本の骨格は荒木さんの一言から生まれた?
『ナチュラル・リーダーシップの教科書』の構成は、荒木博行さんの一言がきっかけで生まれたと、著者の小日向素子さんは明かしています。小日向さんは朝出版の星野さんと本を作っていましたが、途中で何を書いているのかわからなくなり、「これはもう世に出せない」と感じたそうです。
行き詰まった小日向さんは、ビジネス書を多く出している荒木さんに原稿を読んでもらいました。荒木さんは開口一番、「素子さんはこの本をどういう立ち位置で書いているのか」と尋ねたといいます。
その問いちょっとばっくりしすぎた。
小日向さんが絶句すると、荒木さんは「リーダーシップの専門家なんだっけ?」と言葉を継ぎました。小日向さんはリーダーシップを学んではいるものの学者ではなく、会社員時代もマーケティングや事業開発の担当で、人事ではありませんでした。そこで「自分は馬から学んだのだ」という当たり前のことに気づいたと話しています。
小日向さんによると、頭の中のあらゆる考えは何かの基準で判断されていて、その基準が何かを電話の直後に自問したそうです。本の構成は、電話を切ってから数分でできあがったといいます。
構成の土台になったのは、小日向さんがアメリカのアリゾナ州で受けたプログラムです。リンダ・コハノフさんが主宰する「群れの力」をテーマにしたTHE POWER OF THE HERDで、ワークショップの中に馬の組織論のようなものがありました。そこでは、捕食動物の価値観と非捕食動物の価値観が10項目ずつ対比されていたそうです。
小日向さんは、自分がこの非捕食動物の10項目を判断の指標にしていたことに気づきました。さらに、米国のコンサルティングファームで行動心理学ベースの企業研修のトレーナーを務めた経験から、「人が変わるのは個人から始まり、関係性、グループへと広がる」という順番で、本をステップ1〜3に組み直したと説明しています。
小日向さんが特に強調するのはステップ1です。ステップ1ができていないのに、ステップ2や3ができている気になってしまうことがあるといいます。
ステップ1の「感覚を鍛える」について、小日向さんはお腹の痛みを例に挙げます。「お腹が痛い」とざっくり捉えるのではなく、胃の上に蝶々がいるような感じなのか、左下がチクチクするのかを区別すると、その感覚が伝えている意味がまったく違うことに気づき始めるそうです。
感覚の解像度が上がると、以前は「緊張」という感情になっていたものが、「知らないものが周りにたくさんある状態」という事実として認識されるようになります。小日向さんは、その結果、怒ったり泣いたり過度に身構えたりといった不要な感情が減り、相手の感覚もわかるようになって関係性も良くなると説明しています。
「非捕食動物の価値観」は理想的すぎないか
渡邉康太郎さんは、小日向さんに着想を与えた「捕食動物と非捕食動物の価値観の対応表」に、少し疑問を投げかけました。非捕食動物の側があまりに理想的に書かれていて、人間目線の評価ではないかと感じたといいます。
他者を犠牲にしても自分に栄養を与える/殺すか殺されるか/プロセスよりゴールを重視
自分と他者のニーズを同時に満たす/生きると生かすのメンタリティ/ゴールよりプロセスを重視
そんなに非捕食動物が(今の)人間の価値観と重なるくらい完璧なんだっけ?みたいなのが、これ見てて、これ人間目線の評価なんじゃないの?みたいな。
渡邉さんは、今どきのビジネスや生き方の世界でよく言われる話が、非捕食動物の側に寄せられているように「うっかり」感じてしまう部分がある、と付け加えています。
小日向さんは、自分も邪推するタイプなので同じように感じていたと応じました。そのうえで、馬と暮らす中では、戦ってもすぐやめる、危険を感じても関係ないとわかれば穏やかに戻るなど、対応表の価値観に相当する行動が実際に見られるといいます。
この対応表に学問的な裏付けがあるのかという渡邉さんの問いに、小日向さんは、コハノフさんは学者ではないので学問的な裏付けではないと答えています。馬に関する研究はほとんどなく、未開拓の領域だという見方です。
一方で小日向さんは、学者が書いた植物の本を引用したことにも触れました。自然界は弱肉強食のように語られがちですが、植物は分散型でリーダーシップを取っていて、動物でもヒエラルキーが固定化している状態はとても少ない、と書かれていたそうです。
馬を「擬人化」してしまう怖さ
話を振られた荒木さんは、この対応表は読んでいるときに気にならなかったと答えつつ、改めて見ると動物の行動を擬人化している部分がある、と指摘しました。荒木さんは、擬人化はちょっと危険な行為だとも感じたといいます。
例えば馬(の前に)いた時に、なんかこう、ちょっとなついてる表情を見せるとか、寄ってくるみたいなことをすると、あ、こいつ俺のこと好きなのかなとかね、思ったりとか。
ただ、馬は全然違う感覚器を持ってるんだよね、人間とは。
荒木さんは、自分の感覚を馬に投影して勝手に解釈していたことにハッとしたそうです。馬は単に腹が減ってそちらを向いただけかもしれず、同じことは人間関係でも起きていて、渡邉さんの行動を自分の価値観に置き換えて解釈してしまうこともあると振り返っています。
渡邉さんは、異なる種がそれぞれの感覚器で世界を知覚しているという環世界 ── 生物ごとに、その感覚器や行動によって構成される固有の世界のこと。生物学者ユクスキュルが提唱した概念として知られていますの話は、人間同士にも当てはまると応じました。相手の不機嫌も、たまたまお腹が痛かっただけかもしれないのに、自分だけが持つ情報で意味づけして、過度に傷ついたり喜んだりしがちだといいます。
渡邉さんはさらに、2001年のミシガン大学の研究を紹介しました。水槽の中を魚が泳ぐアニメーションを見せると、アメリカの人たちは泳ぐ魚について描写し、日本の人たちは水草など背景や水槽全体の広がりについて話す人が大半だったそうです。
泳いでいる魚を描写する。個人や主人公に注目しがち
水草など背景や水槽全体の広がりを話す。環境全体を見つめる
ただし渡邉さんは、国や文化に結びつけて見えたのは統計上のことで、本来は一人ひとりで受け止め方はまったく違うはずだと補足しています。そのことに自覚的にならなければ、というのが渡邉さんの結論です。
小日向さんも、本を読むたびに主観が入るものだと認めつつ、人を見るときに余計な主観を入れない癖をつけたいと話しました。小日向さんはラベル化を防ぐ試みを続けていて、それが感覚を適切に情報に変える基礎になり、人間関係も劇的に変わるといいます。
「全く動いておりません」も解釈だった
荒木さんは、先月小日向さんの牧場を訪れたときの「事実と解釈」というアクティビティを紹介しました。馬場に3頭の馬がいて、観察者は1人だけ。残りのメンバーは目をつぶって話を聞き、観察者は馬について事実だけを話すというルールです。
「お腹がすいている感じです」は解釈になるので言ってはいけません。荒木さんによると、まず何に着目するかが人によって違い、馬1頭ずつを描写する人、3頭の関係性を語る人、馬場の中での位置を語る人など、着眼点がばらばらになるそうです。
渡邉さんは、どんなに頑張っても「うっかり解釈」してしまう点を挙げました。2頭がじゃれ合っていると「AとBが喧嘩しています」と言いがちですが、喧嘩というのは見る側の判断で、本来は「鼻と鼻をぶつけ合っています」と言わなければなりません。
僕何言ったかっていうと、1頭は全く動いておりませんっていうね。
足は動いてないんだけど、めちゃくちゃ耳とか動いてたりとか、目キョロキョロさせたりとか、動いてんじゃんみたいな。
荒木さんは、この発言自体が解釈だったことに後で気づいたといいます。動作だけに注目していて、ダイナミックな動きがないと「動いていない」というレッテルを貼ってしまったのです。
荒木さんはそれを、「馬はもっと活発に動くもので、動くとはこれぐらいダイナミックなことだ」という自分の前提による認知バイアスだと説明しています。その結果、目の動きのような細部を描写できず、荒くまとめてしまうことも気づきだったそうです。
渡邉さんは、意味づけを控えようとしても、無意識のレベルで自動的に意味づけしているのだとまとめました。小日向さんも、解釈を絶対にしていることに何度も気づくと応じています。
荒木さんは、このアクティビティは人間同士でやっても面白いと勧めます。チームメンバーについて事実だけを言おうとしても、「この人は疲れていそう」といった判断がすぐに入ってしまうからです。ビジネスパーソン向けのスケッチのアクティビティなども、ちゃんと見つめることに気づかせる目的があると荒木さんは話しています。
人はいつ、どうやって変わるのか
質疑応答の前に、渡邉さんは「人はどう変わるのか」を尋ねました。本には馬とのワークでバイアスに気づき変容するエピソードが多く書かれていますが、短期間の牧場滞在で気づけるのか、変われない人もいるのか、そして硬かった人が突然気づくのはどう起こるのか、という問いです。
小日向さんの答えは「人それぞれ」でした。馬のセッションだけでは気づかず、その後のコーチングで気づく人もいるそうです。小日向さん自身も、イギリスで初めて馬のセッションを受けたときは、起きたことの意味がまったくわからず、何も変わらないと感じていたといいます。
そのセッションは、障害物を3つほど立て、達成したいビジネスゴールを思い浮かべながら、馬を引いてスタートからゴールまで進むアクティビティでした。1頭でも2頭でも余裕でこなせてしまい、コーチからのフィードバックもあまりなかったそうです。
ところが小日向さんの記憶には、馬がゴールラインを越えていない場所で「まあいいか」と終わらせていた場面が残っていました。1年後、あるプロジェクトを途中で「もういいか」と思ったときに、自分はゴールを切っても切らなくてもいいタイプで、その行動を繰り返してきたのだとハッと気づいたといいます。
マーケティング責任者だったのに、と驚く渡邉さんに、小日向さんは、人から言われた数値目標を合わせるのは得意だったと答えています。最初に上司と交渉して達成できる目標を定めるので、数値は「お給料をもらうための単純なゲーム」のようなもので、覚悟を決めてやりきるという生き方はしてこなかったそうです。
荒木さんは、変われるかどうかは人よりタイミングではないかと語りました。本の中にある、中核的アンラーニングと表層的アンラーニングの区別を引き合いに出しています。
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荒木さんによると、中核的アンラーニングのタイミングにホースコーチングが重なればその場で変われますが、そうでなければ「よくわからない体験のドット」が残ります。ビジネスで大きな壁にぶつかったとき、その点の意味がつながってようやくわかる、というのが荒木さんの見立てです。
小日向さんはもう1つのポイントとして、繰り返せば全員が変われるはずだと話しました。感覚のトレーニングを繰り返し、10の指標どおりの行動パターンを続ければ必ず変われるので、変わるタイミングが早いか遅いかはその人次第だといいます。
答えを出さず「うわっ」を体に刻んでおく
渡邉さんは、小日向さんのイギリスでの体験が「なんとなくうまくいった成功体験」として忘れられず、何かが引っかかっていたことが大事だと指摘しました。小日向さんは、馬の体の大きさなどのインパクトがあって、体が覚えてしまう感じがすると応じています。
自分では絶対力とかじゃ勝てない、アンコントローラブルな他者みたいなのがいて、言語通じないし。
渡邉さんはここで、編集者で写真家の都築響一 ── 日本の編集者・写真家。路上や市井の表現など、既存の評価軸の外にある文化を取材してきたことで知られていますさんの言葉を紹介しました。本当に新しいものに出会ったとき、人はすぐにそれが良いか悪いかを判断できず、新しいものを見てしまったということだけが体に残る、という考えです。
都築さんは、死刑囚が書いた俳句や暴走族の当て字のような、詩壇で認められていない表現の中に面白いものがあるのではないかとまとめた本、夜露死苦現代詩を書いています。渡邉さんは、素人の遊びだと棄却せず、バイアスを外して新しいものを見る目線がそこにあると話しました。
渡邉さんの結論は、新しいものに出会ったら答えを出さず、「うわっ」という感覚だけを刻んでおくことが自分たちにできることだ、というものです。日々感覚を鍛えていれば、言葉にならないその感覚を残しておけるのだろうと語っています。
あの、これはこういう伏線回収だったのか。3年後ぐらいに気づくとかね。最高じゃないですか。
渡邉さんは、オチのない寸止めがずっと続くのは怖いとも返しました。荒木さんは、質のいい推理小説も最後の3ページぐらいで一気につながるものだと応じています。
渡邉さんは、マイケル・ダグラス主演の映画『ゲーム』も連想しました。人生のどこかでサプライズが起こるのをひたすら待つ話で、荒木さんはこの体験を「人生レベルのサプライズ」だと表現しています。
小日向さんは、その「ハッ」と思う瞬間の喜びはすごいものだと語り、話は次回へと続きます。
まとめ
この回では、本の構成の成り立ちから、擬人化や「事実と解釈」のアクティビティを通じて、人がいかに無意識に意味づけしているかが語られました。変化はその場で起きるとは限らず、残った違和感が何年か後に回収されることもある、という見方が共有されています。
- 本のステップ1〜3は「個人→関係性→グループ」の順で、土台は感覚を鍛えること
- 馬を擬人化してしまう癖は、人間同士の関係でも同じように起きている
- 「全く動いていない」という描写さえ解釈になるほど、意味づけは無意識に行われる
- 変われるかどうかは人よりタイミングで、繰り返せば誰でも変われると小日向さんは語る
- 新しい体験はすぐに答えを出さず、体に刻んで後で回収されるのを待つ



