パンとバラ、どちらが欠けても生きられない?
今回の対談は、三宅香帆さんの著書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』をめぐる前回の話の続きです。前回、三宅さんからは「競争と表現」というテーマが提案されていました。
渡邉さんの整理によると、社会には勉強や就職のように「競争に勝とう」とする軸があり、合理性や役に立つかどうかもその世界に属しています。一方で、趣味に打ち込む、美味しいものを作る、旅に出るといった競争ではない表現にこそ、その人の個別性が表れるのではないか、という問題提起です。
ただし、表現だけで食べていける人はごく一部です。そこで競争と表現のバランスをどう考えるかが、この回の出発点になります。
三宅さんがこのテーマを考えたきっかけは、哲学者の国分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学 ── 国分功一郎さんの哲学書。人はなぜ退屈するのか、暇をどう生きるかを、パスカルやハイデガーなどの議論を通して考える本で、文庫版も出ています』だといいます。三宅さんが何度も読み返す本で、その中に「生きることはバラで飾られなければならない」という趣旨のフレーズがあります。
三宅さんの説明では、お金を稼いでパンを買って食べることも必要だけれど、それ以上にバラで部屋を飾るような自己表現が、その人の個別性をもたらすという議論です。
お金を稼いで食べていくこと。生活に必要な、競争の側の営み
部屋を飾るような自己表現。その人の個別性をもたらす営み
三宅さんは、この議論に面白さを感じる一方で、パンとバラのバランスこそ一番難しく、あまり議論されていないのではないかと考えたそうです。ノイズの大切さをどう伝えるかを考えるうえでも、このバランスに興味があると語っています。
「自分の薬」の処方箋は、なぜアウトプットなのか
パンとバラのバランスが崩れているという三宅さんの指摘に、荒木さんは坂口恭平さんの本『自分の薬をつくる』を挙げます。坂口さんはアーティストであり建築家でもあり、躁うつ病であることを公開しています。
坂口恭平さんの本でいう「薬」は、本物の薬ではなくルーティーンのことです。どんなルーティーンを自分に与えれば自分らしく生きられるかを、投薬実験のように試してきた経験をもとに、悩んでいる人の相談に医者のように応じる本だと荒木さんは紹介します。
結果的に坂口恭平さんが与えてる薬はですね、シンプルにアウトプットせよっていうことなんですよね。
たとえば相談者が「上手くはないけれど歌うのが好き」と言えば、坂口さんは「じゃあいつまでに録音して送って」と、強制的にアウトプットさせます。
荒木さんによれば、坂口さんは、表現の扉を開けて外に出さないと人間は心身に支障を来すと考えています。だから世の中に評価されるかどうかは関係なく、とにかく表現しよう、それを自分が聞いてあげるから、と呼びかけるのです。
だから競争ってある種尺度の決まった、何て言うのかな、ヒエラルキーになっちゃうじゃないですか。
荒木さんは、上手い下手のヒエラルキーで勝ち残れる人はいいけれど、競争だけではアウトプットが過小になると整理します。そのバランスを取らないと人間はうまく機能しない、というのが坂口さんの本の面白さだと語りました。三宅さんは、読んだことがないので読んでみたいと応じています。
技術はスマートでも、人はスマートになったか?
渡邉さんも、パンとバラの話を大事な問題だと受け止めます。国分さんがウィリアム・モリス ── 19世紀イギリスのデザイナー、思想家。アーツ・アンド・クラフツ運動を主導し、日常の暮らしに美しさを取り戻すことを説きましたの言葉を一歩進めて表現したものだ、と渡邉さんは触れています。
渡邉さんが思い出すのは、恩師である文化人類学者の竹村真一 ── 文化人類学者。地球環境や情報社会をテーマに、デジタル地球儀「触れる地球」の開発などで知られていますさんの問題提起です。スマートフォン、スマートシティ、スマートグリッドなど、技術にはスマートが付いているが、人間をどれだけスマートにしているだろうか、という問いです。
技術ばかりがスマートになって、人のスマートさを逆に奪ってしまうような結果を生まないだろうかってのは、なんか常に肝に銘じておきたいというか。
渡邉さんは、人をもてなすテクノロジーに寄っていくことも、パンとバラのバランスに近い話だと考えています。本来は、人のクリエイティビティが発揮される機会が社会の中にたくさんあったほうがいい、という見方です。
渡邉さんはもう1つ、以前番組にゲストとして来た東北芸術工科大学学長の中山ダイスケさんの話を紹介します。中山さんがニューヨークでアーティストとして暮らしていたころ、郵便配達員が「俺もアーティストだ」と言って、自分で書いた詩を差し出してきたそうです。
中山ダイスケさんは、庭を綺麗に手入れしているおばちゃんが自分をアーティストだと言うことにも衝撃を受けたといいます。生きる糧としてではなく自分のために表現している人がたくさんいて、胸を張ってアーティストだと言い切る文化がある、という発見でした。
その経験から、中山さんは学長として学生に「専業のアーティストになるな、すぐ就職せよ」と伝えているそうです。絵を描き続けたいなら、ビジネスとしてではなく自分のために描き続けろ、という教えです。
就職は敗北であり、アートの道を突き進むべし
すぐ就職して学びをビジネスに生かし、描きたい絵は自分のために描き続けろ
渡邉さんは、表現を専業にすると結局は表現の世界で競争になり、そちらも非常にシビアだと指摘します。競争と表現を混ぜずに両立させるほうが長続きするという提案が、中山さんの教えには入っていると受け止めています。
「やりたいことを仕事に」の教育に功罪はあったか?
中山さんの教えに、三宅さんは強く共感します。三宅さんは著書の中で、平成以降「やりたいことを仕事にせよ」という教育が強くなったことを書いているそうです。
三宅さんの見立てでは、これはゆとり教育や、アメリカから入ってきた新自由主義的な教育の流れの中で生まれた潮流です。子どものころには『13歳のハローワーク ── 作家の村上龍さんが2003年に出した本。さまざまな職業を子ども向けに紹介し、好きなことから仕事を考える発想を広めました』が流行り、自己実現イコール仕事という考え方が広がっていたといいます。
三宅さん自身もその影響を受けて今の仕事をしているので、その教育を強く批判したいわけではないと話します。ただ、自分の競争の場に表現を持ち込むことを、みんながみんなすべきなのかには疑問があるという立場です。
三宅さんは本の中で、競争と表現を両立する方法として「半分ずつぐらいでいこう」と書きました。けれど読者の感想を見て、現実にはそれが難しいこともよくわかると語ります。とはいえ、芸術大学が就職を奨励するなど、競争と表現を分けて考える流れは少しずつ増えているのではないか、と三宅さんは考えています。
表現は、究極的には他人がいらない行為?
競争と表現を混ぜる生き方について、渡邉さんは「本当に難しい生き方」だと応じます。混ぜて華麗に生きている人がメディアで「遊ぶように働いている」ロールモデルとして取り上げられることにも触れています。
やっぱりその仕事っていうのとか、競争っていうのは相手がいて成立する。
渡邉さんの整理では、仕事や競争は、お客さんや課題を出す人、競争相手がいて初めて成り立ち、常に他人を必要とします。お客さんの課題に応えようとすると、どうしても競争の要素が入り込みます。
渡邉さんによれば、表現は「素敵な絵が描けた」「満足できる文章が書けた」と自己完結できるもので、究極的には趣味の世界になっていきます。趣味にお客さんがつく場合もあるけれど、それはあくまでおまけだという見方です。
お客さんや競争相手など、常に他人がいて成立する
自分が満足できればよく、究極的には他人がいらない
これに対して三宅さんは、観客がいたほうがアドレナリンが出る人は多く、自分もたぶんそうだと話します。他人に勝ったり見てもらったりすることで一番楽しくなる人が多い中で、自己満足だけで楽しくなれる方法はまだあまり開発されていないのではないか、と問いを投げかけました。
冒険家の角幡唯介さんは、なぜ「書くことの不純」に悩むのか
三宅さんの問いを受けて、渡邉さんは最近読んだ本として、冒険家・作家の角幡唯介 ── 探検家・ノンフィクション作家。チベットの峡谷や北極圏を旅し、その体験を多くの著作に書いていますさんの『書くことの不純』を紹介します。内発的な動機と外発的な動機、そして表現の関係を扱った本です。
渡邉さんの紹介によると、角幡さんにとって山を登ったり川を渡ったりする冒険は、徹頭徹尾役に立たず、他人のためにもならない、自分のための行為です。一方で角幡さんは作家でもあるので、帰ってくると冒険を文章にし、そこには観客がいます。
問題になるのは、冒険の途中で生死の境に立ち、ルートAかBかを選ぶ場面です。生き残るためにAを選ぶのに、作家の自分が「Bのほうが面白くないか」と思ってしまうことがあるといいます。
で、この時に作家の自分と冒険家の自分のチョイスが枝分かれしちゃう時に、これが不純なんじゃないかっていうことを考えるのがこの本の第一章なんですけど。
ただし渡邉さんは、観客がいること自体は悪くないのでは、と考えています。人生のすべてが冒険ではなく、家で準備したり人とやり取りしたりする時間があってこそ冒険に出られるので、冒険だけを切り出して純粋、書くことだけを切り出して不純とは言いにくいという見方です。
全部かなり相互依存の動機なんじゃないかなというふうに個人的には思うんですね。
渡邉さんは、内発的な行為も、誰かがこっそり応援していると知っていることが無意識の支えになっているかもしれないし、書くことで自分を支えているかもしれない、と付け加えています。
内発と外発は、どちらから歩き出すかの違い?
三宅さんは、競争に役立つ読書と、自分の個別性を作る読書はどちらも必要だと話します。ただ、普通に生きていると外からの圧で競争重視になってしまうので、自分だけの冒険や趣味を意識的に確保することが必要なのか、と結論の出ないまま問いを残しました。
荒木さんは、番組の友人である谷川さんがゲストに来て話した「衝動論」にも、似た話が出ていたと振り返ります。そのうえで、内発と外発は切り分けられないという渡邉さんの意見に同意します。
外発的な部分から内発的な部分に行き、そして内発を満たした上で外発、つまり他人からスタートしてんだけど、それを自分が満たして、それでまた他人に戻ってみたいな、そういうことじゃないですか。
外発
他人からのきっかけでスタートする
内発
それを自分で満たす
再び外発
満たしたうえで、また他人に戻っていく
荒木さんは、このサイクルを歩くことにたとえます。歩くときは結局両足を使うけれど、右足と左足のどちらから歩き出したかという起点が実は大事だ、という話です。
荒木さんによれば、起点が大事なのは、人は「自分はなんでこれをやっているんだろう」という問いに戻ってくるからです。たとえば自分の楽しみのための旅行なのに、インスタ映えやいいねばかり意識して、何のために行ったのかわからなくなることがあります。
ただバグってしまうということがあるのかなって気がしましたね。
荒木さんは、内発と外発は本当は分けられないものの、こうした「バグ」が起きるからこそ、分けて考えることが改めて強調されるのではないかと考えています。
3人とも、このジレンマの中で生きている?
話の終盤、渡邉さんは、三宅さんが「競争と表現」というテーマを立てたこと自体を、まだギリギリのところで理解できていないと切り出します。
渡邉さんの見方では、本を書く三宅さんも、デザインの仕事をして本も書く渡邉さんも、荒木さんも、自分の個別性を表現することで生活を成り立たせようとしている人たちです。
これなんかむしろ人生が全部このジレンマでしかないんじゃなかったっけ?みたいな気さえしてくるんですけど、その辺のその三宅さんの温度感をもっと詳しく知りたいという。
三宅さんは「語られていない」と言うけれど、本当に語られていないのか、という渡邉さんの問いは、荒木さんの提案で翌週に持ち越されました。
最後に、この回で紹介された3冊が振り返られます。荒木さんが紹介した坂口恭平さんの『自分の薬をつくる』、三宅さんが「めっちゃ面白くて読みやすい」と勧める国分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』(文庫版あり)、渡邉さんが紹介した中央公論新社刊の角幡唯介さんの『書くことの不純』です。
まとめ
この回では、三宅香帆さんが提案した「競争と表現」というテーマを、パンとバラ、自分の薬、書くことの不純といった本を手がかりに掘り下げました。競争と表現は分けたほうが長続きするという見方と、そもそも動機は分けられないという見方が交わり、その問いは次回へ続きます。
- 国分功一郎さんの「パンとバラ」の議論から、三宅さんは両者のバランスこそ議論されていないと考えている
- 坂口恭平さんは、インプット過多で表現の機会がないことが心身の不調につながると見て、評価に関係なくアウトプットすることを勧める
- 中山ダイスケさんは学生に就職を勧め、表現は自分のために続けるよう説いている
- 渡邉さんは、仕事や競争は他人を必要とし、表現は究極的には他人がいらない行為だと整理した
- 荒木さんは、内発と外発は分けられないサイクルだが、起点を見失う「バグ」があるから分けて考えることが強調されると語った


