儀式は時代遅れなのか、それとも形を変えるべきなのか
深井龍之介さんを迎えた全3回の最終回は、荒木さんによる前回までの振り返りから始まります。言語やAIの話から、リモートワークで仕事ができるのは幻想だという深井さんの指摘、そして儀式の意味へと話が広がってきました。
前回までの議論では、非言語の情報を共有することに3つの価値があると整理されています。大事な意思決定でモメンタムが作れること、相手の考えがわかること、そしてわかると信じられる状況を共にしていること自体です。
国家首脳同士の食事や、日本の飲み会、カラオケのようにハメを外す場も、人が信頼できると確認する身体的な営みとして語られてきました。
これに対して渡邉さんは、日本のカルチャーがだんだん「ホワイト化」していると指摘します。昭和的な加入儀式は消えつつあり、関係性そのものも希薄になっているという見立てです。
今の時代でさ、新入歓迎会でなんか新人芸しろみたいなことになったら、なんかちょっとした問題になりそう。
一方で荒木さんは、コロナ禍の反動に注目します。2020年4月に大学生になった人たちは、3年ほど人と会えない「闇の期間」を過ごしたはずで、社会に出てからリアルなつながりを渇望しているのではないか、と想像しています。
同じ飲み会を求めるかは別として、なんかその反動で、やっぱりリアルとか身体性っていうのがないとつらいっていうふうに思ってる人は一定数いるんじゃないかと想像する。
ただし荒木さんは、「それは仕事場ではいらない」と考える人もいて、そこに揺らぎがあるとも話しています。
深井さんの答えは、問題は儀式そのものではなく否定の仕方にある、というものです。飲み会で吐くまで飲む必要はないけれど、みんなで何かをやることには意味がある、と深井さんは語ります。
儀式は昭和的で不要なものとして否定する
儀式自体は人間に重要なので、違う形の儀式に変える
深井さんの言葉を受けて、荒木さんは話が初回のテーマである内観、つまり「認知が変わると行動が変わる」という論点に戻ってきたと受け止めます。
揃いの服や入学式に意味はあるのか
認知と儀式の話は、身近な例に移ります。渡邉さんは入学式のような典型的な儀式を挙げ、深井さんも「なんか気分変わるもん、やっぱ」と同意します。
渡邉さんがみんなで同じ服を着る「ユニフォーム効果」を挙げると、深井さんは日本の新卒がみんな同じ髪型をしている話に触れます。
日本の新卒がみんな同じ髪型でキモいみたいな話とかもあって、俺もキモいとは思うんだけど、
一方で意味はあるよね。意味というか影響があるから、それ(影響)をどっちに持っていきたいのかっていうことだと思うんだよね。
深井さんにとって揃いの髪型は、好き嫌いとは別に影響を生むものです。だからこそ、その影響をどう方向づけるかが問われると考えられます。
事前に説明できないものはなぜ排除されるのか
荒木さんは、物事には「事前に合理的なもの」と「事後的にしか合理化されないもの」があると整理します。会議の準備やKPI達成のための作業は前者で、飲み会は後者だという話です。
お金かかるだけなんですけど、みたいになるんだけど、無理やり行ったら行ったで、たまに楽しかったりもするとか、大体楽しかったりするみたいなことがあるとして、
荒木さんは、事前に説明できるものしかみんなで認められない傾向が、日本社会の無毒化とは別に起きているのではないかと考えています。
準備やKPI達成の作業のように、やる前から意味を説明できるもの
飲み会のように、行く前は面倒でも、やった後で意味がわかるもの
深井さんが「世界的な傾向では」と返すと、荒木さんはその可能性を認めたうえで、日本へのインバウンドが増えている背景に話を広げます。
なぜ世界は二元論に落ち着かない日本カルチャーに惹かれるのか
荒木さんは、ある人の意見として、日本カルチャーは二元論に落ち着かないものを提供してくれるから再注目されているのでは、という見方を紹介します。
例として挙がるのはジブリ ── 宮崎駿監督らのアニメ作品で知られるスタジオジブリのこと。自然や異界の存在を、単純な善悪では割り切れない形で描く作品が多いとされますの作品です。人間対自然の構図に収まらず、自然の中に説明できないうごめきがあり、妖怪にも悪と善が入り混じる、と荒木さんは語ります。
これって資本主義社会でちょっと疲れてる我々の処方箋になりうるのではっていうか、別の答えを見せてくれるのではっていう救いを日本のカルチャーの中に見てるっていう可能性はあるよね。
深井さんは、二元論がよいかどうかは外的環境のフェーズによって分岐すると話します。フロンティアがたくさんある状態なら、競争して獲得すればよいので二元論でもかまわないという考えです。
しかし資源の上限が見えている状態で二元論をとると、希望がなくなると深井さんは指摘します。
人間って希望がないと動けないから。あんまり今の状況がいいか悪いかよりも、希望を見出せるかどうかで結構挙動が決まってる感覚があって。
深井さんによれば、資本主義の市場はアフリカ以外にほぼ新規が残っておらず、住む場所、食料、環境問題でもリソースの限界が示唆されています。そうした世界に住む人ほど、戦わずに済む状態に自然と希望を感じるのだろう、という見立てです。
フロンティアが多い
競争の末に獲得できるものが大きく、二元論が希望になる
資源の上限が見える
市場や環境のリソース限界が示唆される
二元論が苦しくなる
戦ってどちらかが勝つ構図では希望がなくなる
別の価値観を求める
二元論に落ち着かない日本カルチャーや禅に救いを見る
荒木さんも、資本主義のゲームで上に登る道がないと感じる人が、禅 ── 中国で発展し日本に伝わった仏教の一派。坐禅などの身体的な修行を通じて悟りを目指し、海外でも「Zen」として広く知られていますのような勝ち負けとは違う価値観を求める気持ちはわかると応じます。
深井さんはさらに、場所を移せずに負けている状態のしんどさを、昔の日本の村社会になぞらえます。そうした社会では鬱屈が社会問題化しないよう、ガス抜きが必要だったと語り、キーワードは「身体を使った認知の転換」だとまとめます。
茶道の型は「事後」に何を教えてくれるのか
身体を使った認知の転換というキーワードから、渡邉さんは「型」の話を持ち出します。茶道のような型は、事前の説明は不可能でも事後に意味がわかる典型だという指摘です。
それって結構人類の英知の結集だったり、儀式みたいなものもさ、やっぱ人類の英知なんだよね、多分ね。
深井さんは型を「無限の試行錯誤の末、やった方がいいとなったもの」と言い換え、渡邉さんも型をはなから否定してはならないと続けます。
ここで、茶道を続けている話者が自身の体験を語ります。最後の奥秘伝と呼ばれる手前は道具も多く、ややこしくて頭がパンクしそうなほどで、3〜4年取り組んでも試験では歩き方から完全否定され、何ヶ月かトラウマになったといいます。
ところが、先生に言われて茶道で最初に習う一番簡単な平手前 ── 茶道で最初に学ぶ基本的な点前(お茶を点てる一連の作法)のこと。道具や手順が比較的少なく、あらゆる点前の土台とされますをやってみたところ、あまりのスムーズさと視界の開き方に驚いたそうです。最初の3年は平手前しかやらず、それすら覚えられなかったのに、簡単にできてしまったと話しています。
話者は、最初に全体を説明されてもわかったつもりになるだけで、身体を使って苦悩した経験が染み付いていることが大事だと語ります。
体を使った知、体を動かしてきた知みたいなのの蓄積が、その人から何かにじみ出るかどうかって、あんまり測りえないところで、それが自信になったり、人に伝えられるような価値になったりする。
揺るぎなさが出てくる。人に真似できない貫禄みたいなのがそこに出てくるかもしれない。
「説明してください」はなぜ生まれたのか
事後にしかわからない身体知がある一方で、渡邉さんは「ロジカルに説明されないと動きたくない」という欲求も強いと指摘し、このコンフリクトは昔からあったのかと問いかけます。
深井さんは、昔の方が少なかったのではないかと答えます。説明されなくても、言われたことをやれば希望があるなら人はやっていた、という考えです。
深井さん自身、新卒の頃は説明されないと動けないタイプだったと振り返ります。
自分自身は選んでるわけでもないし、上司って。よくわかんない、全然尊敬もできないこのおっさんがなんか言っているんだが、これは何なんだという問いがやっぱ発生しちゃうみたいな。
ただし深井さんは、あのとき上司の言うことを聞いていたら今があるかといえばそうではない、とも話します。大企業の社内調整スキルは身についても、それ以外は身につかなかったと思うからで、「やっぱどっちもある」と語っています。
言語化しない組織はなぜ機能したのか
深井さんは、社会人の最初の5年間で学んだこととして、日本のトラディショナルな企業のいくつかは、ほぼ言語化を使っていなかったと語ります。
そもそも指示さえちゃんと出してない。
その忖度ができるかどうかは見極められてる。ちゃんと。
深井さんによれば、いちいち言わないとわからない人は事業部長のそばに置いてもらえなかったといいます。COTENでは具体的に指示を出し、言語化に執念を燃やしているのとは対照的です。こうした場面は他社でも見てきたとし、特に今の60代以上の人たちに多いと話しています。
荒木さんは、非言語のコミュニケーションだけで自分とたまたま合う人を選抜し、それ以外が淘汰される流れなのかもしれないと受け止めます。
深井さんは、自身がいた製造業、それも半導体という大量生産品の現場だからこそ成り立った可能性を挙げます。コンサルはお客さんに説明する言語知の職種なので、そうした斟酌の文化は通用しないという対比です。
お客さんへの説明が必須の言語知の職種で、斟酌は通用しない
方向性が決まっていて、上の意図を斟酌して動く人材を置くほうが効率がよかった
深井さんは、その体制が機能したのはゴールが決まっていたからだと説明します。質のいいものを作ることが決まっていれば機能し続けられますが、マーケットが分散し、いいものを作っても売れなくなると通用しなくなると考えています。
言語知にもっと頼らないといけなくなっちゃう。要は全体把握しないといけないみたいになっちゃうので、ある意味フロー状態なんだと思う。
深井さんはこれを、言語知を使わずに業務に集中しているフロー ── 心理学者チクセントミハイが提唱した、活動に深く没入し、時間を忘れるほど集中している状態。「ゾーン」とも呼ばれます状態に近いと表現します。今住んでいる福岡の地方の大きめの会社にも、その傾向が強いところは多いと話しています。
言語知と身体知は何対何がちょうどいいのか
荒木さんが「これまでの議論の文脈だと、言語知を使わないのはある種いいことでは」と問うと、深井さんは今は悪いことだと思っていないとし、バランスの問題だと答えます。
ジェネレーションギャップが大きいのに、言語知を一切使わず身体知だけでやろうとするのは非効率だ、というのが深井さんの見方です。
バランスの問題。九一なのか八二なのか七三なのかみたいなので、多分五五ぐらいなんだろうね、今。
渡邉さんは、自身も大企業でキャリアを始めた立場から、コロナ禍を振り返ります。非言語重視だった組織が急にリモートワークになり、Slackやメールでの情報交換という言語知に振れて、マネジメントが崩壊した組織もあったという指摘です。
深井さんは、自分たちは言語に振れるのがよほど苦手な人たちだったとし、世界的には大きく振れていないものの、我々なりにはだいぶ振れたのだろうと話します。
内観は言語と身体のバランスにどう関わるのか
荒木さんは話を初回の問いに引き戻し、自分のメンタルや身体を精緻に観察する「内観」は、今の議論とどう関係するのかと尋ねます。
深井さんの答えは、それもバランスの一部だというものです。経営企画や株主総会の説明は言語知に寄り、現場は身体知に寄っているという乖離があり、両者がバランスよく行われている状態が本来はよいと語ります。
その中のバランスの中の一つに自分のメンタル状態とか体の状態みたいなものをメタ認知できてるとかも多分入ってるんだと思う。
深井さんはさらに、経営者になって初めてわかった感覚を明かします。メンバーから説明を求められ続けても、十分話したし、何かを経験しない限りこれ以上話してもわからなそうだと感じる場面があるそうです。
その言語を伝える時間を僕が割いたところでパフォーマンスが変わんないのに、ずっとそれ(説明)をやるって時間の無駄じゃんって判断して説明しなくなったんだよね。
深井さんは、新卒時代に上司から説明してもらえなかったのも、同じ理由だったかもしれないと振り返ります。
もっとなんか100回ぐらい失敗してから聞いてくれよみたいなのはある。だからほんとバランスって感じなんだと。どっちも大事っていうか。
荒木さんは、説明を求める人が本当に欲しいのは具体的な説明ではなく、アテンションや愛、褒められることかもしれないと指摘します。深井さんも「むしろその線が濃い」と認めつつ、愛が欲しいだけのために自分が動くことはしないと話しています。
言語ゼロで人が動くとき、何が溜まっているのか
渡邉さんはスポーツの現場を例に、練習にも説明責任が求められるけれど、何週間もやってようやくたどり着ける領域があると話します。茶道の話と同じだという指摘です。
そのギャップを埋めるものとして、深井さんは「この人が言うことならやってみようと思う」関係を挙げ、渡邉さんはそれを信頼のアセットの問題だと表現します。
そう、とりあえずやれで動いちゃう。で、そこに信頼がゼロだと、やっぱ言語100ぐらいいかないと動かないみたいな話もあって。
渡邉さんは、これはゼロサムの話ではなく、ミクロな関係の間に信頼残高がどれぐらい溜まっているかという問題だとまとめます。
深井さんは「信頼とは何か」についても3人で話したかったと言い、近内悠太さんの新刊に触れます。荒木さんがその内容を補足し、安心とは相手が危害を加えないことが保証されている状態で、信頼とは危害を加える可能性があるのにしないと思える状態だ、と紹介しています。
3回の雑談は何を残したのか
荒木さんは全3回を振り返ります。楽器や声帯といった身体の話から始まり、言語を使わない儀式的なコミュニケーション、リモートワーク、日本カルチャーの無毒化、事前合理性と事後合理性、二元論に落ち着かない価値観、そして「ジャストドゥイット」でしかわからないことへと話が進んできました。
リスナーの皆さんの職場においても儀式の意味とかをちょっと再考してほしい。
荒木さんは、どう変えればつまらない儀式が楽しめるのか、アイデアを聞きたいとも呼びかけます。上司があまり喋らない飲み会ならOK、予算をサポートしてもらえるならOK、といった例を挙げています。
最後に紹介された本は2冊です。近内悠太さんの新刊『利他・ケア・傷の倫理学』は祥伝社から出た本で、前作と「受け取る」「贈る」で対をなす2冊目と紹介されています。もう1冊は為末大さんの『熟達論』で、型の話と関わる大事なコンセプトとして挙げられました。
次回は「信頼とは何か」を掘り下げる予定です。収録の終わりには、秋に3人で香港を訪ね、渡邉康太郎さんのルーツや母校をたどる旅をしようという話でも盛り上がりました。
まとめ
最終回では、儀式や型を否定するのではなく形を変えて残すべきだという視点から、言語知と身体知のバランス、そして信頼が言語の必要量を左右するという話へと議論が広がりました。
- 深井さんは、みんなで何かをやる儀式は人間にとって重要で、否定ではなく違う儀式に変えるべきだと語った
- 事後的にしか合理化されないものは排除されやすいが、茶道の型のように後から意味がわかる身体知がある
- 言語化しない組織はゴールが決まった製造業などで機能したが、市場が分散すると通用しにくくなる
- 言語知と身体知はどちらかが正しいのではなく、今は5対5ぐらいのバランスの問題だと深井さんは見ている
- 信頼が溜まっていれば言語ゼロでも人は動き、信頼がゼロなら言語を尽くさないと動かない


