AIに迎合される時代、何を問い直すべきか?
山野弘樹さんを迎えた超相対性理論の2回目は、渡邉康太郎さんによる前回の振り返りから始まります。山野さんはフランス現代哲学を専門としながら、VTuberの研究なども手がける哲学研究者です。
山野さんがこのシリーズのテーマに掲げたのは「AI時代に要求される思考力とは?」という問いでした。きっかけは、千葉工大の初年次教育で日本語表現法を教えるなかで生まれた疑問です。
山野さんの授業では、学生に敬語の間違い探しをしてもらいます。ただ、AIが段階別の詳細な答えまで出せる今、なぜあえて人力でやる必要があるのか、大人が電卓で計算するようにAIを使うのはなぜ悪いのか、という問いに答えなければなりません。
前回はほかにも、荒木さんが「物語生成能力」が失われる懸念を語りました。自分の半生をどう意味づけ、物語化するかをAIに任せること自体がディストピアではないか、という問題提起です。
それと逆向きの論点として、山野さんはAIのシカーファウシ、つまりAIが利用者を肯定しがちな性質に触れていました。AIとの対話で思い込みやフィルターバブルが強化され、答えを疑う批判的思考力が損なわれるという研究もあるそうです。
一回のAIとの対話じゃなくて、本当にそうなの?とか、反証を教えてとか、反対意見を教えてみたいなのから、さらにロジックを強くしていくとかっていうところまで踏み込めるかどうか。
前回の結論は、AIへの「再度の質問」が大事になる、という指摘でした。今回はその延長線から議論が始まります。
一度で納得させたいAIと、食い下がりたい人間のせめぎ合い
荒木さんは、前回渡邉さんが触れた「AIのコスト」がどうなっていくのかを、非常に重要な問いだと受け止めています。考えるうちに、だんだんゾッとしてきたといいます。
そうだよね、使えなくなる気が。一部の人しか使えないとか全然あり得る。
荒木さんがさらに指摘したのは、AIを提供する側の効率性の論理です。少ない労力で良いアウトプットを出すことがAIの使命だとすれば、人間が一回で納得する答えこそが「優秀な答え」になります。
人間がしつこくこれはどう?これはどう?みたいな。こういう反論もあるけどみたいなことを出させるのはAI的にはいいパフォーマンスではないわけじゃない。
荒木さんの見立てでは、ここに構図が生まれます。AI側は批判や反論をできるだけなくそうとし、人間側はそれに対していかにちゃんとした批評性を持つかという戦いになる、というものです。
渡邉さんは、別の角度からの懸念を加えました。生身の人間は信念や宗教、好きなものがあるので簡単には意見を変えませんが、AIはこちらを喜ばせようとコロコロ意見を変えてきます。
実社会はそうでもないってなった時に、人とのコミュニケーションがどうなってしまうのかっていうのもちょっと危惧するっていうのはある。
「論理的」は1つではない。AIが広げる認知的植民地主義
渡邉さんが「別の切り口」として持ち出したのは、渡辺雅子さんの岩波新書『論理的思考とは何か』です。この本では、論理的思考には文化によって複数の型がある、と論じられています。
渡邉さんの紹介によれば、アメリカでは結論、3本柱のエビデンス、結論の繰り返しという5つの項目で効率的に人を説得するファイブパラグラフ ── 序論・本論3段落・結論の5段落で構成するエッセイの型。アメリカの作文教育で広く教えられていますが小論文の基本で、その型に則っていれば論理的だと見なされます。
フランスでは弁証法 ── ある主張(テーゼ)と、それに対立する主張(アンチテーゼ)を突き合わせ、両者を統合した新しい考え(ジンテーゼ)を導く思考の方法を叩き込まれます。一度自己批判を経てAでも非Aでもない答えを導き、取りこぼしの少ない政治的決断につなげることが、その論理に託された役割だといいます。
日本は読書感想文的で、読む前と後で考えがどう変わったかを書きます。イランではコーランに基づく結論は揺るがないため、美しい詩などを引用しながら、結局コーランが正しかったというところへ向かっていく型だと紹介されました。
4つの型の違いを、渡邉さんの紹介に沿って整理すると次のようになります。
| 地域 | 型 | 重視されること |
|---|---|---|
| アメリカ | ファイブパラグラフ | 結論とエビデンスで効率的に説得する |
| フランス | 弁証法 | 自己批判を経て取りこぼしのない結論に至る |
| 日本 | 読書感想文的 | 読む前後で考えがどう変わったか |
| イラン | コーランに基づく論述 | 詩などを引用しつつ揺るがない結論へ向かう |
渡邉さんの問題意識は、この文化差そのものがAIによって危機にさらされうる、という点にあります。多くの生成AIは英語を最大のソースにしており、実際にAIはまず結論から答えてきます。
AIは別に読書感想文言ってこないし、コーランの一節もそういう風なプロンプトを打たなきゃ反応してくれないっていうふうな世界になっている。
渡邉さんはこの状況を「認知的植民地主義」と呼びます。人々の考え方や捉え方がアメリカ的ロジックに侵略され、日本的、弁証法的、コーラン的なものが日々の会話から失われていく、という見方です。
渡邉さんはさらに、学校の先生がAIを採点に使い出せば、成績で良しとされるものまでファイブパラグラフ的な価値観で判断されかねないと懸念します。論理の文化的なバリエーションが失われる事態が目前に迫っているのでは、という危機感です。
「AI」はなぜ単数形で語られるのか?
渡邉さんの問題提起を、山野さんは非常に重要なものとして受け止めました。そのうえで山野さんが不思議に思うのは、「AI時代」「AI駆動社会」のように、AIがいつも単数形で語られがちなことです。
山野さんによれば、AIという総称は匿名的に見えますが、実際には各社が複数のAIを出しています。GeminiならGoogle、ClaudeならAnthropicというように、その背後にはそれぞれの会社の人間の顔が隠れている、と山野さんは指摘します。
山野さんは、イーロン・マスク氏率いるxAIのGrokとAnthropicのClaudeでは、どんな回答が出るかの性質がだいぶ違うと例を挙げました。そして作り手は特定の国に属する会社員である以上、その国の文化や歴史、価値観、宗教が回答の方向づけのベースになりうると述べています。
山野さんの考えでは、どの国のAIがグローバルに使われるかによって、その国の価値観が知らず知らずのうちに満遍なくまぶされることがあり得ます。前年にDeepSeekがChatGPTを脅かした米中のAI競争も、どの価値観を良しとするかという思想の競争になっているのかもしれない、と山野さんは語りました。
渡邉さんは、現在多くの人が使うAIは企業こそ違えど、ほぼすべてアメリカ製だと応じます。中国当局でさえ国際工作にChatGPTを使っているというニュースにも触れ、アメリカに敵対する国までアメリカのAIに頼る状況を「興味深い」と表現しました。
アメリカ的ロジックに我々の認知がどんどん侵食されているっていうこと自体は一つの現象としてある。
荒木さんは、アメリカの中でも企業ごとに重視するKPIが違うはずだと付け加えます。ChatGPTに広告が入るという話もあるなかで、各社の収益化のモデルは、思考を深めたいというユーザーの目的と必ずしも一致しません。
AIっていうのは一個じゃないっていうのは本当にその通りだなと思いますし、この辺はまだでもぼんやりしてますね。僕らの中でも。
山野さんは実践的な対処として、同じ質問を複数のAIに投げて比べることを挙げました。山野さん自身も複数のAIを使っており、来年度の授業では学生に「1つのAIを使うフェーズはもう終わっている」と伝えようかと考えているそうです。
山野さんはさらに、AIを使いこなす力と、AI抜きで考える地頭の両方が必要だと述べます。全部AIに聞いて書いてきた人と、自分で考える力をつけてきた人が同じ面接会場で向き合えば、どちらが話がうまいかという話だ、という例えです。
AIに頼らず自分で考える地頭。面接のような場で差が出る
複数のAIに同じ質問をして比べ、別のAIに逆の立場を聞くなどして使い分ける
山野さんは、この2つは対極にあるような思考力だとしつつ、両方が必要になっている時代だという現状認識を持つべきだと、国語教育の文脈から語っています。
AIを使っているつもりで、使われている?
荒木さんは、山野さんの話を「メタ化できるかどうか」という観点で受け止めました。複数のAIを使い回すのは、人間がAIの上位に立っている状態です。
それ(AIを複数使い回すこと)はメタ化しているように見えてどうなんだろうみたいな、そういうところも多分来るような気がするし。
渡邉さんはここで、猫の例え話を持ち出します。猫は人間を「自分で餌を取りに行けない、でかくてトロい猫」だと思っており、獲物を飼い主に見せるのは餌の取り方を教えてあげているのだ、という話です。
渡邉さんによれば、人間は猫の面倒を見ているつもりでも、撫でることで実は人間のほうがケアしてもらっている面もかなりあります。AIとの関係にも、似た鏡の構造があるかもしれないというのが渡邉さんの見方です。
AIに頼れば頼るほどAIに酷使されているとか、なんかこう使われている、もしくは新しい情報をどんどん提供している。
渡邉さんは、人間がAIにデータセットを提供している構造もあると続けます。荒木さんが「小麦の奴隷」の話を挙げると、渡邉さんも、人間は命を燃やしてAIに新しいデータを提供しているだけ、という皮肉な見方もあり得ると応じました。
言語化の圧力は、暗黙知を切り捨てるのか?
渡邉さんが「すごく普通の話」として次に挙げたのは、今のところ大半のAIは身体を持っていない、という点です。身体を持つからこそできることを考えると、まず暗黙知があるといいます。
渡邉さんはポランニー ── マイケル・ポランニー。ハンガリー出身の科学者・哲学者で、『暗黙知の次元』で「人は語れる以上のことを知っている」と論じましたの『暗黙知の次元』に触れ、氷山の例えで説明します。海面の上に出ている形の整ったデータや刊行された言葉が形式知で、海中に隠れた経験、思考、文脈、身体知が暗黙知です。
職人技や自転車の乗り方のように、言葉にしにくい知はたくさんあります。一方でLLMにプロンプトを書く作業は、形式知をまず人間がどれだけアウトプットできるかに頼っています。
なんかその言語化が求められる圧力っていうのが今世の中で高まってると言えるのかもしれなくて。
渡邉さんの懸念は、身体的な感覚や職人技、直感的に「いいな」「嫌だな」と思うような、言葉にできないものを社会がどんどん切り捨て始めている可能性です。
荒木さんは、付き合いのある一次産業の例を挙げます。農業現場にもAIが入り、「今年はやばいかも」「もう少し水が必要かも」といったベテランの勘が機械によって可視化されつつあるそうです。
荒木さんは、可視化そのものは大事なことだと認めつつ、そのとき農家は何をするのかという大きな問いが生まれると話します。
ベテランの直感をもとに、自然とちゃんと付き合っている感覚を持てていた
大丈夫そうに見えても、AIの指示に従って水まきに行く存在になっていく
人間が本来持っていた野性の勘みたいな部分がもうほぼほぼ奪われていくみたいなことが現実的に起きうる。
XRなら身体知を受け継げる?
山野さんは、暗黙知が失われつつある局面はAIの分野に限ればきっとある、と認めます。そのうえで山野さんは、XR ── VR(仮想現実)、AR(拡張現実)、MR(複合現実)などをまとめて指す言葉。現実と仮想を重ね合わせる技術の総称ですの領域ではむしろ身体知をどう継承するかの実現事例が出ていると話しました。
山野さんが挙げた例は、職人の新人研修です。工事現場で、どの角度で釘を打てば効率的かは言葉では説明しづらく、人材不足のなかで親方が毎回手本を見せられるわけでもありません。
そこでMRの技術が使われます。山野さんによれば、ヘッドマウントディスプレイを被ると現実の工房の中に親方の動きがバーチャルに再現され、そこに自分の手を重ねて釘を打つと、効率が倍に上がるそうです。
山野さんはほかにも、車の模型にゴーグル越しに乗りたい車を重ねて見る試乗体験、ARでの試着、VRでの不動産内見といった例を挙げました。XRとAIが掛け算されている状況を踏まえると、議論できる場面はさらに広がるというのが山野さんの見方です。
AIが奪うのは「わからなさ」という贅沢か?
渡邉さんは、自分が言おうとしているのはXRによる継承とは少し違う話だと返します。それはネガティブケイパビリティ ── 答えの出ない状態や不確かさに、性急に結論を出さずに耐え続ける能力。詩人ジョン・キーツが用いた言葉として知られていますにもつながる、「わからなさ」の価値についての問題意識でした。
わからなさっていう贅沢はもはや人間は味わえなくなってくるみたいなことだとも思ってて。
渡邉さんによれば、わからないことは苦痛なので、人は何かと格闘し続けます。AIの価値は、要約や解説によってわからなさを即座に解消できる点にあります。
その結果、一度立ち止まって悩む時間や、勘違いや誤読から生まれるノイズ、独自の着想が奪われているのかもしれない、と渡邉さんは考えます。悩むとか考えるという贅沢な機会が、もっともらしい解説を与え続けられることで失われていく、という懸念です。
XR化できるような知見であれば、もはやかなり形式知に近いと思うんで、なんかどっちかというと、それのもうちょっと手前の部分をどうしたらいいんだっけっていうようなことかなと思いました。
山野さんは、この点に反論を示しました。AIに「本当にそうですか?」と根拠を突っ込めば、わからない部分はわからないと言ってくれるので、わからなさが奪われているわけではなく、運用上の突っ込み不足ではないか、という見方です。
渡邉さんはそれに対し、論点はさらに手前にあると説明します。LLMを使うにはプロンプトのために言語化が必要ですが、突っ込めるかどうかの時点で、すでに言語化できたものの話になっている、という指摘です。
その氷山の下の部分と向き合い続けるっていうのって、言語以外でいかに可能なのかとか、言語でも何か可能なのかみたいな、そんな問題意識なんですけど。
山野さんは、この問いが哲学でも大きな問題に関わると応じます。知識は常に言語とセットなのか、言語抜きの知識はあり得るのかについては、成立するとする哲学者もいれば、語義矛盾だとする哲学者もいて、知識観や言語観の違いによって分かれるそうです。
最後に次回のテーマを話し合うなかで、荒木さんは、渡邉さんが語った「AIに聞けてしまうからネガティブケイパビリティの余地がなくなる」という話にまだ腹落ちしていないと率直に話しました。
それってそうなの?っていうのは僕はまだわかってないんで。
渡邉さんも、2つの異なるテーマを同時に出してしまったかもしれないと認め、次回はこの「わからなさ」の論点を掘り下げることになりました。
まとめ
第2回では、AIの効率性と人間の批評性のせめぎ合いから始まり、論理の文化差、AIの作り手の価値観、暗黙知と言語化の圧力、そして「わからなさ」の価値へと議論が進みました。結論は出ないまま、次回へ問いが持ち越されています。
- AIは一度で納得させる答えを目指しがちで、人間側には反論を引き出して批評性を保つ姿勢が求められる、と荒木さんは指摘した
- 渡邉さんは、英語中心のAIがファイブパラグラフ的な論理を広げ、論理の文化差を失わせる「認知的植民地主義」を懸念した
- 山野さんは、AIは単数ではなく各社・各国の価値観を背負っており、複数のAIを比べる使い方とAI抜きで考える力の両方が必要だと語った
- 暗黙知をめぐっては、農業でAIに指示される懸念や、XRによる身体知の継承という事例が出された
- AIが「わからなさ」という贅沢を奪うのかという問いは、言語抜きの知識はあり得るかという哲学の問題につながり、次回に持ち越された





