フランスの哲学と日本の「間」、前回はどこまで来たのか
最終回の冒頭で、渡邉康太郎さんが3週目の議論を振り返ります。3週目は、それまで日本寄りだった話題をフランスに移すところから始まりました。
渡邉さんの整理では、日本のVR文化は鳥獣戯画の絵巻から映画・漫画まで、映像の系譜にあります。一方でフランスのVR的な文化は、哲学的な部分に表れているのではないかという見立てでした。
3週目の議論では、アートのシュルレアリスム ── 1920年代にフランスで広がった芸術運動。夢や無意識を表現に取り込み、現実を超えた「超現実」を描こうとしました。詩人アンドレ・ブルトンの宣言が出発点とされますも一つのVRだと捉えられました。日本語では「超現実」と訳されますが、「sur」は「超える」より「程度が甚だしい」というニュアンスに近く、リンゴが巨大化するような絵がその例として挙がりました。
石田さんは、マルセル・デュシャン ── 20世紀のフランス出身の美術家。既製品の便器に署名した「泉」などで、芸術とは何かを問い直しました。女性名の別人格「ローズ・セラヴィ」を名乗ったことでも知られますを「リアリティアート」の人だったと見ていました。偽名や女性の名前を使うことで、現実に違う方法で介入し、世界をかく乱しようとしたのではないかという解釈です。
同時代のコルビュジエについても、サヴォア邸 ── 建築家ル・コルビュジエが1931年にパリ郊外に完成させた住宅。近代建築の5原則を体現した代表作として知られていますは機能的に語られがちだが、実は宮殿建築の逆をいく新しいリアリティを生もうとした試みだ、という話が出ていました。
そこから、日本とフランスの発想の違いへ話が進みました。3週目の議論の対比を整理すると、次のようになります。
想像を膨らませる。AとBそのものより「間」に着目し、無常の「無」のように大事な概念を否定形から語る
ロジックを重ねる。シュルレアリスムやデュシャンのように、哲学的に現実を別の現実へ超えていく
その後3週目の話題は、主観とは何かへ移りました。主観もさまざまな縁起によって感じさせられているだけではないか、という問いや、中動態 ── 能動でも受動でもない動詞の態。國分功一郎さんの著書『中動態の世界』で、意志や責任を問い直す概念として広く知られるようになりましたをめぐる責任の難しさが語られています。
さらに3週目の終盤では、村上春樹さんの『街とその不確かな壁』や、生と死の境目の曖昧さが話題になりました。ChatGPTに死にたい気持ちを相談すると「その気持ちも幻覚です」と言われ、自分の感情まで幻覚なら何が本当なのか、という疑問が残っていました。
「最高難易度」の先に見えた「現実(仮)」とは?
3週目を振り返った荒木博行さんは、今回のシリーズの難しさを率直に口にします。
多分ね、今まで収録した中で最高難易度じゃないかなという気がしている。ここに来てまだなんか見えてこない。
荒木さんが挙げた難しさは2つです。最初のテーマと今の議論の位置関係が見えないこと、そして出てくるテーマに対して自分の切り口がほとんど開かず、インサイトが浮かんでこないことでした。
これを受けて渡邉さんは、3週目の終盤に石田さんが示した「認識が一人一人違うという話ではなく、どう共有できるかに舵を切ると考えやすい」という方向に乗ります。
全員が全員幻覚しか見てないっていう、そもそものスタート地点で大丈夫なんじゃないかって気がしていて。
幻覚の中で他人と共有できると、お互いに思い込んでそうな部分を仮に現実と名付けているみたいな。現実括弧仮みたいな。
渡邉さんは、お互いに事実上の現実とみなす「デファクトリアリティ」を共有している状態だと言い換えます。フィクションが共有されるとフィクション自体が真実味を帯びてくる現象と、よく似ているのではないかという見方です。
荒木さんは「現実(仮)」の考え方に同意しつつ、今はその共有がとても難しくなっている時代だとも指摘します。
僕らはこれが現実に見えてますみたいなことを言い合ってる状態になっちゃってるんで、そこで共同でこれ(現実)を仮の現実としようっていうのがほんと難しくなってんな。
荒木さんは、デファクトが作りにくい状況はフェイクニュースの問題にもつながるのかもしれない、と話しています。
なぜ不完全な描写のほうが共有できるのか
話を振られた石田さんは、共有をリアルの定義にするという発想を面白いと受け止めます。そのうえで、共有したい対象が不完全なときのほうが、互いに共有した気になれるのではないかと考えました。
石田さんの説明では、おとぎ話の世界が目に見える形で作られると、そこにいる人たちの見え方の違いがかえって浮かび上がります。一方、文学のように言葉による不完全な描写を各自が理解しているときのほうが、イメージや物語全体を共有できている感覚になれる、ということです。
渡邉さんはこの指摘を、自身のコンテクストデザインの議論と比べます。そこでは、欠けた情報を自ら補う「参加の主体性」が大事だと論じていました。
ただし石田さんの話は、主体性の有無にかかわらず成り立つ点が違うと渡邉さんは言います。それぞれ想像しているものが違う前提で、それでも同じものを見ていると思えるかどうか。渡邉さんはそれを「共同幻想」ではなく「共有幻想」と呼びました。
荒木さんは、視界は永遠に共有できないという前提に立つことを健全な認識だと評価します。そのうえで、多くの人は自分が見ている世界は絶対に正しいと思ってしまう、と問いを投げかけました。
僕の認識は欠けているのであるってどうやったら思えるんだろうね。
荒木さんは、この4人の対話そのものが欠落を意識した会話の例だと話します。
多分こうへい君が見ているビジョンを僕は全然見えてる気がしなくて。だからこそすごく聞き耳を立てるし、なんかその世界を見たいと思ってる。
仮の仮の仮ぐらいなんだみたいな風に思ってると、すごくこう、世界って作りやすいのかなって気はしたから。
石田さんは、違いがわかるまで掘るには相手に深く触れる必要があり、そもそも興味が持てないと共有という概念が成立しないまま交わらずに終わる、と課題を挙げます。
一方で石田さんは、他者が見ている幻覚をVRで再現し、別の人がそれを体験するという研究を紹介します。ゴーグル越しの見え方も人によって違うので完全な共有ではありません。それでも、確かな現実に触れることで違いや不確かさが浮かび上がり、確かめたいという関心が駆動される。石田さんはそこにリアリティの使い道を見ています。
意見が割れるとき、対立の奥にあるものは?
渡邉さんは、あるイベントで別の人と話した内容を持ち出します。ジェンダーマイノリティをめぐる社会のルールのように、意見が大きく割れるテーマについての話です。
これは何か意見Aと意見Bの対立のように我々はそれを目撃してる、もしくは参加するんだけど、なんか意見の対立が本質じゃないんじゃないかなと個人的には思っていて。
渡邉さんによると、意見の向こうには、それぞれの人が持つ理想や恐怖があります。自分の何が脅かされそうだから弁護したいのか、ギリギリ何が譲れないのか。それを分かったうえで議論したほうが、話が進み、折衷や妥協にも至れるのではないかと渡邉さんは考えています。
表面の対立
意見Aと意見Bのどちらが正しいかで争うと、永遠に解決しない
奥にあるもの
それぞれが抱く理想や、脅かされそうな恐怖に目を向ける
共有した議論
相手の痛みや理想を分かったうえで話すと、折衷や妥協に至れる
荒木さんは同感だとしたうえで、理想や恐れを共有する術はあるのか、という問いでもあると受けます。
それって今の我々のコミュニケーションスタイルだと、はっきり言ってすごい難しいというか、めちゃくちゃ腹を割っていろいろな人間付き合いをしない限りはなんかできないんだけれども。
荒木さんは、この課題が今後も超難題として残るのか、何かによって解消されていくのかが気になる、と話しています。
乱世の死から「共有資料」としてのバーチャリティへ
石田さんはここで、第1回のテーマだった死の話に戻ります。人が多く死ぬ昔の乱世では、死の生々しさこそが一番みんなで共有できたものでした。その反動としての別世界への気持ちも、皆が共有できたのだろうと石田さんは整理します。
そう考えると、今の時代に何を共有しているのか、何を共有できると良いのかが問われる、と石田さんは続けます。渡邉さんも、意見も趣味も主義も多様化し、出自や文化的背景の違いが可視化される中で、同じ夢を見られるのかは難しいと応じます。
石田さんは、さまざまなハラスメントの概念が増え、違いを認め合うより「関わらない」「摩擦を起こさない」方向に人が動いている、と指摘します。リアルの場で価値観を共有しにくい時代だからこそ、みんなで共有できる夢、つまり何らかの「共有資料」を作るためにバーチャリティを立ち上げることには意味がある、というのが石田さんの考えです。
荒木さんは、未来の姿を見せることはまさにバーチャリティであり、どれぐらいの圧でどう伝えるのかが難しい、と応じます。
石田さんは、こうしたバーチャリティはスペキュレーティブデザイン ── 製品の実用化ではなく、ありうる未来の姿を提示して人々に問いを投げかけるデザインの考え方。イギリスのアンソニー・ダンとフィオナ・レイビーが提唱したことで知られますにも近いとしつつ、アート作品にとどまらない点を強調します。サッカーや野球のように別のルールで動くコミュニティや社会を立ち上げ、そこにアバターで入って共有をする。そうした「生きた共有資料」としてのバーチャリティは、今の時代にこそ価値があるのではないかと話しています。
非接触の時代に、人はどうやって再び触れ合えるのか
渡邉さんは、石田さんが話した「関わらないほうがトラブルを避けられる」という非接触の時代でも、ギリギリ接触する少人数は残っているはずだと考えます。
家族がいる人は家族、友人がいる人は友人、そうじゃない人は職場なり、自分の近くに住んでる人なりかもしれないんだけど、なんかそこに少なくともちっちゃい規模の発話による接触みたいなのがある。
渡邉さんは、二人が会えば料理や編み物、文章、建物など、何かを一緒に形にできると言います。そうした外部化した創作物を媒介にすれば、フィルターバブル ── 検索やSNSのアルゴリズムによって、自分の好みに合う情報ばかりに囲まれてしまう状態。異なる意見に触れにくくなるとされますの壁を越え、接触が怖かった第三者にも触れられるかもしれないという見立てです。
表現が現れてくる時点で、非接触が接触に入れ替わっていくような契機っていうのが訪れる。
石田さんは、ここまでの話にはバーチャリティの2つの側面があると整理します。何らかの場を作って共有し広げていく「場」としての側面と、人に合ったフィルターをかける「装置」としての側面です。
装置の例として石田さんが挙げたのは、VR世界では自閉症の人があまりストレスを感じずに交流できるという研究です。普通の世界では生きにくい人が装置を通して場を作れれば、そこに他の人も入れるようになる。2つの側面は絡み合って立ち現れるのではないか、と石田さんは話しています。
別のルールを持つ場を作り、そこで共有したものを広げていく
VRのようなフィルターで、普通の世界では生きにくい人も交流できるようにする
リアリティは「共有できたもの」、バーチャリティは?
渡邉さんは、死のリアリティをめぐる意見のすれ違いから始まり、2・3週目の混沌を経た議論が、4週目で鮮やかに結論に至ってきたと振り返ります。石田さんもすっきりしたと応じ、荒木さんは「難易度高かったけどね」と付け加えました。
渡邉さんは、自分の気持ちさえ一度は幻覚だと認めたうえで、それでも共有できるものがある、というフィクションの共同構築として今回の議論をまとめます。
渡邉さんによれば、世界は自分にとってはいつまでも幻想です。しかし他者と共有できたという幻想を抱けた瞬間に、それが世界として現れる、という解釈です。
ここから、4週の対話を貫く定義が示されます。リアリティは共有できたもの、バーチャリティは共有しようとしているものと考えると、ここまでの話がふっと腑に落ちる、という整理です。
他者と共有できたもの。ただし「現実(仮)」の括弧は永遠に取れない
これから共有しようとしているもの、共有したいもの
一方で渡邉さんは、狭い世界の中で共有して満足してしまう危うさも同時にあると問題提起します。一対一だけで閉じると、社会性が育まれないシナリオもあり得るからです。
でもまあそんなことをせずとも人はうっかり共有したって幻想を抱いちゃうから大丈夫か。
だって過去に書かれた本読んで、これは俺のための小説だってみんな思っちゃうもんね、結局。ごめんなんか問題提起しながら勝手に解決した。
最後に荒木さんは、國分功一郎さんの中動態の本と、村上春樹さんの『街とその不確かな壁』を紹介本として改めて挙げました。そのうえで、「バーチャルリアリティ」という言葉そのものにも問題があると締めくくります。
リアルがある前提じゃない、リアリティというものがある前提なんだけど、ありそうでない話だから。現実括弧仮っていうのはさ、その言葉そのものがバーチャルリアリティという言葉だったりもするじゃない。
渡邉さんは、難しさに途中で離れたリスナーもいるかもしれないが、最後までたどり着いた人にはかなりの達成感があるのではないか、と語って4週の対話を閉じました。
まとめ
死とVRから始まった4週の対話は、全員が幻覚を見ているという前提から出発し、それでも他者と共有できたと信じられるものを「現実(仮)」と捉えるところに着地しました。分断や非接触の時代に、共有を生む場や装置としてのバーチャリティを立ち上げることに意味がある、という視点も示されています。
- 認識は一人一人違い、全員が幻覚を見ているという前提から始めてよい
- 不完全な描写のほうが、かえってイメージを共有した感覚を生みやすい
- 意見の対立の奥にある理想や恐怖を共有すると、議論は進みやすくなる
- バーチャリティには、共有を広げる「場」と、交流を可能にする「装置」という2つの側面がある
- リアリティは共有できたもの、バーチャリティは共有しようとしているものと捉えられる




