欠けた茶碗は愛でられるのに、なぜ人の欠損は愛でにくいのか
『弱さ考』の著者で編集者の井上慎平さんは、強いビジネスパーソンを目指した末に鬱を経験しました。その背景に社会の経済システムがあるのでは、という問いを立てた本をもとに、超相対性理論では4週にわたって対話が続いてきました。
最終回の冒頭で、渡邉康太郎さんが前回の議論を振り返ります。荒木博行さんが紹介したのは、若年性アルツハイマーの丹野さんの記憶を個人の責任にせず、職場のみんなで覚えることで組織のポテンシャルが上がったという話でした。
井上さんはこの話をいいと受け止めつつも、簡単には納得しませんでした。わかりやすい穴でない場合はどうするのか、トップが完璧な組織では穴がネガティブになり「自分はいなくていいのでは」と感じてしまうのではないか、と問いを重ねています。
強いリーダーが戦略的に弱さを語ることへの違和感や、自己開示を他人に強いる「自己開示ヤクザ」への警戒も話題に上りました。権力を持つ側のほうが開示しやすいという偏りがあるため、自己開示しない自由も必要だという話です。
渡邉さん自身は前回、弱くあることを誇りに思うと語り、強さは紋切り型の価値を備えることでもあると話していました。凹んだMacBookや金継ぎ ── 割れたり欠けたりした陶磁器を漆で接着し、継ぎ目を金粉などで装飾して仕上げる日本の修復技法。傷跡そのものを景色として味わう文化がありますされた茶碗に固有性が宿るように、人の欠損も固有性になるのでは、という考えです。
しかし井上さんは、満たされた人だから欠損があっていいと思えるのでは、まだ自分を肯定できない人ほど理想を目指してしまうのでは、と返していました。茶碗なら愛でられるのに人だと愛でにくいのはなぜか、という問いも残りました。
とにかく容易に頷かない慎平さんと。
振り返りを聞いた井上さん本人は、自分がずっと「でもでも」と言っていたことに気づいて苦笑します。渡邉さんはそれこそが超相対性理論らしいと受け止めました。
弱さがお金になる、というシステムの話
前回の井上さんの問いを受けて、荒木さんは「これはマーケティングの話だ」と切り出します。荒木さん自身もビジネススクールの営業やマーケティングに携わっていた当事者だと断ったうえでの発言です。
欠損を感じさせて、それがやばいっていうところを認知させて、それをサービスにするっていうことってさ、なんかマーケティングコミュニケーションの常道になっちゃってるじゃん。
荒木さんによれば、物を売るときに大事なのは差分を感じさせることです。ある程度満たされた状態になると、今度は新しい差分を作る必要が出てくる、と荒木さんは続けます。
欠損を感じさせる
「こんなことできないのはやばい」と認知させる
差分を見せる
差分を認識していない人に、別の世界があると示す
サービスへ誘導する
その差分を埋める商品やサービスを売る
新しい差分を作る
満たされると困るため、次の差分が生まれ続ける
荒木さんは、『弱さ考』で経済と人間の弱さがセットで語られている点を本質的だと評価しています。個人が頑張れば済む話ではなく、弱さがお金になるから永遠に満たされてはいけないという、システムの問題だという見方です。
これ僕らがなんか頑張ればいいって話じゃなくて、システムの話なんだよね、やっぱり。
井上さんも、そうしたメッセージを発する企業の人が悪いわけではないと同意します。そのシステムの中で、自分の不完全な固有性をどう愛するのかが難しい、と井上さんは語りました。
「どうすれば」と問い続けてもいいのか
井上さんは『弱さ考』で、人生はビジネスではないから自分自身を改善の対象にしないほうがいい、と書いたといいます。それでもシステムの中にいる以上、実際には自分を改善の対象にしてしまう、とも認めています。
本を出してから井上さんの耳に引っかかるようになったのが、読者から寄せられる「どうすればいいでしょう」という言葉です。井上さんは、その背景にビジネスはコントロールできるという信念がある、と考えています。
鬱は末期以外に治療法がない、どうにもならない病気だったと井上さんは振り返ります。その経験から、「自分はどうすれば」という問いを発する頻度を少し減らしたほうがいい、と話しました。
渡邉さんは井上さんの考えに「半分イエスで半分ノー」だと応じます。弱いままどう生きるか、戸惑いをそのまま伝えるといった前提には同意しつつ、渡邉さんは別の見方も示しました。
悩んでていいんじゃないかなと思うんだよね。どうすればいいでしょうを思い続けてもいいんじゃないかなと、個人的にはちょっと思っていて。
だからつらいことが常であっていいような気がしている。それって別になんか救いにならないんですけど、言葉としては。
荒木さんは渡邉さんの言葉に強く共感し、そこにこそ『弱さ考』の魅力があると語ります。書き終えた後の井上さんが同じ問いにまだ悩んでいること、本の中でも「こう思いたい」と書いた次の章で「いやしかし」と行ったり来たりしていることが、本のメタなメッセージだという見立てです。
井上さんも、答えがあるという前提に立たなければ「どうすれば」を繰り返してもいいと応じます。どうにもならないと思っても、どうにかしたいと思うのが人間で、行ったり来たりするうちに人生が終わってもそれでいい、と井上さんは話しました。
荒木さんは、ビジネス書なら課題・原因・解決策3つを並べて「こうすれば強く生きられる」と書くだろうと指摘します。それが救いになる人もいるが、それを消費した先にもシステムは手強く、逡巡するしかないというのが荒木さんの考えです。井上さんは「逡巡」をいい言葉だと受け取り、断定しない覚悟として腹を決めていると語りました。
弱さを包む言葉を集める、小さな喜び
渡邉さんは、逡巡がただ耐え忍ぶだけのものではなく、小さな喜びにも満ちていると補います。渡邉さんは何年も前から「弱さ」をキーワードに、いろいろな本の言葉の断片を長いメモに集めてきたそうです。
渡邉さんが例に挙げたのは、小説家の赤坂マリさんが折口信夫 ── 民俗学者・国文学者・歌人。日本の古代の信仰や芸能を研究し、小説『死者の書』も著しましたの『死者の書』を引きながら書いた文章です。歴史は強者の物語として記述され、弱者の声は記録されない。だからこそマイノリティには物語が器として必要になる、という内容でした。
赤坂さんの文章はさらに、フィクションを通すことで個人的な語りが普遍性を帯び、そこに逆転した力があると述べているそうです。渡邉さんはこの文章を別冊NHK100分de名著『日本人とは何か』で見つけ、死ぬほどうれしくなって書き写したと語ります。
これで社会は変わらないんですよ。僕の働き方も即座には変わらないわけですね。この細かいの(言葉の断片)を集めて、たまたまこの収録でそれを喋ることができて、これって人生の喜びなんですよね。
渡邉さんにとって、弱さを包み込む言葉を集めることは、生きづらい世の中での小さな抵抗の術になっています。誰かが少しでも頷いてくれたら一日楽しい、と渡邉さんは話しました。
荒木さんも、程度は違えどこうしたコレクションに喜びを見出していると共感します。そこで荒木さんが思い出したのが、レベッカ・ソルニット ── アメリカの作家・批評家。歴史、環境、フェミニズムなど幅広いテーマのエッセイで知られ、『迷うことについて』もその一冊ですのエッセイ『迷うことについて』でした。
荒木さんは正確には覚えていないと断りつつ、ソルニットは迷わないことは生きていることではなく、いきなり迷うと死んでしまう、だから適度に迷うことが大事だと語っていたと紹介します。そのうえで、全ての問題を解決し続けるのはある意味危険かもしれない、と述べました。
迷うことは、なぜ誇りになるのか
井上さんは、二人のコレクションの話を、誰にも理解されなくても自分だけの小さな喜びを持っておくことの大切さとして受け止めます。そのうえで井上さんが引っかかったのは、渡邉さんの「弱いことを誇りに思う」の「誇り」という言葉でした。
井上さんは、大企業の社長であることを誇りだと言われても、それは誇りではない気がすると問いかけます。誇りは固有性とつながり、荒木さんの言う「迷う」ともつながっている気がする、と井上さんは話しました。
荒木さんは、その話を自分の言葉で引き継ぎます。迷っていないとは認知がシンプルで世の中を単純化していることであり、迷うことは「そうとも言えるがそうとは言い切れない」と複雑に認知することだ、という説明です。
なんかさ、迷ってない人と友達になれる気がしないんだよね。
ああでもない、こうでもないって言えるっていうのは素晴らしいと僕は思っていて。そういう人に僕は魅力を感じるし、そうでありたい。
荒木さんにとっては、強いことを言い切ることが求められる社会の中でグズグズ言えることへのこだわりが、渡邉さんの「誇り」の解釈でした。渡邉さんはそれを受けて、自分なりの言葉で再解釈します。
渡邉さんの対比を整理すると、強くなろうとすることと弱くあろうとすることは、社会の枠組みへの態度として正反対に位置づけられています。
今の枠組みを肯定し、つまらない競争の中に自分を置いて、自分をつまらなくしかねない
強さを求める社会へのプロテストであり、声高に叫ばなくても抵抗していると楽しい
井上さんは、抵抗と誇りがつながったと応じます。渡邉さんも、何かにちょっと抵抗していると楽しい、別に声高に叫ばなくてもいい、と付け加えました。
問い読と超相対性理論は、なぜ「非効率」なのか
荒木さんは「ああでもない、こうでもない」と言い合える関係性が、重要なコミュニティになると話を広げます。根底にリスペクトがありつつ、誰かが何か言えば「いやでもさ」と返せる関係です。
荒木さんは、井上さんが始めた新しい事業「問い読」もそうした場ではないかと振ります。井上さんの説明によれば、問い読は「問いから始めるアウトプット読書ゼミ」の略称で、1冊の本を読み、真ん中に問いを置いて4、5人で対話するゼミです。
井上さんは、何年もの試行錯誤の末に、この形が一番の読書体験だと見つけたといいます。本を共通言語に「ああでもない、こうでもない」をやるのがただただ楽しい、それが自分なりの抵抗だ、と井上さんは語りました。
荒木さんは、問い読では著者や強いメッセージを持った人が必ずしも必要とされない点に注目します。井上さんも、先生がいないことを大事にしていると答え、正解のない問いでは誰が先生でも生徒でもない場のほうが、良質なインプットを受けるよりパワフルだと話しました。
渡邉さんは、リスナーの感想にも同じ構図が表れていると紹介します。途中まで番組の意味がわからず、なぜずっとグダグダ喋っているのかと思っていたが、議論そのものを楽しむのが趣旨だと気づいてから楽しくなった、という声が何人かから寄せられていたそうです。
強さと速さを効率を求める社会の何かをアンラーンしなきゃいけなくて。アンラーンした先に、いや、これ好きだったのかもってなるっていう。
荒木さんは今回の4回シリーズそのものも、同じ構図だったと振り返ります。他のコンテンツなら井上さんが先生として本をダイジェストで解説し質疑応答する形になるところ、この番組では井上さんすら参加者の一人でした。
著者が本をダイジェストで解説し、聞き手が質疑応答する。著者が先生になる
著者すら参加者の一人として語り合う。ビジネス的には非効率に映るが、それがプロテストになる
荒木さんは、この関係性はビジネス的な観点からは非効率に映るが、それが番組なりのプロテストだとまとめました。井上さんは「プロテストって思えてたら楽しい」と応じ、渡邉さんはプロテストしているからこそ、ふざけたりさらけ出したりするアッチョンブリケ ── 手塚治虫『ブラック・ジャック』のピノコが驚いたときに頬を押さえて言う決めぜりふ。このシリーズでは、ふざけることや素をさらけ出すことの比喩として使われていますをしたくなるのだと話しています。
ゴールのあるゲームで、プロセスを楽しむ
クロージングで感想を求められた井上さんは、超相対性理論ごっこをしたい人の気持ちがよくわかる、そういう場を事業にしようと思っていた、と語ります。非効率に「うだうだ、ああでもないこうでもない」とするのがいい、という感想です。
一方で井上さんは、ここでもまた「でも」と続けます。ビジネスのシステムがある以上ゴールは必要で、ゴールのあるゲームすら嫌だと言い出したら生き延びられない。だからこそプロセスを楽しむことにベタだがたどり着いた、と井上さんは話しました。
最後に渡邉さんは、今回登場した本としてレベッカ・ソルニット『迷うことについて』と別冊100分de名著を挙げます。弱さがテーマなのにフラジャイル ── 松岡正剛が1995年に刊行した『フラジャイル 弱さからの出発』のこと。弱さを積極的な価値として捉え直した代表的な著作ですが出てこなかった、という話題でも盛り上がりました。
渡邉さんは、『弱さ考』の参考文献に自身の著書『コンテクストデザイン』が入っているのを見つけたとも明かします。井上さんは「ああだこうだいつまででもできる」と再会を約束し、全4回のシリーズは締めくくられました。
まとめ
最終回では、弱さをお金に変える経済のシステムを前にしても、答えを急がず逡巡し続けることが一つの生き方として示されました。弱くあろうとすること、迷いながら語り合うことは、強さと効率を求める社会への静かなプロテストとして位置づけられています。
- 荒木さんは、欠損を感じさせて差分を売るマーケティングの構造から、弱さは個人ではなくシステムの問題だと指摘した
- 「どうすれば」と問い続けてよい、割り切らずに行ったり来たりすることが『弱さ考』のメタなメッセージだと語られた
- 渡邉さんは、弱さを包む言葉を集めるような小さな喜びが、生きづらい世の中での抵抗の術になると話した
- 迷い、ああでもないこうでもないと言い合えることが、強さを求める社会へのプロテストになると捉え直された
- 井上さんは、ゴールのあるゲームを受け入れつつプロセスを楽しむ、という地点にたどり着いた


