ファミコンの記憶から始まる「ゲーム」の回
番組の冒頭、荒木博行さんは渡邉康太郎さんに「ゲームって結構やりました?」と尋ねます。渡邉さんの実家にはファミリーコンピューターがあり、マリオやレッキングクルー、ゼビウスなどを遊んでいたといいます。
渡邉さんはスーパーファミコンのハードも持っていましたが、ソフトは3本ほどしか買ってもらえず、スーパーメトロイドやストIIばかり繰り返し遊んでいたそうです。
荒木さんの家は裕福ではなく、ファミコンを買ってもらえたのは小学4年か5年のころでした。荒木さんは、ファミコンが家に来た日のことを今でも覚えていると話します。
なんかね、(ファミコンを)買ってきてくれた日のことはもう本当覚えてる。うちに来たっていう。
最初のソフトは「オバケのQ太郎」でした。荒木さんによれば、空を飛んでいるだけでエネルギーが減り、空中のドロップを食べ続けないと死んでしまう、なかなかつらいゲームだったそうです。
十字コントローラーずっとこう押し続けていないとダメだっていうね。もうあれで本当に腱鞘炎になるかっていう感じでさ。
渡邉さんが「なんで俺たちすごいゲームの話してるんだっけ?」と問いかけ、この回のテーマがゲームであること、そしてゲームの専門家をゲストに招いていることが明かされます。
なぜ「無限プチプチ」の企画はバンダイで通ったのか
ゲストの高橋晋平さんは、おもちゃやゲームの開発を20年ほど続けてきた人物です。キャリアはバンダイ ── ガンプラや仮面ライダー関連の玩具などで知られる日本の大手玩具メーカーで始まり、アナログのおもちゃやアナログゲームを作っていました。
高橋さんの会社員時代の代表作が「無限プチプチ」です。梱包材のプチプチを模したキーチェーン型のジョークトイで、国内外で大ヒットしたといいます。
高橋さんはその後も、ずっと枝豆をつまみ続ける「無限枝豆」などのギャググッズを作ってきました。一方でアナログゲームの開発も会社員時代から手がけ、10年前に独立起業してからも同じような仕事を続けています。
渡邉さんが驚いたのは、無限プチプチの企画が組織の中で通ったことそのものでした。
無限プチプチっていう企画がそもそも組織で通ったのがすごいですよね。
高橋さんによると、バンダイの主力はガンプラや変身ベルトのような商品で、その中で「プチプチ」を提案したプレゼンが通ったときの話は、今もいろいろな場所で熱く語られているそうです。その詳しい経緯は、シリーズの流れ次第で話すことになりました。
高橋さんは、無限プチプチはゲームではなく遊びに分類されると説明します。ただ、高橋さん自身は人生を通してゲームが好きで、アナログ・デジタルともにゲームを作る機会も多く、「ゲームってなんだっけ?」と考え続けてきたといいます。
番組の「遊びの回」は何を語り残していたのか
高橋さんは超相対性理論の初期からのリスナーで、出演を「夢の果て」と表現します。漫画『ワンピース』でルフィが海賊王になった後に「夢の果て」があると語っていることになぞらえ、ゲーム王になる前に夢の果てに到達してしまったと笑いを誘います。
高橋さんが特に聞き込んでいるのが、番組初期にワインで酔いながら遊びについて語った回です。高橋さんは、専門家でもない出演者たちが、プロが学ぶようなゲームの歴史をさらっと高い解像度で語っていることに驚いたといいます。
ただし高橋さんは、その遊びの回では遊びとゲームがひとつのものとして語られていた印象もあったと指摘します。高橋さん自身は普段から、遊びとゲームの違いや「遊びからゲームへ移行するとは何か」をよく話しているそうです。
高橋さんは荒木さんと同じくVoicyで「1日1アイデア」という番組を配信しています。もともとはアイデアの考え方を講義する番組でしたが、落研出身の高橋さんはだんだんふざけることに熱中し、一人で喋って一人でツッコんで一人で笑う番組になってきたそうです。
渡邉さんも、ツッコミが苦手でボケ続けて自分で笑って終わるところがあると応じ、超相対性理論では荒木さんが「重し」の役割を担っているのだろうと話します。
ゲーム化を勧めることは罪なのか?
高橋さんが持ち込んだテーマは「社会を幸せにするゲームとは何か」です。高橋さんはゲームのプロダクトを作るだけでなく、ゲーミフィケーション ── ゲームの仕組みや要素を、仕事・学習・健康管理など遊び以外の分野に取り入れて、行動を促す手法を考えて実装する仕事もしています。
高橋さんは、歴史上ゲームは人々を幸せにしてきたと考えています。ファミコンのおかげで幸せになった人もたくさんいるはずだ、というのが高橋さんの見立てです。
その一方で、高橋さんはゲームが生んだ問題も挙げます。ギャンブル依存に苦しむ人がいること、ソーシャルゲームの誕生で廃課金者が現れたことです。
さらに広く捉えると、SNSや受験戦争も「しんどいゲーム」と言えるかもしれず、それに巻き込まれている人もいると高橋さんは話します。そうした状況で、いろいろなことをゲーム化しようと言う自分は罪ではないのか、というのが高橋さんの問いです。
ゲームは人を幸せにしてきた
ファミコンのように、多くの人に楽しさを届けてきた
一方で苦しみも生んだ
ギャンブル依存、ソーシャルゲームの廃課金者
社会全体がゲーム化している
SNSや受験戦争も「しんどいゲーム」と言えるかもしれない
作り手としての問い
ゲーム化を勧めることは罪ではないのか
パイディアとルードゥス、遊びとゲームを分けるものは?
荒木さんは議論の前に、遊びとゲームの違いを定義から確認したいと高橋さんに頼みます。高橋さんはまず、遊びの定義がホイジンガ ── オランダの歴史家。著書『ホモ・ルーデンス』で、人間の文化は遊びの中から生まれたと論じたからカイヨワ ── フランスの社会学者・思想家。『遊びと人間』でホイジンガの議論を発展させ、遊びを分類したへという流れで整理されてきたと説明します。
高橋さんによれば、遊びとは、ルールや時間・空間の制限の中で自由に何をしてもよく、結果が未確定な行為です。特徴は、非日常的で非生産的な行為だとされている点にあります。
カイヨワは、ホイジンガが触れていなかった分け方として、遊びにはパイディアとルードゥスの2つがあると論じました。高橋さんは、パイディアが遊びに近く、ルードゥスがゲームに近いと整理します。
パイディアの例として高橋さんが挙げるのはレゴです。レゴは組み立てて何かを作ってもいいし、おはじきに使ってもいい。一方のルードゥスは試合のような競技に近く、くじやギャンブルも含まれます。
ごっこ遊びにあたるミミクリでも同じ区別ができ、パイディア的なものはヒーローごっこ、ルードゥス的なものは演劇のような興行に近づいていくと高橋さんは説明します。
目的が曖昧で自由に遊ぶ。レゴでおはじきをしてもいい。ヒーローごっこ
競技や試合、くじやギャンブルなど。ごっこ遊びなら演劇のような興行
高橋さんが考えるゲームの特徴は、まず明確な目的があることです。勝利条件を満たして勝つことを目指し、行動のたびにフィードバックがあって、目的に近づいているのかミスしているのかがわかります。ルールも遊びより明確に決められている、と高橋さんは話します。
マインクラフトやあつ森は遊びなのか、ゲームなのか
荒木さんは、マインクラフトや『あつまれ どうぶつの森』は遊びなのかと尋ねます。高橋さんの答えは、こうしたオープンワールドゲームにも一応の目的は設定されている、というものでした。
高橋さんによると、マインクラフトにはラスボス的な存在がいて、あつ森にもお金を集めて家を大きくするという目標があります。ただ、それをやらなくてもいいため、遊びに近い、自由度の高いゲームだといいます。
高橋さんは、本当に「何でもいいよ、さあどうぞ」と放り出されたとき、迷わず楽しめる人はかなり少なくなるだろうと考えています。だからこそ、オープンワールドゲームにも遊び方の本筋が用意されているというのが、高橋さんの見方です。
渡邉さんはこの点を「興味のど真ん中」と言いつつ、言葉の問題を投げかけます。カイヨワはフランス人ですが、フランス語では遊びとゲームの区別がないのではないか、という指摘です。
フランス語だとゲームと遊びって確か区別がなくて、どっちもジュって言うんですよね。
渡邉さんは、フランス語の「ジュ」は英語のプレイに相当し、ゲームもプレイも同時に意味すると説明します。そのうえで、パイディアとルードゥスというラテン語由来の言葉で分けることで、区別ができるようになっているのだと理解を示しました。
高橋さんは、カイヨワの議論では、人はパイディアのような目的が曖昧な遊びをしていても、ルードゥスのような目的のある遊びに流れていってしまうものだとも言われていると紹介します。
荒木さんは、人生はゲームなのかという話にもつながると続けます。本来は遊び的でいいはずなのに、年収が高いほうがいいといった基準で勝手にゲームにして競い合ってしまう側面がある、という話が出ました。
強制参加させられたものは、ゲームと呼べるのか?
高橋さんが普段から考えているのは、人にとって最高のゲームは自分にフィットしたゲームだということです。高橋さん自身にも、大嫌いなゲームもあれば、ハマりまくったゲームもあるといいます。
高橋さんによれば、欲しい報酬や快感の種類、向いているアクションは一人一人違います。高橋さんは受験をゲームのように捉えて楽しみ、受験に救われた人生を送ってきましたが、受験がまったく向いていない人もいると話します。
ところが社会に実装されたゲームは、プレイヤーがたくさん集まるように設計されます。その結果、自由参加ではなく巻き込まれてしまい、苦しくなる人が出てくる、というのが高橋さんの指摘です。
高橋さんは、遊びの条件のひとつに自由参加があると説明します。そのため、強制参加させられたものは、その人にとってはゲームではないといいます。
高橋さんは近年の整理として、ジェイン・マクゴニガル ── アメリカのゲームデザイナー。著書『幸せな未来はゲームがつくる』で、ゲームの力を現実の課題解決に生かす考え方を示したによるゲームの4つの条件を紹介します。
渡邉さんは、この定義を資本主義に当てはめてみます。マーク・フィッシャー ── イギリスの批評家。著書『資本主義リアリズム』で、資本主義以外の世界を想像することが難しくなった状況を論じたが描いたように、資本主義の外を考えるのが難しいほど根付いているなら、それはゲームと呼べるのか、という問いです。
好むと好まざるとによらず、我々はそこに参加しちゃってるっていう意味では、あんまりそれ(資本主義)はゲームじゃないっていうことになるのか、その定義によると。
高橋さんの答えは、資本主義は人によってはゲームであり、人によってはゲームではない、というものでした。渡邉さんも、楽しめる人にとってはゲームになると応じつつ、誰もが自発性によらず参加している以上、その定義にはめていいのかという問題は残ると話します。
次回は、人はなぜ曖昧なパイディアからルールのあるルードゥスに流れてしまうのかを、出演者それぞれの実体験を交えながら掘り下げることになりました。紹介された本は、ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』、カイヨワ『遊びと人間』、マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』、ジェイン・マクゴニガル『幸せな未来はゲームがつくる』です。
まとめ
その1では、ファミコンの思い出から始まり、高橋晋平さんが「ゲーム化を勧めることは罪ではないのか」という問いを持ち込みました。遊びとゲームの違いを定義から整理した結果、自発的な参加という条件が、社会のゲーム化を考えるうえでの鍵として浮かび上がっています。
- 高橋晋平さんは、ゲームは人を幸せにしてきた一方で、依存や廃課金、SNSや受験戦争のような「しんどいゲーム」も生んでいると考えている
- カイヨワの分類では、自由なパイディアが遊びに近く、競技的なルードゥスがゲームに近い
- ゲームには明確な目的、ルール、フィードバックがあり、マクゴニガルはそこに自発的な参加を加えた4条件で整理している
- 人は目的の曖昧な遊びから、目的のあるゲームに流れていくのではないかという問いが、次回の出発点になる
- 資本主義のように強制的に参加させられるものは、人によってゲームにもそうでないものにもなりうる





