「わからなさ」が心地よい場とは?前回の振り返り
編集工学研究所の安藤昭子さんを迎えた「わかったをどう乗り越えるか」の2週目は、安藤さんの感想から始まります。安藤さんは1週目を終えて、早速「わからなさ」がもりもり出てきて気持ちいいと話しています。
荒木博行さんも、このテーマは4回話し終えても「こう乗り越えればいいんだ、わかった」とはならないだろう、と予告します。
これ(全)4回終わって、いや、こう乗り越えればいいんだ、わかったってなっちゃいけないというか、そうならないんだよねっていうのが。
渡邉康太郎さんは荒木さんのこの発言を、ドラえもんのタイムパラドックスもので未来の自分が先に結末を告げに来る場面にたとえました。タイムパラドックスの極致として、てんとう虫コミックスの第45巻も薦めています。
続いて渡邉さんが前回を振り返ります。出発点は、安藤さんが灘校の生徒と遠隔で話したときに出た「一度答えを得るとわかったつもりになる。そこに留まらないためには」という問題提起でした。
前回の対話では、被災者の気持ちや夫婦の関係のように「わかった気がする」けれど根っこはわかっていない場面が挙がりました。編集塾で松岡さんが「わかった、わからないと簡単に言うな」と一喝した話や、先生と呼ばれた瞬間に「わかっている側」になってしまう問題にも触れています。
前回の最後に安藤さんが出した問いは、「わかる」は個人の中ではなく人と人の間で起こるのではないか、というものでした。そこから、集団や場としての「わかる」をどう企画できるかが今回の出発点になります。
連句はなぜ「誰の発想か」を問わないのか
安藤さんは「日本的な場」について補足します。中世から江戸ぐらいまで、人々は寄り合いで歌を順番に詠み合う連句 ── 複数の人が五七五と七七の句を交互につなげていく日本の詩歌の形式。前の句の世界を受けつつ、少しずらして次の句を付けていくのが特徴ですのような遊びをしてきたといいます。
連句では、渡邉さんの一句を荒木さんが「つかず離れず」で引き取り、さらに安藤さんが次を詠む、という形で句が回っていきます。安藤さんによると、そのとき場全体が興奮状態になる一方で、誰の発想だったのかはどこにも帰着できなくなります。
安藤さんは、感じたことを渡し合う中で、みんなで何かが「わかった」状態にたどり着くことを、日本はとても好んできたのではないかと考えています。
安藤さんはこの背景を、一神教文化と八百万の神の感覚の違いとして説明しました。そうした遊び方の違いは、必然的に学び方や「わかり方」の違いにもつながっていたはずだ、という見立てです。
個人の才能は神との契約の中にあり、個人として発想していく感覚が大もとにある
魂は私の中だけでなく様々なものの中にあり、自分の感性も何かとつながりながらしか存在しない
「能力開発から組織開発へ」と日本のずれ
安藤さんの「個人ではなく場」という話を受けて、荒木さんは最近そのバックラッシュが起きていると話します。具体的には、能力開発から組織開発へという流れが明確にあるといいます。
例えばこの超相対性理論な場みたいのも、一人ではない、僕とこうたろうとゲストの方、この瞬間だからこそこう出てくる創発的なナレッジみたいなのがあるわけですよね。
じゃあそのアイデアは誰がどうやってみたいなことって分解できないっていうのがすごく面白いところだったりする。
安藤さんは、場で創発された知性のほうが携わる人を興奮させる力があると応じます。そのうえで、優秀な人を10人集めるより、10人の間に超優秀な知性を起こすほうが、組織としてははるかに難しいと指摘しました。
荒木さんは、組織がそちらに向かうのは注目というより「限界が来ている」からだと言い直します。日本は本来、場で成果を出すほうが得意だったのに、2000年以降の成果主義のトレンドで個人が強くクローズアップされてきた、という見方です。
安藤さんも、組織の作り方の多くはカタカナの輸入品で、一神教的な方法論では個々人の能力の足し算になりやすいと話します。日本人は空気を読む、察するといった相互作用の身体感覚をいまだに持っているのに、組織のルールはそうではないため、ずれてきた数十年だったのではないかと述べています。
本来の得意
相互作用の中で成果を出す「場」の感覚
2000年以降
成果主義が広がり、評価と報酬を個人に帰着させる
現在
身体感覚とルールがずれ、個人の足し算に限界が来ている
芭蕉が弟子の句を勝手に読み替えた理由
渡邉さんは、場の中で句が育つ例として、松尾芭蕉の弟子で蕉門十哲の一人、向井去来のエピソードを紹介します。去来は中秋の名月の夜に「岩鼻や ここにも一人 月の客」と詠みました。
去来の意図は、名月を見ようと海岸の岩の突端に出たら、すでに先客がいたことを発見した、という情景でした。ところが芭蕉は「そうじゃない」と言い、月に向かって「私もまたあなたの前にまかり出ました」と語りかける句にしなさいと読み替えます。
俺の解釈の方がめっちゃイケてるから、俺の全俳句人生をかけてこっちの解釈でいった方がいいみたいなことを弟子に押し付けていくっていう。
渡邉さんは、去来が詠んだのだから去来の解釈でいいのでは、と現代人ならぎょっとするだろうと話します。それでも、連句や俳諧では句が個人だけに帰属せず、他の人の解釈によって完成するという常識があったから、このやり取りが成立したのだと説明しました。
渡邉さんはさらに、英語の「クリエイト」の語源に2つの説があることを紹介します。日本的なものは、無から生み出すより、庭に植物が自ずと生えてくるような、場によって育まれるイメージに近いかもしれないといいます。
父性的に、なかったものをゼロイチで作るイメージ
豊穣の神のように、地面から植物が自ずと育ってくるイメージ
安藤さんは、作品が放たれた瞬間にその人だけのものではなくなる感覚は八百万の神っぽいと応じます。人の句を直しに行けるのは「わかるよね」という信頼がある場だからではないか、とも話しています。
枕詞は「パスワード」だった?
安藤さんは、その信頼の土台に、教養とも違う知識基盤の共有があったのではないかと考えます。例として挙げたのが枕詞 ── 和歌で特定の語を導くために置かれる5音ほどの決まった言葉。「たらちねの」は母、「ひさかたの」は光や天などにかかりますです。
「たらちねの」と言えば母、「ひさかたの」と言えば光が出てくるように、たった5文字でその先の世界が共有されます。安藤さんはこれを、ログインIDを持つ人だけに閲覧権限が与えられるコミュニティのような「パスワード」にたとえました。
安藤さんは、この話を会社組織にも広げます。社内に5文字で世界がパッと共有できるような世界観がない状態で、日本人の場の文化を生かした組織開発をするのは無理な話だと考えているそうです。
渡邉さんが確認すると、安藤さんは、パーパスやミッション、ビジョン、バリューは言語化して理解するものだと答えます。一方、かつての場の文化では、枕詞のような手がかりの背後に、感性や情緒といった言語化できないものが共有されていたといいます。
渡邉さんは、寿司職人が師匠の背中を10年見続ける修行も、テクニックより言葉に圧縮できない「Why」を伝えているのかもしれないと重ねます。安藤さんは、そうした暗黙知 ── 言葉や数値で表しにくい、経験や身体感覚に根ざした知識。哲学者マイケル・ポランニーが提唱した概念として知られていますの共有はあるサイズまではできても、大企業では言語化が避けられず、その先をどうするかが難題として残っていると話しました。
言葉が「わかった気」にさせるとき
荒木さんは、パーパスなどの言葉に頼って上滑りすることがよくあると指摘します。共有のベースがないまま言葉を作り、それで握れているような気になる状態を、まさに「わかった気になっている」と表現しました。
安藤さんはこの話から、数学者の岡潔を思い出します。岡潔は著作『夜雨の声』の中で、数学は1から先を扱うけれど、1とは何かは不問に付している、と書いているそうです。
安藤さんによると、1が何かを知らないまま計算に長けていくことは、受験勉強でも組織活動でも起こります。たとえば「お客様とは何か」を情緒としてはわかっていないのに、扱うことはできてしまう、という状態です。
渡邉さんは、1から先の数字を扱い続けることで、知らなかった1をおぼろげに探し続けているのでは、と問いかけます。安藤さんは、数字と戯れる中で1をはっと感得することは大いにあるとしたうえで、岡潔が問題にしたのは、子どもの頃に春の泥を踏むような感覚で育つ情緒や、その「はっとわかる」喜びを不問にする教育だったのではないかと答えました。
「保留」できれば前に進んでもいい?
荒木さんは、この話を「順番論」の難しさとして受け止めます。1を体得してから2、3へ進むのが正しく思える一方で、1を知った前提で先へ進み、あとで1に戻って深さを知ることもあるからです。
5できたなら6でしょ、7でしょみたいな。次あの人10いってるよみたいな、そんな感覚で。でも誰も1のこと知らないみたいな、
荒木さんは、現代社会では戻ることがロスに感じられてしまうと話します。安藤さんは、全部を「わかった」に昇華しなければならないと思うと前にしか進めないけれど、保留にしておけるから戻れるのだと応じました。
あ、保留ですよ、ほんと保留ですよ。保留にできてたら前に僕進んでもいいような気するんですよね。
荒木さんによると、問題は保留がなくなり「知ってます、3まで行ったんで4行きます」となることです。安藤さんも、着地の連続にしか成果や成長がないと思うと、「あっ」と気づいたところに戻るのが難しくなると話しています。
「知ってます」と着地を重ね、戻ることをロスと感じて前にしか進めない
わからない部分を保留にしたまま進み、必要なときに1へ戻れる
渡邉さんは、この往復を応用研究と基礎研究にたとえます。ロケットを飛ばす宇宙工学と宇宙の起源を考える研究のように、人間は両方の方向に進んでいくというイメージです。
最後に安藤さんは、本来的にわかるって戻っていく時だと思う、と次回への問いを置きました。紹介された本は岡潔の『夜雨の声』と、てんとう虫コミックス『ドラえもん』45巻です。
まとめ
安藤昭子さんを迎えた2回目は、連句や芭蕉と去来のやり取りから、「わかる」が個人ではなく場の中で起こってきた日本の文化を確かめ、言葉だけで共有したつもりになる組織の危うさへと話が進みました。岡潔の「1」をめぐる言葉を経て、わからない部分を保留にし、戻れることこそが「わかる」の鍵ではないかという問いが次回へ持ち越されています。
- 連句では句が人から人へ渡され、誰の発想かを問わないまま場全体で何かがわかる状態にたどり着く
- 2000年以降の成果主義で個人が重視され、日本の場の身体感覚と組織のルールがずれてきたと語られた
- 枕詞のような共有された知識基盤がない組織では、場の文化を生かすことが難しいと安藤さんは指摘する
- 言葉はわかるからこそ、わかった気にさせてしまうという罪の側面がある
- わからない部分を保留にできれば前に進んでも戻ることができ、本来「わかる」とは戻っていく時だと話された



