語ることの不可能性から、平凡な生活のアンソロジーへ
椋本湧也さんをゲストに迎えた「他者の体験の記憶はいかに受け継げるのか」の対談は、3週目に入りました。冒頭では渡邉康太郎さんが、2週目の議論を誰の発言かを曖昧にしたまま一気に振り返っています。
2週目の出発点は、語ることの不可能性でした。自分と他人は違うので、傷の有無や戦争体験かどうかに関係なく、究極的には他者の経験を語ることはできません。
どうしても自分の体験に置き換えてわかったふりをするしかない。でも間違えてもいいから語り続けたいんだったら、語り続ければいいんじゃないか。
ただし、「間違えてもいい」という付帯条件を忘れ、自分が感じたかのように語ってしまうことには傲慢さもある、と渡邉さんは振り返ります。共感能力の高さの発露でもあるけれど、その側面も忘れないでいたい、という確認でした。
椋本さんが編集した『日常をうたう』には、オリジナルとしての祖母の語りがあり、そこにいくつもの解釈が日常と重ね合わされていく、という表現があります。2週目では、本の引用と自分の解釈が並行して進む文章や、「一つの問いかけ、いくつもの答え」でできた本棚といった形もあり得る、という話が出ました。
問いの例として挙がったのは「二度と行けないお店」や「捨てられないTシャツ」です。あらゆる人の人生や恋、ワードローブは平凡さと非凡さを併せ持っていて、一人一人の平凡な生活を語れば、その場で一つのアンソロジーが立ち上がり得る、という気づきが読書会から見えてきたといいます。
一方で、こうした場の語りは教条的になりやすいという注意点も確認されました。感情を乗せすぎると圧になり、「日本人はこうしなきゃいけない」のような一つの結論に巻き取られるリスクがあるため、言いたい人は言ってよく、他の人が別のことを言える場が保証される必要がある、という整理です。
世界の99パーセントは歴史として記録されないことになっちゃってるんだけど、むしろ生活の方こそ記録しておきたいんじゃなかったっけ。
セミの抜け殻を持ち帰るように「こんなのもあったよ」と楽しむ姿勢や、歴史の教科書に載らないものも十分歴史の一部だという考えも、2週目の議論の土台として確認されています。
日常を語りづらくさせているのは誰の価値基準か
振り返りの後、渡邉さんは荒木博行さんが前回の対談で「開眼した」という噂に触れます。荒木さんは「しょっちゅう開眼する」と笑いつつ、普通の人々の日常を語ることを阻むものについて考えたことを話し始めました。
荒木さんによれば、人は日常を語る前に「これは面白くない」と勝手に価値を判断してしまっています。他者の目線や価値基準を、自分の中にすっかり内面化しているのではないか、という見立てです。
本当になんか他人の日常って面白かったりするじゃない。
荒木さんが例に挙げたのは、渡邉さんの「カバン持ち」です。渡邉さんがクリエイティブな人だからという理由だけではなく、ある人が9時から10時の間に何をしているかをトレースするだけで、おそらく面白いはずだと荒木さんは言います。
それでも本人にとっては日常なので「そんなもん面白くない」と感じてしまいます。荒木さんは、価値基準の内面化にはSNSの影響も大きく、自分を面白くわかりやすいパッケージにして届けなければならないという強迫観念があるのではないか、と考えています。
その編集を一回全部アンバンドルしてバラバラにした方が、むしろ面白いっていうね。
荒木さんの開眼とは、パッケージ化された編集をほどいたほうがむしろ面白くなるという、編集の逆転現象への気づきでした。渡邉さんは「めっちゃおもろい」と応じ、大事なポイントをクリアに説明してもらったと受け止めています。
渡邉さんはここで、テレビ番組で見た小学4、5年生の教室の場面を紹介しました。将来なりたいものを聞かれた女の子が「本当はロボット工学者になりたいけれど、もう手遅れなので諦めている」と答えたというのです。
渡邉さんは理由を推測にすぎないと断ったうえで、ソーシャルメディアで天才の理想的なキャリアパスや神童的なエピソードに触れすぎた結果、自分はそのルートに乗っていないと可能性を小さく見積もってしまったのではないか、と想像しています。世間の超優秀な外れ値を見すぎることの悪影響として語られた例です。
椋本さんは、自分も参加し、同時に他人の語りも聞くことが大事なのではないかと続けます。椋本さんが作った『26歳計画』は、何者かもわからない人たちの26歳の書簡がざっと並んでいるだけの本です。
それでも寄稿者からは、自分がこのお題にこう答えた、では他の人はどう答えたのか、という視点で読めて面白かったという声があったといいます。また「26歳」という記号がきっかけになり、これから26歳になる人や26歳になった人が、知らない誰かの小さな物語へ一歩乗り出して触れられるのだと椋本さんは話します。
日常のアンソロジーを編む立場として、椋本さんはどんな問いやフォーマットを用意するかが、価値を転換させたり価値に気づいたりするための第一歩になるのではないか、と考えています。
「大きな日常」に毒された私たちと、回収されない伏線
荒木さんは椋本さんの話を受けて、「小さな日常」の対になる「大きな日常」という切り口を出しました。大きな日常とは晴れの日のような特異な場面や、ビジネス書で人が人生を振り返るときに語られる大事なイベントのことです。
そんなもんばっかり僕ら毒されすぎてんだよね。なんかね、大きな日常に。
荒木さんによれば、何か語ってくださいと言われたとき、人は大きな日常を語らなければいけないと思い込んでしまいます。すると先ほどの小学5年生のように、「私にはもう無理です、語ることはありません」という気持ちになってしまう、という指摘です。
渡邉さんは、大きな日常が象徴するものとして、転職、恋愛や結婚のピーク、人生の始まりや終わり、大感動や大失敗を挙げます。それらは興味を引くものの、流行りの映画やエンターテインメント作品のように刺激を得たいという動機に近い、と渡邉さんは見ています。
(大きな日常も)もちろん面白いんだけど、もうちょっとなんか滋味深いものもあるよねみたいな。毎日濃い味付けの食事が食べたいわけでなく。
渡邉さんは、日々触れたいのは滋味深い出汁のような優しい味で、それをこちらから迎えに行くことが大事だと話します。味の主張は少なくても、こちらがレセプターを向けていればどんどん面白くなり、やがてその人なりのこだわりの解像度や向きそのものがコンテンツになる、というのが渡邉さんの考えです。
大きな日常と小さな日常の違いは、ここまでの荒木さんと渡邉さんの話から、次のように整理できます。
転職や結婚、大感動や大失敗などの節目。濃い味付けの食事やヒット映画のように刺激を与えてくれる
主張の少ない出汁のような味わい。こちらからレセプターを向けて迎えに行くと、面白さが立ち上がる
荒木さんはこの話を聞きながら、レイモンド・カーバー ── アメリカの小説家・詩人。労働者階級の日常を切り詰めた文体で描いた短編で知られ、ミニマリズム文学の代表的作家とされていますの短編を思い出していました。タイトルも忘れたという、友人の家で子どもが泣く中、居心地の悪い空間で微妙な料理を食べて帰るだけの話です。
荒木さんによると、その短編の描写は「ベタッとしている」、つまり編集されていません。七面鳥の話や戸棚の扉のディテールまで書かれていて伏線かと思わせるのに、最後まで何の意味も出てこないのです。
なんか日常ってそういうことだよね、やっぱり。全然それは回収されない伏線なんてごまんとあるわけで。それがいいんだよね、なんかね。
渡邉さんは、その伏線を誰かに回収してもらえればという望みで語り継いでいけばいいのかもしれない、と続けます。回収されなくてもいいけれど誰か面白がってくれという思いで、面白くなくてもいいし、面白くなってもいいという気持ちで「メッセージ・イン・ア・ボトル」のように送り出していくのではないか、という話でした。荒木さんは「マジでほんとそう」と強く同意しています。
小さな日常の価値に気づくには?短歌の「共感・納得・驚異」
椋本さんは二人に同意しつつ、問いを投げかけます。ルーティン化して面白みもないと感じている自分の小さな日常に、実は価値があると気づくきっかけは何なのか、という問いです。
荒木さんは、価値があると自分で考えないほうがいいのだろう、と答えました。とても難しい言い方だと前置きしたうえでの、慎重な一言です。
渡邉さんがここで思い出したのは、現代の歌人・木下龍也さんの『天才による凡人のための短歌教室』です。七六書から出ている本で、短歌には共感、納得、驚異の3つの類型があるという話が載っていると渡邉さんは紹介します。
共感は誰もが日常で感じる「あるある」、納得はよく考えればそうだよねと思えるもの、驚異は思いもしなかったものを提示するものです。渡邉さんによれば、共感はXなどでバズりやすく、納得もある程度バズりますが、驚異はわからなすぎてソーシャルメディアにはそぐいません。
実は人のある個人の心の中に長く残り続けるっていうのは、すぐにはわからない驚嘆の方なんじゃないかっていうことを言うんです。
渡邉さんは実際に本を取ってきて、それぞれの例を読み上げました。紹介された3つの類型と例歌は、次のとおりです。
| 類型 | 特徴 | 紹介された例 |
|---|---|---|
| 共感 | 誰もが感じる「あるある」。SNSでバズりやすい | さっきまで騒いでたのに、トイレでは他人みたいな会釈をされる |
| 納得 | 考えてみればそうだと思える。ある程度バズる | 飛び上がり自殺をきっとするだろう。人に翼を与えたならば |
| 驚異 | すぐにはわからない。心に長く残る | 脇の下を見せるざんすと迫りつつキャデラック型チュッパチャップス(穂村弘) |
共感の歌には荒木さんが「わかるわかる」と即座に反応しました。納得の歌について渡邉さんは、人が飛べるようになったら落ちて死ぬことはなく、むしろ上がってぶつかるのではないか、と考えれば腑に落ちる歌だと説明しています。
驚異の例である穂村弘 ── 現代短歌を代表する歌人の一人。口語を生かした斬新な歌風で知られ、エッセイや評論でも幅広く活動していますさんの歌には、荒木さんも「難しい」と一言です。渡邉さんはオープンカーの運転手がチュッパチャップスをくわえ、上げた手から脇の下が見えている場面かもしれない、と強引な解釈を試みつつ、「わからない」と言い切ります。
渡邉さんは、見せるざんすという言葉遣いや、チュッパチャップスがキャデラック型なのかといった点から、どんどん妄想が広がってしまうところに面白さを見ています。
なんか世の中の物語は多分、分かりやすい共感、分かりやすい納得とか分かりやすい驚異に寄りすぎてると思ってて。
渡邉さんにとって、分かりやすい驚異はライフイベント、分かりやすい共感は「あるある」です。そうではなく、分かりづらい中に自分自身が参加し、椋本さんの言うように人の物語に触れるだけでなく自分も語る側に回っていく態度が面白いのではないか、と渡邉さんは話しています。
わかりやすさは「貧しい自己完結」なのか
椋本さんは、分かりやすい言葉は消費されやすいと感じていると応じます。本の表紙やタイトルを分かりやすくすれば手に取る機会は増えるかもしれませんが、読者が一歩踏み込んで深く読んでくれるかどうかに関わってくる、と編集者としての実感を語りました。
椋本さんが連想したのは、牧雄介さんの『霧の鳴る音』の最後に書かれた、「わかりやすさとは一つの貧しい自己完結に過ぎない」という言葉です。この言葉には「理解することは変わること」と続くといいます。
椋本さんの解釈では、分かりやすいと感じるのは、既知のものを自分のフレームワークの中で読んでいるからです。分からないけれど何かあるかもしれないと突っ込んで考えることで、自分の固定観念が広がるのかもしれない、という読み方を椋本さんは紹介し、その態度を読み手としても作り手としてどう引き出せるかが大事だと話しました。
渡邉さんはこれを、ティム・インゴルド ── イギリスの人類学者。人間と環境、ものづくりや線の研究などで知られ、人類学を「ともに生きる」営みとして捉え直す著作が日本でも広く読まれていますが語る知恵と知識の違いに通じると受け止めます。荒木さんは、出典が『人類学とは何か』だと補足しました。
人を安定させ、不安を払拭してくれる
既知と思っていたものを揺さぶり、かえって私たちを不安にさせる
渡邉さんによれば、知恵を得ることは一見いいことに思えても、少なくとも短期的には足場がグラグラする不安から逃れられません。それでも、その不都合さがあるからこそ楽しいという面がある、と渡邉さんは話します。
荒木さん、渡邉さん、椋本さんがそろって「面白くなってきた」と言い合い、話題は次回の最終回へ移ります。渡邉さんは1つの映画と1つの歌を思い返したといい、椋本さんはインゴルドの『応答し続けよう』応答し続けようを挙げました。
渡邉さんの「俺たち自身も話に応答し続ける」という提案で、最終回はそこをきっかけに話すことになりました。今回紹介された本は、木下龍也さんの『天才による凡人のための短歌教室』、『霧の鳴る音』、ティム・インゴルドの『人類学とは何か』です。
まとめ
3週目の対談では、小さな日常を語りづらくさせているのは内面化された価値基準やSNS的なパッケージ化ではないか、という問いから出発し、回収されない伏線のような日常を面白がる態度、そして分かりやすさと距離を取る読み方・作り方へと話が深まりました。
- 荒木さんは、日常を面白くないと感じさせるのは内面化された他者の価値基準であり、編集をアンバンドルしたほうがむしろ面白いと気づいた
- 「大きな日常」に毒されると語ることがないと感じてしまうが、出汁のような小さな日常はこちらから迎えに行くことで面白くなる
- レイモンド・カーバーの短編のように、日常は回収されない伏線の積み重ねであり、誰かが面白がってくれる可能性に託して語り継げばよい
- 木下龍也さんの短歌論では、すぐにはわからない「驚異」こそ心に長く残るとされる
- 「わかりやすさとは貧しい自己完結」という言葉や、インゴルドの知恵と知識の区別から、揺さぶられる不安を楽しむ態度が語られた



