「他人の平凡」はなぜ面白いのか
この回は、他者の体験の記憶をいかに受け継げるかをテーマに、椋本湧也さんを迎えた対談の4週目、最終回です。冒頭では進行役のパーソナリティが、3週目の議論を振り返っています。
3週目の出発点は、普通の人の日常を語ることが何によって阻まれているのか、という問いでした。番組では、他者の基準を内面化しすぎていること、刺激の強いものを発信しなければというソーシャルメディアの強迫観念があるのではないか、と話されています。
その価値観をむしろ解体したほうが面白いかもしれない、というのが3週目の問題提起です。ライフイベントのような「大きな日常」に毒されすぎず、自分からレセプターを向けて迎えに行くことで味わい深くなる地味なものにも注目したい、という話でした。
振り返りでは、カーヴァー ── アメリカの小説家レイモンド・カーヴァー。労働者階級の日常を簡潔な文体で描いた短編で知られますの小説も話題に上がっています。伏線に見える描写が回収されないまま終わることから、「日常とは回収されない伏線なのではないか」という見方が示されました。
面白くなくてもいいが、受け継ぐと誰かが面白がってくれるかもしれない。そう思いながらリレーを渡していく、という側面が日常の記憶にはある、と振り返られています。わかりやすさより、理解を通して自分が変わっていくような「わかりづらさ」を迎え入れたい、という論点も確認されました。
「応答し続けよ」――理論家と職人はどう違う?
振り返りを受けて、椋本さんは人類学者ティム・インゴルド ── イギリスの人類学者。人間と環境、ものづくりの関係を論じ、「線」や「応答」をめぐる著作で知られますのエッセイ集『応答し続けよ』を挙げます。インゴルドは「応答(Correspondence)」という概念をよく使っているそうです。
椋本さんによると、この本は「考える」と「作る」を対比しながら探っていきます。考えることは「理論家」、作ることは「職人」に例えられています。
考えることを通して作る。知のフレームワークに、実体験や感覚を当てはめて考える
作ることを通して考える。体を動かし経験しながら、知識や思想と重ね合わせて作っていく
インゴルドのいう応答は後者、職人の側だと椋本さんは説明します。世界で鳴っている音や自分に呼びかけてくるものに感覚を開いて応じ、知識や固定観念ではなく体でセッションしていくこと。それをし続けよ、というのが本のタイトルの意味です。
椋本さんは、職人的に世界と関わる姿勢が、今回の対話全体に共通しているのではないかと話します。一見つまらないものに、ちょっとときめいたり「なんか変だな」と感じたりして一歩入っていくことで、自分なりの価値が見つかるのかもしれない、という見立てです。
SNSから離れて「孤立する」意味とは
インゴルドの話に、ヒロさんと呼ばれるパーソナリティが反応します。ヒロさんはこの日、宇野常寛 ── 評論家。批評誌の主宰などで知られ、情報社会やSNSをめぐる論考を多く発表していますさんと、宇野さんの著書『庭の話』をもとに対談したばかりでした。
ヒロさんによると、『庭の話』にも、作ることや何かにエンゲージすることの重要性が書かれているといいます。SNSの価値判断に乗っかり、潮目を読むことに汲々としすぎている、という問題意識が背景にあります。
宇野さんの場合、向き合う対象の例は昆虫のような「応答してくれないもの」です。応答しないものに問いを投げ続け観察するとき、人はつながりから切り離された孤立した存在になれる、とヒロさんは紹介します。常につながり続けていると、価値あるものを出さなければという考えに毒されていく、という指摘です。
ヒロさんは、前回までのアートの話にも通じると続けます。美術館での鑑賞は「大きな価値基準を読み取れたか」という行為になりかねない一方、身近な誰かの作品を愛でたり自分で作ったりすることも、もう一つのアートのあり方だという話です。
進行役のパーソナリティも、参加する・作るという姿勢がここにはあると受けます。他者の価値観ではなく自分の価値観を信じ、社会では取るに足らないかもしれない考えに向き合ってみる、という方向性が共有されました。
他者の体験に、自分の物語を重ねてよいのか
椋本さんは対話を戦時体験の継承に戻します。他者の体験をそのまま語り継ぐ方法がある一方、それをヒントや引用元にして、自分の個人的な小さい物語と重ね合わせて語る方法もある。椋本さんは、この2つを同時並行でやっていくことが重要かもしれないと話します。
進行役のパーソナリティは賛同しつつ、重ね合わせが最近否定されることもあると指摘します。たとえば差別の経験を語る人に、別の形で差別された経験から「一部共感できる」と言うと、他人の体験を奪うことになる、という考え方です。
進行役のパーソナリティは、その考え方を「個人的には結構厳しい」と感じているそうです。他者をわかりきれない前提で努力するしかない以上、自分の少ない経験を引き合いに出して近づこうとするのは精一杯の行為ではないか、と話します。体験を小さくしたり曲解したりするリスクはあるものの、それを封じると何も語れなくなることを心配している、という立場です。
椋本さんも同じ考えだといい、続けているプロジェクトを紹介します。8月15日の日記を書くという試みで、この年が2年目にあたります。
参加者と話すと、共通したコメントがあったといいます。前年の8月14日も16日も覚えていないのに、8月15日のことだけは覚えている。忘れた部分も、書いた文章を読めば思い出せる、という声です。
椋本さんは、その理由を自分の文脈で他者の戦時体験を語り直した経験に求めます。生身の体が覚えているからこそ、書いたことが手がかりになって思い出せるのだろうという見立てです。自分がそこにどういるのかが、記憶の風化に抗う重しのようになる、と椋本さんは話しています。
無名の一人ひとりは、歴史にどう参加しているか
「誰もが参加している」という話から、進行役のパーソナリティはカナダ出身のシンガーソングライター、ファイスト ── カナダ出身のシンガーソングライター。インディーポップを中心に活動し、国際的に評価されていますの曲「We're All in the Dance」を紹介します。人生はみんなが参加するダンスであり、木が一緒に揺れるように同時に動き、時間があるうちに踊るんだ、という内容の歌だと説明しています。
この曲は、映画パリ、ジュテーム ── パリを舞台に、複数の監督が短編を持ち寄ったオムニバス映画。2006年公開ですの主題歌になっています。進行役のパーソナリティは、2006年頃のアンソロジーで、さまざまな国籍の登場人物がパリという一点だけを共有し、断片が次々に流れていく作品だと紹介しました。
意識していてもいなくても、人は参加してしまっている。進行役のパーソナリティは、その当たり前のことが記録されていないと話します。共有される価値があるかではなく、一つの事実として「統計に乗らない生を生きている」ことが少しでも記録されたらいい、という思いがあるそうです。
椋本さんはこの話から、トルストイの『戦争と平和』を連想します。小説の最後でトルストイは歴史について書いていて、椋本さんの意訳では、歴史とはあらゆる人の一人ひとりの運動の総体だということです。
『戦争と平和』には559人もの登場人物が出てきて、名前しか出てこない人物も無数にいると椋本さんは話します。物語が語られない無名の一人ひとりの運動のすべてが歴史を形作っている、とトルストイは考えたかったのではないか、という読み方です。
「この瞬間は、すべて等しく価値がない」は言い切れるか
トルストイの話を受けて、ヒロさんは「大きい・小さい」という区別そのものを問い直します。大きな日常と小さな日常、大きな人物と小さな人物、大きなストーリーと小さなストーリー。大小は事後に立ち現れるもので、初めから大きいものがあるわけではない、という考えです。
ヒロさんは、この瞬間はすべて等しく価値がなく、やった結果に歴史的な意味合いが勝手についていくのだと話します。今この時点で大きい・小さいと価値判断してしまうが、そこには何もない、という命題です。
進行役のパーソナリティは「めっちゃ希望を感じる」と言いつつ、答えが知りたいからとデビルズアドボケット ── あえて反対の立場をとって議論を深める役割。日本語では「悪魔の代弁者」と訳されることが多いですを買って出ます。総理大臣やアメリカ大統領の決断、歴史的な調印のように、あらかじめ大きな物語になるとわかっている瞬間もあるのではないか、という反論です。
椋本さんは、どこから見るかによると答えます。歴史や政治の文脈では大きな物語として残るかもしれないが、個人の記憶の中では、残るか残らないか、大きいか小さいかは現時点ではフラットだ、という整理です。
為政者の決断などは、大きな物語として残ってしまうかもしれない
残るか残らないか、大きいか小さいかは、現時点ではフラット
進行役のパーソナリティはさらに、子どもが生まれる日や最後の出勤日のように、本人にも大きいとわかる日常があると問いを重ねます。ヒロさんは「でも子供が生まれた翌日は小さな日なのだろうか」と考え込みました。
教科書に載る出来事と、載らない糸の色
進行役のパーソナリティは、大きな日常の中にも小さな瞬間が無限にあることが大事だと話します。例として挙げたのは、以前のラジオで永井玲衣永井レイさんから聞いた、空襲か原爆の際に逃げた人の語りです。
その人はリュックに家財道具を詰めて逃げ、橋を渡るときに重すぎて逃げ切れないと気づき、川へ中身を投げ捨てました。惨状のあまり世界は白黒でしか記憶に残っていないのに、投げ捨てた糸が空に舞う間だけはスローモーションで原色を保っていた、という話です。進行役のパーソナリティは、正しく覚えているかはわからないと断っています。
空襲や原爆は教科書に載るが、糸の色は載らない。進行役のパーソナリティは、その両方を捉えたいと話します。
椋本さんは日記を書く経験から、1日のすべては書き尽くせないものの、書き残した大きな言葉から小さな瞬間が思い出されることがあると話します。大きな出来事の背後にも日常が続いていて、書かれなかったものも確かにあったと想像できる余地ができる、という見方です。
この話から、進行役のパーソナリティは実家で見つけた1989年頃のビデオテープを紹介します。家族でスイスの山中をバス旅行した映像で、父親がハンディカムを手に入れた直後だったのか、バスで皆が寝ているだけの場面を10分ほど撮り続けていたそうです。
ポーズを決めた顔ではなく、何でもない寝顔やカメラを向けられて怒っている顔。普通なら残るはずのなかった退屈なものに後からアプローチできることが貴重だった、と進行役のパーソナリティは振り返ります。ヒロさんも、決め顔の記念写真より素の状態の写真のほうが価値が出てくることがある、と応じました。
意味付けは、何度も繰り返されるべきか
対話の締めくくりに、椋本さんは4回を振り返ります。自身の問題意識は規模が大きく、小さな断片で寄り道しながら振り返ったときにようやく何かが見えるくらいのものだと話し、連想を飛ばしながら話せたことを楽しかったと語りました。
椋本さんは、事実や出来事と、その意味付けは別の領域にあると考えています。他者の記憶の解釈は意味付けの話であり、一度意味付けするだけでは不完全だ、という指摘です。
出来事
事実や出来事そのものは、意味付けとは別の領域にある
今の解釈
意味付けは、今この時点の私が行うもの
時間による変化
今日、明日、1年後の自分では、同じ出来事でも違う意味付けが生じる
繰り返し
いろいろな場所から意味付けして残し、何度も繰り返すことが風化や継承に重要かもしれない
ヒロさんは、過去のストーリーを勝手に踏み固めてしまい、バラバラに崩さない記憶のほうが多いと振り返ります。自分の中に大きな物語ができると小さな日常が簡単に風化するので、80年代のビデオを見返すような時間が大事だと話しました。
椋本さんは、超個人的な小さな物語のほうが、かえって他者に伝わり共感が見つかることもあると話します。誰かの小さな記憶を読むことで、自分の忘れていた記憶が想起され、世界の見え方が変わることもあるのではないか、という言葉です。
進行役のパーソナリティは、小さな日常に目をやれていないかもしれないという反省も込めて、常に何かを見落としているという態度を持ちたいと話します。ヒロさんの「この瞬間はすべて等しく価値がない」という考えを、心構えとして持ち続けたいという結論に、ヒロさんもマインドセットとして向き合いたいと応じました。
最終回で取り上げた本は、ティム・インゴルド『応答し続けよ』、宇野常寛さんの『庭の話』、トルストイ『戦争と平和』の3冊です。
まとめ
最終回では、他者の記憶を受け継ぐ方法として、そのまま語り継ぐことと、自分の小さな物語に重ねて語り直すことの両方が大切だと語られました。大小の価値判断は事後に生まれるものだと捉え、小さな日常に目を向けて何度も意味付けし直すことが、記憶の継承の手がかりになりそうです。
- インゴルドの「応答」は、知識を当てはめる理論家ではなく、体で世界に応じる職人の姿勢として紹介された
- 8月15日の日記プロジェクトでは、自分の文脈で戦時体験を語り直した日が記憶に残ると参加者が話している
- 「この瞬間はすべて等しく価値がない」という命題に対し、歴史と個人の記憶では見え方が違うと整理された
- 教科書に載る出来事と、糸の色やビデオの寝顔のような載らない断片の両方を捉えたいと語られた
- 意味付けは今の自分が行うものなので、何度も繰り返すことが風化を防ぐと椋本さんは考えている




