松岡正剛の千夜千冊をラップトップ台に?
この回の冒頭では、荒木さんが「こうちゃん、松岡正剛先生大好きですよね」と渡邉さんに振るところから話が始まります。渡邉さんは昨年末、三鷹の独立系書店ユニテで「松岡正剛の世界」というトークイベントに出演し、ゲームデザイナーの山本貴光さんと対談したといいます。
渡邉さんの松岡さん好きを示すエピソードとして語られたのが、コロナ禍の在宅勤務の話です。画面の位置を上げるために、求龍堂版の千夜千冊 ── 松岡正剛さんが本を1日1冊紹介し続けたブックナビゲーション。それを再編集した全集も刊行されていますの分厚い全集をラップトップの下に敷いていたそうです。
何それ。
失礼しました。なんか(求龍堂の)分厚い本持ってるよっていうことを言いたかったんです。
渡邉さんによれば、千夜千冊全集は1冊1冊が広辞苑より分厚く、全部揃えると両腕を広げたくらいの厚みになります。荒木さんも渡邉さんの影響で松岡さんの本を読むようになり、一緒に香港へ行ったときにはカフェで『編集宣言 ── 渡邉さんが「エディトリアルマニフェスト」とも呼んだ松岡正剛さんの著作。編集を世界の見方として位置づけた一冊です』を借りて読んだと振り返ります。
ここでゲストの安藤昭子さんが紹介されます。安藤さんは松岡さんとは師弟関係にあたり、渡邉さんが全集を持っていることを喜びました。渡邉さんの全集は古書で集めたため背表紙の日焼け具合がまちまちだそうですが、安藤さんによると、もともと資生堂の福原さんが装丁を手がけ、微妙に色の違う赤で作られていたといいます。
対談のきっかけは、荒木さんがVoicyで安藤さんの近著『問いの編集力』を紹介したことでした。そこから編集工学研究所のポッドキャスト「ほんのれんラジオ」への出演につながり、今回の収録に至ったそうです。荒木さんも渡邉さんも、安藤さんとはこの日が初対面でした。
17歳の切実な問い「わかったで止まらないには?」
荒木さんは、今回は4回に分けて収録すること、そして安藤さんに問題意識を持ってきてもらったことを伝えます。安藤さんが持ち込んだテーマは、「わかった」という状態をどう乗り越えるか、でした。
背景にあったのは、編集工学研究所の本楼を訪れた灘高校の生徒たち7〜8人との対話です。毎年の東京合宿の一環で来所した彼らから、最後の質疑で「一度答えを得るとわかったつもりになってしまう。そこで止まらず先に進むには、日頃どんな態度でいればいいのか」という問いが出たといいます。
安藤さんによると、その生徒は勉強だけの話をしていたのではありません。課外活動で被災した方の話を聞きに行き、状況も気持ちもわかったと思えた。先生に知識を聞いても理解できた。それでも「これは本当にわかったのだろうか」と感じ、日常の出来事が全部「わかったこと」として処理されて過ぎていくことに引っかかっていたそうです。
残り10分ほどしかなかったその場で、安藤さんが返せたのは一言だけでした。わかったことでわからないことは増えていくので、既知 ── すでに知っていること。対になる未知は、まだ知らないことを指しますに対して未知を多く持っておくことを自分に許してあげるといい、という内容です。
安藤さんはその後も「もう少しちゃんと答えられなかったか」と気になっていたため、荒木さんと渡邉さんの頭と言葉を借りて、17歳の切実な問いに応える話がしたいと語りました。
長年の夫婦でも、本当にわかり合えているのか
荒木さんは、4〜5年前に深井龍之介さんと3人で「わかるの深淵を覗く」という回を収録していたことを思い出します。安藤さんもその回を聴いており、深井さんが最後に虚無になって終わる展開も面白かったと話しました。今回は4年後の視点で改めて考える場になります。
渡邉さんは、「わかる」にもいろいろな種類があると切り出します。勉強のわかる、人の心情のわかるに加えて、夫婦や親友、同僚のように長く時間を共にする人同士の「わかった」は本当にわかっているのか、という問題を挙げました。
例として語られたのが、30年来の友人の夫婦関係の話です。15年一緒にいる2人は、料理の味の好みも、特定の女性ボーカルの声が嫌いなことも、なぜかK-POPアイドルのオーディション番組はよく見るという例外も知っています。
でもこれ(相手の好みを)を知っているっていうのは本当にわかっていることなのかみたいな話をしていて。
渡邉さんは、好みは結果として見えていても、その奥にある原因や、本人さえ説明できない根っこまではわかり合えていないのでは、と指摘します。何年一緒にいても発見があり、理解が立体的になったり、むしろ未知が増えたりするというのです。
料理や音楽の好みといった結果、表面に現れたふるまい
好みの奥にある原因、本人も説明できない根っこ
安藤さんはこれを受けて、夫婦の「なんでわかってくれないの」の多くは、相手の文脈に立たなかっただけということが多いと応じます。多方面から出来事を把握できているときは、わかったかどうかにこだわらずに物事が進む。一面しか見えていないときに、わかる・わからないへのこだわりが始まるのかもしれない、と安藤さんは考えました。
「わかる」は何かとの比較で使われている?
渡邉さんは、人が「わかる」という言葉を使うとき、何かとの比較で言っているのではないかと話します。一般の人より数学を少し勉強すれば「数学がわかっている」と言われ、去年よりレベルが上がれば「わかってきた」と言う。参照点を上回ったときに「わかる」を使いがちだ、という見立てです。
ただ一方で、真の意味でわかるって結構難しいなと思っていて。
その例として渡邉さんは、前日に脳神経の研究者である青砥瑞人さんと話したことを紹介します。脳について、全体が100あるうち30くらいわかっている感覚なのかと尋ねたところ、そもそも100が何なのかすらわからない、という答えだったそうです。既知ができるほど未知が広がる世界なので、わからないものはとても多い、と渡邉さんは語りました。
百合とバラの違いと銀河の始まりは同じくらい難しい
安藤さんが「わかる」を簡単に扱ってはいけないと初めて感じたのは、松岡正剛さんの一喝だったといいます。舞台は、松岡さんがビジネスリーダーを集めて半年ほど学び合うAIDAという塾のような場でした。
受講生の多くは、発言の前に「わかっているとは思えないんですけど」「わかってないまま言いますけど」と前置きしていました。そこで松岡さんが「わかったわからないを簡単に言うな」と一喝し、「百合とバラの違いってわかるの?」と問いかけたそうです。
安藤さんによると、受講生がなんとなく「わかる」と答えるうちに、うかつに答えられない空気になっていきました。松岡さんは、百合とバラの違いがわかるかどうかと、銀河系がどう始まったかがわかるかどうかは、大して差がないのだと語ったといいます。この出来事以来、「わかる」は安藤さんにとってずっと気になるテーマになりました。
アイデアはいつ出していい?「満足の量」という罠
渡邉さんは、松岡さんの話をビジネスの場面に重ねます。ビジネスデザイナーの濱口秀司さんによると、新規事業やデザインのプロジェクトでは、初日にアイデアを出すと「まだリサーチ途中だ」「インサイトも抽出できていない」と止められがちだそうです。数日後に出しても、やはり「まだ早い」と言われます。
どの段階から私たちは(アイデアを出すに足る)知見を得れたというふうに確信を得れるんだろうかっていうと、全く答えがないわけですよね。
渡邉さんは、安全に進めたい人が求めているのは、これだけ時間をかけ、これだけ話を聞いたという「お風呂の水がたっぷり溜まった」ような安心感だと見ます。それは知識の量ではなく、満足の量かもしれないというのです。
どれだけ知ったか。どこまでで十分かを測ることはできない
時間・人数・調査量を重ねたという安心感。覚悟を決めるための拠りどころ
渡邉さんによれば、むしろ知識が溜まる前のほうが奇抜なアイデアを出せたかもしれず、初日から考え始めていいことになります。百合とバラの違いと同じく、わかったもわからないも実は大差がなく、受講生の「わからないまま言いますが」という前置きは、自信を持って語れるかどうかの問題につながっているのでは、と渡邉さんは整理しました。
いつまでたっても自信は十分じゃないのかもしれない。
安藤さんは、仮説のままコミュニケーションすることを自分にも場にも許せれば、わかる・わからないにこだわらず物事を前に進められると応じます。逆に、エビデンスを全部揃えないと発言してはいけないと思っていると、わかったかどうかが途端に大問題になる、と安藤さんは話しました。
「先生」になった瞬間、わかった人プレイが始まる
荒木さんは、「わかる」を考えるうえで大事なのは、体の向きを何に向けているかだと話します。たとえば新人から「デザインのことを教えてください」と言われると、わかっている人のポジションに急に立たされ、わかっている体で話すプレイになってしまう、というのです。
ただ、デザイン界みたいな方に体を向けていった瞬間に、全然わからないことばかりみたいな、そういうことになって。
荒木さんは、以前の放送で「先生」という呼び名は危険だと話したことにも触れます。学生に向いて話すと「わかった人プレイ」になり、それが身に染みつくと、わからないことがとても怖くなってしまう。だから体をどちらに向けるかを常に意識している、と荒木さんは語りました。
わかっている人のポジションに立たされ、わかった人プレイになる
全然わからないことばかりだと気づける
渡邉さんは、文化人類学者の松村圭一郎さんの著書『これからの大学』を紹介します。松村さんは同じレジュメで同じ講義を繰り返さず、そのとき自分が学びたいことを授業のテーマに据え、シラバスの時点ではわかっていない内容を学生と共に深めていくそうです。
学生が(探求していく)体験と、先生自身がやっている体験っていうのがほんの少し時間的にずれているだけで、かなり相似形であるっていうのはすごく面白いと思うんです。
渡邉さん自身も、社会人や学生向けのレクチャーで「ここまではわかった、ここから先はわかっていない」という話をするのが好きだといいます。恥ずかしさもある一方で、「わかる人がいたら教えてください」と言える清々しさがあり、聴衆も能動的に考えてくれるからです。
わからなさが番組のエンジン、次回は「場としてのわかる」へ
安藤さんは、超相対性理論という番組そのものが、荒木さんと渡邉さんのわからなさ加減をエンジンに進んでいると評します。わからない球を常にどこかに置き、それを拾いに行く感じがあり、聴いている人が気持ちいいのはそこだろう、と安藤さんは話しました。
荒木さんは、それを気持ちいいと感じる人と、「もっと四角四面に整理してほしい」と感じる人がいると応じます。渡邉さんも、結論を言ってほしい人ももちろんいるだろうと同意しました。荒木さんは、ぶらすことの楽しさがわかるかどうかが、今回のテーマに関係していそうだと述べます。
次回の入口として安藤さんが挙げたのは、「わかる」のエネルギーがどこを流れているのかという視点です。安藤さんによれば、人は「わかる」を個人の問題にしがちですが、実は誰かと誰かの間にしか発生しないものでもあります。
そう考えると、個人のわかるだけでなく、集団としてのわかる、場としてのわかるがある。安藤さんは、日本はそうしたことがとても得意だったのではないかと感じており、次回はそこを話したいと提案しました。渡邉さんも「いいじゃないですか」と応じ、初回は締めくくられます。
この回で紹介された本は、松村圭一郎さんの『これからの大学』(春秋社)と、安藤さんの新刊『問いの編集力』です。
まとめ
初回は、灘高生の「わかったつもりで止まりたくない」という問いを起点に、わかるとわからないの境目がいかにあいまいかが、夫婦関係、脳研究、松岡正剛さんの一喝、新規事業の現場、教える立場といった具体例から語られました。わからなさを抱えたまま話すことの価値が浮かび、次回は「場としてのわかる」へ進みます。
- 長年連れ添った夫婦でも、見えているのは好みという結果で、その奥の原因まではわかり合えていないことがある
- 松岡正剛さんは、百合とバラの違いがわかるかどうかと銀河の始まりがわかるかどうかに大差はないと一喝した
- 「十分にわかった」という感覚は、知識の量ではなく満足の量かもしれないと渡邉さんは指摘する
- 教わる人に体を向けると「わかった人プレイ」になり、分野そのものに向けるとわからなさに気づける
- 安藤さんは、わかるを個人ではなく集団や場の問題として捉える視点を次回のテーマに挙げた



