2週目の議論はどこまで来ていたのか
超相対性理論の「わかったをどう乗り越える?」シリーズは、ゲストに安藤昭子さんを迎えて3週目に入りました。安藤さんは、話が好き放題に広がっていくのが心地いいと話し、出演者たちは「着地しなくて大丈夫、浮かび続けましょう」と笑い合います。
冒頭では、前回までの議論が振り返られます。2週目では、わかることは個人の問題に帰されがちだが、人同士の間や場にしか生まれない「わかる」もあるのではないか、という問いが安藤さんから出されていました。
その例として挙がったのが、中世の日本で歌を詠み合う寄り合いです。誰かの作品を個人に帰さず、互いに解釈し合いながら次の創作に引き継いでいく営みでした。向井去来 ── 江戸時代前期の俳人で、松尾芭蕉の高弟の一人。芭蕉の言葉を伝える俳論書『去来抄』で知られますの句に対し、師の芭蕉が別の解釈を示した逸話も、信頼関係があるからこそ他者の作品に踏み込めた例として語られました。
話は現代の組織にも及びました。チームの場の文化は、パーパスやバリューといった言葉だけでなく、言語化しにくい感性や情緒によって育まれているのではないか、という見立てです。ここで岡潔 ── 日本の数学者。多変数複素関数論で業績を残し、数学における「情緒」の大切さを説いたエッセイでも知られますの「春泥をぐっと踏む感覚」が引かれ、知識より情緒が先だという話になりました。
前回の終わりに安藤さんが示したのは、受験勉強は1から次を扱うが、本来わかるとは「1とは何か」に戻っていくことではないか、というテーゼでした。
石を置くワークショップで何が起きたのか
安藤さんは、わかることは先に進む行為に見えて、実は本当にわかるときは「戻っていくとき」なのではないかと整理します。そのうえで、この件には少なくとも2つの見方があると話します。
1つ目の見方は単純で、自分が成長して状態が変わったから、振り返ったときに昔のことがわかる、というものです。「あの時上司にあんな態度を取ったのは恥ずかしかった」と後から気づくようなわかり方です。
安藤さんがより大事だと考える2つ目の見方は、あるプロセスが経過しないと、もといた場所にあった事象に意味が生じない、というものです。その例として、ビジネスリーダー向けの塾「ハイパーエディティングプラットフォームAIDA」の合宿の話が語られます。
合宿は京都・奈良で行われ、庭師の山内友紀さんと、岡潔を紹介してきた数学者の森田真生さんが同行しました。山内さんによる石積みワークショップでは、参加者が好きな石を持ち寄り、10人ほどのチームでテーブルの上に順番に石を置いていきます。
石積みワークショップの最初の石は、皆わりと適当に置きます。近づけて置く人も離して置く人もいて、チームごとにまったく違う庭の風景ができていきました。
途中から、誰かが1つ置こうとする瞬間がものすごく緊張するようになったと安藤さんは振り返ります。置いた瞬間にチームから「おお」や「ああ」という声が上がり、何がそうなのか誰も説明できないまま、置く行為が全員の作品になっていったといいます。
7個、8個と置いたところで振り返ると、1手目、2手目に置いた石に意味が生じていました。「この石が顔の役をしているから、7手目、8手目の石が脇の役割をしている」と、ようやく言語化できるようになったそうです。
1手目
最初の石はほぼ適当に置かれ、その時点では誰も意味を感じていない
2手目以降
前の石の位置が次の石の置き場所を導いていく
途中
置くたびにチームに「おお」「ああ」と説明できない反応が起き、全員の作品になる
振り返り
7〜8個置くと、最初の石の役割がようやく言語化できる
安藤さんは、このプロセスが人間が何かをわかっていく過程とよく似ていると考えました。人は普段、食事や仕事や人と会うことを自覚せずに重ねているが、後の経験が続いてはじめて「今朝の朝ごはん」にも意味が立ち上がることがある、と話します。
安藤さんによれば、プロセスや文脈が生じてはじめて意味を持てたものは、人生の中に無数にあるはずです。ただ、私たちは普段そのことを意識せずに、前へ前へと進んでいるのではないか、と問いかけます。
石と縁、そして「出会い直す」こと
石積みワークショップの話を受けて、荒木さんは仏教の縁の世界と似ていると指摘します。
前の石があるから今の置く石が決まり、それがまた次の石へと繋がるっていう意味で、全ての石に意味があるわけですよね。
安藤さんは、縁をつないだ石の意味には、その時点ではたいてい気づいていないと応じます。後でつながりが景色になったとき、「あの時あの人に会ったから」と急に意味を持ち始める。理解のプロセスにも、そうした絡み合いがあるのではないかと話します。
渡邉さんは、安藤さんの師である松岡正剛 ── 編集工学の提唱者で、編集工学研究所の創設者。膨大な書評サイト「千夜千冊」でも知られますさんの『17歳のための世界と日本の見方』の冒頭に出てくるイサム・ノグチの話を思い出します。そこでは、ノグチの彫刻は物そのものではなく関係をかたどっている、という松岡さんの見立てが示されていました。
複数の石を複数人で置いていく中で、次第に間が生まれる、関係が生まれる。それが全員で共有されるものに組み上がっていくっていうモチーフは、まさにその松岡さんの見立てが複数で行うためのワークに昇華される形なんだろうな
安藤さんは、あのワークショップが何だったのかを説明する言葉が欲しかったが、足元にあったと喜びます。「今、後ろに戻ってようやくわかりました」と、話の内容そのものを体現するような反応が返ってきます。
渡邉さんは、自身がドミニクさんと仕掛けているワークショップも同じテーマを扱っていると明かします。タイトルは「私たちは出会い直す」で、物事の解釈、過去の理解、そして自分自身に出会い直すことを掲げているといいます。
いろんな些細な感情とか記憶っていうものを一度自分たちは合点したり放置したりしているけれども、今から見返すとこういった解釈ができる。
そのうえで渡邉さんは、安藤さんの見方1と見方2の違いがよくわからないと率直に尋ねます。自分の状態が変わって振り返るのが見方1なら、見方2も結局見方が変わっているのではないか、という疑問です。
安藤さんの答えは、2つはつながっているが、見方1は経験値が上がったからわかるという、よりシンプルな話だというものです。見方2は、後から意味の連続ができてはじめて最初のものに意味が生じるわかり方であり、石積みワークショップの最初の石のように、置いた時点では誰も何も思っていないのが特徴です。
アブダクションは「戻りながらわかる」思考だった
安藤さんは、見方2に関連してもう1つ「ちょっとだけややこしい話」を加えます。最近注目されているアブダクション ── 観察された事実を説明する仮説を思いつく推論の形式。演繹・帰納と並ぶ第三の推論として、アメリカの哲学者パースが提唱しましたについてです。
安藤さんによれば、パース ── チャールズ・サンダース・パース。19〜20世紀のアメリカの哲学者・論理学者で、プラグマティズムの創始者の一人とされますはアブダクションについて、本当は「レトロダクション」と呼んだほうがよかったかもしれない、と後に振り返っているそうです。レトロダクションとは、戻っていくことを意味します。荒木さんは、回顧展を指す「レトロスペクティブ」と同じだと応じます。
安藤さんは、アブダクションは最近、単に「仮説を立てよう」という仮説思考として扱われがちだと指摘します。しかし本来は、自分が立てた仮説によって物事に説明がついていくことを問題にしている、と話します。
例として挙がったのが、ニュートンとリンゴの話です。リンゴが落ちるのを見て「なぜ落ちるのか」と思い、引き合う力があるのではという仮説が生まれる。その仮説を使うと、なぜ月は落ちないのか、なぜボールは下に落ちるのかまで説明がつき、世界を一気に戻って理解し直せるといいます。
驚き
リンゴが落ちるのを見て「なぜ落ちるのか」と思う
仮説
引き合う力があるのではないかという仮説が出る
遡って説明
月が落ちない理由やボールが落ちる理由まで、これまで見てきたものに説明がつく
安藤さんは、パースがレトロダクションと言い直したかったのはこの点だろうと考えます。そして、私たちはハナから確かなことをつかんで前に進む存在ではないことが、思考の仕組みからもわかる、と話します。
余白があるから、もう一度戻れる
荒木さんは石の話から、別の方向に考えが進んでいたと切り出します。思い出したのは、もの派 ── 1960年代末から70年代の日本で起きた美術動向。石や木などの素材をほぼ手を加えずに配置し、物と物、物と空間の関係を作品として提示しましたと呼ばれ、石を使うアーティストの李禹煥 ── 韓国出身で日本を拠点に活動する美術家。もの派を代表する作家の一人で、余白や関係性を重視した作品で知られますさんです。
李禹煥さんの作品では、美術館の中に石が置かれているだけのことがあります。荒木さんによれば、空間や間、つまり余白に注目した作家で、鑑賞者が石との関係性を読み解くことで作品が完結し、単体では作品にならないところがあるといいます。
石そのものが常にオープンの状態である、つまり解釈し直せる存在であるっていうことがあるからこそ、もう一回そこに立ち戻れる。
荒木さんは、何かを「終わったもの」として完結させてしまうと、新しい意味を付与できなくなると続けます。意味を与えてもよいが、それを保留にしておけば、もう一度レトロスペクティブに捉え直せる、という考えです。
僕らは常に意味を与え続けるんだけれども、その意味ですら一旦こういうストーリーですみたいな。それぐらいにして、ちゃんと戻れる余白があるっていうことがすごく大事なのかな
安藤さんは、保留や未完の状態に置いておくほど、後から戻ってわかるときのつながり方がすごくなると同意します。シリーズ冒頭で紹介した、松岡正剛さんの「わかったらすぐ言うな」という言葉にもつながるといいます。
安藤さんによれば、「わかった」と言った瞬間に、後から戻っていくときの鮮烈なわかり方を捨ててしまうのかもしれません。受け手の想像力の中でしか完成しない状態に置いておくことは、日本が得意にしてきたことでもある、と話します。
ビジネスで「戻れる状態」をつくるには
荒木さんは、「戻れる状態にしておく」とは具体的にどういうことか、と問いかけます。
安藤さんは、シリーズ初回の「アイデアは出すべきか出さないべきか」という話を引きます。今回の話に照らせば、最初から未完のアイデアを出し続けるほうがよい、という結論になるといいます。
安藤さんの考えでは、階段を上がって先の景色が見えてからアイデアを話そう、というやり方は戻りにくいコースです。一方、最初からふわふわと保留の状態で、ジャッジする必要もなく仮説としてのアイデアを置いておくと、戻るときのカタルシスが大きくなるのではないかと話します。
荒木さんはそれをアブダクション的だとし、ビジネスアイデアの場面に置き換えます。顧客や競合の前提を固め、リサーチを終えてからアイデアを考えるのは合理的に見えるが、とりあえずアイデアを出しながら前提そのものに戻り、余白を塗り固めずに残すことで、アハ体験が生まれるのではないか、という整理です。
顧客・競合などのリサーチを終え、前提が揃ってからアイデアを考える。合理的に見えるが、戻りにくい
仮説状態のアイデアをジャッジせずに置き、進みながら前提に戻って捉え直す。設計しにくいが、戻ったときにカタルシスが生まれる
安藤さんは、決めずに進むと手戻りが発生すると思われがちだが、手戻りしてもそのほうが早い、と話します。結局みんなで「ああ」と思えたほうがはるかに早くなる、というのが安藤さんの実感です。
ただし、それには場が必要だと安藤さんは付け加えます。人が合理性に頼りたくなるのは怖いからで、「それってあなたの感想ですよね」と言われかねない中で、仮説を出す人はリスクを取り続けなければなりません。
安藤さんによれば、合理的に進むほうが早く見えるのが罠で、戻れないぶん、行き詰まったときにものすごく時間がかかることがあります。ずっと保留にしておき、一気に戻って全員でわかる状態をつくれたらいいが、毎回難しいと感じているそうです。
荒木さんは、前回のシリーズで話題になったダニング・クルーガー効果 ── 能力の低い人ほど自分を過大評価しやすいという認知バイアス。自信が一度高まった後に急落し、学ぶにつれ再び上がる曲線で説明されることがありますの曲線にも触れます。その曲線を仮に前提とするなら、山を下るプロセスこそがわかるうえで大事なカタルシスの瞬間であり、そこからまた上がる永遠の往復運動だと話します。
ノーミーティングの番組と、自信のないマネジメント
安藤さんは、超相対性理論という番組そのものが「戻りながら進んでいる」のではないかと問いかけます。打ち合わせなしで収録を始めることに驚きつつ、どんなゲストでも二人の編集力で進んでいく理由を、ファンのために言語化してほしいと頼みます。
僕の勝手な理解は、どんだけ自由に話してもヒロさんがまとめてくれるっていう信頼。
それは僕もコウタローに同じ感覚を持ってます。
安藤さんは、その信頼が培われていないとこういう放り出し方はできない、と応じます。
渡邉さんは、後から振り返ってはじめて意味を持つというのは、あらゆるデザインプロジェクトに共通すると話します。象徴的な例として挙げたのが、建築家の青木淳 ── 日本の建築家。ルイ・ヴィトンの店舗や青森県立美術館などの設計で知られますさんの著書『フラジャイル・コンセプト』です。
青木淳さんは1990年ごろ、磯崎新 ── 日本を代表する建築家。水戸芸術館やつくばセンタービルなどを設計し、2019年にプリツカー賞を受賞しましたさんの事務所で水戸芸術館の設計に関わっていました。渡邉さんによれば、最初のコンセプトはあったものの、作りながら考える過程でコンセプト自体がどんどん変容していったといいます。
設計図を先に描き、頭の中にあるビジョンを完璧に実現することに集中する
一度形にするたびにやりたいことが変わり、フィードバックを何度も回して、最初とは違うものが出来上がる過程を楽しむ
コンセプトは実は確かではなくて、フラジャイルで良いのだっていう。いや、むしろフラジャイルだから良いのではないか
渡邉さんは、これはあらゆる作り手が体験していることで、なぜこうなったのかはレトロスペクティブにしか語れないのがものづくりだと話します。
さらに渡邉さんは、自身のプロジェクトマネジメントの話を打ち明けます。スケジュールを切り、WBSを決め、タスクを振ることが向いていないと感じ、自分がいてもいなくてもマネジメントとしては変わらないと思っているそうです。
ところが渡邉さんが休むと、プロジェクトがうまくいかないことがあるらしいといいます。自分では価値を発揮できていないと思い込んでいるのに、他者には頼られているという不一致があるのです。
安藤さんは、渡邉さんが関係ないことをぽっと言ったり、何かを気にしたりする、プロマネのラインに乗らない部分で場がまとまり、みんなが安心して横道にも逸れられているのではないか、と見立てます。渡邉さんは「そう言ってもらえると意味づけされてきた気がします」と応じ、二人は「レトロスペクティブに意味づけ」と笑い合いました。
次回はシリーズ最終回です。複数人の中でのわかるとは何が起きているのかをもう少し掘り下げようと、「わかり得ぬものをわかり合う」がテーマに決まりました。
この回の関連本としては、米森裕治さんの『アブダクション』、安藤さんの著書『才能をひらく編集工学』、李禹煥さんの『余白の芸術』(みすず書房)、青木淳さんの『フラジャイル・コンセプト』が挙がっています。
まとめ
この回では、わかることは前に進む行為ではなく、後から戻ってはじめて意味が立ち上がるものではないか、という見方が、石積みワークショップやアブダクション、余白の芸術、ものづくりの経験を通して語られました。
- 石を順に置くワークでは、7〜8個置いてようやく最初の石の意味が言語化できた
- パースはアブダクションを「レトロダクション」と呼ぶべきだったかもしれないと振り返っており、仮説は世界を遡って説明し直す力を持つ
- 意味を確定させずに余白や保留を残すことで、後から戻って捉え直すことができる
- 未完のアイデアを出し続けるほうが手戻りしても早いが、そのためにはリスクを取れる場が必要
- コンセプトはフラジャイルでよく、ものづくりやマネジメントの価値も後から振り返って見えてくる



