飽きは「勉強」の先に生まれる感情なのか?
「飽き」をテーマにした安斎勇樹さんとの対談は、3回目に入りました。冒頭で渡邉さんは前回までの流れを振り返ります。安斎さんは、若手起業家たちが好奇心にあふれ「鼻息荒く」没入している姿に触れたうえで、渡邉さんには熱狂している雰囲気をあまり感じないと指摘していました。
前回は、自己認識と他人からの見え方のずれにも話が及びました。自分では自然にやっていることでも、他人からは執着や衝動に見えるかもしれない、という話です。そこから荒木さんが、人は合理的な説明に押し込められると冷めてしまうのでは、と投げかけていました。
渡邉さんは、意味づけの扱いの難しさにも触れていました。組織でタスクを頼むときに背景を伝えることは大事です。一方で、意味づけをしすぎると、かえって面白みが失われてしまうこともあるといいます。
こうした流れを受けて、荒木さんが議論の補助線として持ち出したのが、千葉雅也 ── 哲学者・作家。フランス現代思想を専門とし、『勉強の哲学』などで一般向けにも哲学を語っていますさんの『勉強の哲学』です。サブタイトルは「来たるべきバカのために」。荒木さんは、人が勉強する理由を三段階で整理した本として紹介します。
荒木さんは、飽きるという感情はこの勉強を極めた先に出てくるのではないか、と考えます。周りのみんなが似たようなことを言い始めると、「このノリじゃないかも」と思う瞬間があるからです。
そうすると(今のノリから)抜け出さなきゃみたいな、そんな感情みたいなものが出てくるのかなっていうことを、ちょっとこの議論の補助線として一回投げてみたいなと思います。
安斎さんもこの本をとても好きで、たびたび立ち返る一冊だといいます。安斎さんが注目したのは、本の中で、周りの暗黙のコードに合わせている状態が「環境との癒着」と表現されている点です。勉強して新しい身体を獲得し始めると、周りから浮いて「キモいやつ」になっていく、というくだりです。
安斎さんによると、癒着しているときは自分ではなかなか気づけません。心のどこかで飽きが生じていても、「飽きた」と自覚した時点で、すでに癒着は剥がれているのではないかといいます。安斎さんは、まず飽きないと次の勉強のステップに進めないのかもしれない、と本の内容と重ね合わせました。
自分のノリの外にいる他者をどう理解するか
渡邉さんは、ノリと癒着の話から、トランプ氏が大統領に当選した出来事を連想します。自分の領土を出なければ、自分がいた場所はわからない、という話にも通じるといいます。
渡邉さんの見立てでは、リベラルな民主党側の人たちが「こいつらは分かっていない」と断じてしまうと、理解やコミュニケーションから遠ざかってしまいます。トランプ氏が当選せざるを得なかったアメリカで何が起きているのか、投票した人たちがどんな苦難を抱えているのかを当事者的に理解しようとしない限り、分断は解けないままだというのです。
赤と青の間にある別のノリっていうのを、自分のノリの中でだけでは絶対に捉えきることができなくて、抜け出していく必要があるみたいなね。
渡邉さんは、人類学者エスコバル ── アルトゥーロ・エスコバル。コロンビア出身の人類学者で、開発やデザインのあり方を多元的な世界の視点から問い直していますの「ワンワールド・ワールド」という考え方も紹介します。いろいろな人の意見を自分の世界の上にただ並べるだけでは、結局、自分の認識が一番上に立っていることを強化するだけになってしまう、という問題提起です。
他人の世界を完全には分かりきれなくても、分かろうとする態度を保ち続けなければ進歩はない。渡邉さんは、このノリの問題とエスコバルの議論がつながっていると感じたといいます。
「冒険的世界観」がみんなの当たり前になったら?
荒木さんは、安斎さん自身の発信にも話を向けます。安斎さんは「冒険的世界観」と「軍事的世界観」というキーワードでメッセージを出していますが、もし誰もが「冒険的世界観」と言い出したら距離を置きたくなるのではないか、と問いかけました。
安斎さんは「天邪鬼だから」と笑いながら、それを認めます。経営論が戦略や戦術といった軍事的な枠組みを参照して1940年代から発展してきたことは、経営学者から見れば当たり前の話です。学習論の出身で外から来た安斎さんは、自分で会社を経営するようになってからその前提に違和感を覚え、新しいノリを作るために「冒険」と言っているといいます。
ただ、その「冒険」が全部の当たり前になって埋没したら、それはそれで違和感がある、というのが安斎さんの感覚です。荒木さんは、ヒット曲を出したアーティストがいつまでもその曲を求められ、「もう歌いたくない」と感じる気持ちに似ているかもしれない、と重ねました。
ここで渡邉さんは、飽きについて別の解釈を示します。自分が周りと差別化できていると思えているうちは飽きない、という可能性です。
周りがまだ追いついてない。周りはまだ軍事的だ。みんなこっち来いよっていう時は飽きてないんだけど、みんながすごい冒険的になったらやっぱ飽きるみたいな。
安斎さんは、それは全体ではなく部分的にありそうな要素だと応じます。そのうえで、前回の「渡邉さんは飽きている疑惑」は、言い換えれば、渡邉さんが特定の何かに乗っているように見えないということだったのかもしれない、と振り返りました。若手起業家たちは、スタートアップのような分かりやすいものに乗っているように見えた、というわけです。
特定のジャンルに乗らないのは、競争を避けるため?
渡邉さんは、安斎さんの指摘に心当たりがあるといいます。かなり無意識なことだと前置きしつつ、渡邉さんは自分を「競争したくない」人だと分析します。
競争に興味ないみたいなのがあって。ただ特定のもの(ジャンル)に乗った瞬間に何か競争が生じちゃうので。
既存のジャンルや枠組みに興味が持てないのも、そこに関係しているのかもしれません。渡邉さんは、分類できないジャンルにいることは「ただの怪しい人」でい続けることでもあり怖いけれど、同じジャンルにいることはもっと怖い、その狭間で揺れているのかもしれない、と語ります。
荒木さんは、この感覚にとても共感します。何かが定義された瞬間、その中に序列が生まれてしまう、という感覚です。
荒木さんの例えは野球です。野球と言えば、もう大谷翔平選手がいる、という分かりやすいヒエラルキーがあります。逆に「何をやっているのかよくわからない」状態なら、以前の三宅さんの回の話のように、競争ではなく表現に集中できるのではないか、と荒木さんは考えます。
オルタナティブであり続ける難しさ
安斎さんも、競争に絡め取られたくないと強く思っているといいます。その対になるのは表現とも言えますが、安斎さんには「運動」に近い感覚もあるそうです。カウンターであるうちは楽しいけれど、その運動性が失われていくとつまらなくなってしまう、という感覚です。
安斎さんはここで、山口周 ── 著作家・コンサルタント。美意識や人文知とビジネスの関係を論じる著書で知られますさんの『クリティカルビジネスパラダイム』に触れます。社会運動としてのビジネスがこれから大事になる、という内容の本です。既存の枠組みの中で勝つのではなく、別のオルタナティブを示す運動に意味を感じられるうちは飽きない、と安斎さんは話します。
荒木さんは、オルタナティブであり続けることの難しさを、音楽にたとえます。オルタナティブロックがメインストリームになってしまうのは、どこかダサい話です。分かりやすい「ロック」に対するオルタナティブだからこそ格好よさがあるのに、名前が与えられると、その中でまた別の価値観が生まれてしまう、というわけです。
安斎さんは、そうした動きが出てくること自体は否定しないものの、それは自分の仕事ではないと感じてしまう、と話します。荒木さんから「起業家」「スタートアップ経営者」と呼ばれることへの違和感を聞かれると、安斎さんは「あります」と即答しました。経営はしているけれど、そこに押し込められてラベリングされ評価されると、違う気持ちになるといいます。
安斎さんは、本を出すと自分が消費されていくという第1回の話にもつなげます。『問いのデザイン』を出すと、何を話しても問いのデザインの話を求められますが、自分の関心はもう次に移っている。表現を世に出して価値につなげようとすると、自分を固定しようとする圧力がかかり続けるといいます。
安斎さんは、過去のアウトプットをきちんと残しつつ、その表現に飽き続ける運動をしなければ、自分の表現が止まってしまう感覚があると話します。そのため、積極的に「飽きた」と宣言することも大事だと考えているそうです。
飽きたから次へ、だけではない生き方とは
荒木さんは、以前この番組で話した「セルフブランディングの功罪」を思い出します。自分をある言葉に押し込めることは、安心材料になる一方で、その言葉に絡め取られてしまう危うさもあります。荒木さんは、安心感を与えてくれる面もあるから難しい、と話しました。
渡邉さんは、飽きを一次元的な時間で捉えると難しくなると考えます。「飽きたから次へ、飽きたから次へ」ほどシンプルでなくてよく、もっと面倒くさくていいのかもしれない、というのです。安斎さんも、問いのデザインに飽きていても、大事なタイミングで戻ってきて語り直すことができます。
全部を次へ次へと捉えなくて良いっていうのが、多分生きることの大事なことなのかなと思って。
渡邉さんが例に挙げたのは、アンビエントミュージックの巨匠ブライアン・イーノ ── イギリスの音楽家・プロデューサー。アンビエントミュージックの提唱者として知られ、多くのバンドのプロデュースも手がけていますです。ニッチなジャンルで質の高い作品やアートを作り「ニッチな神」のような存在でありながら、Windowsの起動音を作ったり、コールドプレイをプロデュースして世界的なヒットを飛ばしたりもしています。
渡邉さんは、超マイナーで尖った活動とメジャーの最前線を兼ねられる点に強さを見ます。そこには、自分の中の複数の分人 ── 作家・平野啓一郎さんが提唱した概念。人は一つの「本当の自分」ではなく、相手や場面ごとに異なる複数の自分を持つという考え方ですを同時に運用し続けている印象がある、と渡邉さんは話します。
リセットではなく「訂正」し続ける
安斎さんは、渡邉さんの話を聞いて、飽きたからといって過去を切り捨てているわけではないことに気づいたといいます。問いのデザインを何度も語り直すだけでなく、博士論文で取り組み、とっくに飽き切ったと思っていたワークショップも、今になって改めて面白いと思い直しているそうです。
安斎さんはここで、東浩紀 ── 批評家・哲学者。思想誌の刊行や言論活動を続け、『訂正可能性の哲学』『訂正する力』などを著していますさんの『訂正する力』と『訂正可能性の哲学』を紹介します。安斎さんの理解では、日本は訂正する力が弱いという文脈の本で、訂正とリセットは違うものとして書かれています。
過去のことを棄却して、次へ進む
過去を遡って再解釈し、改めて一貫性を語り直す
安斎さんは、自分のしていることもまさにこの「訂正」に近いと考えます。飽きてしまった今の自分から過去を遡って再解釈し、分人Aから過去の分人Bを読み直すことで、新しい分人Bダッシュが生まれる。そうして自分を更新し、訂正し続けている感覚なのかもしれない、と語りました。
渡邉さんは、複数の領土を行き来しながら風景が変わり続けていくイメージだと応じます。安斎さんは、セルフブランディングというより「訂正の語り」をし続けているのかもしれないとまとめ、荒木さんは、固定化しないということだね、と受け止めました。
最後に渡邉さんは、ここまでディープな議論が続いたからこそ、あえて表面的な「飽き」の話もしてみようと提案します。ゴルフをずっとやっていると飽きる、同じテレビ番組を見続けると飽きる、といった身近な話から、訂正の拠点が増えないか試したいというのです。次回はその切り口で話すことになりました。
この回で紹介された本は、千葉雅也さんの『勉強の哲学』、山口周さんの『クリティカルビジネスパラダイム』、東浩紀さんの『訂正する力』と『訂正可能性の哲学』、そしてエスコバルの『多元世界に向けたデザイン』です。
まとめ
今回の対談では、飽きが「ノリ」から抜け出す瞬間に生まれる感情として捉えられ、競争を避けて表現や運動に向かう姿勢、そして過去を捨てずに語り直す「訂正」という考え方へと議論が深まりました。
- 『勉強の哲学』の「環境との癒着」が剥がれたとき、人は飽きを自覚するのかもしれない
- 周りと差別化できているうちは飽きにくく、みんなの当たり前になると飽きやすいという見方が示された
- 定義やジャンルに乗るとヒエラルキーと競争が生まれ、そこから離れることで表現に集中できる
- ブライアン・イーノのように複数の分人を同時に運用することが、飽き続けないための方法になりうる
- 飽きたら過去をリセットするのではなく、遡って再解釈する「訂正」を続けることで自分を更新できる






