会社員から京都の出版へ。椋本湧也さんとは何者か
超相対性理論のこの回は、前シーズンの「アート鑑賞事始め」の振り返りから始まります。荒木博行さんは、渡邉康太郎さんが話した「自分だけの五等星を見つける」という話を印象的だったと振り返ります。
ほとんど光って見えない、注意しないと見えない五等星を探すみたいな態度は、もしかしたら今日これから話すことにも通じるのかなと想像しております。
ゲストの椋本湧也さんと渡邉さんは、コロナ禍の2020年ごろからやりとりがある間柄です。一方、荒木さんは収録の数分前に初めて挨拶したばかりだといいます。
椋本さんは大学卒業後、フィンランドのイッタラ ── フィンランドを代表するガラス食器・テーブルウェアのブランド。シンプルで長く使えるデザインで知られますやスイスのインテリア企業ヴィトラで働きながら、ZINEや自費出版の本を作って書店に卸す活動を20代のあいだ続けてきました。
現在の椋本さんはフリーランスで本の編集や執筆をしています。30歳を機に東京から京都へ移住し、京都の書店員や文筆業の友人たちと「ゆとりと」という言葉のメディアを立ち上げ、出版事業を中心に活動しています。
渡邉さんとの縁は、世界中の26歳がリレー形式でエッセイを書きつないだ本『二十六歳計画』でした。50名弱が参加したこの本を編む過程で、椋本さんは渡邉さんの著書『コンテクストデザイン』を読み、献本したことがきっかけだったと振り返ります。
荒木さんが会社勤めからの転換のきっかけを尋ねると、椋本さんは、今の仲間たちとお酒の席で半分ノリのように「京都でやるか」という話になったと明かします。主体的に選んだというより、衝動的に会社を辞めて受動的にそうなったという感覚だそうです。
飲みのノリの話を実行しちゃうの偉いですね。
「あんたたちにはわからない」という祖母の言葉
椋本さんが提案したテーマは「他者の体験の記憶をいかに受け継ぐことができるか」です。椋本さんはこの数年、戦時体験の記憶の継承を個人プロジェクトとして続けてきました。
椋本さんのプロジェクトは、祖母への戦時体験インタビューから始まります。その録音を戦争体験のない同世代に聴いてもらい、8月15日の日記を書いてもらって、日記集として本にまとめるという流れです。
このプロジェクトの中で、祖母は椋本さんに「あんたたちにはわかんないよ。体験がないから。それでもやらなきゃいけないとは思うんだけどね」とよく言っていたといいます。直接体験していないことを受け継げるのかという問いは、ここから椋本さんの中で強くなりました。
このテーマに対して、荒木さんは「むずいね」と率直に反応します。荒木さんは1か月ほど前に、哲学者の近内友太さん、戸谷洋志さんと「ケアと物語」をめぐって対話した経験を重ねます。
実は他者がストーリーを作るっていうのは暴力性を孕んでいるんじゃないかみたいな、そんな話があって。
荒木さんによれば、経験していない他者が「君はこういうチャレンジをしているからいいことなんだよ」とケア的な物語を与えることが本当によいのか、という議論だったそうです。経験していない他者がどう介在するかという点で、今回のテーマと通じると荒木さんは話します。
(今回のテーマは)自分の一人称の語りそのものではないっていう。どうしても伝聞になるとか、自分の解釈を免れない。
小説の「私」と映画の「彼」は、なぜ違ったのか
荒木さんが椋本さんの問題意識の原点を尋ねると、椋本さんは大学時代に研究した大岡昇平の小説『野火』を挙げます。荒木さんは「戦時中で人を食べちゃうような話だよね」と応じます。
椋本さんは、大岡昇平の小説『野火』と、それを映画化した市川崑 ── 日本の映画監督。文芸作品の映画化を数多く手がけ、『ビルマの竪琴』『東京オリンピック』などで知られますの同名映画を比較研究しました。すると、2つの作品は描き方が大きく違っていたといいます。
主人公が「私が」と語る主観的な描写
主人公を「彼は」と捉える客観的な描写
理由を探して市川崑の全集を読むと、「この作品を描きたかったが、体験がないから主観的な描写はできなかった。だから客観的に描いた」という趣旨の記述があったそうです。椋本さんはそこで、体験の有無や質によって表現の仕方が変わるという最初の枠組みを得ました。
椋本さんは大学で戦争をかなり勉強し、作品にしたいと考えていましたが、体験していないことを言葉にすると言葉が浮いてしまい、難しかったといいます。
椋本さんは、今年が戦争体験者が生きている最後の節目の年になるはずだと話します。記憶の風化を語るとき「語り継がなければならない」という言葉がセットで語られますが、椋本さんは自分をどの立場に置けばいいかわからず、語り継ぐことの難しさを感じてきたといいます。
他者の話を引用するとき、責任はどう重くなるのか
渡邉さんは、自分は「個人の物語」がとても好きな人間で、自分の体験と同じくらい、あるいはそれ以上に他者の話を大事にして生きていると話します。そのうえで、他者の話を代弁・引用することには2つの性質があると整理します。
他者の話を結果的に代弁するとか引用するっていうところに面白みがある、まず第一に。で、第二に責任が生じるっていうことがあると思ってて。
渡邉さんによれば、戦争や災害など苦痛を伴う話を引用するとき、そこには誰かの傷があります。だからこそ、間違えてはいけない、不用意に触れてはいけないという懸念が生まれ、語り直しを難しくしているのではないかと渡邉さんは考えます。
渡邉さんがよく挙げるのは、東日本大震災を背景にした関口涼子さんの『カタストロフ前夜』と、永井玲衣さんの『世界の適切な保存』です。どちらも多くの人の命が関わるテーマで、『日常をうたう』の8月15日とも通じる性質があるといいます。
荒木さんは、ハラスメントの話も種類は違うものの、傷を負った人の話を第三者が語り直さなければならない場面として似た難しさがあると応じます。
無神経に見えた人が、なぜ被災地で親しくなれたのか
渡邉さんは、ラジオに永井玲衣さんを招いた際に聞いた、東日本大震災後のボランティアのエピソードを紹介します。渡邉さん自身、細部の正確さには自信がないと断ったうえでの紹介です。
被災地には入念に勉強してくるボランティアもいれば、ほとんど何も考えずノリで来た人もいたそうです。最初は浮いていた後者の人が、最終的に地元のおばあさんと家族や親戚のような付き合いを始めたといいます。
距離を取り、被害者と助ける人という関係にとどまりやすい
傷つくことも織り込みつつ、人と人として関係を結ぶ契機が生まれた
災禍の言葉は重く語りづらい一方で、重くしすぎることが当事者との交流を遠ざけることもある、というのが渡邉さんの示唆です。
水平の語り継ぎと、垂直の語り継ぎ
椋本さんは本を作りながら感じてきた違いとして「水平か垂直か」という見方を示します。ハラスメントや災害のように当事者が今も生きている関係での語り継ぎと、戦争のように何十年も前の出来事を受け継ぐ語り継ぎは、性質が違うのではないかという問いです。
当事者が存命で、現在進行形の関係の中で語り継ぐ
当事者がもういない場合もある、遠い過去の体験を受け継ぐ
椋本さんは、当事者がもうこの世にいない場合、傷つく・傷つかないとは別の領域の話もあるのではないかと最近感じているといいます。渡邉さんが「生きている人なら誤引用を訂正してもらえるという意味か」と尋ねると、椋本さんは「確かめようがない」という言葉を挙げつつ、まだうまく言語化できないと答えます。
話しながら考えましょう。
渡邉さんは、話が災禍に寄っているため、次回は災禍以外にも他者の体験を語る言葉にどんなものがあるかを広く点検し、そこから改めて戻ってこようと提案します。
最後に、この回で登場した本として、椋本さんの『二十六歳計画』と『日常をうたう』、大岡昇平『野火』、関口涼子『カタストロフ前夜』、永井玲衣『世界の適切な保存』が紹介されました。椋本さんの本は本人のWebショップや全国の独立系書店で扱われているそうです。
まとめ
第1回は、祖母の「体験がないからわからない」という言葉を出発点に、体験のない人が他者の記憶を語ることの難しさと責任、そして重くしすぎることの危うさまでが語られました。椋本さんが示した「水平と垂直」の問いは、次回以降に持ち越されています。
- 椋本さんは祖母の戦時体験の録音を同世代に聴いてもらい、8月15日の日記集『日常をうたう』を編んだ
- 2つの『野火』の比較から、体験の有無で表現の仕方が変わるという問題意識が生まれた
- 渡邉さんは他者の話の引用には面白みと責任があり、傷を伴う話ほど責任が重くなると整理した
- 気を使いすぎることが、当事者との人間的な交流を遠ざける可能性も語られた
- 当事者が存命の「水平」と、過去の体験を受け継ぐ「垂直」の違いが新たな問いとして示された




