詩人・今宿未悠さんと渡邉さんは、どこで出会ったのか?
「超相対性理論」は、具体と抽象を行き来しながら、ひとつのテーマについてあてどなく話すPodcastです。数週間の休みを経て再開した今回は、詩人の今宿未悠さんをゲストに迎えています。
(この番組は)一つのテーマも具体と抽象を行き来することで、知のいろんな点が打たれる。そのうちに複数の星が結びつき合って星座をなすんじゃないか。
今宿未悠さんは、詩人として活動しています。今宿さんの関心は、身体が感覚することや身体の経験を、どう言葉として凝結させ、詩的な言語で飛翔させていくかにあると話されています。
今宿さんは詩を書くことを一番のメディアにしながら、パフォーマンスなどの身体表現にも関わっています。さらに、身体の経験を言葉にする過程を、一人称研究 ── 研究者自身の体験や気づきを記述し、そこから知見を引き出そうとする研究のアプローチ。主観的な経験を研究対象として扱う点に特徴がありますの方法で研究しているといいます。
荒木博行さんは今宿さんとは今回が初対面です。荒木さんは事前に、今宿さんの最初の詩集『還るためのプラクティス』を読んで収録に臨んでいます。
渡邉さんと今宿さんの出会いは、コロナ禍が始まって間もない2020年秋ごろだったそうです。渡邉さんが好きな恵比寿の店「BistroEbisu」に食事に行くと、そこで今宿さんが働いていました。
BistroEbisuは、渡邉さんの著書『コンテキストデザイン』にシェフとソムリエが登場する店でもあります。今宿さんも慶應義塾大学SFCに通っていて、渡邉さんは大学のかなり上の先輩にあたる関係でした。
とても先輩って言うと、なんかすごい年齢差が激しいみたいな。
その後、渡邉さんが茶道の話をしたことをきっかけに、今宿さんも同じ茶道教室に入り、同じ先生に稽古をつけてもらう同門になりました。ただ、コロナ以降は教室が個人稽古中心になり、ゆっくり話す機会は多くなかったといいます。
渡邉さんと今宿さんの関わりを時系列で並べると、次のようになります。
僕の美羽さん情報はかなり多様で、BistroEbisuの人、SFCの人、お茶の人、詩の人みたいな。
すべては詩のため。在野の研究者としての顔
荒木さんが「今は詩人としての活動がメインなのか」と尋ねると、今宿さんは、詩に加えて時々パフォーマンス作品に出たり、論文を書いたりしていると答えます。そのうえで、それらはすべて詩のためにやっていると話しています。
今宿さんは大学院を修了していますが、現在は学術機関に所属していません。在野の研究者として、自分の論文を外側から学会に投稿していく、と今宿さんは笑いながら説明しています。
頼もうみたいな。
話は荒木さんの前回の収録にも及びます。前回、荒木さんは旅先から長距離ドライブで帰宅した直後に収録に臨んでいました。
200キロぐらいドライブして帰ってきた後だったんで、ボーっとしながらの収録だったんですよ。だからそれ(前回)をちゃんとリベンジせよという康太郎のメッセージで頑張ります。
荒木さんは、超相対性理論にはお互いの知人を紹介し合う側面があると話します。渡邉さんの人脈を通じて、普段は接する機会のないユニークな人と出会えると言い、以前ゲストに来た坂井さんの名前を挙げました。
坂井さんについて渡邉さんは、大学を休んでダライ・ラマに会いに行き、脱植民地主義を考えるうえで微生物が鍵になると考えて微生物を研究している人だと紹介しています。並んだ言葉のつながらなさに、三人で笑い合う場面です。
僕、友達で詩人っていないかもしれないもんな。
なぜマクロレンズで「世界に触れる」のか
超相対性理論では、毎回ゲストにテーマを持ち込んでもらう習わしがあります。今宿さんは、身体と言葉の関係や詩をベースにしつつ、いま一番フレッシュに考えていることとして「世界に触れる方法をさぐる」を挙げました。
今宿さんは、世界に触れるための媒体として、カメラのマクロレンズを取り上げたいと話しています。マクロレンズとは、ごく近くにあるものをはっきり写せるレンズです。
きっかけは、収録の少し前、7月末から8月初めにかけての滞在制作でした。今宿さんは、日本最後の秘境とも呼ばれ、1泊がかりで歩いて向かう山奥の雲ノ平山荘に滞在していました。
その山荘の小屋主であるジローさんからマクロレンズを借りたことで、今宿さんの写真との関係が変わります。今宿さんはそれまで写真を自分とは遠いメディアだと感じ、うまく撮れないとも思っていましたが、マクロレンズにはすっかりのめり込んだといいます。
今宿さんによれば、マクロレンズで撮っていると世界が迫ってくるようでした。写真は視覚的な媒体のはずなのに、見ているというより触れている感覚が強かったと話しています。
この経験を通して、今宿さんはこれまでの詩や身体的な実践も振り返りました。そして自分は世界を見たいのではなく、世界に触れたいのだろうと考えるようになったそうです。
今宿さんの関心は、見ることと触れることの違い、そこで生じる体感、そこから生まれる言葉の違いにあります。渡邉さんと荒木さんがどちらも写真を撮ることもあり、カメラのレンズがその中でどんな役割を果たすのかを一緒に考えたい、というのが今回の問いかけです。
うん、いいですね。いいテーマですね。
視覚優位の荒木さんにとって「視覚で触れる」とは?
荒木さんは、今宿さんの詩集を読んで、五感を通じて世界を認識している印象を強く受けたと話します。独特の言葉遣いと配置、普段は出会わないような言葉同士の接続に驚いたそうです。
一方で荒木さんは、自分自身を視覚優位の人間だと認識しています。触覚をはじめ、視覚以外の感覚があまり働いていないという自覚があるといいます。
だからそこ(視覚以外の感覚)をどうやって解放するのかみたいなことが、僕にとっての一つのテーマだったりするんですよ。
やっぱり脳で考えちゃうし、目で物事を捉えようとしてしまってる。
荒木さんにとって引っかかるのは、マクロレンズがあくまで視覚の道具だという点です。視覚の道具なのに「触れる」と表現されることが、荒木さん自身の感覚とまだうまく接続していないと話しています。
苔に似た「地衣類」、池塘、錆びた釘。山で何を撮ったのか
渡邉さんは今宿さんに、マクロレンズで実際に何を撮ったのか、そしてなぜ触れている感覚を得たのかを尋ねます。今宿さんは収録中に画面共有で写真を見せながら説明しました。
今宿さんが滞在した場所は標高が高いものの湿原のような植生と気候で、地衣類 ── 菌類と藻類が共生してできた生物の仲間。岩や樹皮などに張りつくように育ち、見た目が苔に似ていますが、苔とは別のグループに分類されますが盛んに生えているそうです。今宿さんは、その地衣類や、池塘と呼ばれる自然の池が点在する景色を撮っています。
渡邉さんが「地衣類とは何なのか」と聞くと、今宿さんは、苔によく似た何かで、自分もあまりわかっていないと率直に答えています。苔と一緒にいて岩などに付いている、モケモケとしたさまざまな形のものだと説明しました。
苔のような菌のような。なんかドライフラワーにも見えるみたいな。
ほかにも今宿さんは、岩肌や木の肌、苔、雨上がりの露を撮りました。登山道の話を聞いたことから、登山道の釘や紐、ロープ、錆びている何かも被写体にしたといいます。
視覚は距離をとり、触覚は距離ゼロ。触れる感覚が生まれる2つの理由
今宿さんは、マクロレンズでなぜ触れる感覚を抱いたのかを振り返り、理由を2つ挙げています。1つ目は、質感が迫ってくるような感じがすることです。
今宿さんによれば、視覚は基本的に対象と距離を取ることで初めて表れる感覚です。対して触覚は、距離がゼロ、あるいはマイナスの感覚だと言われています。マクロレンズで距離がぐっと縮まることで、対象の質が迫ってくるのだと今宿さんは考えています。
2つ目は、動きとの関係です。今宿さんの理解では、視覚は少し動いても見えている世界があまり変わりません。触覚は動きを伴い、その動きによって感覚が発生し、変化する性質があるといいます。
マクロレンズで絞りを開放すると、ピントはごく一点にしか合いません。今宿さんが少し動くだけでピントの位置が大きく変わり、対象がドラスティックに変化して見えます。その感覚が、見ているより触れているときに近いのだろうと今宿さんは話しています。
今宿さんが挙げた視覚と触覚の違いを整理すると、次のようになります。
対象と距離を取って初めて表れる。少し動いても見える世界はあまり変わらない
対象との距離はゼロかマイナス。自分の動きによって感覚が発生し、変化する
マクロレンズは、距離の近さと、動きによる劇的な変化という2つの点で、視覚を触覚に近づけている、というのが今宿さんの見立てです。今宿さん自身は、これを「レンズを通して世界に触れていると錯覚している理由」だと表現しています。
手ではなく全身で。「距離感マイナス」とはどんな感覚か
渡邉さんは、マクロレンズで得た感覚は手で触れる感触に近いのか、それとも手ではないのかを尋ねます。今宿さんの答えは「手ではない」でした。
今宿さんによれば、触覚の感覚器官はひとつに限定できず、全身が感覚器官です。マクロレンズで撮っているときは、全身で触れていて、同時に触れられてもいるような感覚があるといいます。
荒木さんもマクロレンズで近所の公園や何気ない道を撮ることがあります。ただ、荒木さんの場合は昆虫になった気分を味わうような、あくまで視覚的な体験だといいます。
例えば蝶はこうやって世界を見ているのかなとか、その想像みたいなものはすごくあって。でもそれは引き続き視界なんですよね。
同じマクロレンズでも、二人の体験の受け取り方は対照的です。
昆虫や蝶の視点を想像する。体験はあくまで視覚情報にとどまる
質感が迫り、動きでピントが変わる。全身で触れ、触れられている感覚がある
荒木さんは、今宿さんの言う「距離感マイナス」の感覚がどういうものかに興味を示します。渡邉さんに説明を求められた今宿さんは、この言葉が伊藤亜紗さんの使っている言葉だと紹介しました。
今宿さんの説明では、触れるときは対象との距離が必ずゼロになり、むしろ相手に入っていくような状況でないと触れることは起きません。距離感マイナスの状態では、対象が自分の内側に入ってくると同時に、自分も対象の内側に入っていくような感覚になれるといいます。
なんか一発でその世界はわからないんだけど、僕なりに何を感じてるかをちょっと反応することでブレスト的になったらいいかなと思って。
議論の本題は次回に持ち越されました。この回で紹介された本は、今宿さんの詩集『還るためのプラクティス』と、伊藤亜紗さんの『手の倫理』の2冊です。
まとめ
初回は、今宿さんがマクロレンズで山の地衣類や岩肌を撮った体験から、「見る」と「触れる」の違いを考える入口が示されました。視覚優位を自覚する荒木さんの問いも加わり、残り3回でこの感覚をさらに掘り下げていく流れです。
- 今宿未悠さんは、身体の経験を言葉にすることに関心を持つ詩人で、詩・パフォーマンス・在野の研究をすべて詩のために行っている
- 雲ノ平での滞在制作で借りたマクロレンズが、「世界を見たいのではなく触れたい」という自覚のきっかけになった
- 今宿さんは、距離の近さと、自分の動きで対象が劇的に変わることが、マクロレンズに触覚的な感覚をもたらすと考えている
- 荒木さんにとってマクロ撮影は昆虫の視点を想像する視覚的な体験で、「視覚で触れる」ことの意味が次回への問いとして残った
- 触れることは対象との距離がゼロかマイナスになる「距離感マイナス」の状態だという考え方が紹介された



