「わかる」は戻っていくときに起こる?
「わかった」をどう乗り越えるかをテーマに、編集工学研究所の安藤昭子さんを迎えたシリーズは、この回が4週目で最終回です。冒頭では渡邉さんが、これまでの議論を振り返ります。
前回の安藤さんのテーゼは、人が本来的に「わかる」のは、後から戻っていくときではないか、というものでした。そこでは「わかる」の見方が2つ示されています。
1つ目は、自分の経験値が上がったことで、振り返って過去がわかるというシンプルな「わかる」です。2つ目は、その時点では意味がなかったものが、プロセスを経たあとで初めて意味を持つという「わかる」です。
2つ目の例として語られたのが、ハイパーエディティングプラットフォーム AIDAでの石組みワークショップです。参加者が順に1つずつ石を置いていくと、最初の1個には意味がなくても、7、8個目のころには場全体が言葉にならない共有感覚を得て、意味が生まれてくるといいます。
渡邉さんはここで、前週に紹介し忘れた本として『17歳のための世界と日本の見方』も挙げています。この本で語られる「間」の中の関係性が、石組みの話と重なるという位置づけです。
もう1つの柱は、哲学者パースのアブダクション ── 観察された事実を説明できる仮説を導く推論の形式。演繹・帰納と並ぶ第3の推論として、アメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースが提唱しましたでした。ビジネスの世界では仮説思考と単純に理解されがちですが、仮説を立てることで初めて後から説明がつく、つまり「振り返って」わかる推論だという話が前回出ていました。
荒木さんはこれを、余白が残っているからではないかと受け止めていました。石は解釈し直せるし、保留にしておける。「わかった」と言った瞬間に宙づりを放棄し、後から来るかもしれない鮮烈なわかり方を捨ててしまう可能性がある、というのが前回までの到達点です。
シェーンベルグとカンディンスキーは分かり合っていたのか
渡邉さんは続けて、ドミニク・チェンさんの著書『未来をつくる言葉』を引きます。4年前に同じテーマで収録した時点では、まだ刊行されていなかった本です。
渡邉さんによれば、この本は、コミュニケーションは分かり合うためではなく、分かり合えなさを互いに受け止め、それでもなお共にあることを受け入れるための技法だと述べています。分かり合えないと知りながら、ぎりぎりまで分かり合おうとする「不可能な接近」を続けることが大事だという内容です。
そこで渡邉さんが思い出すのが、現代音楽の始祖とされるシェーンベルグと、画家カンディンスキーの関係です。
シェーンベルグが現代音楽のコンサートをやるんですよね。不協和音ってね、大不評でもって噴飯ものみたいになるんですよね。
でも、観客の一人だったカンディンスキーが「これだ」みたいな感じになって、大歓喜してファンレターを送るんですよね。
2人の文通が始まり、カンディンスキーは「不協和音は明日の協和音だ」「絵画もこうでなければいけない」と考えて抽象画を描き始めます。当時は誰にも理解されませんでしたが、やがてムーブメントが生まれ、バウハウス ── 1919年にドイツで創設された美術・建築・デザインの学校。現代のデザイン教育や工業デザインの考え方に大きな影響を与えましたへつながっていったと渡邉さんは語ります。
シェーンベルグ
不協和音のコンサートを開き、大不評を受ける
カンディンスキー
客席で感動し、ファンレターを送って文通が始まる
抽象画
「絵画もこうでなければ」と抽象画を描き始める
バウハウス
理解されないまま生まれたムーブメントがつながっていく
渡邉さんは、今のデザインの姿も自分の仕事も、シェーンベルグが不協和音のコンサートをやらなければなかったかもしれないと話します。これは振り返って初めてわかる系の話だといいます。
多分カンディンスキーは誤読しているだけってか、自分の側に引き寄せて自分の理想をそこ(シェーンベルグの音楽)に投影する、結果的に言うと都合のいいことをやってるんだけど、でも二人は何か共振している。
それは協和音なのか不協和音なのかよくわからないけれども、何か通じ合ってると信じられるかどうかってのが大事なんですよね。
安藤さんも、カンディンスキーが本質的にシェーンベルグをわかったかどうかは、どこまで行ってもわからないと応じています。大事なのは正しく理解したかではなく、通じ合っていると信じられるかのほうだ、という点で2人の見方が一致します。
意味を「デコード」するのか、間で「見立てる」のか
安藤さんは、第1話で出た一神教的世界観と日本的世界観の対比に立ち返り、分かり合い方の違いを説明します。
安藤さんによれば、一神教的世界観での分かり方は、エンコードされた意味をデコードするものです。たとえば西洋のシンボルでユリが誠実を表すように、ものにあらかじめ意味がパッケージされていて、受け取った個人がそれを解読するという使われ方です。
一方で、この対話でたびたび出てきた「見立て」は、意味のエンコードとデコードではありません。安藤さんは、見立ては受け取る人たちとの間でしか成立しない意味の変換だと話します。
ユリ=誠実のように、ものに込められた意味を個人が正確に解読する
受け取る人たちとの間、互いの余白の中でしか成立しない意味の変換
安藤さんは、分かり合うとは、お互いの分かり合えなさの間、つまり余白の中にしか発生しないものを共有することかもしれないと述べます。個人の中で意味が正確にデコードされたかどうかは、ほとんど問題ではないという考えです。
それでもシェーンベルグの音楽は、明らかにカンディンスキーの作品や人生に影響を与え、彼の「わかった」という財産になっています。安藤さんは、こうした分かり方が日本的な身体感覚からするとしっくりくるのだろうと話しています。
シェーンベルグは石を置き、カンディンスキーが次の石を置いた
荒木さんは、カンディンスキーの話を前回の石組みワークショップにつなげます。
シェーンベルグは石を置いたんだよね。そしてカンディンスキーが次の石を置いて。
物語ができちゃったみたいな、そういう感じだと思うから。
荒木さんは、石を置く本人は、本でもポッドキャストでも、そこで完結したストーリーを作りたいと思うものだと話します。
荒木さんによれば、聞き手から「あのポッドキャストを聞いたからわかった」と言われるとき、自分たちの意図が正確に理解されているかは関係ありません。それでまた新しい石が置かれていく、ということでもあるといいます。
安藤さんはこの見方を面白がります。亡くなった人の作品に応答作品を作るという表現はあるものの、「あの人が置いた石のフィールドに2つ目の石を置いてみよう」という捉え方はめちゃくちゃ面白いと話し、それは未来へメッセージを託すことでもあると続けます。
安藤さんは、1つひとつのコミュニケーションが成功したかどうかは、この文脈ではほとんどどうでもいいとも述べます。時間の経過の中で飛び石が置かれ、振り返ると物語になっている。そうした流れの中で意味ができてきたというわかり方は、深いところに届くといいます。
荒木さんは、今回の収録の意味も後付けでわかるのだろうと話します。想像もしない誰かが石を置いてくれて、「あの時自分たちはそういうことを語っていたのか」と他人から知らされることもあるだろう、という見立てです。
安藤さんは、わかるという出来事には相当な時間差があり、それが1000年に及ぶこともあると話します。1000年前の書物が今の自分に刺さることで、その書物がわかり直されることは日常的に起きているからです。
めちゃくちゃ感銘受けて「こうやる」みたいなことを言っても、当のプラトン知ったことかって感じだと思うし。それめっちゃ誤読ですとか言いたくなるかもしれないし。
知識ではなく「エディティングモデル」を交換している
安藤さんは、編集工学でよく使う「エディティングモデルの交換」という考え方を紹介します。コミュニケーションとは知識の交換ではなく、その人がどう考え、どう感じたかという編集構造、つまりエディティングモデルを交換することだという考え方です。
この考え方は、松岡 ── 編集工学を提唱した編集者・著述家の松岡正剛氏。編集工学研究所を創設し、オンラインの学校「イシス編集学校」を立ち上げましたが作ったイシス編集学校の教え方に表れていると安藤さんは話します。
イシス編集学校では、師範代と呼ばれるコーチ役が知識を教えることはまずなく、合っている・間違っているという指導も概念としてないそうです。師範代は、学ぶ人のエディティングモデルを取り出し、自分のエディティングモデルを当てて交換することだけで教えるといいます。
安藤さんは、プラトンやブッダ、前回話題に出たパースや岡潔の著作を読む行為も同じだと考えます。読者は著者のエディティングモデルを読み取り、自分のエディティングモデルと照合して、「めちゃくちゃわかる」「次はこの考え方でいこう」と刺激を受けているのではないか、という見方です。
安藤さんのまとめは、わかるという行為にはどれだけの時差や空間の差があってもよく、それは知識ではなく、考え方の構造を他の人と交換できたときに起こるのではないか、というものでした。
本を書く意味と、ジャンルを越えて置かれる石
安藤さんの話を受けて、荒木さんは自分が本を書く理由に触れます。売れたらいいなと思っても、思ったより売れないこともあり、何のために書くのかと考えることがあるそうです。安藤さんも、本を書くことはそれだけ考えると割に合わないと応じます。
荒木さんは、この日の話で本を書くことに2つの意味が与えられたと話します。
自分の小さな石が他人に影響を与え、いい庭が生まれるきっかけになるかもしれない
自分のエディティングモデルを書き出すと、他者のフィードバックから自分でも理解できていなかったことが後から理解できる
結果的に僕の石っていうのはちっぽけな石かもしれないんだけど、それがなんかトータルとしていいお庭のきっかけになったかもしれない。
荒木さんは、こうした見方に「なんとなく救われた気がしました」と話しています。
渡邉さんは、カンディンスキーが置いた石が音楽ではなかった点が面白いと指摘します。
だからその庭はカンディンスキーが石を2個目を置いた瞬間に爆誕した庭なんですよ。
渡邉さんによれば、その角度で平面を切った人は他にいませんでした。別のジャンルから刺激を受けて自分のジャンルに活かすところに妙があり、他から石を持ってくることで、まだ見ぬエディティングモデルも構築されていくといいます。
安藤さんも、こうしたことは技術の継承や知識の伝達とは別のレベルで起こると応じます。世の中の作品の多くは、何らかのエディティングモデルを引き取り、別のものに転換してきたものだらけだろうという見方です。
安藤さんは、2000年前からのものが自分に届いていると見ると気持ちがよく、孤独ではないと感じるとも話します。荒木さんはそれを短い言葉で言い表しました。
一見全然関係ない趣味とか、なんかつまんなかった映画みたいなのも、新たな庭の苗床になってたり、石になっているかもしれず。
安藤さんは、この景色が一度見えると、今ここで着地しているか、わかっているかは本当にどうでもよくなり、大きな庭づくりの中に自分の発想があると思えて、とても自由になると話しています。荒木さんは、建築物ではなく庭というメタファーだからこそ、いろいろな可能性にあふれているのだと付け加えます。
いい庭は制約条件から生まれる
安藤さんは、庭づくりの話をもう一歩進めます。山内朋樹さんによれば、庭には必ず制約条件があり、それを使わないとむちゃくちゃつまらない庭になるといいます。
安藤さんの説明では、たとえば家のある場所に木が1本生えていて、抜くわけにいかないから使うしかない、という制約から始めるからこそ、そこにしかない生きた庭ができます。逆に全部を更地にしてセオリー通りにおしゃれに作っても、よくある庭になってしまうそうです。
渡邉さんは、前週に紹介した青木淳さんの『フラジャイル・コンセプト』に同じ話があると応じます。
何もない場所に作ると、合理的で使いやすい美術館ができる
美術館に似ても似つかない場所を事後的に作り変える中で、最も魅力的なギャラリーが誕生し得る
渡邉さんによれば、これは最初から小学校風のギャラリーを狙うのではなく、あくまで所与の条件として小学校があるという話です。そこから、更地から作るときに、どこから来たかわからない制約をいかに構えるかという問いにつながり、その方法論が本の中で紹介されているといいます。
安藤さんは、この制約条件選びこそ、ものを作るときのセンスのとても大事な部分ではないかと話しています。
17歳の問いが置いた最初の石
クロージングで荒木さんは、「わかる」の壁をどう乗り越えるかというテーマを出した安藤さんに総括を求めます。
安藤さんは、思いのほか広い平地に出たと振り返ります。自分の中にもともとあった感覚を2人との対話の中で持ち出し、仮説的な輪郭を与えてもらうことで「あ、そうだったんだ」と思えたといい、対話の力を感じた機会だったと話しています。
このテーマは、17歳の青年の切実な問いに答えたいという思いから安藤さんが選んだものでした。安藤さんは、そのアンサーになっているかはさっぱりわからないとしつつ、反応をもらったら届けると約束します。
でもその子が石置いてくれたからね、このポッドキャストが。
そう、だからあそこ(青年の問い)で完結してたらダメだったんですよ。安藤さん。
安藤さんも、振り返ればこれも2手目の石であり、そこで終わらなかったことに意味があったと応じます。最後まで石のメタファーが生きた締めくくりになりました。
最終回の本としては、安藤さんが山内朋樹さんの『庭のかたちが生まれるとき』を挙げています。安藤さんからは、編集工学研究所のポッドキャストホンノレンラジオの紹介もありました。
まとめ
シリーズ最終回では、「わかる」は正確な理解の瞬間ではなく、誰かが置いた石に別の誰かが次の石を置くことで、後から意味が立ち上がる出来事として捉え直されました。
- シェーンベルグとカンディンスキーのように、誤読を含んでいても共振が生まれれば、それは振り返ってわかる意味になる
- 見立ては意味のデコードではなく、受け取る人との間の余白でしか成立しない変換だと安藤さんは語る
- 編集工学では、コミュニケーションを知識ではなくエディティングモデルの交換と考える
- 本やポッドキャストは完結した作品ではなく、誰かの物語の始まりとなる石だと荒木さんは捉え直した
- いい庭やいい美術館は、更地からではなく制約条件を引き受けるところから生まれる



