感性と知識は本当に対立するのか
この回は、アート作品の鑑賞で「制作者の意図」と「鑑賞者の解釈」のどちらを重く見るべきか、というテーマの2週目です。ゲストは、対話型のアート鑑賞ゼミを主催する村上静香さんです。
冒頭で渡邉さんは、前回の議論を振り返ります。荒木さんは知識を持たずに美術館へ入り、まず自分の感性で歩き回ってから、図録を買って意味を理解する鑑賞法を続けていました。
荒木さんがアートに求めるのは、普段の仕事で軸足を置くロジックや合理性とは違う体験です。たとえば内藤礼 ── 日本の現代美術家。空間や光、ごく小さな物を用いた繊細なインスタレーションで知られますさんの展示では、最初は「なぜこれがアートなのか」と戸惑ったといいます。
村上さんはこの話を受けて、わからないものを前にしたときの我慢強さが、荒木さんの中で育っているのではないかと評価しました。
一方で渡邉さんは、感性と知識は本当に矛盾するのかと問いかけていました。誰もまっさらな状態では作品を見られず、人生で携えてきたものが必ず混ざるので、勉強するかしないかは地続きではないか、という問題提起です。
村上さんは、自身のゼミで絵を見慣れていない人でも自分なりの解釈をしっかり持ち、その一人ひとりの違いを楽しめていると紹介しました。今回は、感性と知識がそれぞれ人に何をもたらすのかを、さらに深めたいと話しています。
このポッドキャストのいいところは、話していると問いが磨かれていくみたいなところが面白いですね。
「誤読」こそが自分を主語にする
渡邉さんは、自身が提唱するコンテクストデザイン ── 渡邉さんが著書などで掲げる考え方。受け手が作品やサービスに自分なりの意味を見出し、語り手になっていく状況をデザインする発想ですと、この回のテーマが深くつながっていると話します。
渡邉さんの言う「誤読」は、ネガティブな意味の間違った読み方ではありません。作品を自分に引き寄せて積極的に解釈することを勧める言葉です。
渡邉さんによれば、素晴らしい映画を観た人はおのずと語り部になります。映画について話しているつもりでも、実際にはその人自身の思い出や思想が語られているといいます。
むしろその誤読をこそ大事にしていこうっていうようなことが、一つ本で書いたことでした。
渡邉さんにとって大事なのは、解釈が正解かどうかではありません。解釈を語る時点で、主語が作品から自分自身へ移っていくことが何より面白い、というのが渡邉さんの見方です。
そこから自分だけの価値や個性が見え始め、主体性が刺激され、これまでの価値観が揺さぶられます。渡邉さんは、この動きが「見立て」やコンセプチュアルアートの、場を変えることで意味が宿るという考え方にもつながるかもしれないと話しています。
荒木さんは、誤読の話はアートに限らず、本を読むことや音楽を聴くことにも当てはまると応じました。例に挙げたのはビートルズです。
(ビートルズの曲を)作った作品であっても、あの歌詞がマジで俺について言ってんじゃねえかみたいな、それがもう完全に自分のプライベートな曲になっていくみたいなことっていうのもあるだろうし。
それはね、なんかジョンからしてみたら誤読だぜみたいな感じかもしれないんだけど、そんなこと知ったこっちゃねえみたいな。
村上さんは、対話型鑑賞で目指しているのは、参加者の生活や人生に「キラッと光るもの」が残る体験だと話します。
さらに村上さんは、解釈には2つの段階があると整理しました。描かれた物語をそのまま読み取る段階と、その先で自分が主語になり、意味をもう一歩深める段階です。
個人の解釈が意味を持つようになったのはいつから?
渡邉さんは、個人の解釈に意味があるという考え方は、アートの歴史の中では比較的新しいのかもしれないと話します。そのうえで、西洋のアートの変遷をたどりました。
渡邉さんによれば、西洋のアートはまず宗教芸術にさかのぼり、礼拝の対象として宗教に携わる集団に向けて作られていました。その後、宮廷芸術の時代には、王族が自らを描かせ、貴族の社交の場で鑑賞されるものになります。
宗教芸術や宮廷芸術の段階では、メッセージや正解がはっきりあり、個人の解釈はあまり関係がなかったと渡邉さんは見ています。受け手が個人になり、一人ひとりの解釈が開かれる余地が生まれたのは、ブルジョワ芸術のころからだといいます。
村上さんも、宗教画から離れ、作者が自分の意図を込め始めたことで、見る側も自分事として作品を読み取れるようになったのではないかと応じます。渡邉さんは、芸術のための芸術 ── 芸術は宗教や道徳、政治に奉仕するものではなく、それ自体のために存在するという19世紀に広がった考え方という考えが、こうした解釈を可能にしたのではないかと補いました。
村上さんの対話型鑑賞の現場でも、宗教画はほとんど取り上げないそうです。解釈の余地が少なく、モチーフになじみがなさすぎるためで、裸の人たちが川辺で何かをしている絵からは語れることが少ないといいます。
権威が選んだ作品に、自分の感性はテストされている?
渡邉さんは「悲しい現実」として、アートは歴史的に大衆を喜ばせるものとして発達してきたわけではないと指摘します。今のアートワールドでも、美術館の動員数は一つの指標にすぎず、最重要ではないといいます。
専門家の中には、大衆に受けるものには鼻をつまみたくなり、スノッブな世界で評価されるほうが本物だと考える人も少なくない、と渡邉さんは話します。村上さんも、わかりやすすぎるものより、複雑でわかりにくいものが評価される側面はあると認めました。
渡邉さんが「ここから面白くなる」と語ったのは、この評価の構造です。渡邉さん自身も、ちょっと斜に構えた解釈だと前置きしています。
権威による評価
キュレーターなど権威のある人たちが作品を評価する
展示
評価されたものがギャラリーやミュージアムに並ぶ
大衆の鑑賞
鑑賞者は好意的に受け取ろうとする
皮肉な構造
誰かが良いとしたものに、自分の感性が追いつくかを試される
結局は誰かの権威によって良いとされたものに、自分の感性が追いつくかっていうのをテストされてるっていう、かなり皮肉な構造の下で楽しむしかないっていう状況がある。
荒木さんは強く同意し、アート鑑賞には「自分の感性を信じられるか問題」が常につきまとうと話します。
なんかこの絵マジいいじゃんみたいなものがさ、例えば何かのバッタもんだったりとか、歴史的にも全然評価されてない絵だったりとかね。
本当に初心者がこれに感動しましたとか、なんかそういうことを恥ずかしいことなのかもしれないみたいな、なんかそういう感覚って常に付きまとうよね。
村上さんは、前回荒木さんが口にしていた「怖い」という感覚は、ここにつながるのではないかと尋ねます。荒木さんはそれを認め、アートの世界にはやはり権威主義的な側面があると話しました。
村上さんは、権威主義がにじみ出ることで、変なことを言うのが恥ずかしい、良さがわからない自分が恥ずかしいと感じ、作品を素直に受け取れなくなるのではないかと話しています。
渡邉さんはこれを、アートに対する「憧れと不満」の両方として整理します。一部の人が決めている、マネーゲームの中で本当に良いものが評価されているのか、という不満がある一方で、決まったものを理解したい、わかるようになりたいという憧れも止められないといいます。
渡邉さんは、憧れと不満が混ざったコンプレックスこそが、現代の人がアートを楽しみたいと思う動機の根底にあるのではないかと見ています。ただし、美術館のキュレーター、コレクター、ギャラリストの視点はそれぞれ違い、経済的に評価されたものが必ず美術館で選ばれるわけではない、とも補足しました。
デュシャンの泉から9億円のバナナまで、それは「鑑賞」なのか
荒木さんは、アートの歴史では権威的な評価に対して、繰り返しアンチテーゼが投げかけられてきたと話します。例に挙げたのは、デュシャン ── 20世紀の美術家マルセル・デュシャン。既製品の男性用小便器に署名して「泉」と名付けた作品などで、芸術の定義そのものを問いましたの「泉」のような、アートとは何かを問うアートです。
荒木さんは、不満と憧れのバランスが崩れたときに、こうした動きが生まれるのではないかと問いかけます。渡邉さんは、物議を醸し人を試す作品がアートを動かす力になってきたと応じました。
渡邉さんによれば、現代アートは自らの定義を広げていく自己改革を役割とするようになっています。渡邉さんはそれを面白いと感じる一方で、もはや「鑑賞」という言葉が正しいのかわからなくなったと話しています。
村上さんが例に挙げたのは、前年に大きな話題になった、生のバナナを壁にダクトテープで貼り付けた作品です。この作品は9億円で落札されたと村上さんは紹介しています。
村上さんは、バナナの作品は作品だけを見てもわからないと感じたそうです。その場に置かれていることや9億円という値段がついたことが、アートへの問いかけになっているからです。
村上さんは、バナナの作品について話すのは面白いかもしれないとしつつ、心に残る鑑賞や、自分が主語になる誤読からは遠い作品だと感じたといいます。こうした方向が進むと、アートワールドがどんどん狭くなる感じもすると話しました。
渡邉さんは、バナナの作品には2段階の驚きがあると分析します。大金がつくはずのない作品に大金がつく驚きと、通りすがりの人がバナナを食べて一瞬で壊してしまう驚きです。それ全体がメディアで話題を生むよう設計されているので、そう見るしかないといいます。
村上さんによれば、バナナは実際に2回食べられたそうです。渡邉さんは、記事で読む分には面白いものの、もどかしさと共に感じるしかない部分が出てくると話しました。
荒木さんは、ウォーホル ── アンディ・ウォーホル。ポップアートを代表するアメリカの美術家で、スーパーで売られる商品などの大量生産品を題材にしましたの作品も同じだと続けます。村上さんが挙げたブリロボックスやキャンベルスープのように、店に並ぶ商品がアートと呼ばれ、当時の人も困っただろうといいます。
渡邉さんは、ブリロボックスにはまだ擁護の余地があると話します。精密に作り込む仕事が入っていて、触ってみると本物の商品とは違うとわかるからです。
一方で渡邉さんは、誰が手がけたかによって価値が決まる面も指摘します。「ダクトテープでバナナを貼ればいい」というレシピは誰もが知っていても、他の人がやれば評価されません。
渡邉さんは、これは表面的な批判ではなく制度の問題だと続けます。たとえばネイティブアメリカンの装飾品は、アートミュージアムではなく博物館に置かれます。制度が作品を定義し、誰が手を下したかでアートになるかどうかが変わり、コンセプチュアルになるほどそれが強調されるといいます。
アートワールドの外で、無価値なものに価値を与える
渡邉さんは、合理だけではないことがあらかじめ許された美術館という場所を楽しみたい、という荒木さんの問題意識に強く同意します。そのうえで、渡邉さんは2つのもどかしさを挙げました。
渡邉さんのもどかしさの1つ目は、誰かの権威によって自分の感性がテストされている構造です。2つ目は、歴史やアーティストという文脈によってアートが決まってしまう点が拭い去れないことです。
渡邉さんは、自分の浅い知識による個人的な考えだと断ったうえで、理知や合理だけではない場所を確保するには、アートワールド由来のものだけでは足りないと話します。
自分で下手だけど、自分が何かを作るとか、下手だけど自分の知り合いが作ってるものを愛でるとか、もう制度とかアートワールドと断絶された場所の無価値なものに自分が価値を与えていく。
渡邉さんは、こうした行動で社会に対してある程度プロテストしていかないと、アート的な感性を体現しきれないのではないかと考えています。
村上さんは、自分を軸に鑑賞し、解釈し、楽しむためには、制度から少し離れたものを自分で見つけていくことが必要だという意味だと受け止めました。
渡邉さんは、アートワールドへの憧れがあるので美術館やギャラリーには行くし、キュレーターの面白い話も聞きたいと話します。ただし、それは半分であり、もう半分がもっと必要ではないかというのが渡邉さんの考えです。
村上さんも、アートゼミの参加者には好きなものを探し、それを人生に取り入れて人生を豊かにしたいと考える人がいると話しました。
荒木さんは、美術館での展覧会にはある種の権威性があり、そこに触れて理解することは一つの側面としてありだと整理します。そのうえで、もう一つの側面として、自分や他人が作るささやかなものを楽しむ姿勢を挙げました。
それ(ささやかなもの)をこう転がし、育み、愛でていくみたいな、そんなことが必要だという話はめちゃくちゃ腹落ちしたな。
「愛でる」とは何か。トップダウンとボトムアップの往復へ
荒木さんが第3回のテーマを尋ねると、村上さんは「愛でる」とはどんなふうにできるのかが気になったと話します。権威を取り払ったときに、自分はこれが好きだとどこまで言えるのか、という問いです。
荒木さんは、子どもが描いた絵を例に挙げつつ、そこにも美術の授業で評価が高かった、コンクールで選ばれたといった権威性が入り込むと指摘します。村上さんも、権威を完全に切り離すのは難しそうだと応じました。
荒木さんは、このテーマの本当の問いはそこにあると気づいたと話します。権威側から学ぶか、自分の側から育てるかは、どちらか一方を選ぶ話ではないといいます。
権威が評価した作品や文脈を勉強し、アートワールドの中に入っていく
自分や身近な人が作るささやかなものを育み、愛でていく
僕、どっちかっていうとすごいコンプレックスあるから、その界隈について。トップダウンをいかに勉強するかっていう話の方がちょっとやっぱ強いんだよね。
村上さんは、トップダウンで学べばアートの世界についていけるし、わかりやすいと応じます。それでも荒木さんは、ボトムアップを育むことがあって初めて、アートの世界と対話できるのだと話しました。
渡邉さんも「いい話題になってきた」と応じ、次回は「愛でる」ことを入り口に議論を続けることになりました。
まとめ
今回の対談は、誤読を肯定する話から始まり、アートの歴史と権威の構造をたどったうえで、アートワールドの外で自分が価値を与える姿勢へとたどり着きました。権威側から学ぶことと、自分の側から育てることを往復するところに、アートと対話する鍵があると語られています。
- 渡邉さんは、作品を自分に引き寄せる「誤読」によって主語が自分に移り、新しい価値が見えてくると話している
- 個人の解釈に意味が認められるようになったのは、ブルジョワ芸術以降の比較的新しい流れかもしれないと語られた
- 権威が評価した作品に自分の感性が試される構造が、鑑賞の「怖さ」や恥ずかしさにつながっている
- 9億円で落札されたバナナの作品は、話題としては面白いものの、自分が主語になる鑑賞からは遠いと村上さんは感じている
- トップダウンの学びに加え、身近なささやかなものを愛でるボトムアップがあって初めてアートの世界と対話できる、と荒木さんは話している



