美術館で生まれた人と初心者マーク、アートとの距離はどう違う?
この回はまず、荒木博行さんが渡邉康太郎さんに「美術館にはどれぐらいの頻度で行くのか」と尋ねるところから始まります。アートをテーマにしたゲスト回の入り口として、二人それぞれのアートとの付き合い方が語られます。
渡邉さんは、この年末年始に大きな展覧会へ行ったわけではなく、小さなギャラリーをいくつか回ったといいます。経営に携わる森岡書店 ── 東京・銀座にある、一冊の本だけを選んで販売する書店。本にまつわる作品展示も行い、ギャラリーとしての顔も持っていますは本屋であると同時にギャラリーの側面もあり、作家の作品や工芸品が置かれることもあるそうです。
そこから渡邉さんは、伝統芸能や工芸・クラフトを「アート」と呼んでいいのかという、アートの境界の問題にも触れています。
だからどっからどこまでアートなの問題みたいなのは結構ありそうな気がする。伝統芸能みたいなのはアートって呼んでいいんだっけ?とか。
一方の荒木さんは、自分は「ずっと初心者マーク」だと語ります。美術館に通うようになって10年も経っておらず、渡邉さんとは対照的だといいます。
(康太郎さんは)病院じゃなくて美術館で生まれたようなさ、おしゃれ感があるじゃない。
荒木さんの美術館通いは1か月に1回ほどで、ギャラリーよりも上野の美術館のような「わかりやすい」場所が中心だそうです。慣れないことも多く四苦八苦しながら、あれこれ考えるのが大好きだと話しています。
渡邉さんは最近、友人たちと能を見に行った体験を紹介します。渡邉さん自身は年に3、4回ほど見ていて、今回は専門家の友人が案内してくれた一方、同行した同年代の仲間2人は初めての鑑賞だったといいます。
この体験から渡邉さんは、人がどんな表現に触れるかには偏りがあり、そのアンテナの向きが、その人の関心の世界や見るものの解像度を違う方向へ開いているのではないかと想像しています。
アートゼミの村上静香さんは、どこでアートに出会ったのか
荒木さんは、アートを仕事にしている人として村上静香さんをゲストに招きます。村上さんは、荒木さんに美術の楽しみ方を教えている「先生」でもあり、荒木さんのVoicy番組「ブックカフェ」には年に3、4回ほど出演しているそうです。
村上さんは「大人のやさしいアートゼミ」という名前で、アート鑑賞と対話をオンラインセッションで行うサービスを運営しています。パートナーは現役の世界史の先生で、作品の世界史的な背景を知ることで見方を深める取り組みもしているといいます。
荒木さんとの間では、3か月に1回ほど村上さんが展覧会のお題を出し、荒木さんが実際に見に行って感想を話し、3人で対話しながら解釈を広げる収録をしているそうです。村上さんによれば、毎回、荒木さんの「全然わからなかった」という率直な感想から始まるといいます。
村上さんのキャリアは、大企業・中小企業・ベンチャーを転職しながら、主に場作りや広報を担ってきたものです。仕事でアートに関わったことはなく、ただ好きだったという気持ちが根底にあり、一昨年に会社を作ってアートの事業を始めました。
村上さんがアートを好きになったきっかけは、大学1年生の春休みに自分のお金で行った、初めての海外旅行のニューヨークでした。MoMA ── ニューヨーク近代美術館の略称。近現代美術を代表するコレクションで知られる美術館ですやメトロポリタン美術館で作品を見て、「こんなに面白いの?」という衝撃を受けたといいます。
その後、村上さんは国内の美術館を巡り、大学ではアートの思想を学ぶゼミに入って、思想を通して作品を見ることやアート運動について考えることを学んだそうです。
村上さんが「後からアート界に足を踏み入れた」人であることについて、荒木さんは英語学習にたとえて大事なポイントだと話します。
英語のネイティブスピーカーにね、英語を学んではいけないわけじゃないですか。その英語の上達方法を。
荒木さんの言いたいことは、苦労して身につけた人だからこそ、学び方を伝えられる面があるということです。
「知識ゼロでも大丈夫?」という不安から生まれた問い
村上さんが今回のテーマとして設定したのは、アート作品の鑑賞は「制作者の意図」と「鑑賞者の解釈」のどちらに重きを置くべきか、という問いです。
村上さんがこの問いを持った背景には、アートの仕事をする中で出会う人たちの声があります。「私は全然知らないのでアートはちょっと」と言われたり、セッションの参加者から「知識ゼロなんですけど大丈夫ですか」と不安そうに聞かれたりすることが多いそうです。
村上さんは、ここでいう知識とは作品の背景や作者のことだろうと考えています。知らないから見られないと感じる人が多い一方で、リベラルアーツ ── 特定の職業に直結しない、教養としての幅広い学び。人文・社会・自然科学や芸術などを横断して身につける知のことを指しますの文脈では知識があるから人と会話できるとも言われ、「自由に見ていい」という声もあります。どちらにどのくらい重きを置けば楽しめ、心のハードルが下がるのかが気になっているといいます。
荒木さんが「答えはどっちも大事ってことじゃないの」と返すと、渡邉さんは、その答えをトークの中で何回かひっくり返していきたいと応じます。
一方で、いやいやいやいや、それだけでもないでしょっていう、なんか多分厳しい話もあって、そこの間をどう行ったり来たりするかっていうのがきっと楽しいんじゃないかと思います。
ここで荒木さんは、初心者マークだからこその自分の鑑賞方法を紹介します。荒木さんの方法は、知識は一切持たずに美術館へ行くことです。事前には絶対に調べず、まずは自分の感性をベースに展示を歩き回るといいます。
ただ、荒木さんはそれだけでは「綺麗だ」という一時的な感情で終わってしまうので、図録を買い、後から知識をつけて意味を理解するようにしているそうです。先に知識をつけると感性が邪魔され、知識で見てしまう感覚があるからだといいます。
荒木さんの鑑賞方法は、感性と知識を順番に行き来する流れとして整理できます。
だからこれ最初はその鑑賞者の解釈に重きを置いて、その後制作者の意図に寄り添い、解釈するって、まあジグザグ行くみたいな、そんな感じでやったりはしています。
美術館通いで荒木さんの感性に何が起きたのか
渡邉さんは自分の話をする前に、荒木さんに問いを投げかけます。知識をつけずに見る方法をしばらく続けた結果、荒木さんの感性には何が起こったのか、という問いです。
荒木さんの答えは、解像度が高くなった、というものでした。特に歴史のある絵画では、どこを見ればよいかが知識としてわかってきて、「これが描かれているのはこういう意味かも」と見られるようになったといいます。荒木さんはこれを、知識が感性に指示を出している感覚かもしれないと表現しています。
一方で荒木さんは、その変化がよいことなのかはわからず、怖さも感じているそうです。本当はフラットに絵を見たいのに、知識がつくと有名な絵画をつい知識の側へ引き寄せてしまうといいます。
村上さんはここで、そもそも感性だけで見たいという気持ちはどこから来るのかを尋ねます。渡邉さんも「いい問いですね」と反応しています。
結構やっぱ僕は合理性が強くて、なんかロジックをつなげたいって思っちゃうんですよね。
だからアートっていうのは、なんかそういうところを逃れる場所として行きたいっていうのが、多分僕の中の欲求としてはあるんだと思うんですよ。
荒木さんは自分のロジック志向を「右利きだからずっと右手を使ってしまう」ことにたとえます。すぐに点と点をつないでストーリーにしてしまうので、まずはとにかく点をランダムに手に入れたい、というのが荒木さんのモチベーションだそうです。
村上さんに招かれる現代アートの展覧会、とりわけ意味がすぐにはわからない展示が、荒木さんにとっては面白いといいます。
荒木さんが例に挙げたのは、内藤礼 ── 日本の現代美術家。光や水、空気など繊細な要素を用いた、静かで余白の多いインスタレーション作品で知られていますさんの展示です。荒木さんは失礼を承知で、中学生が作った展示物のように見えるものや、水の入ったペットボトルが中央に置かれているだけに見えるものがあったと率直に語ります。
最初に行った時とかもう戸惑いしかない。しかもそれをね、みんながね、したり顔で見てるのがね、また腹立ってね。
村上さんは、荒木さんの戸惑いを、感性を働かせたいのに、どこに感性を向けて何を受け取ればよいかがつながらなくなった状態だと言い表します。荒木さんはそれを、フラストレーションと紙一重の面白さだと認めています。
荒木さんにとっての面白さは、後から意味がつながった瞬間に来るといいます。村上さんとの対話を通じて「わかった」となるときの快感がたまらず、一見つながらないもの、意味不明なものほど面白いそうです。
村上さんは、荒木さんが多くの展覧会に通う中で、意味がすぐにわからないものを溜めておいて面白がれる「我慢強さ」が伸びていると感じたと伝えています。
知識と感性は、本当に分けられるのか
村上さんに見方を聞かれた渡邉さんは、荒木さんの話を受けて、事前情報なしに見る「感性で見る」ことと、背景を学びながら見る「知識を伴って見る」ことは、どこまで矛盾するのかという問いを立てます。
渡邉さんによれば、荒木さんの話自体がすでに、両者が強化し合っていることを示しています。見るほど知見が溜まって解像度が上がるなら、それは知識によって感性が鋭敏になっているということで、センスを磨くことは経験を積むことでもあるからです。
渡邉さんが整理した2つの見方は、対立するように見えて地続きかもしれないものとして語られています。
初見で事前情報なしに見る。初体験は一度きりで、自分の経験からランダムな連想が起こるのを楽しめる
勉強しながら背景を知って見る。見るほど知見が溜まり、見る解像度が上がる
渡邉さんは、情報が少ない段階での初体験は一度しかできないので、知識を入れずに見ておきたい気持ちには共感するといいます。そのうえで、本当のまっさらな状態で見ることは不可能だと指摘します。
渡邉さんが挙げる理由の一つは、勉強していなくても一般常識として知っているアートの語彙や知識が誰にでも少しずつあり、人生の中で見聞きしてきたものとのつながりも自然と浮かび上がってくることです。
もう一つ、渡邉さんは即物的な例として展覧会のポスターを挙げます。ポスターやウェブ、チケットに使われた代表作の前には、展示の中で圧倒的に人が集まり、感動しろと言われていないのに、そこに何かあると思い込んでしまうといいます。
何かをインプットするつもりがなくても、みんなはすごいインプットしちゃっていて、それによって見方っていうのがもはや半ば無意識的に人工的に作られてる部分っていうのはどうしても否定できないなということをちょっと思っているんですね。
渡邉さんはそれを悪いこととは考えていません。人は自分なりのバックグラウンドを携えて見ることしかできないので、勉強するかしないかは実は変わらないのかもしれない、という説を提示しています。
村上さんはこの話を受けて、ゼミで行っている対話型鑑賞 ── 複数人で作品を見ながら、何が見えるか、どう感じたかを言葉にして話し合う鑑賞方法。知識の解説より、鑑賞者自身の観察と対話を重視しますの経験を紹介します。絵を見慣れていない人でも鑑賞ができ、自分なりの解釈が意外とできるそうです。
村上さんによれば、家族でご飯を食べている絵のような身近な題材や、何が描かれているかわかりやすい作品、たとえば印象派 ── 19世紀後半のフランスで生まれた絵画運動。光や色彩の印象をとらえ、日常の風景や人々の暮らしを描いた作品が多く見られますの作品では、知識がなくても楽しめる一定のラインがあるといいます。
それでも、村上さんのセッションでは全員が同じことを言うわけではありません。同じ食事の絵を楽しそうと感じる人もいれば、孤独そうと感じる人もいて、その微妙なずれにこそ個人の経験や知識が表れると村上さんは考えています。
その背後に何を投影してるのかをさらに聞きたくなるっていうシーンですよね。
最後に渡邉さんは次回の方向性を示します。まずは一人ひとりが積極的に自分なりの解釈をすることの大切さの足元を確認し、そのうえで「制作者の意図」とは何かに踏み込んでいく、という流れで第2回へ続きます。
まとめ
初回では、アートは「知識がないと見られない」のか「自由に見ていい」のかという村上静香さんの問いを入り口に、荒木博行さんの感性先行の鑑賞法と、知識と感性は地続きではないかという渡邉康太郎さんの見方が語られました。鑑賞者の解釈の大切さを確かめたうえで、次回は制作者の意図へと話が進みます。
- 村上さんの問いは、「知識ゼロでも大丈夫か」と不安がる人の多さから生まれている
- 荒木さんは事前に調べずに感性で見て、後から図録で知識をつける「ジグザグ」の鑑賞を続けている
- 荒木さんにとっては、意味がすぐにつながらない現代アートほど、後からつながったときの快感が大きい
- 渡邉さんは、誰もが自分のバックグラウンドを携えて見るため、勉強するかしないかは実は変わらないかもしれないと提起した
- 村上さんの対話型鑑賞では、同じ絵でも人によって解釈がずれ、そこに個人の経験や知識が表れる



