に触れ続けるみたいなのは、なんか一個の入り口になるのかなって思いました。
目を閉じるだけで世界は異化できるか
渡邉さんの話から、荒木さんは都市生活で視覚を閉じることを思い浮かべます。目を閉じるのは怖いけれど、その分、耳や空気の流れを感じる触覚が2割増しぐらいで敏感になるだろうといいます。
視覚っていうのはいろんな意味での記号情報をキャッチしやすいんで、目を閉じるだけで異化するっていうこともあるのかなと今思ったりした。
今宿さんは、その具体例として「箱の中身はなんだろなゲーム」を挙げます。目隠しになった途端にあらゆる感覚が敏感になり、恐ろしがったり喜んだりできるうえ、やっている人を見るのも面白い。今宿さんは、あれほど幸せな装置はないと語ります。
荒木さんも、他愛もないゲームなのになぜあれほど喜べるのか、と面白がります。視覚という記号の入り口をふさぐだけで、ありふれた手触りが特別な体験に変わる例として、2人の間で共有された場面です。
感覚を共有すると、他者の見え方はどう変わるか
今宿さんは4週目にして話題を広げたいと前置きし、世界を異化して見るとき、他者の存在の感覚も変わると話します。箱の中身ゲームで隣にいる人や、山小屋の小屋主の二郎さんとの経験が例に挙げられました。
今宿さんにとって、同じ感覚を共有しながら、その中で全く違う世界を見ていることがシェアされる喜びは大きいといいます。他者がいて会話できること自体が、ある種の幸福だと感じているそうです。
荒木さんにコミュニケーションがどう変わるのかと問われ、今宿さんは宗教の起こりにも触れます。共に同じことを経験しているという信念は人同士を強く結びつけるもので、だから山の人はオープンで優しいのではないかと考えています。
渡邉さんはこの話に乗り、週末に一人でにぎやかなホテルのバーで作業していた体験を語ります。店内の音楽の趣味が合わず自分のイヤホンで聴いていたところ、曲が良すぎて体がリズムを取り始めたといいます。
誰とも繋がってないけど、音楽と繋がっていて。
ビートを共有するっていう、なんか超原初的な体験ってめちゃくちゃいいなと思って。
渡邉さんは、胎内で母親の鼓動を感じることを原初的なビート体験の1つとし、音楽はミュージシャン同士、客とミュージシャン、自分と楽器がビートを共有していると確かめる行為だと話します。その示し合わせが成り立つ半径は、アリーナにもなれば、たった一人にもなり得るといいます。
同じ日の夜、渡邉さんは友人のギタリストの公演で目黒アーシュモンホールを訪れます。クラシックやジャズのホールなので、手拍子も体を揺らすこともありません。
空間は人と共にしているが、音楽は自分のイヤホンだけ。それでも自分と音楽はビートでつながっている
体を抑制し、ビートの共有は表に出ない。それでも皆が同じものを感じていると想像すると心が踊り出す
なんかそのみんなでこれを感じてるんだって思うことによって、突然心が踊り出すみたいなのって何なんだろうなって楽しく感じていました。
心臓の鼓動と儀式は、自分と他者をどうつなぐのか
荒木さんはビートの話から、内受容感覚 ── 心拍や呼吸、空腹感など、体の内側の状態を感じ取る感覚のこと。自分の心臓の鼓動を数えさせる課題などで、その鋭さが測られますを取り上げます。脈にも胸にも触れずに、心臓がいつ鼓動しているかわかるかを確かめるテストがあるといいます。
荒木さんによれば、体と自我がビートを共有しているかどうかはとても大事です。共有感がないと脳がどんどん優位になってしまうため、自分は体のビートに乗せる意識を持つことがあると語ります。
脳が暴走してしまうみたいなことがあるから、その体のビートにちゃんと乗せようみたいな意識、意識を持つことがあって。
心臓の鼓動の話を受けて、今宿さんはいろいろな人に勧めているという本『リチュアル』を紹介します。今年に入って一番面白かった本だそうで、荒木さんの手元にも積んであるとのことでした。
今宿さんの説明では、これまで文化人類学的に扱われてきた儀式を、文化人類学と認知心理学を掛け合わせて読み解く本です。歌を歌わない民族はいても儀式をしない民族はいない、という前提から、人はなぜ儀式をするのか、その時に体で何が起きているのかを書いているといいます。
今宿さんが一番面白かったのは、火の上を渡る儀式の取材で、見ている人たちの心拍が自然と同期していたらしいという話です。ビートの共有が他者とのつながりや一体感、「私たちは共同体である」という感覚をもたらすことが、今宿さんには興味深かったそうです。
自分の体と自我
内受容感覚で鼓動を感じ、脳の暴走を防ぐ(荒木さん)
自分と音楽
一人でイヤホンの音楽とビートを共有する(渡邉さん)
観客同士
ホールで皆が同じものを感じていると想像する(渡邉さん)
共同体
儀式を見る人々の心拍が同期し、一体感が生まれる(今宿さんが紹介した本の話)
盲目の人に「一番美しいもの」を聞くとき、何が見えるか
渡邉さんは荒木さんの「目を閉じる」話に戻り、ソフィ・カル ── フランスの現代アーティスト。他者の人生や自身の体験を、写真と文章を組み合わせた作品として発表してきましたのシリーズ「ブラインド」を紹介します。生まれつき目が見えない人たちに、美しさについて尋ねるところから始まる作品です。
作品では、一人ひとりの答えを文字で記録し、本人のポートレートと、その人が美しいと言ったものをソフィ・カルが撮った写真を並べていきます。渡邉さんは前回、哲学者の谷川さんを迎えた回でもこの作家を紹介していたそうです。
渡邉さんが印象に残った例として挙げたのは、20代くらいの盲目の男性です。彼が一番美しいと思うのは、義理の兄弟から贈られたボートの絵でした。表面が盛り上がっているので、3本のマストとメインセイルがあることがわかるといいます。
男性は夜になるとその絵をよく触り、水曜日には海の番組を聞きながらボートを「見ます」と表現します。海は青くて緑で、太陽が反射すると目を突き刺すように痛いと人から聞いていて、見るのは痛いのだろうと話していたそうです。
作品には点字も打たれていて、渡邉さんは点字で1〜2ページに収まるようにテキストを絞っているのかもしれないと推測します。見えない人が思い描く自分だけの美しいイメージに近づいてみたい、という気持ちが湧くと語ります。
で、これは視覚の話なんだけれども、触覚の話でもあって、また想像の話でもあるね。
「行為せよ」はなぜ、浮くことを伴うのか
クロージングに入り、荒木さんはこの対談がとても面白く、いろいろつながったと話します。ただ、ちょうどこのテーマに関わる本を書いていたため、数ヶ月前に対談できていればなお良かったと惜しみます。
まあでもすごく勉強になったし、まだまだポテンシャルあるなっていうのをポジティブに思えたので。行為せよですね。
渡邉さんは、前回公開分で今宿さんが語った言葉を引きます。泥に入ってみちゃえ、岩を抱いてみちゃえと思えたのは、社会的通念で規定されていない自由さがあったからで、山にはそこに山と私しかいなかったという話です。
渡邉さんはそこから、法を犯すという意味ではなく、時に人目をはばからず行為してしまう必要を感じると話します。まだ認められていない価値を問う新しいものづくりは、どうしても浮いてしまうし、そこにたどり着くためにも浮かなきゃいけないといいます。
4週を振り返った今宿さんは、マクロレンズでファインダーを覗くと世界に触れているように感じる、という直感がなぜなのかを2人と丁寧に紐解けたと話します。さらにマクロレンズの有無に関係なく、世界とどう関わりを結ぶかまで話せたことで、自分の中の体験の解像度が上がった感覚があるそうです。
最後に紹介された本は『リチュアル』と、ソフィ・カルの作品集です。後者はActtoSuitから出ている洋書で、荒木さんは書店に入れるのは難しいかもしれないと話していました。
まとめ
最終回は、通勤路で「初めて」を探す習慣から始まり、都市で制限される触覚、ビートや心拍の共有、盲目の人が思い描く美しさへと広がりました。共通していたのは、記号として眺めるのではなく、体を動かし感覚を開くことで世界と他者に触れ直すという視点で、その行為は時に人目から浮くことも伴うと語られました。
- 荒木さんは、抽象化すれば日常でも、具体化すればすべてが「初めて」に見えると話す
- 今宿さんは、触覚は行為を前提とするため、都市では制限されやすいと考える
- 一人のイヤホンから儀式を見る群衆の心拍まで、ビートの共有が人とのつながりを生むことが語られた
- ソフィ・カル「ブラインド」は、視覚・触覚・想像が重なる例として紹介された
- 新しい価値にたどり着くには、人目をはばからず行為し、浮くことも必要だと締めくくられた


