競争と表現、仕事の重心はどちらにある?
超相対性理論の三宅香帆さんゲスト回の3週目は、前週に話した「競争と表現のバランス」の振り返りから始まります。渡邉さんに話を振られた荒木さんは、このテーマに強く共感したと話します。
荒木さんによると、競争と表現は究極的には切り分けが難しい曖昧なものです。それでも補助線として引くと、自分の重心がどちらにかかっているかを考えるきっかけになるといいます。
例えば今、私たち超相対性理論というチャンネルでやってるんですけど、これは何だろう、表現だよね、完全にね。
そうだね、何かと競争はしてないよね。
一方で荒木さんは、本を書く仕事や、渡邉さんがデザインの仕事を請け負う場合には、プロジェクトごとに重心の置き方が変わるはずだと続けます。明確には分けられなくても、その重心を自分の中で定義しながら仕事に向き合っている、という感覚です。
渡邉さんは、大企業で働く人を例に挙げます。主語は企業や部署であっても、自分がやるからには小さな範囲で「公私混同」を忍び込ませ、自分なりのニュアンスを表現する人は多いのではないか、という見立てです。
どうしても人間はフルにマシンにはなれないので、自分らしい楽しみ方みたいなのをどんな課題の中にも見出すのかなと。
仕事は効率よく割り切り、別の時間で副業や表現に打ち込む人もいます。それでも渡邉さんは、競争と表現のバランスを取ろうとする営みは全人類の毎日なのではないかと投げかけ、三宅さんがこのテーマを挙げた背景を尋ねます。
「表現ラバー」の三宅香帆さんが感じるジレンマとは
三宅香帆さんはまず、自分は世間と比べて「表現ラバー」だと思うと話します。自分が表現するのが好きなだけでなく、他人の文章を読んだりエピソードを聞いたりするときも、その人の個別性が現れる瞬間にグッとくるのだそうです。
三宅さんが文章術、言語化や発信の仕方、本の読み方の本を書くのも、根っこには「その人にしかできない言葉や読み方を持ってほしい」という欲望があるといいます。
ところが発信すると、求められるのは「とにかくバズる書き方」や「速く、効率的に読む方法」になりがちです。三宅さんは、話がいつも競争側に持っていかれる感覚があると語ります。
三宅さん自身の読書や感想の発信も、本人は楽しくてやっているのに、「たくさん読んでいてすごい」と評価されると競争の側で見られていると感じるそうです。競争ばかりで人は幸せになれるのか、それをビジネスパーソンにどう伝えればいいのか、と三宅さんは問いかけます。
渡邉康太郎さんは、個別性の大事さが伝わりにくいと感じることは確かにあると認めます。そのうえで、蓋を開ければ究極的にはみんな表現が好きなのだと信じている、と答えます。
あらゆる人が自分の分人の中でせめぎ合っていて、表現だけに体重を乗せて語ることができない、少なくとも9時から5時はその話ができないってなってる人に、いや、話しちゃってもいいじゃんっていう(論を)渡したい。
三宅さんは、会社の小さな仕事に自己表現を忍ばせるのが好きな一方で、社会では「そういうのはいらない」と切り捨てられる感覚もあると話します。渡邉さんは、みんな少なくとも無意識にはやってしまっているのではないかと応じます。
「競争が好き」の正体は2つある
荒木博行さんは、世間の「競争が好き」という話の正体をずっと考えていたと切り出します。荒木さんが挙げるのは、相手より速くなりたいといった競争本能と、組織の構成員として振る舞わなければならないという感覚の2つです。
荒木さんは、どちらも個性を埋没させる要因になると考えています。ダンスをやりたいのに50メートル走で頑張らなければならない、赤組が勝つために自分の役割を果たさなければならない、という運動会のような例えで説明します。
相手より速くなりたい、勝ちたいという自分の欲望。50メートル走で頑張る場面
組織の目的やルールに沿って振る舞わなければならない感覚。赤組を勝たせるために動く場面
三宅香帆さんは、組織のルールにのっとらなければという感覚が自分にはとても薄いものの、会社にはそうした感覚が強くあることを生まれた時から日々感じてきたと話します。
荒木さんは、三宅さんが3年半ほど会社で働いたうえで、自己表現の可能性と喜びを信じてキャリアを大きく転換したことをすごいと評します。一方で荒木さん自身は、組織の要請や競争軸とうまく折り合いをつけられる「器用」なタイプだったといいます。
ある種自分を騙すのがうまいっていうこともあるのかもしれないんですけれども、うまく自分を言い聞かせながらやれてきちゃったから、結構こじらせて、40年ぐらいになってなんか違うかもみたいな。
三宅さんは、競争を必ずしも悪役だとは思っていないとも話します。科学技術やコンクールのように、競争の中で新しい表現が生まれたり磨かれたりすることもあるからです。それでも今の社会では、表現やノイズの価値がお金にならないという点で認められなさすぎではないか、と三宅さんは感じています。
渡邉康太郎さんは、多くの人が現実を考えて「それだとダメかも」と表現を無意識に封じているのではないかと補います。三宅さんも、会社に多くの時間を取られる中で、役に立たない本を読む時間や趣味の時間を確保するのが難しくなっているのでは、と応じます。
ノイズは「役に立つから」取り入れるもの?
渡邉康太郎さんは、新しい企画やものづくりの現場では、むしろノイズこそが一番大事だという話を持ち出します。根拠として挙げるのは、ジェームス・ヤング ── アメリカの広告マン。著書『アイデアのつくり方』は、アイデア発想の古典として長く読み継がれている薄い本ですの『アイデアのつくり方』です。
同書では、アイデアは既存の要素の新しい組み合わせだとされます。渡邉さんは、スマホとマイクのように組み合わせが自明なものではなく、Uber Eats ── スマートフォンのアプリで飲食店の料理を注文し、配達してもらえるフードデリバリーサービスが生まれる前のスマホとご飯の配達のような、未知の組み合わせが大事だと説明します。
一見全然関係ない役に立たなそうなノイズのもの同士を組み合わせることでしか、新しい企画とかデザインとかアイデアとかっていうのが生まれない。
これに対して荒木博行さんは、それは「仕事に役立つからノイズを取り入れよう」という合理性の話にならないか、と冒頭の問いに引き戻します。渡邉さんの答えは、役に立つからバイキングの歴史を読もうとは思っていない、結果的に役立ってしまうだけだ、というものでした。
渡邉さんはアート・フォー・アーツ・セイク ── 「芸術のための芸術」と訳される19世紀以来の考え方。芸術は道徳や実用のためでなく、それ自体の美のために存在するという立場ですを例に挙げます。芸術はピュアであってほしいと願う人がいても、結果的に芸術が人の心を救うことはある。それは作家の目的ではなく効能だ、という整理です。
バイキングの歴史が面白いから読む、ギャラリーに趣味で出かける
たまたま明日の企画やデザインに生きる、芸術が結果的に人の心を救う
荒木さんもその通りだと同意しつつ、伝え方がいつも難しいと話します。クリエイティブな人に秘訣を聞かれて「バイキングの本を読んでいて」と答えると、「そういうのをやればいいんですね」と受け取られてしまうからです。
まさに目的と効能が逆なんだよみたいなことなんだけど。ただ、それをすごくやっぱ競争軸に支配された人にすごい伝えにくいっていう感覚はある。
渡邉さんは、短時間のコミュニケーションでそこまで伝えるのは難しいので、とにかくやってしまえばいいと答えます。本の渦に入ればノイズに出会ってしまい、出会ってからその人が始まるのであって、対話からはまだ始まっていない、という考え方です。
三宅香帆さんは谷川さんの本にある「衝動」の話にも通じると話します。未知のものには出会おうと思っても出会えず、別の目的で開いたものの中で想像していなかったものに出会う。ただ、その出会う力は時間的・精神的な余裕が前提になっている、と三宅さんは指摘し、会社員にどう伝えるかが今の課題だと語ります。
渡邉さんは、最初から役立てようとするとそれはもうノイズではないと念を押します。趣味で出かけたギャラリーで見たものが、たまたま仕事に役立つことを止めなくてもいい。「そんなはずじゃなかった」が繰り返されていくことこそがノイズだ、と渡邉さんは表現します。
「興味のある本がわからない」学生にどう答える?
三宅香帆さんは、学生から「興味のある本を読めと言われても、興味のある本がわからない」と聞かれることがあると話し、二人にも同じ経験があるかを尋ねます。
渡邉康太郎さんは、世間の平均よりは本を読むほうだが、面白そうだと思って買っても通読するほど面白い本はほとんどないと明かします。自分も学生と同じ悩みを抱え続けている、という答えです。
開く本が多ければ多いほど、たまにめっちゃすごいいい本に出会うっていうのは常に真理だと思ってて。だからなんか本を開き続けるしかないとも思っている。
三宅さんはこれを「確率を上げる」ことだと受け止めます。一方で荒木博行さんは、学生の場合はそもそも本に割く時間がないことが問題だと見ています。
荒木さんによると、学生にはスマホやYouTube、バイトなど優先すべきことがたくさんあり、本の優先順位が圧倒的に低い段階で「好きな本に出会えない」と話しているといいます。そこで荒木さんは、本にこだわらなくていいと伝えているそうです。
じゃあ好きなYouTube何なの?何見てんの?どれぐらい余暇の時間何に使ってんの?その中で本当の好きな正体っていうのが見つかってくると、なんかそこにまつわる本とか読んだ方がいいんじゃない?
アルゴリズムの時代にノイズは消えたのか?
三宅香帆さんは、YouTubeやSpotifyなど、今はアルゴリズムで向こうからやってくる趣味が多いと指摘します。三宅さんの学生時代は映画でさえTSUTAYAにDVDを探しに行かざるを得ませんでしたが、今は意識しないと自分なりのノイズが手に入らない時代かもしれない、という見方です。
完全に自分に最適されたレコメンドが送られてくる時代だから、誤解がなさすぎるんですよね。
荒木博行さんは、そういう世界で生きていると「ノイズに何の意味があるのか」という感覚になるのではないかと続けます。これに渡邉康太郎さんは「そこまで言っちゃう?」と異を唱えます。
渡邉さんによると、レコメンドエンジンの研究者の間では、その人が好きなものだけを当てるサービスは使われなくなるといわれているそうです。全部予想できてしまうので、好みから外れたものが一定数ないと見続けてもらえないのです。
渡邉さんは、YouTubeでマイナーな音楽を聴いていると、日本人アーティストの動画に英語話者が「The algorithm took me here」とコメントしているのをよく見かけると話します。知らないうちにレコメンドされ、来てみたらドハマりした、というニュアンスだと渡邉さんは受け取っています。
自分に最適化されたレコメンドばかりで「誤解」がなく、ノイズの意味が感じにくくなる
好みだけを当てると退屈で使われなくなるため、レコメンドにも外れが含まれ、新しい出会いがある
渡邉さんは、スクロールし続けて渦から抜け出せないことの良し悪しは置いておくとしたうえで、アルゴリズムだけが悪というわけでもないと話します。そこから新しいものに出会い、創作の目が開かれることもあるという考えです。三宅さんは、ノイズがないと退屈になってしまうということなんですね、と面白がります。
終盤、荒木さんは本来のテーマが「働きながらノイズを取り入れる方法」だったことに触れ、渡邉さんは「一切そういう話をしていない感じもする」と笑います。最終回となる次回は、「働きながらノイズを取り入れる方法、自分たち編」を考えることになりました。
まとめ
今回の対談は、競争と表現のバランスを出発点に、表現やノイズの価値がなぜ伝わりにくいのか、それでもなぜ必要なのかを掘り下げました。ノイズは役に立てるために取り入れるものではなく、結果として役立ってしまうものだという整理が、議論の軸になっています。
- 競争と表現は切り分けにくいが、補助線として引くと自分の仕事の重心を考えるきっかけになる
- 荒木さんは「競争が好き」の正体を、競争本能と組織の要請の2つに分けて捉えている
- 渡邉さんは、ノイズの価値を「目的」と「効能」を切り離すことで説明している
- 好きな本に出会うには開く本を増やすこと、本にこだわらず自分の好きの正体を探すことが挙げられた
- アルゴリズムの時代でも、好みから外れたノイズがなければ人は退屈してしまうという見方が示された



