AIは生身のコミュニケーションをどう変えたのか?
最終回の冒頭では、渡邉さんが前回までの議論を振り返ります。前回のテーマは、AIが生身の人同士のコミュニケーションをどう変えるかというものでした。
渡邉さんによれば、相手の考えや恐れ、喜びが想像しづらいややこしい場面で、AIに対話相手になってもらい少しずつ理解を深めることは十分あり得ます。自分が使える言葉を組み立てやすくなり、コミュニケーションの事故が減ったと感じる人もいるはずだといいます。
一方で、即時的な会話の中で生成AIを使い続けるのはまだ難しいという話も出ていました。3人で話している最中に全員が「プロンプトを打ってるから待ってね」となれば、さすがにシュールすぎるというわけです。
もしかしたら若い世代としては、AIに頼らなくてもコミュニケーションできるみたいなものをもってしてコミュ力があるっていうような、そういう価値観が生まれても不思議じゃない。
教育者でもある荒木さんと山野さんからは、授業でAIを使わなかった学生の文章がむしろ記憶に残るという気づきも共有されていました。下手くそで生々しい文章や、ちょっとした誤字脱字が、何十人の中でかえって光るというのです。
さらに、生成AIには特有の言葉づかいがあり、渡邉さんはそれを「チャッピーなまり」と呼びます。人間らしいエラーさえAIが作れてしまう時代に、歴史とフィクションの境目はどこに引けるのか、という問いにまで話は広がっていました。
読解力、問いの力、そして「実存としてのエンジニアリング」
前回の後半では、山野さんが、AI活用を前提にした超高難易度の論述問題を授業で出す可能性に触れていました。自分とAIの一往復ではまだ太刀打ちできない難度の問題です。
これを受けて荒木さんが強調したのが読解力でした。AIが出した答えを正しく読み解けるか、論理的な瑕疵があれば見抜けるか、そしてどんな問いやプロンプトを出せるかという力です。
渡邉さんは、AIの使い手としての個性こそが唯一の違いになるかもしれないと応じていました。自分の反省や傷、こだわりがプロンプトの良い意味での偏りになり、違う答えを生むという見立てです。
自分の反省とか傷とかこだわりみたいなものがプロンプトの良い意味での偏りになって、そのバイアスが違うプロンプトを生み、違う答えを生んでくるっていうところに行き着くのでは。
ただし渡邉さんは、その偏りの言語化すらAIに手伝ってもらう「いたちごっこ」になりかねないとも指摘します。そこで最終回は、思考から一歩進めて「どんな感性が人にとって大事になるのか」という山野さんの問いから再開されます。
平均化されないもの、それは一人ひとりの来歴
山野さんはまず、好き嫌いのような価値判断は人とぶつかりやすく、ときに知識不足からくる偏見の表明にもなり得るため難しいと前置きします。そのうえで、体験や来歴の差異は重要な違いではないかと話します。
多分一人一人なんか全然違う来歴で生きているっていうのは間違いはないと思っていて、ここはなんか平均化されないところだと思うんですよ。
山野さんが挙げる例は具体的です。雪国で育ったのか、都会の真ん中で私立小学校に電車通学していたのか、ロンドンに住んで中学から日本に戻ってきたのか。
もちろん「留学帰りの人はこうしがち」といった統計的な傾向はあります。しかし山野さんによれば、それはパーセンテージにすぎず、長男か末っ子か、両親の離婚、学生時代のラグビーやニコニコ動画の視聴など、人の中には多くのルーツが絡み合っています。
山野さんはこれを「コードの束」と表現し、その束の中の化学変化で幼少期から人格らしきものが固まってくると話します。だからこそ、平均化が世界を包むAI時代には、自分を生み出したルーツを内省的に見つめ直すことが一層大事になるのではないかといいます。
多様なルーツ
育った土地、家族構成、部活、触れてきたIPなど
コードの束
ルーツが1つの尺度に収まらず絡み合う
化学変化
幼少期から人格らしきものが育まれ固まる
平均化されない個性
統計的傾向では切り取りきれない違いになる
AIに要約された自分から、どう逃げ続けるか?
渡邉さんは山野さんに同意しつつ、来歴の生々しい言語化すらAIに外注できてしまう点を気にかけます。これまでのインプットを総合して「自分はどういう来歴だと思いますか」とAIに聞くことすらできるからです。
AIは今までの自分を簡単に総括してくれるうえに、フィクションを織り交ぜて人間らしい傷まで捏造するかもしれません。それでも渡邉さんは、人生が続いていくことや、傷にリアリティがあることが最後の違いになると考えます。
これまでの蓄積だけじゃなくて、自分はどうなりたいのかみたいなのを同時に併せ持っているのが人間だから、AIの定義から逃げ続けることができる。
渡邉さんはさらに、AIによる言語化をむしろ逆手に取る発想を示します。一度AIに自分をラベリングしてもらい、「俺はこんなに簡単じゃないぞ」と踏み出すための初期の答えとして使うという考え方です。
荒木さんも、AIがこれほど文章を書いてくれるからこそ、自分で書くモチベーションが高まる側面があると話します。AIが平均的なことを書いてくれるからこそ、平均ではない自分を出したくなるというのです。
平均というところに対する吸引力がある中で、逆に向いて生きていくかみたいな、なんかそれしかないのかなっていう気はするよね。
渡邉さんはこれを「自分を外れ値化していく」とまとめ、荒木さんも強く同意します。AIが差し出す平均から、自分を外れ値化していくという視点が、この回の議論の軸になっていきます。
自分の来歴や傷の言語化までAIに外注され、いたちごっこになる
AIの言語化を、そこから離れて自分を更新するための初期の答えとして使う
ハイデガーの「ダスマン」は約100年前の平均性批判だった
荒木さんと渡邉さんの「平均からの逸脱」という話から、山野さんはハイデガー ── 20世紀ドイツの哲学者。1927年の主著『存在と時間』で、人間の存在のあり方を分析し、後の実存哲学に大きな影響を与えましたの『存在と時間』を思い出します。
山野さんによれば、ハイデガーが同書で示した概念に「ダスマン」があります。世人などと訳され、不定の人を指す「マン」に定冠詞「ダス」がつく不思議な造語で、「誰でもない自己」「みんなとしての私」という意味合いだといいます。
まさにそのダスマンの特徴が平均性なんですよ。
山野さんが鮮やかだと感じるのは、ダスマンは同じような服を着て、同じような曲を聴き、同じような時間帯に行動する、とハイデガーが書き連ねる箇所です。紅白でみんなが同じ曲を楽しむのも、悪い意味ではなく平均性の極地だと山野さんは話します。
『存在と時間』が出たのは1927年で、AI時代と呼ばれる今から99年前のことです。ハイデガーはほぼ1世紀前に、大衆化社会の中で人々がダスマンに埋没していると警鐘を鳴らしていたことになります。
死を引き受けることは、私だけの生を生きることか?
ダスマンへの埋没からどう抜け出すか。山野さんによれば、ハイデガー的な処方箋は「死を思い出すこと」です。
死ぬのはあなただけで、例えば家族と一緒に共に命を失うみたいなことがあったとしても、その死の瞬間であればあなたしか死ねなくて、誰にも引き渡せない死という最も固有な経験を思い出しなさい。
山野さんは、この議論がストイックでマッチョだと言われることにも触れます。それでも、私しか経験できない死を引き受けることは、裏返せば私にしかない生を生きることになり、AI時代だからこそハイデガーの分析がアクチュアルなものとして蘇るかもしれないと話します。
ダスマンへの埋没
誰でもない人一般として平均的に振る舞う
死を思い出す
誰にも引き渡せない自分の死を意識する
死を引き受けて生きる
私しか死ねないことを常に引き受ける
埋没からの脱出
私にしかない生を生きる
渡邉さんは、自分の人生に当事者性を持てるかというまなざしだと受け止めます。プロンプト化や言葉での圧縮でどうしても「ノッペリ」してしまうものを、ノッペリさせない部分として残せるかという問題です。
AIは「説得力の強いダスマン」なのか?
荒木さんは、平均化にはどの時代でも安心感があるのではないかと話します。AIにキャリアの悩みを相談し、「こういうキャリアがいいよ」と言われて「そう行けばいいんだ」と安心する、というイメージです。
渡邉さんが「死を意識しない安心か」と確かめると、荒木さんはダスマンでいられること自体の安心だと答えます。山野さんは、ハイデガーが指摘するダスマンの特徴として、責任の所在がなく、考えなくて済む点を挙げます。
じゃあAIって究極のダスマンじゃないですか。その誰でもなく平均的であるっていう。
しかもなんか説得力が強いダスマンみたいな感じですよね。
ここで渡邉さんは、マルセル・デュシャン ── フランス出身でアメリカでも活動した美術家。既製品の便器を作品にした「泉」などで知られ、20世紀美術に大きな影響を与えましたが墓碑に刻んだ「死ぬのはいつも他人ばかり」という言葉を持ち出します。一見ハイデガーと逆に見えますが、墓に刻まれている以上、まだ生きている人へのメッセージとして読めるといいます。
渡邉さんは、身体を持ち、人と生身で関わり、社会の中で役割を持って生きることはAIを使っても変わらないと続けます。自分の人生に責任を持つという泥臭くシンプルなものが残るのではないか、という見立てに、荒木さんも「いつの時代もそういうことだ」と頷きます。
ランダムな連想こそ人間らしいのか?
渡邉さんは、山野さんがダスマンを思い出し、それに触発されて自分がデュシャンの墓碑を思い出した流れ自体が、あまり生成AIっぽくないランダムな連想だったと振り返ります。
関連する事例を教えてっていう風にプロンプトを言うと、なんか正解の事例を持ってきちゃうじゃん。
渡邉さんによれば、少し外れているかもしれないものを繋ぐ「アクロバット」は、自分が触れてきたものの中で心に残っているものを癖のように引っ張り出すことで成り立ちます。
山野さんも、連想は経験や知識によってまったく違ってくるので平均化不可能だと応じます。山野さんの場合、「生物」と聞くと生物学より先にゲームのバイオハザードシリーズを思い出し、そこからゾンビ映画へと連想が進むといいます。
山野弘樹って人間が小さい頃から、特にバイオハザードシリーズとゼルダの伝説シリーズをちっちゃい頃からやってるので、この人間に生物って単語を与えると、そういうのを勝手に想像するなみたいなのは(自分で思う)。
山野さんは、こうした連想の繋がりはAIに奪われない、AIが統括できるものとは違う領域ではないかと話します。
町田康の「1980円の変換装置」と極端な読み方
荒木さんは、好きな作家の町田康 ── パンク歌手としても活動した小説家。独特の語り口の文体で知られ、芥川賞などを受賞していますが最近出した文章術の本を紹介します。そこで町田さんは、文章がつまらないのは1980円の変換装置しか頭に入れていないからだ、という趣旨のことを書いているそうです。
荒木さんによれば、町田さんが勧める変換装置の改良法は、とにかく徹底的に本を読むことです。同じ本を1000回読めと言い、町田さん自身も『力太郎』を1000回読んで着想を得たと語っているといいます。
ある種閾値を超えたところまでいくことによって、変換装置にビルトインされるみたいなことってあると思うんですよね。
荒木さんは、Jポップのヒット曲を普通に聴いているだけでは音楽について語れることは少ないかもしれないと話します。どこかの領域で極端なことをちゃんとやること、それも奇をてらうのではなく自然とそうなってしまうことが、人を豊かにするのではないかという考えです。
平均性に対抗する究極の手段はオタク語り?
荒木さんの話を聞いて、山野さんはその場で一つのアイデアを口にします。平均性に対抗する究極の手段の一つが「オタク語り」かもしれない、というものです。
山野さんによれば、バイオハザードが好きというだけでは、巨大IPだけに平均的な感性にすぎません。しかし、どこが一番好きかを本気で語り出すと、オタクは異様に細かいことを言い始めます。
僕が一番好きなのはバイオハザードゼロのレベッカとバイオハザードワンのレベッカのふとした仕草の違いみたいなところが僕すごく好きで。
山野さんの説明では、『バイオハザード0』は時系列ではシリーズ1作目の前日譚ですが、作られたのは後です。そのため、0で主人公として強かったレベッカが、1日後の1では弱々しくなっているという不思議なことになり、そこにレベッカ・チェンバースの魅力を感じているといいます。
「バイオハザードが好き」。世界中にファンがいて個別化できない
0と1のレベッカの仕草の違いを熱量をもって細かく語る
多分だから個性って多分発言内容だけじゃなくて、どれだけ身を乗り出してそれこそ身体で語れるかみたいな。
渡邉さんは、山野さんがそれを目の前で体現してくれたことが何より良いと絶賛します。荒木さんは、三宅香帆 ── 文芸評論家。『好きを言語化する技術』などの著書があり、読書や「推し」の語り方についての発信で知られていますさんの『好きを言語化する技術』にある、全体ではなく部分を語れ、細分化するほどその人らしさが出る、という話とも重なると指摘します。
山野さん自身は、なぜレベッカにそこまで惹かれるのかはわからないと話します。18歳で大学を卒業している設定や茶髪のショートヘアなど要因が重なっているものの、自分がなぜ引き込まれるのかわからないからこそ、VTuberの研究をしているのだと明かします。
オタクの発露こそ人間性なのか?
終盤、渡邉さんは議論を振り返ります。人間らしさをいくらでもコピーしやすいAIとのいたちごっこから逃れるものとして、自分を外れ値化すること、あるいはいつの間にか外れ値になっていた自分に気づくことが出てきたのが面白かったといいます。
渡邉さんは、自分は何のオタクなのかに意識的になり、それを隠さず他の人と分かち合いながら先鋭化していくことも、今後の人生の楽しみになるだろうと話します。
渡邉さんはさらに、誰かが論じていた話として、オタクは資本主義への反抗でもあるという見方を紹介します。一見消費行動に見えても、同じコンテンツに居座り続けることは、新しいものを生み出し続ける資本主義のループから外れる行為でもある、という議論です。
オタクの分析へ。山野さんの着地
最後に山野さんは、大学で初年次教育を担当するなかで、ほぼ100%の学生がAIを使う時代にどんな国語教育ができるのか、という個人的な悩みからこの対談に参加したと振り返ります。
山野さんにとって、平均性がハイデガーのダスマンに近いという発想も、そこから逃れる道としてのオタク語りも、この対話の中でふと浮かんだアイデアだったといいます。
山野さんは、オタク語りが「このコンテンツ最高」と涙を流すファンと、「資本に搾取される哀れな人たち」と語る冷笑的な批評の両極に分かれがちだと指摘します。そのどちらも違い、オタクは防衛もしつつ、コンテンツに強烈に吸引されもする存在だと考えています。
「このコンテンツ最高」と涙を流して語る
資本に搾取されている哀れな人たちとして語る
そのうえで山野さんは、推し活が一般化した今、推し活をするオタクがどんな実存のありようなのかを、かつてハイデガーがダスマンを分析したように、自分もオタクの分析としてやってみたいと語ります。
個人的な話としては、オタクである自分をもっと誇ろうと思いました。以上です。
渡邉さんは、AI時代の思考力というテーマのオチに「オタク」が出てくるとは誰も思っていなかったと笑います。そのうえで、AならBの確率に回収されないジャンプをいかに生み出すかだ、とまとめて4回の対談を締めくくりました。
まとめ
全4回の最終回は、AIが平均的な答えを差し出す時代に人間の個性はどこに宿るのかという問いから、来歴、死の当事者性、ランダムな連想を経て、オタク語りという意外な着地にたどり着きました。結論を急がない議論の中で、平均から外れる自分を自覚し、育てていく視点が示されています。
- 山野さんは、一人ひとりの来歴は「コードの束」であり、統計的な傾向では平均化されない個性の源だと話した
- ハイデガーのダスマンは平均性を特徴とし、渡邉さんと山野さんはAIを「説得力の強いダスマン」になぞらえた
- AIは論理を組み立てられても代わりに死ぬことはできず、自分の人生に責任を持つことが残るという見方が示された
- ランダムな連想や、極端なまでの読み込みが、AIの平均に回収されない変換装置になり得る
- 異様に細かく、身を乗り出して語るオタク語りは、平均性に対抗する人間らしさの発露かもしれない





