AIが資料を5分で作ったら、残りの時間は何に使う?
荒木さんは最近、あるカンファレンスに参加しました。参加者がグループワークで「多様性」のような抽象度の高いお題に取り組み、最終日に自分たちなりの提言を発表する形式だったといいます。
そのカンファレンスで荒木さんが面白いと感じたのは、発表の中身よりも、あるチームで起きた現象でした。ChatGPTなどに使い慣れた参加者が、議論の議事録をすべてAIに入れ、パワポと映像を5分ほどで作ってしまったのです。
やっぱりそういうChatGPTとかそういうことに使い慣れてる人がいて、議論の議事録を全部それにぶち込んで、パワポと映像をもう本当に5分ぐらいで作っちゃったわけですよ。
資料が「それらしく」仕上がったそのチームは、本番の発表でコントのような寸劇を披露しました。これまで知恵を絞って資料をまとめる作業に使っていた時間が、まるごとテクノロジーに置き換わったからです。
みんなで知恵を絞り、パワポを作って概念化することに時間を使う
スライドやビジュアルはAIに任せ、浮いた時間を寸劇に使う
荒木さんは、この出来事を「人間のある姿」として語っていた参加者の見方に惹かれたといいます。機械的にできることはAIに任せ、人に価値がある感情表現の部分で楽しもうという形として捉えると面白い、という受け止めです。
だから、要するに感情労働みたいな、
感情表現とか、そこにこそ人の価値があるから、そういうある種機械的にできることはもう任せちゃって、そこの時間で私たちが楽しめることをやろうみたいな、
一人称研究と日記屋は、AIと同じ潮流にある?
渡邉さんは荒木さんのカンファレンスの話を受けて、頭のいい人が考えれば収束しそうな合意しやすいロジックはAIが担うようになると話します。そのぶん、感情や外れ値のような例外的なものがより重要になってきそうだという見立てです。
渡邉さんはさらに、近代以降の科学で無視されてきた「小さいもの、弱いもの」が盛り上がってくるのではないかと考えています。その例として挙げたのが、諏訪雅幸教授の一人称研究 ── 研究者自身の体験や主観を記述し、そこから知見を引き出そうとする研究の考え方。客観性や多数のデータを重んじる従来の科学とは異なる立場をとりますです。
渡邉さんの説明によると、従来の科学はn数が多く客観的でなければデータにならないという考え方でした。一人称研究は逆に、N=1の主観でこそ取り上げられるものがあり、そもそも人は全員自分の主観を生きている、という前提に立つといいます。
渡邉さんが挙げたもう一つの例は、下北沢のボーナストラックにある日記専門の本屋「月日」です。日記は誰かが日々記したものなので、役に立つかどうかという情報的価値でいえば正反対の存在だと渡邉さんは話します。
だからこそ、なんかわかんないけど、一人でこっそり読みたくなる、誰かの思い込みかもしれないものの中に、何かの出会いを求めてしまうみたいなって、もしかしたらあるかもしれない。
渡邉さんは、一見非合理で非効率な、情報価値が低そうなものこそが人間を象徴しており、それがAIと時を同じくして盛り上がっていると感じています。荒木さんは、別々のムーブメントとして見ていたものに補助線を引く解釈だと面白がりました。
荒木さんはこの話を、強いロジックをまとめる時間が短くなれば、合意できない多様な感性が表現される時間が増えていく、という形で整理しました。
内面が見える世の中は、また競争に回収されるのか
荒木さんは日記の面白さを認めつつ、他人の内面が可視化されることへの問いを投げかけます。一人一人のナラティブが顕在化したとき、人はコラボレーションしやすくなるのか、それとも距離を保とうとするのか、という問いです。
露呈してなかったからこそコラボレーションできるみたいな、そういう側面もあったような気もするんだけれども。
渡邉さんは「よくわからない」と前置きしたうえで、2つのシナリオを挙げます。1つは、自己表現が増えても「世の中にめっちゃ日記あるね、以上」というレベルに収まるシナリオです。
もう1つのシナリオについて、渡邉さんは懸念を語ります。日記のような表現がブームになると、数が多すぎてどれを見ればいいかわからなくなり、Twitterのフォロワーが多い人のように強いことを言う人が注目される、ソーシャルメディア的な形になりかねないといいます。
始まり
合理的なビジネスから離れるために、非合理な自己表現を始める
ブーム化
多くの人が取り組み、表現の数が膨大になる
選別
どれを見ればいいかわからず、人気の人や強いことを言う人が注目される
回収
結局は数字を争う合理的な競争に戻ってしまう
今までの合理的なビジネスから離れるための活動だと思っていたものが、また合理的な競争に回収されちゃうと、僕が期待する面白さとは離れるなというところをちょっと思う。
荒木さんも「それ繰り返してるよね」と応じます。価値観は多様であれと思っても、人には多様な自分を心地よく思えない傾向があり、周りを見て盛り上がっている表現に合わせてしまう、と荒木さんは話しました。
渡邉さんは、注目を集めるために潮流に乗ろうとする「ハックの精神」だけになると、違うことが良かったはずの表現が画一的になり、バリエーションが減ってしまうのではないかと心配しています。
大判カメラで2枚だけ撮るとき、何が見えたのか
荒木さんは、最近写真にハマっている渡邉さんに、写真を撮るモチベーションを尋ねました。人にどう見られるかより、自分の表現を追求しているのか、という問いです。
渡邉さんは面倒なマニュアルのカメラで撮りながら、「なんでこんな面倒くさいことを」と思い続けていたといいます。精神統一してマニュアルフォーカスすること自体が瞑想的だ、という答えはネットや本にいくらでも書いてありますが、渡邉さんは体験として納得できていませんでした。
なんか綺麗な答えなんだけど、その綺麗な答えが欲しいんだっけ?みたいな。なんかよくわかんないんだよね。
その渡邉さんの転機になったのが、小林大輔さんに教わった大判カメラ ── 大きなシートフィルムを1枚ずつ使う大型のカメラ。蛇腹で焦点を合わせ、布をかぶってピントを確認する方式が多く、撮影に手間と時間がかかりますでした。重いカメラを持ち運び、1枚何千円もするフィルムで「この場所で2枚だけ撮ろう」という撮影になったといいます。
渡邉さんは、デジカメと大判カメラでは撮影の考え方が根本的に違うと説明します。
何百枚撮ってもほぼ無料。撮りまくってから、偶然に助けられた良い絵を後で選ぶ。インテリジェンスをカメラ側に求める
フィルムが高く、機材も重いので試行錯誤できない。脳内で絵を構築しきってから、その通りに撮れるかに向き合う
大判的撮り方はこの場に1時間、2時間ずっと居続けて、自分が2枚だけしか撮れないとしたら、どんな意思を持ってどのシーンを撮るんですかっていうのが突きつけられるわけ。
渡邉さんにとって大判カメラでの撮影は、これもいらない、あれもいらないと削っていく「究極の引き算」でした。何が言いたいのかを迫られる怖い体験であり、AIの話にもつながると渡邉さんは話します。
iPhoneの延長でマニュアル撮影をしている限りは単なる面倒くささだったものが、原初的な撮影行為に触れたことで意味を結んだ、と渡邉さんは振り返ります。瞑想的だという言説も、大判カメラに触れて初めて、なぜそうなるのかがわかったそうです。
荒木さんは、インスタントなiPhoneと対極の大判カメラという2つの極を知ったからこそ行為の意味が見えた、とまとめました。そのうえで、世の中にある綺麗な言葉をまとっても意味は薄く、自分から生み出した言葉にこそ価値がある、という点に共感しています。
流暢な言葉は信頼してはいけないのか?
荒木さんは、コピーライターの梅田悟史さんとの対話を紹介します。相手の言葉をどう引き出すかという話の中で、相手の口から出てくる流暢な言葉はあまり信頼してはいけない、という結論になったといいます。
なんかもう説明し慣れちゃってるから、自分自身にそこに問いが立ってなくて、反復的な機械的になっちゃってるみたいな。
荒木さんはもう一つ、小説家の真山仁さんのインタビュー術にも触れました。真山さんは、話の聞き方の入り口を変えないとダメだと話していたそうです。
荒木さんの紹介によると、真山さんはとんでもないところから質問して相手を混乱させ、つじつまを合わせようとして出てきたほころびに補足の質問を重ねるといいます。用意された答えをレコーダーのように聞くだけでは、相手のペースに乗ってしまい、取材としてはダメだという考え方です。
意外な入り口
とんでもないところから質問する
混乱
相手が変なことを話し、つじつまを合わせようとする
深掘り
出てきたほころびに補足的に質問を重ねる
別の物語
用意された答えとは全然違うストーリーが立ち現れる
渡邉さんは、流暢さを悪とする考えには引っかかりを覚えました。荒木さんの定型文を何度も聞いている渡邉さんなら「そこから離れろ」と言えても、初対面の大学生にとっては普通の自己紹介が必要だろう、という疑問です。
普通に流暢な話必要だろみたいに思っちゃうことあるよね。
荒木さんは、問題は「どういう場で流暢に話すか」だと答えます。身体知が伴わない言葉を自分に着せて、話し手も聞き手も「そういうものか」と満足してしまう瞬間こそ危険なのではないか、という見方です。
だからだんだんその身体知が伴わない言葉に自分を着せちゃってるみたいな瞬間ってやっぱあるじゃん。
渡邉さんも、前に話したことを繰り返すのは自分が一番つまらないと認めます。そのうえで、会社紹介でもアドリブで違うメタファーを考えてみるといった挑戦はできそうだが、毎回違えることが本当に良いのか、どこで使い分けるのかはまだわからないと話しました。
身体が乗っていない話は、聞き手に届くのか
渡邉さんは、デザイナーが集まる勉強会に講演で呼ばれたときの経験を語ります。主催側からは「レクチャーっぽい話よりご自身の作品の話のほうが盛り上がる」と注意されていました。
それでも渡邉さんは、自分の作品の話は他の場所でも話していて自分が一番盛り上がらないため、大学の授業用に作った最新のレクチャー資料で話すことにしました。
渡邉さんのレクチャーへの反応は、面白かったという人と「意味不明なので実作の話をしてほしい」という人に、半々で割れたといいます。客がそう正直に言うことは少ないため、消化不良の人は多かったのだろうと渡邉さんは受け止めています。
自分の中では頑張って作ったっていう意味での身体性も乗ってるけど、自分の作品にまだ生かしたわけではないっていう意味で、その身体化されていないというふうに言える情報かもしれないよね。
渡邉さんは、身体が乗っていない客観的なレクチャーになったから聞き手が「で?」と感じたのかもしれない、と振り返ります。荒木さんは、その試み自体は良かったのではないかと応じました。
自分という人間がこれに興味を持っているっていうことをもってして、すでに全部体重乗ってるような気がしないでもないんだけどね。
最後に渡邉さんが紹介した本は、諏訪雅幸先生の『一人称研究の実践と理論』で、サブタイトルは『人が生きるリアリティに迫るために』です。荒木さんも「読んでみよう」と興味を示し、2週にわたる雑談回が締めくくられました。
まとめ
AIが合理的な作業を一瞬で片づける時代に、2人は感情や主観、そして身体を伴う体験に人間の領分を見いだそうとします。ただし、その価値はすぐに競争に回収されたり、借り物の綺麗な言葉にすり替わったりしやすいことにも目を向けた回でした。
- 資料づくりがAIに置き換わると、浮いた時間は寸劇のような感情表現に向かうかもしれない
- 一人称研究や日記屋のように、非合理で主観的なものがAIと同時に盛り上がっていると渡邉さんは見ている
- 非合理な自己表現も、ブームになれば数字を争う競争に回収される危うさがある
- 大判カメラの体験から、機械に頼る前に自分が心と頭で汗をかくことの意味が見えてきた
- 流暢な言葉の良し悪しは場によって違い、身体知が伴っているかが問われている





