出世競争は「いつ参加したかわからないゲーム」?
第2回は、前回の議論の振り返りから始まります。前回は、遊びは非日常的で非生産的なものだという前提が確認されました。そのうえで、カイヨワの分類やマクゴニガルによるゲームの定義が紹介されています。
カイヨワの分類では、自由に遊ぶパイディア ── 社会学者ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』で示した、即興的で規則のない自由な遊びの極。対になるのは、規則と訓練をともなうルドゥスですと、ルールのある競技的な遊びが対になります。マクゴニガルは、ゴールが明確、ルールが決まっている、フィードバックがある、自発的に参加する、という4つをゲームの条件に挙げています。
高橋さんは前回、人間にとって最高のゲームは「自分に合ったゲーム」ではないかと話しました。あわせて、人は曖昧な自由遊びから、だんだんルールのあるゲームへ流れていくという問題も提起しています。
この提起を受けて、荒木博行さんは会社員時代の実感を語ります。入社して最初のうちは、目の前のお客さんをどうハッピーにするかを考えて働いていたそうです。ところが立場が上がるにつれて、出世競争の話が出てくるようになったといいます。
すごいこのゲーム、意図しないゲームに参加しちゃってる感みたいのがあって。あれ、俺このゲームいつ参加したんだ?みたいな。
(昇格の)候補者の中で上がれる人これぐらいだからうんぬんかんぬんみたいなさ。そんなことを考えてる自分がむちゃくちゃ嫌になったみたいな。
荒木さんが感じた出世競争の問題は、それだけではありません。対話の中では、出世ゲームのルールがひどく曖昧で、しかも都度変わる点も指摘されます。子どもが負けそうになって途中でルールを変えるのと同じで、ルールが変わる側は大きなストレスを受けます。
荒木さんは、この出世ゲームから抜ける決断ができたと振り返ります。そのうえで、時代環境によって出世のルールが変わる例を挙げています。「若返り」が掲げられれば若さが評価に加わり、「女性活用」が掲げられれば性別による加算が生まれる、という具合です。
フェアでないゲームに、自分の意思と関係なく参加させられる。出世競争のこうした構造は、最悪の体験になりうると話されています。
ビブリオバトルとM-1、何がゲームを苦しくするのか
ゲームが人を幸せにするかどうかについて、対話の中で一つの仮説が示されます。参加人数が少なく規模が小さいゲームほど、参加者みんなが幸せを感じやすいのではないか、というものです。
小さなゲームの例として挙がったのがビブリオバトル ── 参加者がおすすめの本を数分で紹介し合い、聞き手の投票で「一番読みたくなった本」を決める書評ゲーム。2007年に京都大学で生まれ、全国に広がりましたです。本を紹介して優勝を決める立派なゲームですが、参加したい人しか参加しません。そのため、参加者はみんな嬉しく楽しい大会になります。
一方、お笑いの賞レースであるM-1グランプリは事情が違います。芸人は自分の意思でエントリーしていますが、「この賞レースに出ておかないと何のきっかけもつかめない」という理由で、出ざるを得ない面があると指摘されます。
M-1では、1年間必死に準備しても1回戦や2回戦で落ち、つらい思いをした末に解散するコンビもあるかもしれません。形式上は自由参加でも、実際には「参加しなければダメ」という強制力が働いているということです。
参加したい人だけが参加する。参加者はみんな嬉しく楽しい
自発的な参加のはずが、出ざるを得ない強制力が働く。勝つまでのつらさが大きい
ビブリオバトルとM-1の比較から見えてくるのは、ゲームの規模の影響です。優勝したときのリターンも含めてゲームの力が大きくなるほど、裏側にしんどさが出てくるという見方です。規模が大きくなるとほぼ強制参加になり、乗らない人は外れた人のように見られてしまいます。
荒木さんは、出世競争はM-1よりもさらに強く、無理やり参加させられているゲームかもしれないと加えます。自分に向いているから出たいと思える「自分にフィットしたゲーム」と、別の力が働いているゲームとがある、という整理です。
一時的なはずのゲームが日常に反転すると?
ゲームのしんどさについて、対話は規模に加えて「時間」の問題へ進みます。ホイジンガやカイヨワ、マクゴニガルが論じたゲームは、本来一時的なものだったはずだという指摘です。
本来のゲームでは、遊んでいる間だけルールとゴールがあり、その場限りの文化が生まれます。参加者は日常の価値観をいったん宙吊りにして、一時的な世界に浸ります。年に1回のお祭りのように、一時的なカオスに飛び込むことへの許しでもあったと語られています。
ところが、一時的だったゲームが日常に反転すると、ゲームは辛さを帯びるのではないか。対話はこの見方へ進みます。転換点として挙がったのが、ソーシャルゲームの登場です。
ソーシャルゲーム以前のゲームは、1本のカセットで遊ぶものでした。ソーシャルゲームでは、少しでも長くプレイヤーをとどまらせて課金してもらうことがビジネスになりました。M-1も番組を長く続けたいという意図で設計されているのでは、という見方も出ています。
荒木さんは、会社も同じ構造だと話します。社員を長く居続けさせるほど、エンゲージメントが高まり、売上や利益も上がる仕組みだからです。
本当はこう人生を考えた時に、会社っていうのはゲームとして一部のはずなんだけど、それがだんだんそのゲームが大きくなりすぎちゃって、人生がほぼゲームになってしまっている。
時間と空間が区切られた一時的なゲーム。カセット1本で終わりがあり、日常から抜け出す許しになる
長く居続けさせる設計のゲーム。ソーシャルゲームや会社のように日常を覆い、苦しみを帯びる
終わりのなさの例として挙がったのが、ショート動画を延々とスクロールしてしまうドゥームスクローリング ── 本来は悪いニュースを止められずに見続けてしまう行為を指す言葉。広くはSNSや動画を際限なくスクロールし続けることにも使われますです。スクロールしている瞬間は楽しくても、2時間後に我に返ると「なんてひどい時間を過ごしたんだ」と憂鬱になります。
この状態は「微分的には楽しいけど積分でつらい」と表現されています。時間と空間の制限を奪おうとするアテンションエコノミー ── 人々の関心や注目を限られた資源とみなし、その獲得を競う経済のあり方。広告収入型のSNSや動画サービスの設計に深く関わりますの中でサービスが設計されているからだ、という説明です。
荒木さんは、ホイジンガのマジックサークル ── ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で述べた、遊びが日常から切り離されて成立する特別な領域のたとえ。その内側でだけ独自のルールが通用しますの考え方を引き、この構造をさらに一段上から捉えます。マジックサークルが社会のあちこちにできると、サークル同士が人を奪い合うメタなゲームが生まれるという見方です。
自分のサークルに居続けさせることができたゲームが一番強いゲームになるみたいな、なんかそういう構造がやっぱりあって。
荒木さんによれば、「仕事にコミットしろ」というゲームが強ければ、人生はそのゲームに支配されてしまいます。これに対して対話では、自分で見切りをつけてゲームから離脱し、小説や別の仕事など次のゲームへ移ることが必要だと話されます。1つのゲームに絡め取られること自体が、人によっては重荷になるからです。
人生はすべてゲームなのか、それとも遊びなのか?
荒木さんは、人生の中に複数のゲームを「ポートフォリオ」として持ち、その比率を自分でコントロールするという考え方はわかりやすいと受け止めます。そのうえで、人生の時間がすべてゲームなのかという疑問を投げかけます。
例えば小説を読むっていうのはゲームなの?とか、ゲームでない時間っていうのは可能なのかしら?とか。
荒木さんの疑問に対して、全てがゲームではないという答えが返ってきます。小説を読むことは、目標を持っていなければゲームではなく遊びだという整理です。荒木さんは、だからこそ意識して「遊び」を作る必要があるのかもしれないと受け止めます。対話の流れは、ルールのない場にも身を投じようという方向へ進みます。
ファミコンの例も挙がります。カセットをいろいろ持っていれば、1つのゲームにハマる時期があっても、飽きたら別のゲームに移ります。クリアしたら終わる設計だったからこそ、またやりたくなる面もあったのではないかと話されています。
一方で、ルールのない遊びから自然にルールが生まれること自体は楽しいものだという意見も出ます。仲間内の言葉遊びで面白い韻の踏み方を皆が真似すると、いつの間にかルール化し、遊びがゲームになります。和歌のような形式も、そうして生まれたのかもしれないと語られます。
ルールが自然に生まれる例として紹介されたのが、現代美術家の杉本博司 ── 写真や建築、古美術の収集など幅広い分野で活動する日本の現代美術家。「海景」シリーズなどの写真作品で国際的に知られていますさんのもてなしです。杉本さんは自宅にゲストを招き、骨董や美術作品を飾り、手料理を振る舞うといいます。
杉本さんのもてなしは、もともとはゲームではなく、一緒に遊びたいという遊びの領域です。それでも繰り返すうちに、こうした自分なりの型ができていくと語られます。普通のレストランや骨董店の規範をずらすことは、ゲームのルールを変えることでもあります。
ずらしの具体例が、コース料理の最初の一皿です。格好いい器が出てくるかと思えば、ペコちゃんのイラストが入ったおまけのお皿が出てきて、「あれ?これですか?」と笑いが起きます。決まったルールを思い浮かべ、それをずらす遊びが自然に生まれる点に魅力があると話されています。
ガードレールを切り続けた「妄想ゲーム」の効用
遊びの中で自分なりにルールを作り替える話を受けて、高橋晋平さんは、それが一番健全だと応じます。そして、言葉が適切かはわからないと断ったうえで、頭の中だけで遊ぶ「妄想ゲーム」こそが人を幸せにし、行動も促すと語ります。
高橋さんが例に挙げたのは、秋田県に住んでいた子ども時代の体験です。ガードレールを見るたびに、その支柱を頭の中で剣で切る妄想をしていたといいます。何千本も切ってきたのだから、自分は世界1位ぐらいの強さになっているはずだ、と思いながら過ごしていたそうです。
当時の高橋さんは、いじめられっ子で、人とのコミュニケーションもうまくできなかったといいます。それでも、このガードレール切りの妄想ゲームにずいぶん救われていたと振り返っています。
高橋さんは、ゲーミフィケーションでなくてもよいと話します。それぞれが頭の中に妄想ゲームを持ち、仕事をしながら「自分は今すごく強くなった」と思えることが一番健全なゲームであり、原動力にもなるかもしれない、という考えです。
ただし、妄想ゲームには時代の問題もあるのでは、という問いも出ます。スマホやSNSが普及する以前は、こうした妄想ができる余地が比較的あったのではないか。今の時代に妄想が生き残る余地は減っているのかもしれない、という問いかけです。
なぜ「いいボツ」を誇ると幸せになれるのか?
妄想ゲームの話に続けて、高橋さんは会社員時代の働き方を明かします。会社員時代に成功した理由を聞かれると、人には勧められないとしたうえで、理由はただ1つだと答えてきたそうです。社内の大きな会議で、会社で一番多くの企画がボツになったことです。
高橋さんは「誰よりもボツろう、そしていいボツり方をしよう」と考えていたといいます。いいボツとは、粗くて考えの浅い企画が落ちることではありません。まったく新しいことを提案し、部長に強く怒られるようなボツのことです。
高橋さんは、いいボツが出ると喜び、翌年入ってきた新人に「こんなのをあの会議で提案したんだぜ」と自慢していたそうです。会議に出していない小さなアイデアも含めて、5000個ほどのボツをストックしていたといいます。
高橋さんは、ボツをストックしていた頃は幸せだったと語ります。そして、その中の1つが偶然、無限プチプチというヒット商品になったのだから、運だったのかもしれないとすら思うことがあるといいます。
なぜ怒られるほどの逸脱が嬉しいのかという問いに、高橋さんは具体例で答えます。ある企画会議で、男の子と女の子が同じホビーで遊び、対戦できるゲームを提案したときの話です。
当時のおもちゃは男の子向けと女の子向けに分かれていて、好きな遊びもバトル系と、おしゃれ・物作り・おままごと系とで違うとされていました。高橋さんは、デジモンのような端末で、男の子はバトル系の世界観、女の子はおしゃれ系の世界観でキャラクターを育て、育てたもの同士で戦う企画を考えました。
高橋さんはこの企画で、ユーザーが広がり社会的なムーブメントも起こせると訴えました。ところが役員から、男の子と女の子の遊びがいかに違うか、そんなに甘く実現できるものではないと一喝されたそうです。
それでも高橋さんは、この強いボツに価値があったと考えています。しょうもない企画なら軽く流されるところを、長く玩具業界で活躍してきた役員が熱くなって反論したからです。ボツの強さそのものが周りへのメッセージになったという見方です。
会議には、他の企画担当者や営業担当者も同席していました。高橋さんは、同席者の中には「ありなんじゃない?」と思った人もいたかもしれないと話します。今もあのプレゼンを覚えていて、「今ならどうだろう」と思い出している人がいるかもしれない、とも語っています。
ボツの話はさらに深掘りすべき大事なテーマだとして、この回の対話は次回へ続きます。
まとめ
第2回の対話では、ゲームが人を苦しめる条件として、規模の大きさと、時間の終わりのなさが浮かび上がりました。その対極として、自分なりにルールをずらす遊びや、頭の中の妄想ゲーム、ボツを誇るという高橋さんの働き方が示されています。
- 出世競争は、ルールが曖昧で変わりやすく、意図せず参加させられるゲームになりやすい
- ゲームは規模が大きくなるほど事実上の強制参加になり、勝つまでのしんどさが増す
- 本来一時的だったゲームが日常に反転すると、「微分的には楽しいけど積分でつらい」状態になる
- ルールのない遊びや、頭の中だけの妄想ゲームが、人を救い原動力にもなりうる
- 高橋晋平さんは「いいボツ」を数多く重ねることを楽しみ、その中から無限プチプチが生まれた





