前回は「飽き」について何が語られた?
超相対性理論の安斎勇樹さんゲスト回は2週目に入り、冒頭で渡邉康太郎さんが前回の議論を振り返ります。テーマは「飽き」です。
前回、荒木博行さんは「具体のレベルでは飽き性だが、抽象のレベルでは同じことをやり続けている気がする」と話していました。例えば毎朝のVoicy ── 音声配信プラットフォーム。荒木さんは毎朝ここで音声を配信していますは飽きていない一方で、扱うテーマは雑食なので飽き性に見えるのかもしれない、という自己分析です。
荒木さんはさらに、本を書いている時期と出版される時期のラグのあいだに、自分の中ではそのテーマに飽きてしまっていることがある、とも話していました。
安斎さんは前回、飽き性だという自覚がありながら、それがクリエイティビティの源泉でもあると前向きに捉えていました。熱中が断ち切れる残念さについては、Voicyで毎朝10分ほど一日の思いのログを残すことが、後から参照できる蓄積になってきたと語っています。
前回の終わりに安斎さんが注目したのが、渡邉さんが以前の谷川さんとの収録で口にした「衝動が見つけられない」という言葉でした。それはどういうことなのか、というのが2週目の出発点です。
鼻息を感じない人は、旅に飽きているのか?
安斎さんはまず、最近立て続けに10歳ほど年下の若手起業家と話したり、ピッチイベントを見たりした経験を挙げます。若手起業家たちは、お金儲けや遠いゴールのためではなく、いまの衝動的な好奇心に基づいて「これがやりたい」と熱く語っていて、安斎さんは好感を持ったといいます。
安斎さんの表現では、若手起業家たちのプレゼンからは好奇心とともに「鼻息」を感じたそうです。谷川さんの言う「衝動のスイッチが入った状態」、つまり今までやっていたことを投げ出して没入している姿だと安斎さんは捉えています。
その像と比べて、安斎さんは渡邉さんには「あまり鼻息を感じない」と指摘します。物理的にも知的にも自由な旅人に見える一方で、旅が日常化しすぎていて、旅そのものに熱狂しているようには見えないというのです。
安斎さんの例えは、年に一度の家族旅行でUSJに行く子どもと、毎週旅行に行っている人の違いです。前者は前の晩から眠れないほど興奮しますが、後者にとっては「明日も旅行だよ」という程度の、馴染んだ小さな喜びになっています。
安斎さんは、「飽きる」とはそもそもお腹いっぱいで充足しているという意味合いだと述べます。衝動にはお腹がペコペコのような渇望感があるので、知的に充足して渇望感がない状態は悪いことではなく、衝動とは別のモードがあるのではないか、と考え始めたそうです。
渇望感がある。若手起業家のように鼻息荒く、今のことを投げ出して没入する
お腹いっぱいの状態。旅が日常化し、冷めているようにも満ち足りているようにも見える
この対比は、「飽き」を単なる熱の喪失ではなく、充足というもう一つの状態として捉え直す視点になっています。
当たり前すぎて自分では気づけないもの
渡邉さんは、安斎さんの指摘が前週に荒木さんが話したことと重なると受け止めます。自分では継続していると思っていないことが、他者からは継続して見える可能性がある、という点です。
渡邉さんの例では、ある美的観点を貫いているとか、旅をし続けているとか言われても、本人にとって好みの服や出張は当たり前すぎて、強みやミッションや衝動として分類していないといいます。
渡邉さんは、この現象は企業のブランディングにもあると続けます。企業は自社にとって当たり前のことを省略しがちですが、その省略された当たり前こそが一番ユニークな部分だったりします。
外部のデザイナーみたいな人が客観的にそこに入ってくると、「ちょっと待ってください、ここおもろいんですけど」みたいになって、むしろそれ(当たり前の部分)をちゃんと言語化するっていうのを手助け(する)。
渡邉さんは、自己認識と客観的な見え方のズレが、飽きに深く関わるテーマなのではないかと考え始めたと話します。安斎さんも、自認と他者の視点の違い、そのズレが面白いのだろうと応じています。
書けない原稿にしがみつくのは衝動なのか?
渡邉さんは「鼻息を感じない」という指摘に関連して、いま書こうとしている本の原稿がまったく書けていない状況を明かします。アウトラインや切り口、本のコンセプトを何通りも書いては「これじゃない」を繰り返しているそうです。
テーマ自体、通底するメッセージ自体は変わんないんだけど、切り口とか順番とかを変えてるバリエーションを作りまくってて、これも違う、あれも違うっていう。
渡邉さんによれば、その背景には忘れられないケーススタディや伝えたいメタなメッセージがあり、それがまだ言葉の形になっていないから苦悩しているといいます。苦悩しながらも離れられないこだわりは、煎じ詰めると衝動なのかもしれない、と渡邉さんは考えます。
すごいそういう意味での美的感覚みたいなものっていうのに対するすごい執着。それはあんまり理由がないというかね。
荒木さんは谷川さんとの回で、衝動は遊びに似ているという話をしたことを思い出します。共通点は目的がないこと、合理性がないことで、荒木さんは「理由なき執着、こだわり」がキーワードになりそうだと話しています。
ドラえもんやドラゴンボールは、なぜ「アート」なのか?
渡邉さんは、YouTubeで話題になった現代アーティスト村上隆 ── 日本の現代美術家。アニメや漫画の表現を取り入れた作品で国際的に知られていますさんの映像を紹介します。京都市京セラ美術館での個展に合わせ、村上さんがマルクス経済学者の斎藤幸平さんにアートを説明するといった内容です。
その中で村上さんは、ドラえもんやドラゴンボールは「すでにアートになった」と発言していたそうです。渡邉さんはこの表現が妙に引っかかり、なぜだろうと考えたといいます。
渡邉さんの整理では、ドラえもんもドラゴンボールも漫画として始まり、アニメ化されて国民的コンテンツになり、海外の文化圏にも広がりました。渡邉さんの同世代の頃には、スペイン語字幕付きのドラゴンボールを集めている海外の大学生が多かった、という実感も添えています。
漫画
最初は漫画として始まる
アニメ化
アニメになり、日本の国民的コンテンツになる
海外へ
海外の文化圏にも広がり、熱狂的に受け入れられる
アート化
ジャンルを超えた世界の共通言語になり、アートと呼ばれる
渡邉さんは、ジャンルを超えて世界の共通言語になったときにアートになるのではないか、と推測します。ウォーホル ── アンディ・ウォーホル。マリリン・モンローなどの大衆的なアイコンを作品にしたポップアートの代表的な芸術家がマリリン・モンローというアイコンをアートにしたことともつながるかもしれない、と付け加えています。
渡邉さんがこの話を持ち出したのは、荒木さんの「合理性を超える」という話と関係しているからです。キャラクターが世界に普及したのは合理的な説明を超えた魅力と浸透度があったからで、非合理的な直感に訴えるものは何かの極端さを備えている必要がある、と渡邉さんは述べます。
渡邉さんは別の例として、壁一面のキャンバスに細かいボールペンで都市を描いた絵を挙げます。常軌を逸した緻密さに人は非合理的なものを感じ、度を超えたものがアートになったり人の心をつかんだりする、という見方です。
渡邉さんはさらに、説明できないこと自体が特別な価値を帯びる点を重視します。ただし、それは結果的にそうなるものであり、意味不明な行動をしようと狙ってできることとは別だろう、とも話しています。
合理性の範疇に入った瞬間、人は飽きるのか?
ここで荒木さんが「飽き」の話に戻し、整理できていないまま言語化すると前置きしたうえで、一つの仮説を出します。
荒木さんの例えでは、渡邉さんの行為について他人から「こういう意味で合理的だよね」と言われた瞬間、心外に感じて少し傷つき、本人も一瞬で冷めてしまう、という状況です。
他者による目的が突然設定されちゃうとか、解釈のフレームの中に収められちゃうっていう時に、自分の中でミステリーとして保ち続けてた魅力が雲散霧消するっていうのは起こりうるよね。
渡邉さんは、今日のテーマにぴったりの本として、オートポイエシス ── 生命システムが自らの構成要素を自ら作り出し続けるという考え方。生物学から始まり、システム論や哲学に広がりましたやシステム論を専門とする哲学者、河本英夫さんの『飽きる力』を本棚から取り出します。
『飽きる力』で渡邉さんが面白いと感じたのは、ウサギとカメの解釈です。一般には諦めずに進み続けたカメが美徳とされますが、河本さんは、どう考えても勝ち目のないレースにカメが颯爽と現れたこと自体がすごい、勝つことを目的に参加していないはずだ、と指摘しているそうです。
渡邉さんは東京マラソンを例に挙げます。参加すること自体に意味を感じている人や、何年かに一度の完走を目的に走るおじいちゃんがいるように、カメにも自分なりの執着があったはずです。勝利という物差しで褒められても、カメは嬉しくないのかもしれない、と渡邉さんは話しています。
やっていることを言葉で説明すると、なぜ冷めるのか?
荒木さんは、衝動的にやっていることについて、人に合理的な説明を求められる瞬間があると話します。例えば「なぜ荒木さんはVoicyを5年も6年もやっているんですか」と聞かれたとき、荒木さんはわかりやすい言葉で適当に答えるものの、本当の理由はそこにはないといいます。
仮によ、そこに合理性があった瞬間、自分で話しながらやってることがなんかちっぽけのように感じられちゃうみたいな。
荒木さんにとっては、行為が言葉の範疇を超えていくからこそ、まだ楽しめるという感覚があるそうです。
渡邉さんは「合理」という言葉から、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に出てくる価値合理的と目的合理的という考え方を連想します。番組内ではこの本を「プロリン」と略して呼んでいます。
行為そのものに価値があり、それ以上の理由を必要としない。山登りが好きだから山に登る
目的を達成するために行う。目的のための手段なので、手段は交換可能かもしれない
渡邉さんによれば、それ自体を目的化できる価値合理的な行為は心地よい、という議論になりがちです。しかし情熱や衝動を燃やしている状態に「合理」という言葉を使ってよいのか、価値合理的と呼ぶこと自体がすでに衝動から遠ざかっている可能性がある、と渡邉さんは問いかけます。
荒木さんは、意味づけは動機づけに大事であり、組織でもタスクに意味づけをして渡すことが重視されると認めます。そのうえで、あまりに合理的な意味づけが見つかると、目の前のことが合理的な手段に落ちぶれて飽きてしまうのではないか、と整理しました。
継続して執着を持ってやり続けられてるものってさ、その意味付けみたいなことはあんだけど、意味付けからはみ出しちゃってる部分が結構あるみたいなことのような気がするんだよね。
「意味と勝負している」とはどういうことか?
この議論を受けて、安斎さんは前日から抱えていた迷いに納得がいったと話します。書き起こし上の話者表記は荒木さんですが、話の内容と直後の渡邉さんの呼びかけから、安斎さん自身の本の発売時期をめぐる話と読めます。
安斎さんによれば、自分の本の発売のタイミングで超相対性理論に出て組織の話をすると、番組が本のセールスの手段になってしまう、と感じたそうです。合理的すぎる意味が見えたことへの拒絶こそが、安斎さんの「飽きる」という感情だったといいます。
渡邉さんはこの話に強く共鳴し、以前に深井龍之介さんを招いて4回の予定が6回に延びた「人はなぜ作るのか」の回を思い出します。その回で最後まで深井さんとすれ違っていたテーマが、まさに意味づけの話だったそうです。
深井さんは当時、意味の範疇に収まらないものという言い方も、結局は「意味の範疇に収まらない」という別の記号を生み出しているだけだと指摘しました。渡邉さんは半分は合っていると思いつつ、分類そのものから逃げ出したいという感情面が捉えられていないと感じ、すぐには受け入れられなかったといいます。
メタ認知して、その分類に当てはめた瞬間に、その考え方自体がすでに無意味化しちゃうから、またそこからも逃げたくなるっていう、うなぎのようにニュルニュル逃れ続ける感覚みたいなのがあったんですよね。
荒木さんは、当時その回で「意味パッケージ」という言葉が出ていたことを思い出し、人は常に意味と勝負している感覚があるのかもしれない、と話します。
勝負っていいですね。意味付けたいんだけど、意味付け切られたくないみたいな戦いをしてるわけですね、じゃあ。
荒木さんは、経済学では人間の購買行動はそれほど合理的ではなく、簡単に類型化できないことが常識になっていると指摘します。それなのに、こうした議論になると自分たちはうっかり合理的に意味づけ・分類できるというバイアスの中に居続けてしまう、と荒木さんは振り返りました。
2週目の最後に、荒木さんは次回の補助線として、千葉雅也さんの『勉強の哲学』を挙げます。渡邉さんは「ノリが悪くなる」という話をしようとしているのだろうと応じ、次回の冒頭で触れることになりました。今回の超相対性理論書店には、『飽きる力』と『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の2冊が加えられます。
まとめ
2週目の対談では、衝動のない充足した状態を肯定的に捉える視点から始まり、「飽き」は行為が合理的な意味づけに収まった瞬間に訪れるのではないか、という仮説に至りました。意味づけは動機づけに欠かせない一方で、意味からはみ出す部分があるからこそ人は続けられる、という見方が示されています。
- 飽きは「お腹いっぱい」の充足でもあり、衝動とは別のモードとして悪いものではない
- 自分にとって当たり前すぎることほど、他者からはユニークな継続に見えることがある
- 説明を超えた極端さや非合理性が、アートや人の心をつかむ力につながる
- 行為が言葉や合理的な意味に収まったと気づいたとき、人は飽きるのかもしれない
- 人は「意味づけたいが、意味づけ切られたくない」という意味との勝負を続けている



